人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自ずから明らかなこと

2019-03-14 12:11:38 | 祈りと瞑想
世の中に"神を信じている"、という人は沢山居るだろうけど、本当に神に意識を向けている人は何人居るでしょうか?
意識を向ける、向いちゃう、意識的であることは、神なり、真理なり他人が設えた観念事を信じるということではありません。
全く自分自身の問題であるはずです。ですから神は自分の内なるものと離れたものではありません。
様々な教えを信じ、修行に取り組むのもいいでしょうけど、一度じっくり自分自身に問うてみてはどうでしょう。
"自分は本当に神的なものを求めているのだろうか?
自分は本当に神的なものとつながろうとしているのだろうか?"
すると...いつしか問うているのは、思われた自分でなく、自分を越えた超越的な自己になっている...かもしれない。

神に意識を向けられない、ということは本当は神を求めていないということではありませんか?
だから決まりきったような、他に追従するような観念事や実践だとかに意識が逸らされているのです。
本当に自分自身に合っているのか定かでない、画一的な教えや修行に教えられるままに合わそうと...段々自分で無くなってしまわないか?
形だけの瞑想や祈りがあったとしても、神に意識が向けられず、その中に入るということが無ければ、何になるでしょうか?
逆に言えば、瞑想や祈りとは、実にその"向かう、その中に入る、つながる"、という他は無いではありませんか?
それは自分に合うかどうか何てどころでなく、本当の自分自身に会うということなのです。
そして、神とつながるには、"これこれの瞑想や祈りをもってしなければならない!"という決まりなどどこにもありませんi
要するに、その契機はいたる時、いたる所にあり、意識が向かえばいいのです。
その気さえあれば、自ずと意識は向けられます。
すると...
"自ずからムクムクと言い知れない歓喜が立ち上ってくる...
自ずから何か、光に自分のすべてが照射されているような感じになる...
自ずから、自分が為そう、ということが落ちて、為ってくるという感じになる..."
これが、愛と平安にあるということです。
もう、自ずから"こういう心根を直そうとか、こう思おうとしようとか、自分をどうとかしようとする(自分のカルマを何とかしようという、身の程知らずも中には居るのです)はからいからは離れて行きます。
自ずから...思わされる...為される。

これらは自分の思念や意念、行為などに頼らず、自然、無為的なハタラキにまかせることが、コツと言えばコツです。
この違いは是非とも知っておくべきことです。
と言っても自分からは知りようもなく、自ずからなるものにあって、示されることなのですが...
これは、その気があるという人には自明なことです。
気があるということは意識が向いている、意識的になっているということだから...
自明なこととは、何ものにもよらず、自ずから明らかなことです。
しかし、私は実はこういうことをもっともらしく人様に語ることなど出来ません。
どうしてそうなったかが分からないので。だから"自ずから"なのです。
ただ私は"僕の神様"に会いたかっただけなのです。
コメント
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