人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

明晰夢と目覚め

2020-05-15 10:21:55 | 独語
何十メートルもあるような崖っぷちで、狭い道なき道に立たされていた私は、うっかり足を滑らせてしまい、あわや、真っ逆さまに...落ちない...。
その際のところで地に足が着いているのか、浮いているのか分からないのだが、しばし不思議そうに考えていた。
"何故だ? 何故落ちないのだろう?"...
して、電撃のように気づいたi...大丈夫なんだ、たとえ、世界人類が破滅することになったとしても...どおってことないi
これは夢なんだi

何かで読んだが、こういうの明晰夢っていうらしい。
私は何だか世界からあらゆる不安や恐怖が無くなったような気分の中でいつもの朝食を取っていた。
"バタートーストを紅茶に浸して食べるとホントに旨いよね? ...エエっ、行儀悪い?、いいじゃないか水臭いな...世間がどう思おうと、何が流行しようと、感染しようと、繁栄しようと、進歩しようと、あっけなく終わっちまおうと、僕は知らないね...。こういうありきたりな日常でいられることが幸せなんだ...
おや、どっからかドビュッシーの「月の光」に似たメロディーが聴こえてきたよ...周りは楽園と言うにはあまりにもありきたりなのに、何て幸福なのだろう...朝の太陽はもう上っている筈なのに、外は透き通るような青みを帯びている...
ずっとこの感じ噛み締めていたいな...そう、思わないか?...って、君は一体誰だ?
僕は一人暮らしの筈なんだが...何だって僕は見ず知らずの鮮やかな花を飾っている、綺麗に調った部屋なんかに居るのだろう。君は?...居なくなっちゃった...するってーと、ここは、ヤッパリ..."

せーので、今度こそ目覚めなければならないi、じゃ、行こうか、せーの...
おかしいi...行けないi...何も出来なくなっちゃったi...頭も体も効かない...
意識が...あの至福の感覚に吸い込まれてゆく...あの感じ...いつも感じていたい...寝ても覚めても、生きていても死んでいても...
ああ、神様...

そして、何かが開かれた...
今度こそ...ホントに今度こそ目覚めたことでいいのだろうか?
外は一体どうなっているのだろうか?
そんなことより、あの感じがまだ続いていた...



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大阪人は読んではいけないi

2020-05-14 12:01:50 | 雑記
先日、勤務先でつい、出てしまったのですi "あれ"がi
これは私の人生で、約20年に渡る関西生活の呪いなんです。
「10万円いつ、くれるんやろ?」
そう、関西弁。どうしてお金のことになると、つい出てしまうんだろ? それと瞬間キレてしまった時とか...
「なんやとおi 」と。...しかし何故か「アホッi」は出ても「ボケッi」は出てきません。
やっぱり、ネイティブな関西人でないというのは救い(?)なんだと思います。

