人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えること、分かること

2020-05-07 11:02:25 | 現臨、ハタラキ
何年か前、ある自称スピリチュアル.ヒーラーから、その人がそうであるように「あなたも霊の存在が見えて、人の因縁とかも分かるようになりたいと思いませんか?」と尋ねられたことがあります。
私はキッパリ「思いませんi」と答えました。
又、別の知人から「あなたが"見えざる導師"とか言っている、その守護霊みたいな存在(この人はこういうイメージを持ち続けているようでした)が何か、誰か知りたいと思いませんか?」と訊かれた時もキッパリ否定しました。
だって私は何よりも自由でいたいのですから...
何かが見えたら見えたものに、何かが分かったら分かったものに呪縛されますよ。要するにトラワレるってことですね。
"あっ、あそこで怨みの霊がこっちを睨んでる"...なーんてことがいつもいつもあっちゃあ、生きてるのか死んでるのか分からなくなる話じゃないですか?
人の業因縁の話なんか聞かされるだけでおもーくなってくるじゃないですか?
そうです。重くなる、囚われるから...これは思いの世界の沙汰なんです。
ただでさえ、思いの呪縛を受けている、見える世界なのに、見えない世界でも輪をかけてそんなものに付き合わされなきゃなりませんか?
こういう理を全然分かろうともしないで、自分が見た訳でも、何かが分かった訳でもないのに、人からまた聞きしたことを鵜呑みにしてトラワレの種を増やし続けている御仁などは、奴隷志願者みたいにしか思えません。
何かが見える、聞こえる、分かるといったことと現臨、プレゼンスにある、ということとは直接関係はありません。
むしろ、そういうものに囚われているということは、意識はそこには無いということなのです。
意識が直接それにつながるような、驚嘆すべきインパクトに比べたら、何が見えようが何が分かろうがどうでもいいことなのです。
しかし、そこから改めて現実の見える世界に臨んでみたら...我々は本当には何も見ておらず、何も分かっていないということが"見えてくる"のではないでしょうか?
(霊能者ならともかく、私が見える、見えない世界と言っているのは便宜的なもので、現界とか霊界のことを言っているのではありません)
この世界は実に分からないことだらけではないか?
今朝もあるブログを見てたらテントウムシの幼虫の写真が載っていて、それがダンゴムシにそっくりだったなんて、知りませんでした。こりゃあ驚いたi
そして、その感想のコメントを書いていたら、ちょうどNHKのラジオで正に女性リポーターのような人がそういう話をしていたのを聞いてさらに驚きましたi
それをイチイチ、"偶然の一致というのは無いのでして、それは、こうこう、こういう因果の法則がありまして..."なんて余計な講釈なんてのはどーでもいいのですi
今日のような一面の青空ににわかに雲が出来る...見る間に巨大な雷雲になって、そこから稲妻が放たれる..."何で空に電気が走ってんだよi" 信じられまっかi
見えてるつもり、分かったつもりの人間には、このありのままに映し出されている驚異が"分からない"のです。
ありのままということは受け入れるしかありません。勝手に自分の印象、心象でそれを操作することなど出来ません。
世の中、特にスピ界隈にはただの空想ごとで、ありのままのことを歪め、デキソコナイの人工加工物みたいなものを作り出してしまうことが何と多いことでしょう。
ダンゴムシが成長してテントウムシにはなったりしないのですi
自分が思っていることがすべてだと思い込んでいる人間は、思いを超えることが出来ないのです!
ありのままをそのまま受け入れることに、あなたの、空想、思惑など要らないのです。
"現存、現臨"それは全くありのままの消息以外の何ものでもないでしょう。
それにある時、思いは超えられている...この自由の実感、何で分かったことにしてしまうことで済まされようかi
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これが定言i?

