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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生死一如

2020-04-22 11:52:14 | スピリチュアル
私の人生で数十年前、初めて"人生の裏側"に踏み入れた時ほど、"死"というものに向き合わされたことはありませんでした。
まず、その端緒となった、立っていられないほどの眩暈がして、目の前が真っ暗になり、思考がマヒし、意識が遠退きそうになった、という私が"よく現臨に捉えられる"と言っている事態になったことからして、もう"このまま死ぬかもしれない"という思いが過ったことなのでした。
そして、"裏側"の扉が開き、"見えざる導師"と"合い見える"ことになったのですが...そのこと自体が私がそれまで後生大事にしていたもの、それは端的に言って、自分がかくかく思い込んでいた私、人生、世界...すべてと言ってもいいその定見、イメージ、概念を手放すということに他ならないのです。
これはある意味において"思われた私の死"を意味するものでしょう。
そして、その向こうに開かれていたものは...到底書き表すことなど出来ないものですが、何しろ考えることも、為すことも出来ないのです。(意識する、感じることは出来るのです)
これが"すべてを受け入れるしかない"ということなのですが、この有り様こそは、人生の表側ー現世においては、死以外の何ものでもないのではありませんか?
しかし、そこでは思われた人生で、あれほどまでに私の心に重くのしかかり、苛み続けた"死の恐怖"という思いは消えていたのですi
実に死の恐怖の克服は、この世の生での大抵の問題は解決してしまうほど大きなことに違いないでしょう。
これには、"永遠の生命"と実感されたものとつながっている、という感じがそうさせるとも言えるのですが、何よりも"思われた死の世界"というものが根底から覆されてしまったように感じたということなのです。
も一つ強調しなければならないのは、そういう状態にあまねく感じられた至福感、充足感がそうもたらしていたのです。
"人生は表側だけでなっているのではない、見えない裏側と切り離されてあるのではない"、ということは本ブログのメインテーマなのですが、これはある面では生と死とが一如になっている、ということでもあります。
自分では何も考えられない、為すことは出来ない、という死を彷彿させる有り様は、その気づきにより、実にもう一つの、知られざる生を開示し、思われた、あるいは死んだような生の世界に新たな生をもたらし、"甦らせるもの"ではないでしょうかi?
これに反して、思われた世界で、確実なもの、拠り所にされてきたものの多くは、何と"かの世界"においては色褪せ、移ろい、はかなく消え行くもののように感じてしまうことでしょう...。
そこに一体、確実に固定されるモノというものはあるだろうか?...その内実性などというものはどこにあるのか...それは死んだもののように感じるではないか?
ものの実性というものは決して見える世界だけからは求められず、見えない世界と切り離されてあるものではないのです。
そして、生死には一貫とした命の連なりがある...だから...
"死は恐くないんですよ~i"...
なーんてことを私はここで言いたいんじゃないのですi
だって、私の目はどうにかまだ黒いんですもの...死んだ後のことなんか分かりゃしませんよi(一体、今まで何を書いてきたのやら...)
ホントのこと知りたければ...この続きらしきことが近々書かれるかもしれません。(期待しないでねi)



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それでも僕は信じている

2020-04-21 10:22:26 | 独語
小さい頃、自分が何者で、どこに居るのか分からなくなったことがある
この世界は夢ではないのか?
僕は何も分からないが、皆は知っているんだろうか?
真実のことを...
"ここは夢の世界であなたはそこの住人じゃないの?"
肉親や友人に訊いたら笑われるだけだった...
僕は映画「 Truman Show」のジム.キャリーのように騙されているのだろうか?
僕は何を信じていいのか、何を拠り所にしていいのか分からなくなった
いつも誰かに尋ねていた
"お願いです。教えて下さいi 、本当のことをi、僕はどうしたらいいのかをi"
誰に?
一体、僕は誰に訊いているのだろうか?
その人は真実を、自分の進む道を知っているのだろうか?
"あなたは、隠れていて見えないし、何も言わないけど、知っているんでしょう?
きっと、知っているんだ、僕のことを見ているんだ、僕の訴えを聞いているんだi
だって、僕はそれで、どこかへ着地し、何かを取り戻したのだから..."
だから...
僕は自分のことすら疑うけれど、あなたを本気で疑ったことは無い
だって...みんなオシマイにしたくはないから...
すべてが夢だったら夢だっていい
夢の中で生きたらいいんだ
騙されて生きたっていいよi
だけど、最後の最後...疑えないこともある...
あなたは何も言わないけれど...
聞こえないのに、聞こえてくるんだi
それですべて上手くいくんだi
この魔法のコトバ...
"私はお前を信じているよi"
だから...
それでも僕は信じている...


