人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

根本的な祈り

2020-07-20 12:29:52 | 祈りと瞑想
"ワクワクすることを選択したら幸せになれる..."
って、フレーズ今でも親しまれてるのかしら?
これは30数年前、私も一時期ハマったことがある、「バシャール」なる宇宙存在?がかかる、所謂"チャネリング"を通じてスピ界隈に広まったものです。
これについて、"そんなん、ちっとも効き目なんか無いi"という不評も多いようなのですが、これにはある重要なことが見落とされているとは思いませんか?
それは、"ワクワクしている状態"がどういうものか、ってことが分かっていないのです。
これは、何かをしないと幸せになれない、幸せとはそれをもたらすものを得ることでそうなる、といった見た目の幸福に囚われていたら絶対に分からないことでしょう。
ホントにワクワクしていたら、もう幸せは叶えられているではないか? 幸せに感じてなくて、何でそうなれるの? 極めて当たり前、自然なことではありませんか?
このことは、神仏への帰依、祈願、祈りといったことにも言えます。
本当に神に祈る、思いを向けるというのはどういうことなのか?
色々な神が居るのでしょうが、ここでは各々にとっての思いを超えた見えない存在?、最愛の御方といったもののことです。最愛の存在は思いを超えているものでしょ?
そして思いを向け、届き、つながる...見えないものとの交わり...これが本当の信仰、"神交"というものでしょう。
それで、幸せにならない、幸せでない訳が無いのですi
"幸せになりますように"と、祈りごとをする必要もありません。とにかく意識が神的なものに向かうだけ...
一生懸命神に祈ってもちっとも願いは叶わなかった、というその一生懸命さは、主我的な思い、念に絡められているのです。
自分の命の大本なのに、自分の欲求を満たすダシに使われているのです。
祈ることが願望成就だけために使われているのは、加持祈祷みたいなものと混同しているためでしょう。
昔我が国では権力者が坊主に、雨乞いや戦勝祈願をさせ、叶えられなかったら坊主は厳罰に処されたらしいです。実に末法の世そのもののようです。
宗教ほど本末転倒の様相を映し出すものはないようで、この根本的な祈りは、ずっと見失われていたのです。
その末法のような時勢、法然や親鸞らによって僅かに"本願念仏"ということで、説いていたのですが、どのくらい伝わっているのでしょうか?
"こんなに祈っているのに、人生ちっとも良くならないじゃないか、世界が平和にならないじゃないか"、って、自分自身が本当に平和、平安であることがどういうものか分からないのに、実にズレた話じゃありませんか?
これはじっつに主我的な思いの沙汰ではありません。
といって極めて主体的、実存的なことです。
根本的な幸福は、他の誰でもない、あなた自身に開かれるものだから...
だから、"こうすれば、こう祈れば幸福になれる"、とか人が言っている神じゃなく、あなたの神に思いを向け、ゆだね、つながらなければならないのです。
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ラブソングのことじゃないi

2020-07-19 08:57:59 | 詩的文章
僕は長いこと君のことが分からなかった
君の愛がどんなに深いものだったのか
それなのに、それなのに...
僕は君を踏みにじり続けてきた
変わりゆく世の流れに任せて
僕の心は移ろい、さ迷っていた
でも、君の愛はずっと変わらなかった
しかし、気がついた時には...
もう、君はいない...
どうか、許しておくれi
もう、忘れたりしないよi
君は僕のすべてi
君なしには生きられないんだi
ありきたりのラブソングのことなんかじゃないよi
ホントだよi
ああ、失ってみて初めて分かった
この切なさ、この愛しさ、この有難さ
もはや、どうしようもないi
そうさ、どうしようもなく惹き付けられてしまうんだi
この気持ち分かるかい?
尽きることなく、あふれでてくるんだi
そうかi
これは決して失うものじゃなかったんだi
どこにも移ろったりもしない
どこに行っても君の愛がある
近すぎて見えなかったんだ...
愛は見えないものだったのか...
初めて君のことが分かった気がする



