人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識の動きが教えてくれる

2022-03-06 10:36:27 | 求道、探究
"恩寵を受けるには、それ相応の努力をしなければならないi"、という旨のことを言っている人がいます。
何かをやらなければ、努力をしなければ求めているものは得られない、という思いは、多くの人に刷り込まれているようにも根強くあるのでしょう。
だけど、そうやって恩寵が受けられるという保証などどこにもありませんよi
努力の尽き果てた末にそれに与る、という例もあるでしょうが、そういうことに関係無しに受ける人は受けているのです。努力と言うのなら、一知半解で決めつけたこと言ってないで、そういう例が示されている本などを探して読んでみたらいいんです。
かと言って、では何もしなくてもいい、ってことにはならないですよ。
先の人などは、思うだけだったら何にもならない、行動しなくてはi...という"思い"から、そういう言葉が発せられるのでしょうが...もっと肝心なことがあるでしょう?
人間は何かを思い、行うだけで生きてはいないi...もっと根本的には意識しているのです。意識的状態ってのがある。
何度も言うように、精神的な道においては、このことが絶大な意味を持っているのですi
このことが分からない人は、思考と意識の区別が分からないのです。だからいつまでも観念の世界に閉じ籠って、固定観念に囚われたり、色々な教えにハマったり、洗脳されたりしているのです。それで恩寵を受ける道など開かれる訳が無いi
意識的にならなければ、何も開かれない、と言っても過言ではありません。意識の次元で恩寵や神的な現臨に与れるのですから...それが思いを超える、ということなのですが...
悟り系のスピなどでは、"何もしなくてもいいのです"、などと説かれたりしますが、言い回しには注意が必要です。
意識的になる、そうあることは何もする必要がありません。それについて思ったり、信じたりする必要もありません。
だけど、そこでは意識的な感じにはなっているのです。
思い、意志しなくても、ひとりでに意識が動き、導いてくれる...何もしなくてもいいが、何も無くはない...
何かをしなければ、行動しなければi...という思いに一方で駆り立てられていて、そうなろうとしたって、思いが分裂するだけで何にもなりませんi
要するに気持ちが中途半端なんですi...五井先生も言っていました「中途半端は一番ダメですi」
行動したければ思う存分やったらいいでしょうi(私は勿論そのこと自体を否定したりしませんが、そういうのはスポーツ選手向きなのは確かです)
何故、意識的なものが開かれないのか?...その気が無いからではありませんか?
自分の力で何かをしなければ、という思いが強すぎる人は、本当はその気が無い、意識が向かわないのでしょう。
まあ、だから何かをやり続けているんでしょうけど...そういう人が恩寵とか、それが導く全託の道などのことに、軽々しく言及し、首を突っ込もうとすることが間違っているのです。
大体、何十年も同じことを続けていたら、分からなきゃおかしいi
その気があれば、最初から惹かれてやまないものに意識が向けられていて、何かをしなければ、という方には意識が動かないでしょう。
自分は一体何を求めているのか、求めさせられているのか?...これが示されることは何事によらず肝心なことです。
そういうことに向かうこと自体が意識的になるということでもあります。
それは意識の動きが教えてくれるでしょう。

