人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えざる導師と超人格

2019-03-13 12:16:23 | ガイダンス
知る人ぞ知るスピ教師に岩根和郎という方が居られます。
私は25、6年程前、氏の著書「人間が人になる時」(献文舎刊)をとても共感して読んだことがあります。
氏は科学畑の人で、表現スタイルはかなり理知的ですが、言葉を超えた領域の消息は充分伝わってきます。
私は文体は全く似てないながらも、何となく五井先生の匂いを感じたものですが、あにはからんや、つい最近、氏が元白光会に関係していたことを知りました。
何でも同会に、宗教的在り方の限界を感じて離れたそうですが、その故か著書には"神"、"守護霊、守護神"という言葉はほとんど出てこず、それに相応するものを氏は多く「超越人格」と呼んでいるのです。
これは私が見えざる導師と呼んでいるものと実に通うものがあります。
超越人格は、当然のことながら"顕在思考"によっては捉えられず、"超越思考"によらねばなりません。と言っても超越思考においては、多分我々は思考することは出来ないでしょう。
それは思いを超えた領域に息づいている"原初的思考"でしょうから。
ここで超越人格と出会う訳ですが、ここには宇宙的全体、無限空間といったものしかない、とは感じられず、自分がそれに解消されてしまう感じも出てきません。
氏は神的なものは人格的なものであることを強調しておりますが、それは全く「人間人格には、超人格が前提になっている」と言う、ベルジャーエフの言葉と同調するものでしょう。
そこには抽象的全体でない、ある普遍性が開かれていることが認められます。
しかし、それは独一無二の人格、個的なものと切り離されてはいないのです。これは超(越)人格との親子の関係にも似た、人格的な交わりを通して示されることなのです。
人格的ということには又、第三者的でないもの、具体的なあなたや私を通してあるものの消息が伝わります。
だから真実はあなた自らで確かめないとならないのです。

20数年ぶりにその本を読んでみて思い出したのですが、一時はこのように共感していたのですが、どうも途中から興味が半減してしまったのです。
それは氏が、顕在人格から超越人格に帰一する(その成された状態を氏は"統一人格"と言う)方法として、自明行や統一行とかいくつかの修行を提示していたからです。
だって...めんどくさいじゃありませんか(?i) こんなズボラなこと言ってバチが当たりますかね?
私は同じように、もっとメジャーな「奇跡のコース」にも共感出来るところはありますが、"レッスン"とか"カリキュラム"とか"エクササイズ"などヤル気が起こりません。ーじゃ、「スブド」のエクササイズ(ラティハン)とかは? あんなイイカゲンなエクササイズなどあってたまるか、ってんですiー
ただ岩根氏も元五井先生の信者らしく重視していた、祈りというものには、言われなくても私は意識が赴いて行きます。
どうも、押し付けられるように感じ出すと、へそ曲がりが顔を出し始めるようです。
それはもう、見えざる導きにゆだねるということがあるだけなのです。
見えないものは全くこちらの思議も、意念も、能力も超えている...私が何かを分かろうと、やろうとする以前に私にハタラキかけて下さるものなのです。
こちらをそちらにつなげようと...とにかく意識を向けさせよう、つなげようと...
私はこの場合に限らず、ある本などに共感を覚えて触れている時、度々既にそうさせられているのを身に覚えます。


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僕の顔

2019-03-12 11:57:21 | 独語
僕に自我らしきものが芽生えた頃のこと...
あれは確か春が訪れようとしていた時だった...

僕はどうしてここに居るのだろう...
ここは夢の世界なのか、現実世界なのか...
現実って?...現実感というものが何かが分からない
現実...現実感って...何だi
他の人間は何食わぬ顔して生きているように見える
この人たちは夢の世界の住人? 彼らも夢を見ているのだろうか?
彼らは笑ったり、怒ったり、憂鬱だったり、色々な顔はしている...
だけど...僕にはどうしても分からない...
一体全体彼らは、O男やO子という、個別の人間なのだろうか?
違う顔はしているのだけれど...同じに見えてきてならない
みんな一緒くたの、ただの何かのパーツにしか感じられない...
彼らはああいう仮面をつけているだけで、ホントはのっぺらぼうなんじゃないだろうか?
この僕は?...
完全に現実感が無くなってしまったら、きっと僕ものっぺらぼうの一員になってしまうのだろうか?
ああ、笑えない、泣けない、怒れない現実...
凹凸というものの無い現実...
いや...もはやそんなの現実じゃないi
僕が僕でない現実など...

