人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生来の特権階級

2020-05-23 10:05:19 | 雑記
私が関西に居た、20年くらい前の頃、仕事で近鉄南大阪線の某ローカル駅に来て、時間潰しに少しうらぶれた場所にある喫茶店に入ったら驚いたのなんのi
奥の方で4、5人集まってる常連客らしい人たちが、全員で私のことを戦々恐々とした表情で睨んだのです。
まるで、私が刑事か何かで、ガサ入れか手入れをしてるような図なのでした。
"一体、あの人ら何者で、何をやっていたのだろう? 賭けマージャン? そんなの大阪の成人なら8人に一人はやってる(!?)だろうし、バレたら辞職、バレなかったらノー.プロブレムってだけのことじゃないか? 私はただ、しばしコーヒーを飲みながら好きな読書でもしたいだけなんだ..."
私に何の先入観も無かったら、この人らは"8"の字のヤバイ関係だと思ったでしょうが..."ははあ、どうやら私はブラックなエリアに足を踏み入れたらしい..."とすぐ気が付いたのでした。
その場は少し社会勉強をさせてもらっただけで、その後別にどうということはありませんでした。(ちなみにこのエリアがある、東住吉区は私が大阪市で一番好きなところですi)
私は当時、レッキとした?兵庫県の尼崎に居住していたのですが、自宅から歩いて20分くらいのJR立花駅の外れに、美味しい親子丼が食べれる喫茶店があって、よく通ってました。その味はまさしく"おふくろの味"です。母が作ってくれたやつに近いもので、コテコテの大阪風でない薄味、三つ葉の味が効いたのがたまらないのです。
マスターは多分、金持ちで趣味で店をやっているらしく、いつも客はまばらで好きな読書をするにはもってこいなのでした。
ところが...知人にその店のことを話すと、「そこはヤバイとこやんかi」と言うではありませんかi
地図で見るとどっから線引きがあるのか、よく分からないですが、確かにそのエリアを"かすめて"るらしいです。しかし、その事実を知ったからと言って、私の"おふくろの味"も、読書の醍醐味も変わりゃあしませんi
"人生二度なし"、という言葉を残した「森信三」って哲学者も晩年は、このエリアの近くに居住していました。
そう、私の人生は二度ない...私は生まれつき標準語を話す、標準であることを愛している特権階級の人間なのです。
標準であることは、自分自身を、自分の持ち前を愛すること、誰もが享受出来ることだから標準的に他ならないのです。
"私は好きなことして生きたい"、これは何人も侵すことなど許されない、私の特権なのですi
こういう特権意識は、人間を階級、宗教、職業等々、外側だけで規定しようとする、隷属意識に囚われた人間にはけっして与ることは出来ないでしょう。
彼らは自らのうちに"ヨソもの意識"、"成り上がり意識"を持っているからこの特権に与れないのです。
自分たちをOO民族、OO階級、OO教徒などに隷属させ、ムレたがるから、ある種のムラが出来る...そこから我々は彼らと違う、といった差別意識が生まれるのです。
しかし、私はそんな下等な人たちとは違うんですi(差別やん?)...違うから皆それぞれ特権に与れるのです。
そんな我々には、本来何の障壁も無いはずですよi
このことは、肺炎とか重い病にかかってみたら分かりますよi そこには金持ちも貧乏人もエリートもゲスも無いです。
自分が自分を生きることがどんなに得難いことかi
このコロナ禍で、そのことを再認識した次第です。

何てエラそうなこと言ってますが、私にも鼻持ちならない、成り上がりの血が流れているのも確かなことで、だからこそそういう演技(本当か?)も得意なのです。それは多く私の父から鼻持ちならない感情を抱いたことから来るのです。
でも、生来の特権意識に与れる血は、多く母から受け継いだものと言えるでしょう。
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大阪人は必ず読むべしi