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意識とその気

2022-03-05 09:28:18 | 意識、照明
毎度のことながら、ノンデュアリティの教えなどでは、あなた個人のことも、世界のことも幻想である、と平然と説かれたりします。
今のウクライナのことは、報道を通じてしか分からないけど、これが自分の身近に起きたとしたら、幻想だなどと思えるでしょうか?
思えなかったら、無理に思う必要は無い!...得心してる訳でもないのに、無理にそう思おうとすると、迷うだけですから...
これに限らず世の中(これ自体が幻想?)何が真実で、何が幻想だか、分からないことだらけです。人が何を言っていようと、自分が本当にどう感じているか、ってことが一番肝心なのではないでしょうか?
私は何が真実か幻想か、ということより、"何にリアリティを感じるか"、ということを重視しています。というよりも、それを抜きにしたらすべてが幻想になってしまうのではないかi
この場合のリアリティというのは、そのような現実世界の真実性といったものとは直接関係なく、純然たるリアリティ感覚そのもののことを言っています。
漠然と思う、信じるというものでなく、感覚されるもの...即ち現存、現臨感覚のことに他なりません。これを置いての、ことの真実性なんていうのは、どうでもいいことなのです。
思おうとか、信じようという心理作用とは別に、それに先立ち意識の動きが認められる...自ずと意識が集まってくる...そこにリアリティが感じられるのです。それはもとより意志をもってすることではありません。
信じるのでもなく、疑うのでもない(疑えないi)...受け入れざるを得ないi...これは決定的なことなのですi
これが現臨にある意識状態と言ってもいいのです。何にリアリティを感じるか?、これ以外にありませんi...多分、この世には無いでしょう。
だからといって、それ以外は幻想だ、ってことになる訳じゃなくて、砲弾が飛んできたら、ただじゃ済まなくなるような現実ってのはあるし、その対処の仕方ってのも(あったりめ~のことながら)あるでしょう。
でも、それは現実世界がどうなっても消えないものなのです。(死んでも?...それは死んでみなきゃ分かりません)
では、先の思考に先立つ意識の動きっていうのは、どうして起こるのか?
これは、おそらく誰しもが経験しているのではないでしょうか? その気のある人なら...
気が向くから意識が向く...意識が向くから気が向く...どっちかは分かりませんが、これには思考してる間がありません。
そして、そこに強く惹かされるものを感じたなら、意識がどんどんそっちに引き込まれてゆくのを感じないでしょうか?
私の場合、それが最愛なるもの、神的なものに他ならないのです。意識が自ずと、深まる、広がる...そして、そのものが臨んでくる...
意識が現実に動かなかったら、いくら高遠なる教えだろうと、信じる必要は無いのです。
本当に自分にとり、信じるべき、受け入れるべきものなら、ちゃんと意識が動いてくれるものなのですi
これは、そういう気がある、ってことです。その気がなきゃどうしようもないi
そこに愛、平安を感じなきゃ、その気も起きないし、どうしようもないi
多くの人は、こういうことを漫然と考えごとにしてしまうから気が付かないのです。気が付いてる人にはその気がある。
考えないで、感じる、意識する、気を...何だっけ?...いつもながら、肝心なことほど言葉が無いわいi
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平和と平安

2022-03-04 10:02:46 | 雑感
「神様との関係の時は、平和じゃダメなんです。...平和じゃないよ、平安だ。...平安は縦の関係で、平和は横の関係です。人と人との関係は平和です。平安のないところに平和はない」(小池辰雄.1991年5月18日の講話)