太陽は機械仕掛けのように、真っ赤に、大きくなりながら西の空に沈んで行く...
あれは、スクリーンじゃないだろうな...
6時を過ぎてもまだ明るいんだなあ...どうやら、寒くはない
母ちゃんが呼んだので、僕は操縦されたロボットのように家に帰った
確かに母ちゃんは僕の名前を呼んでいた
顔を触ってみたけど、お面らしくは無かった
"ホントにお前は変な子だねえ..."
苦笑する母ちゃんには確かに表情というものが感じられた
春は訪れる...
僕は僕の顔、僕の現実を取り戻したようだった...







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魔王の裏顔

2019-03-10 11:40:15 | 雑記
"覆面の魔王"ザ.デストロイヤー逝くi
我が国では、プロレス.ファンを超えて知られた存在でしたが、若い世代にはもう馴染みが無くなっているかもしれません。
謎の覆面レスラー、四の字固め...社会現象になったと言ってもいいくらいでした。
63年春の力道山との有名な死闘は、何と視聴率64%にも達したという...これは私がリアルタイムで知っている、最も古いプロレス試合として記憶されています。
確か決着が放送時間内に終わらなかったので、プロレス中継では異例の時間延長という処置が取られたことを覚えています。
一般のファンの間ではその正体はずっと謎のままでしたが、関係者、コアなファンならとっくに知られていました。
米国ニューヨーク洲バッファロー出身、大学時代アマレスとフットボールで鳴らし、肝入りでプロ入りした「ディック(本名リチャードの愛称).ベイヤー」という、一流の一歩手前くらいのレスラーでした。
素顔のベイヤーの試合は、動画でいくつか観ることが出来ます。いずれも60年前後の地元バッファローでの試合で、私は既に68年頃、テレビ東京系で放映されていた「プロレス.アワー」という伝説の番組でそれらを観ていました。(小6にして私はコアなファンなのでした)
しかし、私が技巧派同士の好試合として印象に残っている、ウイルバー.スナイダー戦を見つけることが出来ないでいるのです。
レスラーとしての格では、当時鉄人ルー.テーズの後継者と目されてもいた、スナイダーの方が一枚上だったでしょうが、互角のまま時間切れ引き分けに終わったと記憶しています。
基礎的なレスリング.テクニックを身に付け、飛び技、ロープを使ったフットボール仕込みのタックルなど、見せる要素を沢山持っていたにもかかわらず、当地でのメインは、"黒い魔神"B.ブラジルや、"鉄の爪"F.V.エリックらに譲っていたようです。
理由はどうもその地味な顔付きと、"若ハゲ"にあったように思われます。これが先に私が"一流の一歩手前"と言った由縁なのです。
そこで思い付いたのが、62年頃マスクを被って、思いきり悪党ファイトを演じて売り出すことだった訳です。(ライセンス取得のためという動機というのは、素顔で他の地域に転戦していたし、イマイチよく分かりません)
米本国では、正式に"ジ.インテリジェント.センセーショナル.デストロイヤー"といい、リング.アナから文句が出そうなくらい長いものでした。
この変身はおそらく、デストロイヤーことベイヤーがミンターとして慕っていた、同じアマレスの名選手から転向し、"ドクター.X"なるマスクマンの悪党に変身して成功した先輩レスラー、ビル.ミラーに肖ったものと思われます。それを裏付けるのは、68年頃彼がミネアポリスを中心としたA.W.A圏に転戦した時(V.ガニアを破り短期間ながら王座に就く)、同じドクターXを名乗ったところにあります。
デストロイヤーは、一部で史上初の覆面レスラーの世界王者(62年、F.ブラッシーからW.W.A王座奪取)などと言われていますが、本当は初代ドクターXことミラー(59年、前記スナイダーからA.W.A王座奪取)が正しいのです。
馬場との関係はよく知られておりますが、猪木との数少ない対戦の中で、71年春の試合は、引き分けながら終始デストロイヤーが押していたように感じられました。
両者の60年代初めの米国修行時代、デストロイヤーの対戦相手としては、むしろ猪木の方が圧倒的に多かったろうと思います。
ロサンゼルス、テキサス、オレゴンなどの北西部とか何故か転戦ルートが重なっており、さぞかし猪木はデストロイヤーの胸を借りたことでしょう。
猪木が67年初夏、日本プロレスに参入した時、切り札にしていた技はコブラ.ツイストでしたが、私はその直前のシリーズで、同技をデストロイヤーが掛けていたのを初めて見た記憶があります。"アレヨ、アレヨと相手に絡みついたと思ったら、どこが痛いのか、ギブアップしちまったi"と、何とも不思議に感じたものです。
おそらく、これは後に馬場と並ぶスター選手となるであろう、猪木のために"コブラ.ツイストってのはこんなキョーレツな技なんだぞi"と、ファンに印象付けるための計らいだったと思います。
多くの人が語っているようにデストロイヤーことベイヤーさんは、頭が切れて、優しい人だったのでしょう。

