人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

スブドの天国と地獄

2020-11-22 04:58:18 | 秘教、その他団体
"スブドでは愛と調和に満ちた同胞意識に与ることが出来る..."(なんつったって、"スブド同胞会"なのである!)
私は幻想に惑われて、道を間違えたのでしょうか?
何が悲しくて、フツーの人間社会でもあまり見られないような、エゴむき出しの人間関係に付き合わさなければならなかったのか? そして、"そういうものは私にゃ身に覚えありません"、では済まないようなことにも...
考えたら分かるように、こういうことはすべて人間関係に起因していることなのです。"こんな呪わしいものなら、人間関係など無けりゃいいんだi...ああ、無人島へ行きたい..."(というようなことは、自由の身?になったからこそ書けるんですけどね...)

私に時折何かと突っかかってくるTさんのことですが、いつも高飛車で、上から目線、強気の口調で話しかけてくるのです。
ところが、そんな彼から二人きりの時、スブド、ラティハンに関することで相談を持ちかけられたことがあります。ということは、案外私を嫌っているばかりでなく、信頼を寄せていたということになるでしょうか?
この時の彼の態度はいつもとは別人のようで、低姿勢、そして初めて私に弱味を見せるようなことを言ったのです。いいや、この言い方は適切じゃなく、多分本心を吐露したのでしょう。
そして本心、ありのままの自分のことを表明することは、全く自分の弱さを表すことじゃありません。
むしろ、人に挑発的な言動をしたり、自分の強さを誇示したりすることが弱点をさらけ出していると言えるのです。
その話というのは、大体「僕は、ラティハンというものが分からない、どうしたらいいか分からないんだi」というものでしたが、そこには彼がその修練ばかりじゃなく、他の会員間の人間関係に関することでも、混乱している様子が伺われました。
私は確か「あなたは何でも頭で理解しようとし過ぎるみたいだ、ラティハンは考えたって分からない、考えようとすると混乱するから、そういうのは任すしかない...」というようなことを言ったと思います。
この時の空気は、あの"ぎすぎす"とした、通気性の悪いものでなく、涼風が吹き込んでくるような心地よいものだったのは言うまでもありません。
とにかく、その時彼が自分の心を開いてくれたお陰で、私も心を開くことが出来たのですi...自他を超えた調和に導かれた人間関係...それは無人島では決して実現出来ない...これこそが私がスブドに望んでいたことに他ならなかったのですi
しかし...その天国のような気分からその数日後、再び地獄に戻らされるハメになりましたi
彼は私との信頼関係を平気でブチ壊す人間だったi...一口に言えば節操が無いi 私とのやり取りを支部ヘルパーに何やら吹き込んでいたのですi
"信頼出来ないのなら、最初から訊くなよi"、と怒髪天をついて、怒鳴りたくなりました。
(分かっている...皆混乱してる中で色々やらされているのだi...分かっているんだけど、どうにもならないこともある...)
私は人から苦渋をなめさせられたことは忘れません。
しかし、それ以上に互いに心を開き合う、打ち解けた人間関係を持てたことも忘れません。
同じ人間から両方味あわされたのは、長い人生でTさんしか居なかったかもしれません。
そう、スブドでは苦しいことばかりでは無かった...一時忌まわしい思い出ばかりで、霞んでしまっていたけれど、今では時折垣間見得た一時の方が鮮明に残っているのです。
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体験すりゃいいってもんじゃないi