いくら、このブログが私の自己満足感というものを濃厚に漂わせていると言っても、他に向けて何らかの発信という目的が全く無かったら、こうして書いてなど居ません。あったりめ~のことですよ。
私が日頃感じていることを書いています。一寸ばかし(?)、私の思想的、信仰的なことに取れるようなことにも触れていますが、それを広めて行こうとか、他に押し付けようとかいうつもりはありません。
例えば、"神的な現臨にあって、愛、平安、リアリティに与れるんだi"とか...いや、スピ系の記事と言ったら、もうほとんどがそういうことに触れているみたいなのですが、これはね、そう言葉にすることで、正に私自身、そういうものに与れるからなんですよi
"それって、自己満やんi...第一、そんな訳の分からんもん、広めよう、押し付けようのないもんですやんi"...ごもっともです。
それでも、とにかくそこから僅かなりとも共感、共鳴するものを感じて頂ければ...というのが偽らざる願いなのです!
ああいう、訳の分からん表現というのは、あくまで私の言い回しに過ぎないのであって、それに囚われる必要は全くないのです。
神という言い方がイヤなら、大いなる命でも、宇宙パワーでも、真我のナントカでも何でもいいのです。又自分が信奉している神様がそうならそれでいいのは言うまでもありません。
早い話があなた自身が本当に感じている(人が言っているんじゃない)そういうもの...あなたの神、神ってるもののことに他なりません。
とにかく...自分の思いを超えたもの、最善、最愛のものとつながるということ(言い方はともかく)...どんな宗教、スピでもこれに触れないものなどない、と言ってもいいのではないですか?
そこに平安がある、と言っているのです。言い方を変えれば、それに導かれない、他から押し付けられたり、煽られたりする、ただ、安易に信じ込むだけの信仰ごとなど何になるのかi、ってことですi
あなたが平安であれば、私もますますそうならざるを得ない...そしてこういう平安を呼ぶ息吹きは、横に平和の息吹きを呼び込まざるを得ないでしょう。
五井先生も常々言われていました。「平和を願わない人間など居ないんだ」、と...
今のこの一触即発の危機的な世界情勢を前にあちこちからそういう願い、祈りの言葉が聞こえてきます。これはやっぱり人情というものでしょう。
だけど、先生のその言葉の根本には神的なものが据えられているのは、親しんでいる人ならみな知っているはずです。
言わずして、神と共なる平安が、平和の祈りとしてもたらされているのです。
イメージすれば、高層ビルか何かの上からひゅーっと風が降りてきて、こちらを吹き抜けて、横に広がってゆくような感じでしょうか?
もしかして、神は人の人情などとは無関係で、人を、世界を救ったりなどしないかもしれません。そうかもしれない...
だけど、私はいつも実感させられています。神的なものの現臨にあること、その示現そのものが救いなのですi 平安なのですi
それは情といったものを超えた、ある意味での実力行使みたいなものです。"これは強力だ、抵抗しようにも為すスベが無いi"(逆説を言っているのです)
というか、願い、祈るってことは、もう自分を超えたものに意識が向けられている、ってことですよね。
そこを、もっと意識的にならなければ...
一人でも多くの方が、平和というものの中身に平安というものを意識して欲しいと願ってやみません。
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縦のつながり、横のつながり

2022-03-02 11:03:40 | スピリチュアル
人はみなこの世に使命をもって生まれて来ると言われています。
しかし、大概はそのことを忘れてしまうようですね。
それどころか、ポツンとこの世に生まれ落ちてしまったのか、私にも微かに記憶されているのですが、何かとても大事な、それ無くして生きて行けないようなものと切り離されてしまったように感じて、言い様のない不安からか、泣き叫ばずにおれなくなってしまうのではないでしょうか?
そして、フツーはやがて肉親にその失った何かを投影し、すがるようになるのでしょう。
人はみなそのように親とつながり、ひいては兄弟、親類、知人...と徐々につながりの和、輪を広げてゆくものなのでしょうか?
しかし、私は又微かに記憶しているのです。これは、あまり意識の表面には上って来ないものですが、とても私の内面に深ーく横たわっているものです。
"私は本当には親とも、何人ともつながってなどいないのではないか?...つながるとは一体どういうことなのか?"
こう書いてみて、私に電撃的にひらめくものが感じられますi
"私は、真っ先につながらなければならないものとつながっていたのだi"
私にそのように感じさせるものは、その失われた原初的つながりに他ならないのではないか?
私はずっと、心の底にそのような喪失感、不十全感を抱えながら生きて来たのでしたが...私が初めて"人生の裏側"に踏み入れた時、その命の親ともいうべきものとのつながりを体感したのでした。
"取り戻したi、よみがえったi"...このキョーレツな実感こそが、そういう先の私の言葉を裏づけるものであるのは言うまでもありません。
近年、色んなところで言われる、人と人とのつながりというのは、この神的なつながり無しには不可能でしょう。
この神的なつながりを縦のものとするなら、それによって人、いや、生きとし、生けるものとの横のつながりが開かれることは可能でしょう。
これは実につながりを取り戻した時に垣間見た、そうしたすべてで一つの有機的つながりから、そうしたヴィジョンがもたらされるのですが...縦のつながりが先なのです。逆は無いi、あり得ませんi
それは、大は国際間のもつれ、小は諸々の人間関係のもつれを、嫌という程見せられている現実を見れば自明ではないでしょうか?
根本的な問題は、神的なつながりが意識の中で絶たれていることにあるのでしょう。
生まれ落ちた時に、それが絶たれてしまう...その失地回復を求めざるを得ない...
これは本来的な希求というべきでしょう。そして、どんなにこの世が不調和、相克、バカバカしいことでに満ちていても、調和、平和、平安を求めずにはおれない、という人間という動物のいじらしさi
この世に生まれた使命...それは多くの人から"神"と信じられる、自分以外の支配者のような存在から使役されているものなのでしょうか?
そうかもしれません。しかし、それはおそらくは、それ以上に私自身の希みでもあったはずです。
そうでなければ、理屈無しに、この心の底に息づき、こみ上げてくるものの説明がつきませんから...。

