人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神を遠ざけるもの

2019-03-16 12:37:33 | スピリチュアル?
神に意識が向けられる、ということは諸々の思念から離れるということです。
こう考えれば、特定の宗教やスピに囚われている人間ほど神に意識を向けることが難しいと言えるでしょう。
彼らは、自分が信じている神なり、真理なりの思念を手放したくないのでしょうから。
彼らは、自分の信仰の向こうにある、"正神"、"正師"にまみえることをとても恐れています。
まるでそういうことになったら、自分の人生もこの世も終わりになってしまうかのように...
全く奇妙なことのように映るかもしれないが、これが多くの所謂信仰者の裏の顔なのです。
彼らほど真の神を信じていない人間は居ないのですi
特定の教理や、何らの確証もないオカルト教説などにハマり続けることで、正神から思いを背けることが出来る訳です。
彼らの口から時には"悟り"などのことも上ることもあります。
でも、それは必ずしも神的なものと共にあることとは結び付いてはいません。
悟り、覚醒などのことは、より高い、より成長、進化した自己となりたいがための、格好のステータスのように思われているようです。
そうです。彼らは自らもより高い自分であろうとし、他人にもそう思わせることに余念がありません。
その進歩の有り様は、どこまでも思われた自分の上に、上乗せして行くように捉えられ、悟りというものも思われた自分がそうなるものとされているのです。これは全くこの現世的な、ピラミッド構造を思わせる有り様のまんまのようです。
こういう精神にとり、"正神"が臨在するとはどういうことになるでしょうか?
"一切は無i"
いや、しかし何にも無い訳でもありませんi あなたがそう思っていた自分や世界が消えるということです。
そして、いよいよ死ぬほど恐れていたことが待ち受けている...これを直視出来るくらいなら、どんな難行苦行も耐えられるだろう...
すべての覆いを剥がされた、ありのままの、裸の自分...
そう、正神、真の神に背を向けるということは、ありのままの自分に背を向けるということに等しいことなのです。
だから...神を受け入れるには、自分自身を受け入れなければならないのです。
これって難しいことですか?...んなアホなi
難しいのは、そういう思いしかないではありませんか? そのくせ"こうして、ああして悟ろう"だの、永久に達成出来ないようなことを考え続けているのでしょう。難しい思いも難しい行為もありません。
"神は恐ろしいもの"...この思いが神と自分とを遠いものにしているのです。
それは悪い、罪深い自分と隣り合わせのものです。
神に自分に意識を向けさせないものは、実に罪の意識なのです。
神は最も親しまなければならない、否、生きる上で最も先に知らねばならないものであるにも関わらず...それはありのままの自己と重なるものでしょう。
神の光はあなたの罪を暴いて、明るみに出すでしょうか?
そう、明るみに出されるだろう ...それが罪にまみれていようが、光輝いていようが、それこそは真の自分の姿であろう...神は正に真の自己を知らせようとするのですi それはあなたの真の神と共にある...
神の道は遠く、険しいですか? それは、あなたが悪いためでしょうか? 神とあなたを遠ざけるサタンのためでしょうか? いやただ、真に神を求めるその気が無いだけでしょう。
いや増しに光が照らされるのを覚えるにつけ、自己信頼ということの大切さを感じずにおれません。




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