思い返せば、社会人として大阪に出てきて、真面目に世間知らずの"お坊っちゃま"をしていた頃、その真面目さが裏目に出て、底意地の悪い大阪人の笑いのツボにハマるのか、散々バカにされたものです。
私が営業に廻っている時、お客さんからしょっちゅう「もっと、勉強せんかいi」と言われ、「はい、勉強不足で申し訳ございません。家に帰ってもっと勉強しますi」と答えたら、何で皆、腹を抱えて笑うのかさっぱり理解出来ませんでした。
その後私もちっとばかし学習もして、そう言われたら逆手にとって「はい。今度はもっと"値引きの勉強"しときますi」と、商売上手な大阪人の上をゆくよな交渉術を身につけるようになったのです。
その他、私はバカにされながらも、大阪人のヒートを買いそうなポイントが何となく分かるようになり、折りあらばリベンジを企てたのでした。
私は初めは大阪人と親しくなろうと、真面目に大阪弁をマネしようとしたのですが、そのギコチなさがかえって彼らには"こいつ、ワイらをバカにしよるi"と、取られてしまうのです。"良かれと思ってしてるのにい....くっそう..."
そこで...数人居る部屋で、開きにくいドアを前にした時とかやったのは、私はさかんに(真面目なフリして)「アカンi」、「あきまへんi」を連呼したりします。
すると大概彼らはフリーズしてしまうのです。何だかボケていいのやら、ツッこんでいいのやら、どう反応していいか、分からなくなってしまうようです。
あんまり何度もやり続けるとだんだん彼らのヒートも高まってきて...「お前、バカにしとんのんかi」とくる...
待ってましたとばかりに私は真面目な、健気に大阪弁を話しているよな態度を一変させ、バリバリ?の標準語で「いいえ、バカになどしておりません。コケにしているのですi」とやるのです。
"やばっ、全員こっち睨んでるi"...さすがに身の危険も感じるので、さっさとトイレかなんかに行くフリをして、逃げるに限ります。
で、ほとぼりが覚めた頃を見計らって...何ごともなかったように「いやあ、暑いですねえ...」とか又真面目人間になって言う...間違っても「暑いでんなあ...」と言ってはいけない、それと開かないドアのことには触れません。
そうすると、又もやフリーズしてしまったりします。どうも私という人間が不可解に思えてならないようです。少なくとも、私の真面目人間のメッキが剥がれてしまったのは確かなことでしょう。
この他、因縁の大阪人との戦いのネタは数知れずあります。
野球の話になると、相手も阪神ファンと決めてかかる大阪人。阪神フィーバーの時は散々コケにされたものでしたが...数年後、阪神が低迷していた頃、「あかんなあ(ドアのことでっか?)、又負けよったわあ..」と、話しかけてくるオッサン。それを呑んだフリして付き合う私。「今日の先発は"藪"でしょ? 巨人戦で三回投げて一回は勝つピッチャー...今日はどうかなあ?」「巨人は誰や?」「甲子園でここんとこ負け知らずの"斎藤マサ"」「アカンi(ドア?)、もうテレビ見んとこi」「まあ、あなたが家に帰った時分にはもう、終わってるでしょ、僕はさっさと仕事切り上げて、サンテレビ(甲子園での阪神戦を完全中継してる局)でも見ますよi」「何で?」「決まってまんがな、ワイ、巨人ファンですがな(と、突然の大阪弁)」そして、フリーズ...
いやあ、熱い人が凍りつくとこ見るのって楽しいですねえ...
久しぶりに「関西電気保安協会」のCM(最近は、"ある日突然、関西人になってた"、というバージョンがあるらしいですね。腹抱えて笑ってしまいました。このバカバカしさ、東京人にゃ、ちとマネ出来まいi)の動画見てたら、大阪のことが急に懐かしくなりました。
しっかし..."551"の豚まんが無性に食いたい...。
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いつものようで、いつものようでない

2020-05-13 12:15:35 | 雑感
"大気汚染、地球温暖化...暴走し続ける一方の現代科学文明...一体どうしたら歯止めがなされるのだろうか?"
考えてみたら、私はこういう問題が叫ばれるようになって、ずっとこんなことを考え続けていたのでした。
しかし...この僅か数ヵ月の間にいつの間にか事実上、世界規模で歯止めがかかってしまったのですi
これがその問題を一層エスカレートし続けていた、中国から発していることもとても象徴的なことです。
そして、ひとつの問題は複合的に多岐に絡み合いながら波及してゆくものですが...
しかし、こういう形で、だったとは...大天変地異とか世界最終戦争とかでなくて良かった...
人類は自らではその業的な性向を改めることは出来ない...これは自分自身のことを考えてみてもそうですね。
自分をある問題の外に置いて、他を見ればその問題のことは分かったつもりになる...しかし、自分も同じ土俵の上にあることが分からない...結局、問題は自分を置いては存在しないということが分からないのだから、誰にも問題は止められない訳です...
けど、止まっちゃったんですi...人間のことは他動的な力によってしかコントロール出来ないということがよーく分かりました。
しっかし、拍子抜けするくらいで、実感が沸きません。ずっと思い続けていたことってそうなるものなんでしょうか? 夢でも見てるのかと思いますよi
一連のコロナの報道に接していて、実際にそのある部分を目にしてみても、どうもリアリティが感じないことだらけなのです。
いつも普通に食べて、普通に利用していた、あの店も、この店も閉まってるし...
10万円の給付金にしたって、"働かざるもの食うべからず"、という絶対に曲げられないような、シャバの掟のようなのがアッサリ解かれちゃったようで...イヤまだアタシャ信じてないぞi "現なま"を拝むまでは...(これがシャバで生きる人間の悲しいサガなんでしょう?)
こうして毎日夢を見ているようなことが続いている一方で、変わらないリアルなものがある、ということをより一層浮き彫りにされてくるようです。
リアルなもの...いつものあれだけど、それは日常的な意味でいつものじゃない...毎回︿リアルなことは、いつものものじゃないのですi
なんだか私にはこういうリアルなものと、夢みたいなことの二極を見せられ、感じさせられているようなのです。
コロナ問題もここへ来て、どうやら終息の兆しも見えてきました。
一応、科学文明の暴走にストップはかかりましたが、その機能は復活して再び同じ道を繰り返すのか、それとも別の道へとシフトしてゆくのか、どうかは分かりません。
岐路に立たされた人類...ずっとこんなことを言い聞かされていましたが、それは今までのこととは様相が全く違う、いつものようで、いつものようではないことなのですi
他動的に物事が停止させられたとしても、そこから転換してゆくにはも一つ、さらに別のギア.チェンジが必要かと思われます。
それはおそらくその他動的なハタラキから連動してくるものでしょう。して、それは一体何か?...
なーんてこと、書いてて夢とも現実ともつかなくなりそう...しばらくはこんな風に交錯する日が続くのでしょう。
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個人的な、普遍的な祈り