2020-05-21 12:09:51 | 雑記
ここんとこ、ブログのアクセス数がガタ落ちしています。
一週間ぐらい前から顕著に...これ、もしかしたら大阪人の悪口を書いたりしたから、そっちの方が離れてしまったのでしょうか?
もし、そうなら、ここでちゃんと弁明しとかないと...もう、あんなんシャレに決まってるじゃないですかあ~...ネタですよ。大阪人はネタで生きているのでしょう? 私何回、"はよ、ボケ言うてi"、"つっこまんかいi"、てヤーさんみたいに脅されたことかi
それと、誤解されたら困るのですが、あれはあくまで大阪人のことを書いているのであって、関西人全般のことには触れてはいないのです。
私はマジで、神戸が大好きなんですi 毎月一度は必ず行ってました。京都だって、二月に一度くらいは...うっかり信じたらドえらいメに会うという京都弁だって、ウソでも好きですよ。
クレージーな阪神ファンだって、大体が大阪ですよ。2回ぐらい行ったけど、あんないつ暴動が起きるか分からない球場、入ってすぐ逃げ出したい気分になりましたよi...あ、あれは西宮...兵庫県だった...地元の人は、あんなとこ行きませんよねえ?
こないだ書いた野球ネタは確か、センタープール駅前でのことでした。そう阪神電車の...レース開催日はいつもの10倍くらい乗客が増えるという...あ、尼崎だった...兵庫県やんi...まあ、いいじゃないですか、尼崎なんて兵庫県人からも大阪人からも兵庫県と見なされてないし...あi
と、とにかく、信じて下さい、私がホントに、"にっくき大阪i"、と感じているのなら、あんなこと書いてませんよi 大阪人はアホみたいに単純だけど憎めないんです。あi...どうしてこういうこと書いちゃうのかなあ?...
何でか、私は大阪人を前にすると悪役になりたくなっちゃうのですi...これは私が大阪人に散々バカにされたウラミからだけじゃないのです。どうも潜在的に悪者を演じてみたいという欲求があるようなのです。(これ、私は根っからの悪人じゃないと言っているんですよi 何の説得力も無いが...)
私が大阪に来て半年くらい経った頃だったか、大阪人の間には"4"文字のタブーが存在していることが分かりました。
これは何も大阪に限ったことじゃないのですが、露骨なこういうタブーが世の中に存在していることを世間知らずな私は初めて知ったのです。それが大阪人の口から初めて知らされたことがとても印象に残ったということです。
ご存知の方もおられるでしょうが、4文字とは、4つの文字のことじゃありません。4という一文字がタブーなのです。
最初聞いた時、私はその意味が飲み込めず、てっきり、"そのエリアにはヤバイ組の事務所があるのか? 大阪の成人男性の5人に一人はヤーさんだと思っていた(これはただのシャレです)がやはりそうなのか?" と思ってしまいました。
その話をしていた人は4本指で「あそこは"これ"だから、行っちゃあかんでi」と言うので、私はその意味は、"おとしまえ"とかで、指一本無くした人のことだと思い込んだのです。
そのことを話したら腹を抱えて笑いながらその人は「あんた、学校で習わんかったんか?」と訊いてくるので「何のことかサッパリ分からん、そんなん、東京では習った記憶無いi」と答えると、彼は詳しく説明してくれたのです。
それを聞いて私は、"そんな、アホらしいことが何で現代の大都市大阪に残っているのかi "...と衝撃を受けました。
このことが私の心根にあるのか、つい大阪人の前だと、その機会があれば差別意識を掻き立てることを、言いたくなる気持ちに駆り立てるようなのです。
これを"毒を持って毒を制す"というのか、人生には適度のガス抜きも必要なのです。
物分かりの良さそうな善人がある瞬間、東京選民意識(ネイティブな東京人にゃ、こんな意識ある訳無い?)むき出しの鼻持ちならないワルに変身するスリルがたまらないi
イヤ、しかし、なんだかんだ言って、私は二重人格キャラが大好きなだけかもしれない。(多分、普段は紳士で通っている悪役レスラーや、同じく狼男やハイド氏とかのホラー映画の変身怪人の影響)
その瞬間、デタラメ大阪弁が飛び出したりするのですが、私はその中にも河内なまりとか幾つか違いがあるのですが、区別など分かりません。しまいには"そうだべ"、"そうずら"と東北弁もチャンポンになる始末...
それを聞いた大阪人も怒りを通り越して呆れてるよう...「お前、ムチャクチャやなi」
そこで待ってましたi、とばかりに私。「チャンポンでいいじゃないかi...日本て国は東京という一つの首都と、その他の地方で成り立っているんだから...」

アカンi 東京人以外のすべての読者を敵に回してしまったかも?
これでますますアクセス数が減るのは必至だろう...
きっと、それでいいんだ...元々マイナー路線で書いていたのだから、読者数30万とか今までが出来すぎだったのだ...
コロナも落ち着きそうだし、元に戻るのがいいのだろう...。
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信じようと、信じまいと...

