私が関西に居た、20年くらい前の頃、仕事で近鉄南大阪線の某ローカル駅に来て、時間潰しに少しうらぶれた場所にある喫茶店に入ったら驚いたのなんのi
奥の方で4、5人集まってる常連客らしい人たちが、全員で私のことを戦々恐々とした表情で睨んだのです。
まるで、私が刑事か何かで、ガサ入れか手入れをしてるような図なのでした。
"一体、あの人ら何者で、何をやっていたのだろう? 賭けマージャン? そんなの大阪の成人なら8人に一人はやってる(!?)だろうし、バレたら辞職、バレなかったらノー.プロブレムってだけのことじゃないか? 私はただ、しばしコーヒーを飲みながら好きな読書でもしたいだけなんだ..."
私に何の先入観も無かったら、この人らは"8"の字のヤバイ関係だと思ったでしょうが..."ははあ、どうやら私はブラックなエリアに足を踏み入れたらしい..."とすぐ気が付いたのでした。
その場は少し社会勉強をさせてもらっただけで、その後別にどうということはありませんでした。(ちなみにこのエリアがある、東住吉区は私が大阪市で一番好きなところですi)
私は当時、レッキとした?兵庫県の尼崎に居住していたのですが、自宅から歩いて20分くらいのJR立花駅の外れに、美味しい親子丼が食べれる喫茶店があって、よく通ってました。その味はまさしく"おふくろの味"です。母が作ってくれたやつに近いもので、コテコテの大阪風でない薄味、三つ葉の味が効いたのがたまらないのです。
マスターは多分、金持ちで趣味で店をやっているらしく、いつも客はまばらで好きな読書をするにはもってこいなのでした。
ところが...知人にその店のことを話すと、「そこはヤバイとこやんかi」と言うではありませんかi
地図で見るとどっから線引きがあるのか、よく分からないですが、確かにそのエリアを"かすめて"るらしいです。しかし、その事実を知ったからと言って、私の"おふくろの味"も、読書の醍醐味も変わりゃあしませんi
"人生二度なし"、という言葉を残した「森信三」って哲学者も晩年は、このエリアの近くに居住していました。
そう、私の人生は二度ない...私は生まれつき標準語を話す、標準であることを愛している特権階級の人間なのです。
標準であることは、自分自身を、自分の持ち前を愛すること、誰もが享受出来ることだから標準的に他ならないのです。
"私は好きなことして生きたい"、これは何人も侵すことなど許されない、私の特権なのですi
こういう特権意識は、人間を階級、宗教、職業等々、外側だけで規定しようとする、隷属意識に囚われた人間にはけっして与ることは出来ないでしょう。
彼らは自らのうちに"ヨソもの意識"、"成り上がり意識"を持っているからこの特権に与れないのです。
自分たちをOO民族、OO階級、OO教徒などに隷属させ、ムレたがるから、ある種のムラが出来る...そこから我々は彼らと違う、といった差別意識が生まれるのです。
しかし、私はそんな下等な人たちとは違うんですi(差別やん?)...違うから皆それぞれ特権に与れるのです。
そんな我々には、本来何の障壁も無いはずですよi
このことは、肺炎とか重い病にかかってみたら分かりますよi そこには金持ちも貧乏人もエリートもゲスも無いです。
自分が自分を生きることがどんなに得難いことかi
このコロナ禍で、そのことを再認識した次第です。
何てエラそうなこと言ってますが、私にも鼻持ちならない、成り上がりの血が流れているのも確かなことで、だからこそそういう演技(本当か?)も得意なのです。それは多く私の父から鼻持ちならない感情を抱いたことから来るのです。
でも、生来の特権意識に与れる血は、多く母から受け継いだものと言えるでしょう。
奥の方で4、5人集まってる常連客らしい人たちが、全員で私のことを戦々恐々とした表情で睨んだのです。
まるで、私が刑事か何かで、ガサ入れか手入れをしてるような図なのでした。
"一体、あの人ら何者で、何をやっていたのだろう? 賭けマージャン? そんなの大阪の成人なら8人に一人はやってる(!?)だろうし、バレたら辞職、バレなかったらノー.プロブレムってだけのことじゃないか? 私はただ、しばしコーヒーを飲みながら好きな読書でもしたいだけなんだ..."
私に何の先入観も無かったら、この人らは"8"の字のヤバイ関係だと思ったでしょうが..."ははあ、どうやら私はブラックなエリアに足を踏み入れたらしい..."とすぐ気が付いたのでした。
その場は少し社会勉強をさせてもらっただけで、その後別にどうということはありませんでした。(ちなみにこのエリアがある、東住吉区は私が大阪市で一番好きなところですi)
私は当時、レッキとした?兵庫県の尼崎に居住していたのですが、自宅から歩いて20分くらいのJR立花駅の外れに、美味しい親子丼が食べれる喫茶店があって、よく通ってました。その味はまさしく"おふくろの味"です。母が作ってくれたやつに近いもので、コテコテの大阪風でない薄味、三つ葉の味が効いたのがたまらないのです。
マスターは多分、金持ちで趣味で店をやっているらしく、いつも客はまばらで好きな読書をするにはもってこいなのでした。
ところが...知人にその店のことを話すと、「そこはヤバイとこやんかi」と言うではありませんかi
地図で見るとどっから線引きがあるのか、よく分からないですが、確かにそのエリアを"かすめて"るらしいです。しかし、その事実を知ったからと言って、私の"おふくろの味"も、読書の醍醐味も変わりゃあしませんi
"人生二度なし"、という言葉を残した「森信三」って哲学者も晩年は、このエリアの近くに居住していました。
そう、私の人生は二度ない...私は生まれつき標準語を話す、標準であることを愛している特権階級の人間なのです。
標準であることは、自分自身を、自分の持ち前を愛すること、誰もが享受出来ることだから標準的に他ならないのです。
"私は好きなことして生きたい"、これは何人も侵すことなど許されない、私の特権なのですi
こういう特権意識は、人間を階級、宗教、職業等々、外側だけで規定しようとする、隷属意識に囚われた人間にはけっして与ることは出来ないでしょう。
彼らは自らのうちに"ヨソもの意識"、"成り上がり意識"を持っているからこの特権に与れないのです。
自分たちをOO民族、OO階級、OO教徒などに隷属させ、ムレたがるから、ある種のムラが出来る...そこから我々は彼らと違う、といった差別意識が生まれるのです。
しかし、私はそんな下等な人たちとは違うんですi(差別やん?)...違うから皆それぞれ特権に与れるのです。
そんな我々には、本来何の障壁も無いはずですよi
このことは、肺炎とか重い病にかかってみたら分かりますよi そこには金持ちも貧乏人もエリートもゲスも無いです。
自分が自分を生きることがどんなに得難いことかi
このコロナ禍で、そのことを再認識した次第です。
何てエラそうなこと言ってますが、私にも鼻持ちならない、成り上がりの血が流れているのも確かなことで、だからこそそういう演技(本当か?)も得意なのです。それは多く私の父から鼻持ちならない感情を抱いたことから来るのです。
でも、生来の特権意識に与れる血は、多く母から受け継いだものと言えるでしょう。