2020-05-10 10:02:04 | 祈りと瞑想
私はいつも決まった時間にやる訳じゃないですが、祈りとも瞑想ともつかないことを一応しております。
ずっとブログを読まれている方ならお分かりでしょうけど、それはどういうやり方、どういう祈り方があるってもんじゃないのです。
ぶっちゃけた話、"意識を神的なものに向けてる"だけですよ。"それだけ?" そう、それだけ。種もシカケもありません。
すると、どうなるか? 意識が現臨、プレゼンスに満たされたりします。それだけで? そう、それだけで、です。
これは誰にもおいそれとマネなど出来ないことなんでしょう、多分。じっつに独りよがりなこと書いてるな、とは自分でも思いますよ。
こんな風になるのは余程の達人なんだと、お思いの向きもおられるでしょうが、そう、エライもんだ...なーんて、とんでもない話ですよi
私は特定のそういう行法とかは身につかなかった、と何度も言ってますが、それは有り体に言えば、そういうものは何一つ出来なかった、ということ...つまりは典型的なダメ人間だったって訳です。
"呼吸法、マントラ、座り方...ああ、もう最初から気持ちが挫かれそう...なんてダメなんだろう...僕には何にも出来やしないんだ..."
"だけど、思いを神様に向けることだけは出来る..."と、まあこういうことなんです。
これはしかし、適切な言い方ではありません。"自ずと向いちゃった、そういうことになっちゃった"、と言う方が正しいのです。
これは、やろうと、思おうとする私に先だって、神的なハタラキというものがあり、それがそのように為さしめる、ということを言っているのです。
精神的な道には、それこそゴマンとこういうやり方、祈り方、教えってものがあります。それらに携わっている方の中にはそれらに取り組むことで、かえってトラワレが生じたり、苦しみを背負ってしまうという話も聞きます。又中にはどこで脱線するのか、例えば"祈りの戦士を広く募るi"とか、血迷ったことを言い出す人も出てきます。
"祈る...戦士?"...全く似つかわしくありません。それは祈り倒そうとする軍団か何かなんでしょうか? だとしたらそれは祈りじゃなくて念力の世界でしょう。
こういう苦しみ、迷いというのは、自分がやろうとする、思おうとするところに要因があるのではないでしょうか?
私は小さい頃からやろうとしても出来ないこと、思いを変えよう、何とかしようとしてもどうにもならないことなど、イヤというほどその重圧を感じてきたのです。
この出口なき袋小路の突破口は、実に私の思いを超えたところから開かれたのですi
自ずとそちらに思いが向いてしまう...少しく信仰的な人でしたら、色々(メンドクサそうな?)やり方、祈り方というものはあるのでしょうが、誰だってその人に応じた神様に思いを向けているんじゃないですか?
これはどんなやり方があろうと、思いが神につながらないと意味が無いってことじゃありませんか? 
何ごとにおいても最初、原点ってものが肝心なんです。それは思われた自分以前にあるのではないでしょうか?
"あなたはどんな神様に向けているのか?"、と言ったら"私の神様"ですよi
それは又どんな神様かときたら、聞くだけヤボな話で、"あなたの神様のことで、その御方に聞かにゃ分からない"に決まってるじゃないですか?
その神に本当に向き合おうという気の無い人には、これは本当にヤボな話で、こんな話はそもそも無駄なのですi あなたがトコトン、ダメ人間まで落ちたら出向くしかないでしょうね。
こういうことは、全く、不特定多数の、一般向きの話で無いのは言うまでもありません。独りよがりと言われても仕方ないことです。
それでも私の中には、上記したことに含みがあるでしょうが、"普遍世界"に向けて伝えたい、共有したいという思いが強くあるのも確かなことなのです。
それは人数の多数じゃない、心から心へ縁あるところでそうなればいいな、と思っている次第なのです。
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中間世界との正しいつきあい方

