人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りは叶えられている

2019-03-22 12:10:57 | 祈りと瞑想
私がいつも書いていることは、あまり一般に馴染みの無いことかも知れませんし、表現もあまり取っ付き易くないかもしれません。
ただ自分では(一人よがりかもしれませんが)、掴みようのない、超然とした、難しいことを書いているつもりは全く無いのです。
今日もいつも書いていることに触れますが、モ少し取っ付き易さということを意識して書いてみようと思います。

神仏に祈っていても、一向に願いは叶えられず、善きことが起きず、心が平安にならないという人もおられるでしょう。
これは祈りというものが、そうした願いを実現させるための手段という風に捉えられているためだと思います。
そこには、祈っている自分が居り、信じられている神仏が居り、その神仏が願いを叶えるものである、と二段にも三段にも分けられて理解されているのです。
どうも自分の祈りによって、願いを実現させるという思いが根強くあるようです。
これでは、神仏はまるでそのためのダシみたいなものですね。
それを又、習慣、形式的に祈っていても、おそらく善きことは始まらないでしょう。
ここは、も少し意識的になってみる...
例えば"神よ、平安をもたらし給へ..."と祈ってみる...
神は何かは分からないものだけど、最愛なるものです。"もっとも"愛しているもの...
ここが曖昧なままだと何にもなりません。これが祈りの土台なのです。
自分の人生で最愛なるものと共にあったことを思い浮かべてみると...幸福と共にあったことを思い出されてきませんか?
幸福であることは、思いが超えられていることであり、それは自分を超えたものに意識が向けられている、ということです。
幸福にあったことは過去の思い出にすぎないのでしょうか?
いいや、今そうなっていることに気が付かれるでしょう。
そうですi 神的なものに意識が向けられ、そこに入っていることが平安にあるということなのですi
祈りによって、叶う、叶わないということでなく、祈ること、いや意識的になることそのままでそうなるということです。
「祈りとは願い事ではなく、神との交わり、語らいである」(インドの神秘家サンダー.シング)
ここには、祈る自分、神仏、その神仏が願いを叶えるという段構えなど存在しません。ただ"神に在る"ということがあるだけなのです。
祈りとは決められた形でも、決められた文句を唱えることでもありません。それもいいでしょうが、祈るという心持ち、意識付けが肝心なのです。
それは瞑想というものと分けられないものだということが分かるでしょう。それは幾分自分を超えたものに意識が向かうか、内的なものに向かうかの違いがあるだけです。
神を漠然と信じるだけだったり、宗教の信仰ごとで片付けてしまうのでなく、本当に自分自身の問題として意識的になってみると...もう、"ウレシくてたまらんi"ということになって来ざるを得ません(私が何故こういうことをいつも書いているかと言うと...いつも"今がそうなる"からに他ならないからですi)。
それはどこまでも、"あなたの神直伝"のものであるはずです。
桜の季節ともなり、一人一人に神が臨まんことを...
コメント
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