私は様々な異なる宗教、精神的な道に対しても、こだわりなく接することが出来ます。
それは私が自由で居られるということであり、どっかで普遍性を求めていることでもあります。
私は自由と普遍なるものを希求してやまないのです。
何故ならば、それは神的なもの、我が正師と共にあるということを意味しているから...
実に自由と普遍とは、このものあってのものなのですi
それはしかし、一度この内なる絶対的領域の外に出てしまえば、夢想の彼方へと消えてしまうものなのでしょうか?
例えば、普遍性というものを客観的世界に見い出されるでしょうか?
私が感じている普遍なるものと、あなたが感じている普遍とは違うものかもしれません。
その他大勢が言っているそれはもっと違うでしょう。民族、宗教、イデオロギー等によって、バラバラに切り裂かれたものに普遍性など見い出されるべくもありません。
このように我々は普遍という言葉を安易に使っているけれど、その真態は知らないのでは無いでしょうか?
それは未だこの世に実現したことが無いものとも思えます。しかし、そういうものはいつの時代にも我々の頭の中には思い描かれては居るのです。それは意識されずとも、上記したように我々の内に根差したものだから...
普遍なるものに比べると、あまり我々は実感することが無いかもしれませんが、自由というものも本当には与ることが出来ないでしょう。
本当に普遍なるものを実感するならば、本当に自由なるものを実感するだろうから...
自由と普遍とは切り離すことが出来ないのです。
自ずから由ることと、普ねく、遍(ゆき)わたることは共に障るもの、隔たるものが無いということでしょう。
少なくとも私は"全体だけがある、個的自由は無い"、と感じたことはありません。そこに矛盾は無く一つのものになっているのです。
然るに、この見える現実世界には何とこの二つのものは、相反し、両立の叶わないものとされてきたでしょうか?
この世界には普遍性は見い出され得ない...それに取って代わるものは、普遍そのものならぬ"普遍妥当性"、公共性、社会性などであり、もっとも自由を脅かすものとして悪しき全体主義(カルト宗教などはこれの局部的に圧縮された形態と言っていい)が設えられる、ということはこの見える世界の歴史が物語っているとおりです。
客観世界では、普遍なるものは外から押し付けられて自由を圧するばかりとなるでしょう。
それを実感する各々は居るかもしれないが...
そうです。それは我々一人一人の主体の内に開かれるものなのです。神的なものの臨在と共に...
各々と言っても、それは単純に一個人とは限りません。その場で交流し合って居る複数の各々に神的なものが臨在することはあり得ることです。
一個人の場においても勿論そういうことは起こり得るものですが、本当に我々が自由と普遍を実感出来るのは、そういう様態にあることなのかもしれません。
少なくともそこで初めてそれを共有出来るとは言えます。そこに神の国の雛形を見い出せるでしょう。
神の国は、客観世界に見える形では実現しないでしょう。見える形のそれはどこまでもその実現に向けられた夢想のユートピアにすぎません。
神無き神の国、ユートピアというものほどのギマンは無いi
神の国の実現とは、我々の内に開かれたものが、そのまま見える世界に移写されるものでしょう。
それは神的なもの自体の自己実現なのかもしれません。
それは私が自由で居られるということであり、どっかで普遍性を求めていることでもあります。
私は自由と普遍なるものを希求してやまないのです。
何故ならば、それは神的なもの、我が正師と共にあるということを意味しているから...
実に自由と普遍とは、このものあってのものなのですi
それはしかし、一度この内なる絶対的領域の外に出てしまえば、夢想の彼方へと消えてしまうものなのでしょうか?
例えば、普遍性というものを客観的世界に見い出されるでしょうか?
私が感じている普遍なるものと、あなたが感じている普遍とは違うものかもしれません。
その他大勢が言っているそれはもっと違うでしょう。民族、宗教、イデオロギー等によって、バラバラに切り裂かれたものに普遍性など見い出されるべくもありません。
このように我々は普遍という言葉を安易に使っているけれど、その真態は知らないのでは無いでしょうか?
それは未だこの世に実現したことが無いものとも思えます。しかし、そういうものはいつの時代にも我々の頭の中には思い描かれては居るのです。それは意識されずとも、上記したように我々の内に根差したものだから...
普遍なるものに比べると、あまり我々は実感することが無いかもしれませんが、自由というものも本当には与ることが出来ないでしょう。
本当に普遍なるものを実感するならば、本当に自由なるものを実感するだろうから...
自由と普遍とは切り離すことが出来ないのです。
自ずから由ることと、普ねく、遍(ゆき)わたることは共に障るもの、隔たるものが無いということでしょう。
少なくとも私は"全体だけがある、個的自由は無い"、と感じたことはありません。そこに矛盾は無く一つのものになっているのです。
然るに、この見える現実世界には何とこの二つのものは、相反し、両立の叶わないものとされてきたでしょうか?
この世界には普遍性は見い出され得ない...それに取って代わるものは、普遍そのものならぬ"普遍妥当性"、公共性、社会性などであり、もっとも自由を脅かすものとして悪しき全体主義(カルト宗教などはこれの局部的に圧縮された形態と言っていい)が設えられる、ということはこの見える世界の歴史が物語っているとおりです。
客観世界では、普遍なるものは外から押し付けられて自由を圧するばかりとなるでしょう。
それを実感する各々は居るかもしれないが...
そうです。それは我々一人一人の主体の内に開かれるものなのです。神的なものの臨在と共に...
各々と言っても、それは単純に一個人とは限りません。その場で交流し合って居る複数の各々に神的なものが臨在することはあり得ることです。
一個人の場においても勿論そういうことは起こり得るものですが、本当に我々が自由と普遍を実感出来るのは、そういう様態にあることなのかもしれません。
少なくともそこで初めてそれを共有出来るとは言えます。そこに神の国の雛形を見い出せるでしょう。
神の国は、客観世界に見える形では実現しないでしょう。見える形のそれはどこまでもその実現に向けられた夢想のユートピアにすぎません。
神無き神の国、ユートピアというものほどのギマンは無いi
神の国の実現とは、我々の内に開かれたものが、そのまま見える世界に移写されるものでしょう。
それは神的なもの自体の自己実現なのかもしれません。