人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

スピ界隈には思いが一杯

2019-03-08 11:59:16 | スピリチュアル?
マットウな宗教やスピなどに触れたことのある人であれば、その界隈では思考、マインドから離れることが如何に大切なことであるかは、知識としても知っていることと思います。
しかしながら、私には何とまあ、その界隈にはそれらが充満しているように感じられてならないのです。
実に考えさせられることじゃありませんか? いや、思考、マインドだらけじゃありませんか?
宗教、スピは、言うまでもなく見えない領域に関わるものです。霊界、死後の世界、"その世界の構造は5段階、いや4段階、どっちだろう..."、何ていくら考えても分からないことを考え続ける...これを大いなるムダと言わずして何であろう...
そして、頭脳の幼稚な人間は、他人の言説に容易く迎合して信じ込んでしまいます。
それは所謂思考停止ということで、自分の思考から離れるように見えて、他からの思考に明け渡し、奴隷となってしまうことなのです。
もっと高尚そうな?悟り系スピでは、自分たちはそんなレベルなど卒業しているとか、思うのかもしれませんが、その教説にならい、"そう思っている私は居ないのか?、思っている私ということが起こっているだけなのか?"、とこれ又考えても分からないことを考えているだけ...そして、"私は居ない、居ない"と、そう自然に感じられるでもなしに、思い込もうとするのです。
そして、"何でこんな極端な教えが平然と説かれているのだろう"と疑問に思って、教師に意見したがる人も当然のことながら現れてきます。
すると、教師は"ここでは異論とか、反論は要らない"とか"言葉を持ち運んではいけませんi"とか言って、統制を図ったりするようですが、そういう場で、不毛な議論が繰り広げられることの無意味なことはよく分かります。
しかし、そういう土壌は、そもそも未消化なままの、生半可な悟り教説を展開してしまったところにあるのではないでしょうか?
極端な非二元教説の言葉などは、もっとも持ち運んではならない言葉ではないでしょうか? 余計な思念に基づいた戯論が巻き起こるだけだからです。
このようにスピ界隈には、何処にも行き着かない思念で溢れかえってしまう事態を招いてしまった感があります。
こうなる要因は、もっとも肝心な"思いを超えたもの"の消息が示されないで、"思われた自分"がでしゃばり続けている、ということに尽きるかと思います。
教師はさも"私が"到達した真理を諸君に教示して進ぜよう、だからよろしく信じ、従うべしi"、とでも言いたげに"自分"に、その教えなりメソッドなりに信者に意識を向けさせる...教師も信者も思いを超えたものには意識が向けられないのです。
スピ的な超越的な事態の消息というものは、まさしく我々の思いを超えた、超越的ハタラキにあって与ることが出来るのです。
ここに無ければ、我々はただそれを信じたり、従ったり、思い描くだけなのです。あるいは又他を教示したりコントロールしようと思っている自分があるばかりです。
"思いを超えたもの"が立ち現れるには、"思われた自分"は一歩退かなければならないのです。
他に教えようとする自分、他を信じ、従おうとする自分、自分で分かろうとする自分、自分から何かになろうとする自分...
"そんな自分は元々無いんです"などとウソぶいていてはなりません。
教師や、教えや、メソッドや、自分の信仰などによって思いが超えられるのではありません。
それは手を合わせるという心持ちから始まるのではないでしょうか?
敬虔であることは、決してモラルのことではありません。
思われた自分を退け、真の自分を召喚させる古来より言い伝えられている知恵なのです。
要するに...仮の自分と真の自分が並び立つことは無い、ということです。
いいや、自分を退けようとする、はからいすらも本当は要らないのです。
そのものの方が立ち現れることで、自ずとそうさせられるから...
それはやはり祈り心から開かれるでしょう。

コメント
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