精神的な道では、多く愛というもの、真理というものが求められています。
愛というものはそのままのようですが、真理を求めるには知性的でなければなりません。
愛は多く女性性と結びつけられ、知は男性性と結びつけられています。
この人間人格を規定する二つの性質は時に相容れなくなるようです。
二重人格者である私は、元々分裂しているのであまりそう感じません。
私には竹を割ったような、"てやんでいi"てなところとか、やたらと理屈っぽく(それとかなりのH性?)男っぽいところもありますが、自分の中の女性性もハッキリ感じています。それはこうして書かれたものに反映されているかも分かりません。
愛に片寄れば盲目、耽溺となり、知に片寄れば冷淡となり、潤いが無くなる...
この愛と知というものは、どちらも欠くことなく、バランスよく調和されていることが望ましいのは言うまでもありません。
世の中には、この二つの性質のどちらかに優位をもたらそうとする向きもあります。
もっともこの目論みは、常に戦い続けずにおれない男性性からくるのでしょうけど...
優劣というハカリを持ち出すと、どちらも上にも下にも行かない、収拾のつかない事態になりそうですが...どちらがより本来的、根底にあるか、ということであれば私にはハッキリ示されています。それは現臨に捉えられた時に分かります。
これは愛と知というより、感性と知性に置き換えてもよいと思いますが、知性に通ずる思考機能はそこでストップが掛けられますが、愛というものを実感することは出来るからです。
しかーし、"一寸待ったi"...頭でっかちな野郎どもは、そこで形無しとなるのですが、別の知性がそこに立ち上ってくるのです。
それは男性性のステータス?である知性ではない...全く思考を超えた原初的な知性とも言うべきもので、それは思われた自己の属性ではなく、自己を超えた真の主体者からくるのです。
それについて考え巡らすことは出来ず、感じることしか出来ません。
それは私が"照明"と呼んでいる、他者から観照されること、自己のすべてが照らし出されているという感じにより知らされるものです。
それにより、リアリティというものが写し出されるのです。
この感じは、あの底無し沼に引き入れられるような、通常感じられている感情というものを完全に超えています。
野郎どもは、これで溜飲が下がるだろうか?
しかーし、"一寸待ったi"...この知性は愛と一つのものになっているのです。少なくとも私には、この二つのものが切り離されたものとは感じられません。
そして、愛とリアリティを感じている時、平安にあるのです。
このように、人間の本来性には、男性性、女性性とどちらとも分けられないものがあるようです。
そうしたものを人間の中に求めるとしたら、生まれ赤子ではないでしょうか?
生まれ赤子の如くならずば、天国に入れない...
愛というものはそのままのようですが、真理を求めるには知性的でなければなりません。
愛は多く女性性と結びつけられ、知は男性性と結びつけられています。
この人間人格を規定する二つの性質は時に相容れなくなるようです。
二重人格者である私は、元々分裂しているのであまりそう感じません。
私には竹を割ったような、"てやんでいi"てなところとか、やたらと理屈っぽく(それとかなりのH性?)男っぽいところもありますが、自分の中の女性性もハッキリ感じています。それはこうして書かれたものに反映されているかも分かりません。
愛に片寄れば盲目、耽溺となり、知に片寄れば冷淡となり、潤いが無くなる...
この愛と知というものは、どちらも欠くことなく、バランスよく調和されていることが望ましいのは言うまでもありません。
世の中には、この二つの性質のどちらかに優位をもたらそうとする向きもあります。
もっともこの目論みは、常に戦い続けずにおれない男性性からくるのでしょうけど...
優劣というハカリを持ち出すと、どちらも上にも下にも行かない、収拾のつかない事態になりそうですが...どちらがより本来的、根底にあるか、ということであれば私にはハッキリ示されています。それは現臨に捉えられた時に分かります。
これは愛と知というより、感性と知性に置き換えてもよいと思いますが、知性に通ずる思考機能はそこでストップが掛けられますが、愛というものを実感することは出来るからです。
しかーし、"一寸待ったi"...頭でっかちな野郎どもは、そこで形無しとなるのですが、別の知性がそこに立ち上ってくるのです。
それは男性性のステータス?である知性ではない...全く思考を超えた原初的な知性とも言うべきもので、それは思われた自己の属性ではなく、自己を超えた真の主体者からくるのです。
それについて考え巡らすことは出来ず、感じることしか出来ません。
それは私が"照明"と呼んでいる、他者から観照されること、自己のすべてが照らし出されているという感じにより知らされるものです。
それにより、リアリティというものが写し出されるのです。
この感じは、あの底無し沼に引き入れられるような、通常感じられている感情というものを完全に超えています。
野郎どもは、これで溜飲が下がるだろうか?
しかーし、"一寸待ったi"...この知性は愛と一つのものになっているのです。少なくとも私には、この二つのものが切り離されたものとは感じられません。
そして、愛とリアリティを感じている時、平安にあるのです。
このように、人間の本来性には、男性性、女性性とどちらとも分けられないものがあるようです。
そうしたものを人間の中に求めるとしたら、生まれ赤子ではないでしょうか?
生まれ赤子の如くならずば、天国に入れない...