2020-05-09 10:15:56 | 求道、探究
私がいつも例えば、霊界の存在とか、前世や来ない先の予言とかを短絡的に信じ込んでしまう心的傾向について批判的に書いたりしているのを読んで、中には"あれは私のことを言っているんじゃないか?"と感じて気を悪くする向きもおられるかもしれません。
しかし、ああいうのは、主として私がチョイと知ってる、反面教師にしている御仁を思い描いて書いているのでして、そういう各々のことはよく知らないし、その関わり方も違うのが当然なのだから、誰彼なしにああいうことを言う訳じゃないのです。悪しからず。
要するに何ごとでもそうですが、トラワレなきゃいいのです。トラワレにも程度の問題てのがあります。
あの反面教師ときたら自分が迷って、自爆するだけならいいのに、方々に拡散して他の人を道連れにしようとしているから警鐘しているのです。もっとも誰も相手にしないかもしれませんけど...
ところで、ああいう霊の世界とか、世間で所謂オカルトという括りで捉えられている領域のことを私は"中間世界"と呼んでいるのですが、これは大体、霊能者と呼ばれる人たちにしか本当は分かり得ない世界であり、そうでない私は多く語れないことであるのは言うまでもないことです。だからと言って否定する気など毛頭ありませんよ。
死後の世界、霊の存在について信じるか、信じないかと訊かれたら"信じますi"と答えるでしょう。
このことは、私が口癖のように言っている、"自分も世界も思われたままじゃない"、ということもその辺のことも何となーく含ませているのです。
又、実際に、何人か"神様のお告げを受けている"、"前世のことが、未来のことが分かる"という人と付き合ったこともあります。
しかし、いずれも良識を弁えている人たちのようで、"私が言っているのは真実です。間違いないのですi"、などと自説を押し付けてくるような人とは会ったことがありません。
"参考までに聞いといてくれ..."というようなノリで、そこで語られずとも、"我々"の間には暗黙の了解のようなものがあるように感じられました。"こういう話は絶対的なものじゃないのだ"というような...
ざっくり言って、こういう中間世界のことは、大体が"霊界物語"だと私は思っています。
どういうことかと言うと、それはある見えるもの(これはこの場合、形あるものとして思い描けるものの意)、霊現象、霊体(?)、霊言(?)を通して、その奥にある、見えないもの(思い描けないもの、言葉に言い表せないものの意)を伝えるもの、ある種の型、霊成型(ひながた)、物型理(ものがたり)ではないかと...見えないものは各自が直接悟らなければならないものでしょう。
つまりは、これ自体を絶対視してしまっては、その意味合いを成さなくなってしまう質のものなのです。
このことは、出口王仁三郎師の"霊界物語"が端的に"物語っている"ことではありませんか?
中間世界のことは神話的表現をもって表される...神話は直接歴史的、客観的事実ではないが、我々はその客観世界においてのみ生きているのではなく、霊成る世界とも相即して生きているのではないか?
私には、あの物語こそは、この中間世界の周辺に巣くう、霊界、予言などへの短絡的、熱狂的信仰、又物質的、客観世界だけを絶対視する合理的、科学的熱狂信仰に対する真の霊界の"語り部"からの応答だったように思います。
中間世界に関わることは、それにトラワレることで、思念によりクモの巣のように呪縛されるとも限りません。しかし、その媒体、型となるものを通して、自由な、普遍的世界に導かれることもあるかもしれません。
こういう意味で中間世界と呼んでいる由縁があるのです。
いずれに赴くは、精神が開かれているか、閉ざされているかで決まるでしょう。
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