2020-11-21 03:22:16 | 秘教、その他団体
スブドでは、"ラティハンによって神の力との接触を受け、神に至る道が開かれる"、と言います。
私は初め、この文言に接して、直ちに神の恩寵の光を受け、霊的な目覚めに与れるものだと思い込んだのです。
否応なしに、何かキリスト教で言う"聖霊のバプテスマ"(一様には語れないものでしょうが、これはある種の覚醒体験と思われます)のようなものが連想されたのです。
"数年前の、あの至福の体験が再びよみがえるのだi"、と期待に胸を膨らませたものの...どうも判断を間違えたと言わざるを得ません。
というのも、ラティハン実修者から"私は光明を得た、目覚めたのですi、人生、生まれ変わりましたi"、という話はあまり聞いたことが無いのです。
結果的に、私自身はスブドに居た間、そういうものに与ることは無かったのです。ただ、あのバイブレーションみたいな感覚はよみがえりましたが...
一寸整理すると、どちらも思いを超えた消息を伝えるものだけれど、これは、表れ、感じ方としては違うことを言っているのです。
恒常的に感じるものか、突出的に感じるものか、もっと具体的に言えば、その突出的な状態にある時、全く自分の思考、意志想念を働かすことが不可能になる、自分の意志でそれを止められない、ということです。
大概の実修者においては、フツーでは考えられないような、いわゆる自動運動というか、身体的な動きが"目覚め"て、それが徐々に全体に広がってゆくというのがフツーで、それからあの爆発的な意識の変容に与ったという話はあまり聞かないという訳です。私が知らないだけなのかもしれませんが...
しかしながら、これと違うケースも稀にあるようなのです。
例えば、私が所属していた支部のヘルパー(スブドでラティハンを伝授する職能を持った人)だった、R人さんなど...
この人が、ある時、自分が最初にラティハンを受けた(これを"オープン"と言う)時のことを話してくれて、"それは大爆発だったi"、とか"この世のこととかとはまるっきり違うi"、"自分の意志で抵抗することが出来ないi"とか述べられ、これは当人にしか分からないのは言うまでもないことながら、私にはそれがある種の覚醒体験だったと思えるのでした。
しかし、朧気な記憶では、あまりその話から愛、平安といったものは伝わって来なかったと思いました。感じ方は人それぞれなのは当然なのですが...
このR人さん。アントニオ猪木を崇拝してて、"力の強いものこそ善だi"みたいな、パワー至上主義者のようであり、又体験至上主義者のようでもありました。"体験の無いヤツはダメだi"みたいな...
そして、前記したことと関連して、"本当のオープン、ラティハンとは、フツーとは違うものなのだi"と力説していたのです。
これに私は同調する部分はありつつも、多くは反感を抱いたのです。
この時はあまり意識的じゃなかったものの、"体験すりゃいいってもんじゃないi"という感慨は、この頃芽生えたのは確かなことでした。
もし、そこに愛、平安が感じられないのなら、ぶっ飛んだ体験があろうと何になるだろうか?
ここで私は返す言葉で、"愛、平安に与る体験が無ければダメだi"、みたいなことを言っているのかもしれません。
そりゃ、無いよりか有った方がいいでしょう...だけど私は、あの体験に与る前から、あれほどリアルなものでないにせよ、この消息は知らされていましたよi
実は...この話の本当の裏側は、私自身がその体験というものに囚われていて(だからスブドの門を叩いたのでした)、そのくびきから中々解放されなくて、今もなおそれを引きずっているかもしれない、というようなことを物語っており、その囚われに気付いた端緒のことに触れているのです。
ラティハンにおける、その体験自体、自我を超えたものからもたらされるにもかかわらず、それに囚われることは、得てして自我意識を助長させてしまうことにつながると思われます。
これは私の思い過ごしかもしれませんが、R人さんは、このことで深い葛藤を抱えていたようにも見受けられました。そして何せよ、囚われることは苦しいことなのです。
そこから解放されるには、愛、平安の恩寵の光によるしか無いでしょう。
そして私とR人さんには、あまり表には現れない"暗闘"があったのも事実です。
あの外見はいかにも面の皮が厚そうだけど、"君は時々、ドキッとすることを言うなあi"、と言って、本当にその巨体を揺らしたり、反面、すごーくビビリみたいなところがあったR人さんi
私は、"いつかギャフンと言わしたろう"、と思っていて、その都度パワーに押し負けて果たせませんでした。
"スブドには随分と自分自身を写し出す鏡みたいな人間が居たなあ"、と改めて懐かしさと共に思わされております。
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踏み止めるもの