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神を占う?

2020-04-19 02:50:18 | 
精神的な道においては、常に思いが開かれていることが極めて大切なことです。
信仰生活などではいつの間にか、自分の信念、観念といった思いがのさばり、"生ける、実なる神"を覆い隠し、その発露を塞いでしまうことにもなり勝ちです。
とにかく自分の思いを過信してはならないのです。盲信者、狂信者には中々理解出来ないことでしょうが...。
私なんかはそりゃもう、思いなんかはとっくに超えちゃってる訳で、そんな心配は及ばない...とは言えない訳で、そういうのがアブナイと思ったか、実はかつてその"現臨"とか"見えざる導師"を一応疑ってみたくなったこともあるのです。
(これが、例えば何かが見えたとか、聞こえたとかいう場合でしたら、むしろ疑わないとダメでしょう)
そこで思い付いたのが、それが本当のものなのか、どうか神に伺ってみよう、占ってみようということなのでした。
これ、どういうことか分かります?...神のことを神に占うってことですよi 常人にゃ考え付かないことでしょ?
そこで、本当だったら首が勝手に頷く、という簡単な決めごとのもとにやってみたのです。
すると、もう首がどうなるってこと以前に、即答らしいことが瞬時にパッと示されたのですi
意識がパッと向いた途端、全身に響き渡るようにも感じたことなのです。もう、疑うヒマがありません。
それからすぐそれが消えて、別の何かざわざわとした、"心ここにあらず"の方に向かわせる何かが覆い始めて来て、こんな思いが過りました。
"僕は一体何てバカなことをしているんだろう?...あの御方がいちいち首をアゲサゲさせたり、あるいはそんなおマジナイみたいなことに答えたりするだろうか?"
そして...悪い予感が..."もしかしてそうなってしまうんじゃないか?"、ということが正に起きましたi
あの"現臨感"といったものが消えてしまったのです。こうなる理由はおそらく疑念(これはどういうものであっても思念に基づくものです)を挟んだためです。
だけど、私が"クビにされる"以前に、イエスかノーか尋ねる以前に、ダイレクトに即答は与えられていたのですi...
よく考えてみたら、何度も言っているように現臨にあるということは思いを超えているということなのです。
それは、私が初めてそれに捉えられた時、全く疑うことは出来なくなってしまったことで示されていたことなのです。
だけど、それでもどこかで"実の神"を覆い、取り込もうと思念が忍び寄るとも限らないものです。
だから、常に思いは開かれてある必要があるのです。
あの占いごとは、ホントは神を試すことじゃなくて、私の"不退転の信"をテストしたのかもしれません。
もしかして...上からやらされていたのかも?
しばらく消えてしまった、"あの感じ"もすぐ戻りました。
ホントのこと言えば、"何が本当か?"と何かに尋ねたりすることも迷いから出てくるものでしょう。
ホントに本当のものを目の当たりにしたら、ウソでも本当でもどっちでもよく、迷い、疑念なんて無いのが本当でしょう。
ああいうマネは、滅多にするもんじゃないですが、それを通して学ばされたことでもありました。
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癒される心霊の話