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私のすべての宗教

2020-07-18 10:35:09 | 宗教
40年前くらい昔のある宗教書を読み返してたら、"今までOO教団の教えを熱心に信じ、行じてきたが、OO先生を知ってから、この教えに勝るものはないと確信し、これからはOO先生の教え一筋で行きたい云々..."、という文章に接したのですが、正直隔世の感を強く持たざるを得ませんでした。
あの頃は宗教というものはそういうものなんだ、と当たり前のように思っていたものでしたが...本当にそう思って生きていたのかなあ、その頃は大分私の頭の中には、モヤモヤと霧が立ち込めていたのかなあ、と感じてしまったのでした。
当時の私自身の宗教的な道に対する取り組み方というのは、無上の教えというのが沢山あって、そのどれか一つということが決めかねてて、"それじゃダメなんでは?"、という思いがある一方、そうなってることを自然に任せていて、そのうちドーン、と強烈な一撃に出くわすこともあるだろう..."なんて感じてたりして、まあ、そういう迷いも持ちつつ、ずっと後者の流れで来ていたと思います。
私はこれが"唯一の教えであるi"、という決めつけを持たなかったのです。それは、"決めつけてはいけない、自分の思いで固めてはならない"という内なる声のようなものの導きも微妙に感じていたからです。
宗教というのは、ある特定の教師の教えを信じ、従い守ってゆくことなんでしょうか?
そうすることで一体我々は何処に導かれるというのでしょうか?
神仏との一体化?、安心立命?...ある宗教と関わっていつまで経っても、神、安心というものが感じられないとしたら?
そこは素直に自分自身に徹底的に問うてみるべきでしょう。教団の取り巻きが何を言って幻惑してきても...
精神的な道と関わる初期の段階では、その教えに対し心情に訴えるものを感じて、信奉するようになるのが普通なのでしょうが、それはあくまでも観念、意思想念の働きに留まるものであり、永続性を持つものではありません。思念は絶えず揺れ動き、表れては消えてゆくものだから...
頭の中だけで、その実限界ある永遠性や絶対性などに囚われると、狂信者、パラノイアのようになってしまうのがオチです。
もし、意思想念の世界で、熱心にある宗教を信じていて、別の教えに接することで、心情とか観念でない、根本的というか、存在レベルといっていいのか、とにかく理屈でなしに全人格が揺すぶられるような、そう、神的な愛のようなものを経験したらどうなるでしょうか?
全人格的というのは、観念も身体も微細体も何もかもの文字通り、私のすべての生に関わるものです。
その二つの道のどっちを選ぶか、何て分かりきったことでしょうi ...選択の余地などありませんi
仮り(借り)物では決して満たされない、あなたの魂はすべて知っているのですi
あなたがごく自然に赴かされることは、観念的な決めつけとは全く別の次元のことなのです。
そしてこの全人格性というものは、実は特定の宗教、教えに限定されるものでないということが、自ずと知られるでしょう。
私の直接的な生が、そのような相対的な諸々の教えなどに規定されてしまう訳が無いのですi
観方を変えれば、この直接的な生に導くものこそが本物の宗教であり、教師なのでしょう。
たとえそれらが本物でも、信者や弟子がまっすぐ導かれるとは限りませんが...

私は、特定の宗教、教えを持たず、何ともイイカゲン、テキトーな求道生活をしていたものでしたが、仄かに身に覚えていた、愛に満たされるような感覚を忘れていなかったのです。
私の前には多くの異なった神が、教えがあったように見えましたが、そのいずれにも還元出来ない、すべてで一つのものに知らずに、一筋に導かれてきたように感じています。
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根本的幸福状態