2020-05-06 10:29:24 | 求道、探究
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりかと思いますが、私は読者にある定見を持たしてしまうようなことはほとんど書いていません。
例えば、"人間には生まれ変わり、前世というものがあるのですi"、とか"20年後地球の人口は半分になる、と決まっているのですi"とか...そういうこと、ものが有るかもしれないし、無いかもしれない...どっちか分からないことを決まったことのように言うのは、ただの思考停止の押し付けでしょう。
これだけで如何にそう宣っている人間が"ガ"が強く、知性を欠いているということが分かりますが、こういうことが本来のスピリチュアルな道を下落させ、歪めているかが思い知らされます。
真のスピリチュアリティは、思いを超えた次元を指し示し、開くものでしょう。
こういう消息のものに触れたことがある人なら、自ずとどうでもいいような教説などには囚われなくなるのが普通なのです。
そこに現存するものを通して何がリアルなもので、何がそうでないか、ということが示されるからです。
この違いというのは、もう天と地ほどの開きがあると言っても過言ではないでしょう。(それで同じスピリチュアルで括られてしまうのだからやりきれない...)
しかし、一度そのリアルな消息を味わったことがある者でも、フラフラと迷い出すということが無いとも限りません。
ご存知のように人間の思考マインドというのは絶えず、縁に触れて色んな方向に、テンデバラバラにさ迷っているものだからです。
例えば、宗教、スピ界にはところ、品を変えて色んな教えがある...そして、"人類の危機を救う道は、あるいは究極の悟りを得る道は、これっきゃない..."と自分の色に応じた売り文句につい飛び付いてしまう...
これは、本当にはそのリアルな感覚が意識の底に根付いていないということで、言い換えれば、どっかで自分の思いで思いを超えたものを捉えようとしていて、それに捉えられていないということなのでしょう。
こういうことはですね...多少なりとも私にも思い当たるフシがあるからこそ書けるのでして...ただ、私には短期間のうちに次々と私の内なるものを揺さぶらずにおれないような幾つかの教え(これは実は後述するように幾つかは無いのかも?)に触れてゆくことで、ある素養が出来たようなのです。
そうして段々と捉えられることに導かれるようになるのです。惹かれてやまないという感じになる...これは理屈じゃありません。
そうなって初めて自分の思いで任意で選び取り、決められる道など無く、唯一つの道しか無いということが...この世に数多の宗教、教えというものがある訳でなく、自分の道というのは"真の自己になる道しか無い"ということが分かるのですi
だから...あなたがあなたの真実を知りたければ、アカの他人が言っている、どこに根があり、どこにゆくのか分からない定見などに惑わされないで、どこまでも、あなたの本心に尋ねなければならないのですi
"あなたの外に何も定まったものなどない"...これが定言i?
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人類にとってもっとも重要なこと

2020-05-05 09:51:03 | 現臨、ハタラキ
「人類にとってもっとも重要なことは、プレゼンスを見い出すことです」(エックハルト.トール)

何度も言っているように、意識というもの、意識的であることはとても大事なことです。
ことに宗教、スピなど精神的な道においてそうであるのは論を待たないことです。
その界隈でも、やたらと表されている言葉に囚われて、例えば、神や霊などについて、素朴実在論というか、物質があるかのようにその実在性を信じ込んだり、何年後かに起こるであろう予言は決まった事実であるように思い込んだりするような性向の者などは、素養がないと言ったらそれまでですが、とても"意識的であること"に疎い人間と言わねばならないでしょう。
何故ならば、それは表層的観念にずっと囚われ続けているからであり、そうなっていることにも気付けないということなのです。
意識的である、ということは気付いているということに他ならず、純粋な意識は表層の思いの根底的なものであり、そこから"思いを超える"という道が開かれるのです。
このことは、実に思われた自己からは、思いを超えられないが、それを超えたものによって開かれる、ということを示唆しているのです。
この我々の助け主のようなハタラキを私は"現臨"と仮に呼んでいる訳です。
初めてここを訪れた人なんかは、"そんなもの聞いたことないぞi"、と思われるかもしれませんが、私が知らないところで、どうもそれはスピ界で"プレゼンス"という言葉で認知されているらしいのです。
随分と多義的に使われるこの言葉ですが、私がここで"プレゼンテーション"したいこと、そうさせられることは...とにかく意味など二の次でいいから、考えでなしに"現存"、"現臨"感を感じていることが肝心なのですi
これは、主としてインドに伝えられた非二元の道を、西欧流のスピの道にアダプトさせた、ドイツ系カナダ人の教師エックハルト.トールさんも最近盛んに言及しているようです。
プレゼンス、現臨というものは、個人にとっても、人類においてもっとも重要なものであるのは、太古の昔から変わらなかったはずなのですが、如何せん、そう言い表す言葉がなく、多くの人はーことに精神的目覚めに与った人でこれを知らないというのは皆無でしょうーそうと知らずに感じてきたものだったのです。(トールさんと違って私はどうしても"神的なもの"と言いたくなっちゃうのですが...)
しかし、ここ最近どうも私が思っている以上に認知度が加速しているのかもしれません。
だからと言って、それはけっして表層の、一般の認知層とは直接関わらないでしょう。頭脳知で分かるものではなく、心から心に伝わるものだから...
この時節、このものは静かに、人知れず、"じんじん"と人類に浸透してゆくのを身に覚えずにおれません。
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唯一無二の書

2020-05-03 10:29:32 | 人生の裏側の図書室
「わからなければならないのは自分自身の真実であって、誰かの真実ではない」
「この本との出会いについては自分自身に感謝すればいい。すでに大事なことを教えられたはずだ。最高の権威は自分自身のなかにある、ということを」
(ニール.ドナルド.ウオルシュ「神とひとつになること」/サンマーク出版)