2020-04-17 11:11:08 | スピリチュアル?
私はここでちょいちょい真のスピリチュアルは、通俗的な心霊モノとは区別されるべき、とか書いてきました。
まあ、"真の"とか、"通俗的な"といった言い回しは、如何にもエラそうであり、"知った風なこと言いやがって"!、という印象を抱くでしょうが、これはそういうものに接した私の経験で、とても対称的な感じに導かれるので、その二つのことは、混同されるべきでない、ということを言いたいのです。
その感覚的なことを端的に言えば..."じんじん"と"ざわざわ"の違いです。
これだけだと何のことだか分からないでしょうが、それらに接して何か意識が自ずとある中心に集められてくるか、逆に"心ここにあらず"という風に焦点が合わなくなってくることを言っているのです。
総じて後者は思念が超えられる方向でなく、囚われる方向に傾きやすい、と言えるでしょう。
とにかく、"じんじん"、"ざわざわ"のどっちを選ぶか、なんてこた、分かりきった話じゃありませんか? 好き好んで、愛と平安でなく、自分がどこへ行くのか知れない方に行きたがる人間の心理がアタシャ分かりませぬ。
とはいえ...実は私は昔からあの"ざわざわ"感を醸し出す、その通俗心霊モノが大好きだった、と言うんだから何が何だか分からなくなるでしょ? 
小説を読んだことと言ったら、大人になるまでE.A.ポーとかラブクラフトとかホラー小説しかまともに読んだこと無いくらいで、ホラー映画がとにかく大好きだったのです。
今でも好きなんですが、それはあくまでも小説とか映画など創作、エンタメに限ってのことです。
これが現実のことになれば..."ああ、やめてくれえi、ざわざわしてきたあi"、となる訳で、こうなる理由は、私自身が人気心霊モノの定番i、悪霊、邪霊が取りつくという恐怖に見舞われたことがあるからです。
これは主として私が学生時代に入信していた新興宗教で、いつもそういう類の実話(?)を聞かされ続けられたことに起因しているのです。"ただのお話じゃすまなくなるじゃねーかよおi"と。
だけど、世に伝えられる心霊話の中には、こういう感じが伴わない、そうですね、多くは"じんじん"感に近いものを醸し出すものもあります。
例えば、昨日もネットで読んだのですが、難産で苦しんでいた妊婦の方が、霊のように現れたある老婆に見守られているように感じて、安心に導かれたとのことで、後日そのことを肉親に告げると、そういうことがあった同じ頃可愛がってもらっていた老婆が亡くなっていた、というよくある守護霊的な話などがそうです。
こういう話はヒンヤリとさせられますが、コワさはなく、涼風を運ぶようで確かに癒されるものがあります。
私はこのような善霊、悪霊共々心霊の話に囚われることは無いですが、否定しません。
しかし、同じ霊にまつわる話でも、受ける感じは全く違うというのは何故でしょう?
全部いっしょくたに心霊話で括られてしまうようですが、所謂守護霊的なものと邪霊的なものとは、よく分かりませんが、霊の有り様(ヘンな表現ですが)が我々の意識の有り様と関わっているのか、根本的に違うんじゃないかとも思えてくるのです。
やはり"じんじん"と"ざわざわ"は区別されるべきで、真のスピリチュアルは思いを超えた世界に導くものなのではないでしょうか?
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見えざる導師③

2020-04-16 11:52:29 | ガイダンス
私がいつも言っている、"意識を向ければパッ!"、と見えない何かがハタラくもので、もっとそれが人格的なものとして感じられるものを私は"見えざる導師"と言っているのです。
何度か触れているように、そういう実体、霊体みたいなものを見たことは一度も無く、その導き方でも言葉、音声など形あるものとして伝えられることは無いのです。
人はそういうもので、その実在性を疑わずに、信じてしまうのかもしれませんが、私は見たい、聞いてみたいと本気で思ったことは一度もありません。
しかし、もしそういう超能力的なもので、現れたらどうだったでしょうか?
ここで、その導きというものが、どういう風になされるのか、と言うと...そのように通常見えないものを見よう、聞こえないものを聞こうという思いが抑えられてしまい、自分の内側から、言葉でなく、直感的に"見えるもの、聞こえるもの、形あるものに囚われてはならないi"、"そのように思いを絶えず巡らしたり、留めていてはいけないi"、というような促しを受けるのです。(これらのことは、精神的な道を歩む上で極めて重要なことと言わねばならないでしょう)
実際はそういう否定系で伝えられることはほとんど無く、ただ自然とそう強く感じてくるのです。
もう一つ重要なことを言えば、(見えざる導師が臨在した)そこに、愛、平安、リアリティといったものが感じられて、このものが指標となり、自ずとそうでないものとを識別されるようにも導かれる訳です。
だから...超能力的な方向へは意識が向かないのですi
これ、この普段、とりとめのないことで頭が一杯で、いつも何かに囚われている、思われた私だけからは、そういうものは開かれないでしょう。自分を超えたところで"示される"からそうなるのです。
私は私を超えたもの無しには、超えることは出来ないのです。いつも眠りこけている私は、そこから覚ましてくれるもの無くしては目覚めることが出来ず、すべてをゆだねると言っても、ゆだねられるもの無しにはなし得ないのです。
この意味で見えざる導師は、絶対他者ということが出来るでしょう。
古来、精神的な道において、如何に導師という存在が必要不可欠なものとされてきたか、ということがこれで知られるでしょう。
これにはラマナ.マハルシがそうであったし、又自身で言っているように、肉体を持った、"見える導師"である必要は無いのです。
そうは言っても、それは全く私自身にパーソナルに関わるもので、どこを切っても血がドクドクと流れてくるようにも人格的なものです。この意味で他者というか、他人行儀なことでは全くありません。
私がすべてを包み隠さず、開けっ広げに出来るのは、その御前においてしか無いのですi
見えざる導師は、思われた自分以上に私自身すぎるものでもあります。だからその導きに自ずと赴かざるを得ないのでしょう。
それは誰にとってもそうなのでしょうか?
それは、あなたがあなたの偽らざる本心に訪ねてみれば、自ずと示されることでしょう。
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