2020-05-19 10:18:37 | スピリチュアル?
非二元論の代表的な教師ラメッシ.バルセカールは、「起こることはすべて神の意志である。行為は起こるが、個々の行為者はいない。人は自由意志をもっていない」と、今ではお馴染みになった教えで、"非二元信仰"の普及に貢献しました。
一寸揶揄するような言い方ですが、人が何をどう信じようと"自由"です。
それが神の意志だろうと、個々の意志だろうと、ただこういう言葉をぽつんと聞かされただけでしたら、信じたい人は信じるだろうし、信じない人は信じないでしょう。
要するに信仰の問題ってことにならないでしょうか?
そして、もし神の意志でか、人の意志でか犯罪に手を染めてしまったなら(誰が?)、これ又何の意志でか、然るべき裁きを受ける(ことが起こる)でしょう。
バカバカしいったらありゃしないですよi...何が本当なのか確かめる術が無ければ、信じなければならないのです。信じようとしちゃうでしょ? そんなもの、短絡的に霊界や予言や前世を信じていることと変わりません。非二元も二元もヘッタクレもなく、人の言葉を信じているだけです。
"神の意志...あなたのみ心をお示し下さい..."こういう言葉を聞き、思い浮かべただけで、私は言い知れぬ胸の高鳴りを覚えます。
神のご意志というものは分かりません。でも、信じようが信じまいが、私の思い、行いを超えた意志、ハタラキのようなものを感じるのは確かなことです。朝、目覚めたら至福感に包まれていたとか...。
こういうことを薄っぺらな信仰ごとで、片付けられてしまったら私はたまりませんi
余命幾ばくもなく、死の恐怖を抱えている人が信仰によって慰められることもあります。これは何を信じるか、というより信仰によって慰め、安心を得るということが重要なことでしょう。信仰が悪いと言っているんじゃありません。
何を、どう信じようと自由なんだから...けれど、浅い観念だけの信仰からは、あの言葉を超えた、驚くべき愛、平安、リアリティとの出会いを求めることは出来ません。それだけのことです。
"あなたのみ心をお示し下さい"、と祈ることから観念ごとから一歩踏み出せるかもしれません。まあ、こういうのも信仰なんでしょうけど...
ラメッシがただの非二元信仰を広めるためだけに、ああいう教えを説いたとは私も思っていません。
確かに私を超えた意志を実感した時、思われた私はいない、という感じを覚えるのですから...
この感じが生活に根差したら、確かに人生はもっとラクなものになるでしょう。
この感じから離れた時、どうでもいいような信仰がはびこるのでしょう...。
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迷っているのなら...

2020-05-18 12:13:03 | 求道、探究
宗教やスピと関わることにおいては、当然のことながらその目的、思惑は人それぞれでしょう。
今現在何らかの悩み、苦しみを抱えていて、その解決のためにそれらを求めるという人も多いことでしょう。
そういう人たちの中には、苦しみの問題が何とかなれば、その先の深いことなどどうでもいいと感じている人も居るのでしょう。
又中には、ただ、見えない世界や予言、超能力など超常的なことへの興味から求めている者も居ることでしょう。
他にも、ただある特定の宗教、教師のことを強く信奉していて、それ以外に眼中になく、その周辺に関することばかり熱中している人も居るかもしれません。
思惑は人それぞれですので、その各々のあり方自体に本来は正しい、間違いというのは無いです。
しかし、何人にあっても、心根にあるものは共通していると思います。
それは、"今より良くなりたい、幸福になりたい"、ということではないでしょうか?
不幸な事態が解消されれば、今より幸福になるかもしれませんが、大体別の不幸の種が舞い込んだりするのが人生の常で、そういう経験を重ねて、本当の幸福ということを求め始めるのでしょう。
そして、いずれの道においても、あなたが今やっていることは、自分で"正しいと思っている"からやっているのでしょう?
そうやって、幸福になったか、不幸になったかは結果なのです。
もし、あなたが今やっていることで、どうも心に滞るもの、引っかかるものが感じたり、迷いを感じたら、間違った道を歩いているのかもしれません。
そこは正直に自分の本心に聞いてみたらいいでしょう。しかし、雑音も又多いでしょうけど...世の中の声、損得勘定、そして一番のガンは、本心からでない、自分の生き方の正しさ、正当性といったものではないでしょうか?
自分が正しいと思っていることでなく、心の奥から具体的に愛、平安、幸福なことが感じられるかどうか...これが実に大きいことなのです。