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つながったi

2022-03-01 03:23:38 | 雑感
実は、数日前からタブレットに不具合が生じ、記事を書くことが出来なくなってしまったのですi
ネットにつながらんではないかi...
しかし、良かったあ、1月にようやくガラケーをやめて、スマホに切り替えといてi(如何に、旧式人間であることかi)
そんな訳で、前2記事は、スマホで入力して書いたものだったのです。
し、しっかし、タブレットに比べると、書くのに大分手間がかかる、慣れないし...便利なのでPC画面で、文章化、編集したりするのですが..."字小さっi"
愛用タブレット、もう5年も使ってるし、そろそろ寿命なんだろう...ほとんど手放す決心をしていたのですが...
設定を開くことが出来たので、wifi状況を見てみると...ぬあんと、offになってるじゃありませんかi
いつの間に?...アタシャ、何もしてないぞi...いくら私の意識世界の状況が自動的になってると言っても、勝手にそうなるのか?...何かの陰謀か?
何にせよ、とにかくつながったのですi
これで、"ピッ"と指タッチしたら、"パッ"と開くようになりました。タブレットだけの容量を超えたものにつながることによってi...

意識を向けたら、パッと何かが開かれる...そんなことは、私だけからはそうなる訳が無いのですi...自分だけでやろうとしたらキャパ.オーバーですぐイカれるのは目に見えています。
自分を超えたつながりにあって開かれる...これは肝に命じておかなければならないことです。悟りだ、覚醒だとか言って、それ無しで絶対にそんなことにはなりませんi
上記のように、デバイスがどーたら、ストレージがなんたら、ITだとかのことにはさっぱり疎い私ですが、このネット世界の状況が我々一人一人の精神、意識世界の状況のある面を写し出していることは何となく感じています。
我々の前には、いずれの方向に行くとも知れない、二つの異なる"つながり"が二重写しになっているように思えてならないのです。
もう、自分の力、努力だけではどうにも立ち行かない時代になって来ている...頭打ちになってしまう...それは、もとより自分を超えた大本の命とのつながりあっての個己である、ことを示唆しているのでしょう。
一方、ネット世界では、実際のところ何につながるのか、分かったもんじゃありません。その先にあるのは個己の自由を無視した、人間社会をコントロールする巨大な管理機構なのかもしれません。
陰謀論めいた話になってしまいましたが、社会のことはともかく、我々の内面で命の親とつながるのは、我々一人一人の問題ではないでしょうか?
そして、私が実感していることは、その隠れていた、見えない命の大本は、自ら示現して来て、我々はアクセスしやすくなって来ているのが、今日の我々の精神状況ではないか?、ということです。

一度は、"こんなんはただのポンコツだi"、と廃棄処分を考えていた私のタブレット...私の方が、あのつながりが無ければ、ただのポンコツなのでしたi
いつ、おシャカになるのか分からない、旧式のタブレットだけど、それまで大事に使わせてもらうよi...
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