2020-11-18 11:59:02 | 秘教、その他団体
何度か書いているように、私は昭和58年夏、精神的な目覚めを通して、今生では与れないような愛、平安を実感することが出来たのです。
ところがそれは、あのじんじんとした感覚が自然消滅し、まだそれを回復すべく、スブドの門を叩く以前のことだったのです。
どうして、そんな"冬眠中"にそんなことが起きたのかは未だに分かりません。その眩いばかりの体験もすぐ元の木阿弥になってしまったのも自然の流れだったのかもしれません。
それも私の奥の方の意志でか、見えざる導師の意志でか、いつしか封印され、意識の傍らに追いやられて行ったのでした。
これは私がスブドに関わっていた間、特にそういう状態になっていたのです。
そうして、この秘教団体?に加わって約半年後だったか、突如私はその人間関係でのある摩擦を経験しました。
同じ支部のTという人がいきなり私に噛みついてきたのです。
何かのミーティングの席のことだったのですが、私には全く彼がそんな態度に出るという心当たりが無いので、ホントにびっくりしました。
「俺は何か気に障ることを言ったか?」と隣の友人のMさんに訊いたら「彼は明らかにあなたに悪意を抱いて口撃しているんですよi」との感想を漏らしていました。
これで私の中に"彼は要注意人物i"という黄色信号が点灯されることになりました。
この後彼とはギクシャクとした人間関係を送らざるを得ないハメとなり、同様のことが何度か繰り返されたのです。もっともこれはあくまで私の言い分であり、彼にしてみれば、私の方が危険人物(多分、そうでしょう。何が危険なのかはともかく)に映っていたかも分からないのです。
ある時、彼が大概の理性をもった大人なら言うのをはばかるような、露骨なネガティブな言葉を発してきたことがありました。
私は、ハラワタが煮えくりかえる思いが込み上げて来て、「おい、何してんだ、お前も言い返さないか、倍返ししたれ、それとも溜め込んだ感情を一気に爆発させて、取って置きのヤツをお見舞いしてやるかi」というような感情の声のそそのかしも聞こえてきました。
しかし、その時それを踏み止ませるもう一つの声があったのです。
「お前は知っているはずだ、心の底に刻まれているものを...それを知らないということがどんなに苦しいものか、彼はその苦しみの中でもがいている...お前も苦しみ、もがいている、だがお前は知っているだろう、踏み止めるものがあることを...」
この時の私は、理性的な自制心や、倫理的なことに結び付いた感情が、それを踏み止めているくらいにしか感じていませんでした。
ラティハンの修練においては、理性のブレーキが外される...ここで書いていることは、時にそれが修練を飛び越えて日常生活に影響を及ぼす、という危険性があるという一例を取り上げているのです。
そこには何か重大なことが欠落していると見るべきで、それが私がやめた大きな理由の一つでもありますが、ここでは詳しく触れません。
タガが外れた世界では、怒濤のように押し寄せて来る感情の前には、そういうごリッパな道徳感情なんか、つっかえ棒にもなりません。
しかし、その時内側で私を引き止めていたものは、そういう感情で説明出来るものでは無かったのです。
といって、それが何であるのかはよく分からないですが、具体的に、根本的に心身にハタラキかける、ある道徳ならぬ"律"的なもののことです。"原律"とでも言いましょうか?
そこには愛と平安が刻印されているのです。
私はそこで吹き出して来る悪感情に任せて泥試合に応じることも出来たでしょう。
しかし...もし、それであの至福の世界を閉ざすようなことになったなら..."魂の修練だかのヘチマも無いi"...生きる意味そのものを失うことになっていたでしょう。
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霊的修練と人生の修練

2020-11-17 12:22:13 | 秘教、その他団体
昭和54年の春頃、突如ある思いを超えた感覚が私に芽生えたのですが、約一年半程して自然消滅してしまったのでした。
これは日常生活でどういう風に受け取られるのか、分かりやすく言うと、何か背後からアシスト、ガイドしてくれるようなもの、前方で指標となってくれるようなものを感じなくなることです。
もっと具体的に、身体的に感じられることは、じんじんとしたある種のバイブレーションみたいなものが感じられなくなるということです。
この感覚は、前にも書きましたが、それから約6年半後、「ラティハン」という霊的修練を伝える「スブド」なる団体と関わることで復活したのでした。
私が初めて兵庫県伊丹市にあった、到底何かの秘教的な教えを伝授しているようには思えない、そのみすぼらしい関西の支部の会場を訪れたのは昭和61年の11月のことでしたが、行ったら即その秘儀伝授に与れる訳でなく、三ヶ月間は見習いに甘んじなければならなかったのです。
この辺りは面白いことに、それ以前の「道院紅卍字会」と全く同じパターンを踏まされていたのです。(あっちでは既にその秘儀「先天の坐」は実修を許されていましたが)
道院とスブドというのは、それぞれ道教と回教と、その母体となった宗教こそ違えど、世界宗教は大本では一つであるという趣旨を掲げている点は共通しているのですが、初めて接した印象は、あっちの秘密結社ぽい雰囲気とは大違いなのでした。
翌年、2月正式に会員となり、ラティハンの実修に勤しむことになり、あのバイブレーションを取り戻すことが出来たのですが、根底的なところは同じ感じなのですが、あの坐法でか、自己流の祈りでかにより芽生えた感覚とは、微妙に違うように感じられました。
端的に言えば、ラティハンから来る感覚の方が強力なのです。もう、自意識ごともってかれそうになるくらいです。
それだけ、思考マインドから切り離されて、純粋意識の次元が開かれ易くなると言えるでしょう。
私はそこでいわゆる"スペース状態"というか、意識が拡大する感じを初めて体感しました。
ただ、それは中心に収斂されてゆく感じを失いそうになる面もあり、関連してこのことは、理性の抑制が効かなくなり、よりいっそう精神のバランスが乱れるという危険にさらされる、ということでもあるのです。
私は、"大生命力"の前には、人間理性など暴風雨に百均のビニール傘を差すくらい、無力なものであることを理解しました。
そして、スブドのアチコチで、フツーの大人だったら、理性的に対応出来るような人間関係のやり取りが、"子供のケンカ"レベルで行われているのを何度も見ました。いいや...
私自身もその渦に巻き込まれたことも何度もあります。
私自身は、その修練により(自覚されている限りですが)、多少ハイになったくらいで、日常生活の上で危険な目(クライシス?!)に会ったことは一度もありません(これは言い換えれば、さして大きな体験など無かった、ということでもあるでしょう)。
本当にアブナイ目に会うというのは、どうもこういうことらしい...そしてこうした戦いこそが、人生の上での本当の修練とは言えないでしょうか?
スブドの創始者「バパ.スブー」が、「ラティハンには忍耐が必要です」と言っていた意味が身に染みて分かったような気がしました。
ともあれ、私にあの思いを超えた世界の消息がよみがえったのです。そう、あの愛と平安の消息が...いいや...
"それは確かに在った、感じられた...私の根底において"...しかし、それは多く悩ましい人間関係の試練とか、諸々の思いによって見えなくなっていたと言わねばなりません。
そしてあの"スブドを離れる"という決断は正しかったのか、今でも分からないことなのですが、忍耐行に疲れたか、4年後脱退することに決めたのでした。
"あの感覚が再び消滅してもいいのだろうか?...愛と平安を感じられなければ無い方がマシだi 一人間としてi"...
なーんて、私は消滅してしまう感じは実は受けていなかったのです。
そして、その感覚は、途中何度か失う"危機"にもさらされましたが、今もなお続いているのです。
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正しい人ほどアブナイ