2020-07-16 11:49:12 | 覚醒
悟りとか覚醒という言葉は漠然としていて、その観方、感じ方というのはマチマチなのです。
この他一瞥とかワンネス体験というのもあり、それらが同じものとして語られたりもしますが、近年では一瞥とか覚醒というのは、中途の段階であり、より進んだ段階が悟りである、という観方が増えてきたようです。
しかし、それらのことは全く日常の意識状態、思いを超えたものであり、こういう解釈はあたかも自分の意志で、修行に則ってその段階を進められるかのようなイメージを与えてしまうようです。
言うまでもなく、自分の意志で悟る、目覚めることはおろか、自分の思考を止めることすら出来ないのです。
又、こうしたものに段階、レベルといった基準を持ち込むこと自体が、"自分が"という意識の表れを感じないでもありません。
そして又、悟りの最終段階、最終解脱というものが、自我意識というものが完全に無くなって、幸福感というものすら感じなくなってしまうとしたら、そもそも"段々高度になってゆく"、というような基準を持ち込む意味も無くなってしまうのではないでしょうか?
死んだらどうなるか分かりませんが、我々は"目の黒いうち"のことを考え、感じていればいいのではないでしょうか?
生きている人間は、誰でも幸福になることを望んでいるのでしょう? 悟りや覚醒もそのことと結びついているのも分かりきった話なのです。
まだ邦訳が無いようですが、多くの覚醒(悟り)経験者の報告を基に研究している、「ジェフリー.マーティン」という米国の心理学者は、「人間が一番幸福な状態とは、最終段階の一歩手前の段階ではないだろうか?」と述べていますが、それは、彼が"根本的幸福状態"(Fundamental.Well-being)と呼ぶ意識がずっと継続している段階なのだそうです。実は彼は段階という言い方は避けて、"location"(これは一つの在り方、又は置かれた場所というような意味でしょうか?)という言い方をしていて、前記したようなことを含ませているようなのです。
この状態こそ、ラマナ.マハルシなどが言っていた、表層的な境遇如何に関わらず、何かを得たり、失うことに左右されるような幸福でない、本来的な幸福に他なりません。本来的というのは、それが人間の本来の在り方ということでもあります。
ということは、そういう境地を目指して到達されるようなものではない、ということです。
本来なるものから切り離されて、"自分が"何かに到達しようとすることで、その自分は完全消滅してしまうのでしょうか?
それが幸福なことなのか、どうかは分かりません。
人間は本来、その在り方も生きること自体も、"与えられてある"ものであり、その源、大本と共にあることが根本的"location"というものなのでしょう。
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最終解脱?

2020-07-14 10:42:53 | 覚醒
誰でもそうなのかもしれませんが、私は小学一年以前の記憶が曖昧なのです。二年以降だと鮮明に甦ってくることがあるのですが、どうもこの時期は微睡みの中に居たようで...。
そして、家族が証言していたことによると、時折目が虚ろになり、家の中をウロウロしていた、と。..どうも私はチョイチョイ夢遊病にかかっていたようなのです。
それ以外にもどうも、しばしば無意識状態に陥っていたらしい...微睡みに居た感じがするのは、遠い過去のことだっただけでなく、多分このことが要因になっていたのでしょう。
ずっと後年になって、就寝に入る直前とか、瞑想中、あるいはこのブログを書いている最中に、そうですね..."私は居ない"、"ただ起こることが起きているだけ"、とノンデュリアリティなどでよく言われる何かの境地(?)になったことがあります。
そしてそんな時ふと、その私の消されていた記憶のことが、それと重なり仄かに甦ってきたりするのです。
私はしばしば日常感覚を失った状態の中でさ迷っていたのかi...
直ちにこの状態と、非二元的なそれと比べることは出来ないでしょうが、確かにそこには境界という感覚は薄れ、分離感というものは感じられません。
しかし、そこにはその境地で感じられるという、愛とか安らぎといったものも無いのです。だってそう感じられる私は居ないのでしょう? ...勿論苦しみもありませんけど...楽しいですか? あ、そういうことも無いんだったi
これは"愛、平安、リアリティにある"、という状態とは違うi...一口に言えば神的な現臨にある、という感じでは無いのです。
ある人たちによれば、その自己が喪失した状態を"最終解脱"と言うらしいです。
これは如何にも瞑想など修行に常に勤しんでいる人たちらしい言い回しと言えるでしょう。
そうでなければ、この解脱とか悟りというものについて深い理解も持たず、漠然と思い描いているだけの人間の、最終的段階に達するという、その飛び付きたくなるようなワードでエゴ.マインドを擽られているだけのものでしょう。
彼らはそのエゴも、何かの境地に達する自分も無くなる、ということすら分かっていないようです。(この現実を突き付けられたら多分、真っ先にどっかへ逃げて"居なくなる"だろう...)
私などまだ人生の幕が開いたか、開かないうちに、最終解脱を迎えちゃってたとしたら...そんなバカなこたあないi
精神科医ならおそらく何かの意識障害と見なすような、こういう境地というものを望み、目指そうとする人って居るのでしょうか?...居るかもしれません。私には理解出来ませんが...
私にはこの"最終..."という響きからは、この世の生の最終である、"死の段階"というものが過ってならないのです。
何故、予期せずにそんなことが起こるのか分かりませんが、私は一度として、こういう境地というものを望んだことはありません。
神的なものの現臨は、これと隣り合わせのものに違いないですが、私の深い部分で望んでいたことであるのは言うまでもありません。
あの微睡みの中で、それが何かを知らずに叫び続けていたのですから...。
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