これは言うまでもないことで、今更という感じですが、私はここで、精神的な道については当初から、"意識を神的なものに向ける"だの、訳の分からんこと言いながら、神とつながること、本心を開くことが幸福につながるようなことを書いているのです。
私は他に対して批判的なことを書いたりもするのですが、それはあくまでもこうした見地から、例えば前記したような超常的なことなどに囚われたり、外なる教えや教師に依存するようなあり方は、本心とつながることとはズレているので、"それ、間違ってますよi"、と言ったりしちゃうのです。
そして、得てして、こういう道にありがちなこととして、一つの見解に固執し、絶対視することから、不調和という、不快、不幸な事態にも招きかねないので、つい口を鋏みたくなってしまうのです。
そうでない限り、人それぞれの生き方に対し悪し様に言う必要はホントは無いのでしょう。
皆迷いの世界で、良かれと思って生きているのでしょうから...
そう言いたくなる私も迷いは感じています。そうしてる時、幸福には感じられないのですから...

迷っているのなら...そう感じていたらいい...そのすぐそこに迷いのない世界が感じられる...
迷っていないフリをしていても、感じられない...




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ただひとつの祈り

2020-05-17 09:50:46 | 祈りと瞑想
精神的な道では祈りのやり方、祈り言葉というものは数知れずあります。
しかし、これを言い表すに一寸、矛盾が出てくるし、字句通り受け取ってしまっても困るのですが、私は祈りというのはただ一つしかないと思っています。
それが本当に神仏への帰依、一体化を目指すものだとしたら...
どういうものかと言うと..."み心のままになさしめたまえ"、という響きを持った祈りのことです。
神道的には"かんながらたまちはへませ"であり、イスラーム的には"インシャラー"、ということですね。
ごく単純に"アーメン"でも、"南無..."でもいいでしょう。
要するにそういう決まった形、言葉が有ろうと、無かろうと、そのような心魂に導かれ、発せられるもののことを言っているのです。
こういうものが蔑ろにされた時、ともすると主我的な自分が、自分が"思っている神"に、願いを叶えてくれるように使役するという、本末転倒した事態になり勝ちになるでしょう。
神は人の思いを超えている..."み心のままに"、ということは自分の思いを開いて、そのものにゆだねる、ということなのです。
神を信じている人は沢山居れど、本当に信じるということは、こういうことではないでしょうか?
自分の心、思いというものを神のみ心にスリ変えている人間が何と多いことでしょうi
そして、"私はこの神を、この教えを信じている"、と自分の思念だけで頑なにそれを強めて、狂信、盲信してしまうことなど、全く意識の方向性が違うことで、彼らには"全託の道"など決して開かれないのです。そんな気などこれっぽちも無いのだから...
神の現存を求める、神のみ心にゆだねる...その気の無いものには、そもそもこういった話など無駄なことですi
イヤ、そうは言っても...その気というものは、表層の思いでは分からずとも自ずと出てくるものでもあります。
"み心のままに..."にと祈っていれば...

私には、人がそう伝えている、"OOの祈り"といったものは何一つ身につかなかったのです。
"お前はただ、み心のままに、かんながらたまちはへませ、と祈っていたらいいんだi"
こういう促しをいつ受けたのか、定かではありません。本格的に精神的な道を探求し始めた、昭和53年頃だったのは確かでしょう。
しかし、この言葉にならない響き...もうただごとでないことが始まらずにおれない、という予感はずっとしていたのです。
そして、いつの間にか、惹かれてやまない、というものが芽生え、気が付いたら、ただの観念信仰から一歩踏み出してしまっていたのでした...。

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