2020-11-16 11:37:27 | 雑感
私は大して仕事出来ないのに、古参という理由だけからか、時折一グループのリーダーを任されることがあるのですが、これがもう疲れるのなんの...
普段にも増して精神的疲労が半端ありません。
先日は5人のメンバーだったのですが、一人自分勝手に判断し、行動しちゃう感じの人が居まして、その理由を"優しく"問いただすと、ツベコベと言う...私は、いつもはリーダーとしては頼りないくらい、人に気兼ねしてソフトに接しているのです。
しかし...そういうことが重なり、それもある重要な件でそういうことがあって..."おい、お前、人の話ちゃんと聞けよi 、コラあ~i"
あまりの私の豹変ぶりに近くに居た人なんか凍りついてました。(私の二重人格の本性が出てるだけです)
こういう人は、自分が正しいと思っているから、色々理屈を言います。そして自分がやらかしたことでも謝ることが出来ません。周りの人間皆に迷惑がかかります。
いや、もうホント扱いにくくて困っちゃいます。トラブルの種を巻かれるくらいなら、何もしない、出来ない人の方がずっとマシです。(ああ、老子の世界に行きたいi)

人間誰しも、自分は正しいと思っているものですね。そうでないと生きられないとも言えます。これは、もう生来からそのように作られているということなのでしょう。
だから、自分が悪い、間違っていても、非を認めたくない、保身に走ったりしてしまうこともやむを得ないことだと思います。
こういうことは、日常イヤというほど見せられている通りですね。これは全くもって、それを見ているあなたや私のことなのですよi
この事実に気付けるか、どうかでその人の人生は大きく変わったものになることでしょう。
これは程度の問題(この違いってのが微妙ながらも大きいことなのですi)になりますが、宗教とかの狂信者によく見られる、強固に自分が正しいと思い込んでいる人間は気付くことが出来ないのです。こういう人ほどアブナイ人間なんですi
こうして何かを発信している人でも、間違ったことを発信して、それに気付き、反省したことを発信することが中々、コケンに関わるのか、出来ないようです。
"訂正しろi、反省しろi、コラあi"...私が言いたいことはそういうことじゃありません。
人間は自分で非を認めたり、反省することが出来ない生き物なんですi
自覚の有る無しに関わらず、そこにそう赴かせる人の言葉なりの媒体や、直接的には、それに隠されたある反射させる光のようなものが必要なのです。
反省だけならサルでも出来ます(ちと古いCM見てた人なら知ってる)。非の擦り合いならいつも国会とかでやってます。(あのな、ツベコベ文句言うんなら、お前が総理大臣でも、5人ばかしの仕事デキナイ人のリーダーにでもなってみろi)
"私は自分の思いを超えた光によって、気付くことが出来たi"...、こういうことを伝えることが出来たなら、どれだけ、それだけで周りに光を灯すことが出来ることでしょう。
光が当たるということは、自分の中の闇が見えるということです。本当の闇とは、その闇を見ようとしないことではないでしょうか?
これはとりもなおさず、自分はそういうものとは無関係だと装うことでしょう。
その自覚があれば、ネットなどで溢れかえっているような、誹謗、中傷などむやみに出来なくなるでしょう。
世の中は今、救いようのない、どこに出口が有るのか分からない、闇の袋小路に追い込まれている様を映し出しているようです。
だけど、そういうことを我が身のこととして意識を向ければ、これはあの光と闇を分かつ、照射を受けることと隣り合わせのことだ、ということが見えてくるようです。
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