私はおそらくかなりの読書家の部類に入るだろうと思います。
月に再読するものも含めて10冊以上は読んでいます。
宗教やスピなどの関連でも、数えきれないほど様々な道、教えのものを読んできました。
しかし、そのいずれにも、その道、教え一筋に帰依し、従事してゆくことは無かったのです。
一体、それらの書物から何を学び、何を体得し、そして何が残ったのか、いやそもそもそういうことを意図していたか、どうかということさえ無かったようにも思えるし、テンデに分かりません。
だけど、これだけは言える...ある書物と出会っているし、ある読書体験というものもある...いや、それは読書体験などという生易しいものではなかったかもしれない...読んでいるうちに疾風怒涛の如き精神的嵐に見舞われ、我を忘れてしまうこともあるなど、何をどう読んだかなど言い表すことが出来ないのです。
覚えているだけでも、マクドナルド.ベイン、ベルジャーエフ、手島郁郎、小池辰雄、玉城康四郎...そしてあの迷路のような出口聖師の「霊界物語」にもそういう契機となるものを見い出しています。
その中の一つ、通称"三千冊"と呼ばれる大調和協会の知られざる聖典の中で、会主命御は「ここで名告りを挙げているのは、人類というあなたなのです」と告げられていました。
キリスト.イエスは「聖書は私のことを証しているのである」(ヨハネ伝)と言いました。
書かれていることが真実かどうかなど分からないし、言葉そのものに信をおくことなどどうでもいいことでしょう。
著者がどういう人かということも...そうそう、「日木流奈」という脳障害児が書いた、何ていうのもありましたが、これなど極めつけのフェイクと言うべきでしょう。
しかし、その文章に接して、私の内なるものが揺すぶられたのは紛れも無い事実なのです。
たとえ一点でも言葉を通して、言葉に言い表せないものに出合わせられること、それはただの読書の感想などで片付けられる訳がありません。
それは"唯一無二の私"との出会いではないでしょうか?
私自身に会うということはそこには追従とか従属、まして特定の教えへの依存、狂信などあろうはずがありませんi
そして、世の中に数多の異なった教えや思想があるように見えるが、本当に自分自身が帰一されるのは一つしかないのではないか?
私は一なるものだし、その私の魂が揺さぶられることは二つないことなのだから...
万巻の書を読破しようと、"私自身の書"というのは、一書あるのみ...そして一なるものは全てなるもの...
私自身の真実が書かれているのは、沢山あるのではない、唯一無二の書しかないのです。
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五井先生の本筋

2020-05-02 09:56:01 | 人生の裏側の図書室
今、「神のみ実在するー五井先生かく説き給う」(白光出版)という、五井先生の長い間側近だった高橋英雄さんの本を読んでいるのですが、改めて五井先生は、人々に本心に目覚めることを主眼に教えを説かれていたことを思わされます。
その序文にも「宗教とは自己の本体、宇宙絶対者たる神を直接体験し、把握することから始まる」とある通りでしょう。
その祈りによる平和運動というものも「地上に神性人間を顕現する方法として、世界平和の祈りを提唱し、それに人間のあらゆる想念を統一、統合することによって、人間の神性、霊性は開発され、それによってのみ世界の平和は実現する...」という性質のものだったのです。
直接体験ということは、知識として分かることでないのは言うまでもなく、先達の言葉の受け売りからだけでは自己の本体につながることは出来ないでしょう。
そして、当然のことながら人間、一人一人機根も資質も異なるので、同じような道を辿らされる訳ではありません。
例えば、五井先生は、その霊性開発の過程で、守護の神霊から強制的に想念停止の修行をさせられ、それが非常な苦しみを伴うものだった、と言われていますが、私などは全く経験の無いことなので理解出来ないことなのです。(想念が自ずと停止させられたことはありましたが、そういう修行をさせられた覚えはありません)
誰も先生のマネなんか出来ないのです。
しかし、一人一人顔も考え方も感じ方も違うものであるけれど、本心の座という"至聖所"において一つになれる...かもしれません。そしてあなたの本心は、あなた自身が、あなたの神(それが唯一無二の神i)がご存じなのでしょう。
こういうことは、不特定多数のどこの誰だか分からない一般に向けたって伝わる訳がありません。心から心に、内なるものから内なるものに共振し、伝わるものなのです。
"今が大変な時だから、一人でも多くの人に宇宙善史の教えを拡散しなければ..."と、上からの指令らしきものに踊らされて何かを"やっちまった"ような御仁は、自分の本心が何だか分からず、共振ならず狂信して集合的思念に飲まれて、人々をそれに引き込もうとしているのです。
これが実に40年以上も五井先生の教えを信奉してきた人間が発信していることなのです。
一体何で、どっから五井先生が主眼とされた道からかくも脱線してしまうのでしょうか?
こういう世迷いごとについて、批判がましいことを言うのも迷いからであるのは私も自覚していますが、言わずにおれなくなるのですi...それは多分、この御仁のことを少なからず知っているという因縁と、やはり五井先生の本筋と同調したいという思いが強く、それが歪曲されることに黙っておれない部分があるためでしょう。
いや、しかし私などはとっくの昔に形の上では先生の道から脱線していて、ずっと"消えてゆく姿で世界平和の祈り"をしていた訳でもないので、こういうことを私が言うのは多分間違っているのでしょう。
しかし、それでも今もなお五井先生に、そのすべてではないにせよ、深く共感を持ち続けているのは事実なのです。
方便とか枝葉のこと、表層のことでなく、私の奥には変わらないものが息づいていて、知らずにそれに導かれているのを覚えずにいられません。

コメント (3)
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