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スピ界隈には思いが一杯

2019-03-08 11:59:16 | スピリチュアル?
マットウな宗教やスピなどに触れたことのある人であれば、その界隈では思考、マインドから離れることが如何に大切なことであるかは、知識としても知っていることと思います。
しかしながら、私には何とまあ、その界隈にはそれらが充満しているように感じられてならないのです。
実に考えさせられることじゃありませんか? いや、思考、マインドだらけじゃありませんか?
宗教、スピは、言うまでもなく見えない領域に関わるものです。霊界、死後の世界、"その世界の構造は5段階、いや4段階、どっちだろう..."、何ていくら考えても分からないことを考え続ける...これを大いなるムダと言わずして何であろう...
そして、頭脳の幼稚な人間は、他人の言説に容易く迎合して信じ込んでしまいます。
それは所謂思考停止ということで、自分の思考から離れるように見えて、他からの思考に明け渡し、奴隷となってしまうことなのです。
もっと高尚そうな?悟り系スピでは、自分たちはそんなレベルなど卒業しているとか、思うのかもしれませんが、その教説にならい、"そう思っている私は居ないのか?、思っている私ということが起こっているだけなのか?"、とこれ又考えても分からないことを考えているだけ...そして、"私は居ない、居ない"と、そう自然に感じられるでもなしに、思い込もうとするのです。
そして、"何でこんな極端な教えが平然と説かれているのだろう"と疑問に思って、教師に意見したがる人も当然のことながら現れてきます。
すると、教師は"ここでは異論とか、反論は要らない"とか"言葉を持ち運んではいけませんi"とか言って、統制を図ったりするようですが、そういう場で、不毛な議論が繰り広げられることの無意味なことはよく分かります。
しかし、そういう土壌は、そもそも未消化なままの、生半可な悟り教説を展開してしまったところにあるのではないでしょうか?
極端な非二元教説の言葉などは、もっとも持ち運んではならない言葉ではないでしょうか? 余計な思念に基づいた戯論が巻き起こるだけだからです。
このようにスピ界隈には、何処にも行き着かない思念で溢れかえってしまう事態を招いてしまった感があります。
こうなる要因は、もっとも肝心な"思いを超えたもの"の消息が示されないで、"思われた自分"がでしゃばり続けている、ということに尽きるかと思います。
教師はさも"私が"到達した真理を諸君に教示して進ぜよう、だからよろしく信じ、従うべしi"、とでも言いたげに"自分"に、その教えなりメソッドなりに信者に意識を向けさせる...教師も信者も思いを超えたものには意識が向けられないのです。
スピ的な超越的な事態の消息というものは、まさしく我々の思いを超えた、超越的ハタラキにあって与ることが出来るのです。
ここに無ければ、我々はただそれを信じたり、従ったり、思い描くだけなのです。あるいは又他を教示したりコントロールしようと思っている自分があるばかりです。
"思いを超えたもの"が立ち現れるには、"思われた自分"は一歩退かなければならないのです。
他に教えようとする自分、他を信じ、従おうとする自分、自分で分かろうとする自分、自分から何かになろうとする自分...
"そんな自分は元々無いんです"などとウソぶいていてはなりません。
教師や、教えや、メソッドや、自分の信仰などによって思いが超えられるのではありません。
それは手を合わせるという心持ちから始まるのではないでしょうか?
敬虔であることは、決してモラルのことではありません。
思われた自分を退け、真の自分を召喚させる古来より言い伝えられている知恵なのです。
要するに...仮の自分と真の自分が並び立つことは無い、ということです。
いいや、自分を退けようとする、はからいすらも本当は要らないのです。
そのものの方が立ち現れることで、自ずとそうさせられるから...
それはやはり祈り心から開かれるでしょう。

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不適切なこと

2019-03-07 10:56:50 | 雑感
最近、テレビなどのニュース報道に接していて、"不適切"という言葉がやたらと聞かれるのですが、これがどうも私には"不適切"に感じることが多いのです。私だけだろうか?
政治家などの不適切な発言というのはまあ分かりますが、何でそれに対して"ただいまの発言、撤回して下さいi"などと言うのでしょうか?
謝ってもらうのはいいですが、一度発せられた言葉は撤回など出来るでしょうか? 出ちまったんだから、それを聞いちゃったんだからしょうがないじゃありませんか?
こうしてネット上で文章として書かれたものなら、削除してしまうことは出来ますが...ちなみに私は記事を投稿した直後などにちょい、ちょい誤字、脱字、より適切な文章に変えてみるなど手直しをすることはありますが、削除したことは一度もありません。
一旦投げちゃったものはもう取り返しがつかないものと思っています。
削除しなきゃならないのなら、最初から発表しなければいいのです。(お蔵入りにした記事というのは2、3あったか?)
まして、直に発せられた言葉など撤回など出来るもんじゃありません。
私など一度その言葉を聞かされたら、私の脳内からは撤回され得ません。撤回してもらった方はそれで済むんでしょうか?
不適切発言の撤回は実に不適切です。
皆さん、言葉には気をつけましょう。

しかし、私がもっとも不適切に感じるのは、最近、飲食店の従業員らが次々に投稿している"不適切な動画"のことです。
一体どこが不適切なんでしょうか? "いいじゃないかi... ち、違うーっi 不適切なんてもんじゃないだろーっi"
飲食店に従事している人間があんなフザけた、不衛生なマネして、犯罪レベルじゃないのかi
悪質な動画、非社会的動画とも言うべきじゃないですか?
私はファミレスなどを利用する機会が多いので、気になって仕方がありません。
それとも、ハッキリとした犯罪性が無いのは不適切と言うのでしょうか?
私などが不適切に感じるのは、例えばある種のスピの界隈で、あるスピ的な、非日常的な意識状態でなり得る、個我性が希薄に、あるいは消滅したかのような感じになるものを、日常会話に等しき状況で"今、そう言っているあなたは居ないんだし、聞く耳持たない私も居ないんです"といった発言とか、非二元の道を伝えているのに、教え、支配したがる教師とそれに群がり、追従する信者というモロ二元的関係性を示すような在り方のことです。
こうした見えないものとの関わりにおいては、中々適切なものは見えにくいですが、あんな見るからに悪質な、犯罪に等しい動画に対して、"不適切な..."などと曖昧な表現を使うから後を絶たなくなるのでしょう。
報道する側には適切な対処を望みます。

と、まあ普段ほとんど触れないようなこと書いてしまいましたが、適切じゃないかもしれないけど、多分不適切じゃない?(日本語は難しいわ)
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