人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

身につくものと普遍性

2022-07-23 10:06:15 | 宗教
私には特定の教えも行法も身についていない!
しかし、ずっと読まれている方ならお分かりでしょうが、これまで多くの宗教、精神的グループと関わって来たのです。が...信者なんかになったことは無い!
信者だったのは、学生時代大手の新宗教に入信してた頃だけなのですが...詳しくそのことに触れたら、一寸矛盾に感じてしまうこともあるかもしれません。
五井先生の白光会は、会員と名の付くものにはなったことこそありませんが、実質会員と言ってもいいような時期がありました。
道院紅卍字会には正式に求修(ほぼ入会の意)してます。その他会員になったものでは、小池先生のキリスト召団、大調和協会、スブド同胞会、金井先生の瞑想の会…聞いたことない名前ばっかしですが、改めてこうして列記してみると...“むちゃくちゃだわい!”(笑)
そう、同時に関わっていた例も多く、むちゃくちゃ!...だから一宗派の信者になったという感じが全くしないし、そのように意識していたのです。
要するに、信者意識というものがあるか無いか、ということ...信者意識が無いから、特定の教えが身についた、あるいはつけた覚えが無いという訳です!
でも...その幾つかのグループとの関わりで身についたものもあるのも事実なのですが...
これは、多く”行”というものと関係しているのですが、例えば、道院で伝授された”先天の坐法”を通じて芽生えたある種の感覚、スブドの修練である”ラティハン”の感覚、金井メソッドと呼ばれる瞑想の感覚...これらにはやり方とらしきものは、指示されるのですが、至ってシンプルなものであることが共通しています。
これを個別に捉えれば、例えば静的な道院の坐と身体運動を伴う、道的なラティハンとは全く違うものですよ。(私の大雑把な見立てでは金井メソッドというのは、両者の中間という感じがします)
大調和協会には行という形は特に無いですが、その場には”おハタラキ”と呼ばれる特有の波動みたいなものがあり、キリスト召団のあの聖霊が立ち込めたような感じとも似ており、共に身に覚えのあるものです。
白光には”統一行“というものがありますが、これは特に身についた感覚というのはあまりありません。多分それは、専ら五井先生の指導用のテープを聞くことに則とられており、意識がそっちへ行って、内部に浸透してこないためでしょう。(私の場合)
しかし、先生に触発されて、特定の祈りの文句に依らない自由な祈り(主として内面に意識が向けられていた)をしている内に、ある種の感覚が芽生えるようになりました。これが私が現臨感覚と呼んでいるものの萌芽に違いありません。
そして大雑把に言って、先に触れた種々の感覚というのは、すべてこの現臨と切り離されたものでないとも言えるのです。それは、一つの私の存在を通して感覚されるのだから当然と言えばそうなのかもしれません。
個別的には違うものだけど、一つの現臨なるものを通したら、あのやり方とか、”こうしなければ“なんてのは超えられてしまうようです。
むちゃくちゃで、大雑把な私が言ってるだけなのかもしれませんが...
その時々にはあまり自覚されてませんでしたが、相対次元のものを超えた、普遍性に根差した生きたものが、私と一枚のものとして働き、感覚されることをどっかで願い続けていたのは確かなことなのでした...。
コメント (2)
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陰謀論と五井先生の道

2022-07-21 11:12:18 | 人生の教師
私がチョイと縁のある、反面教師画伯”T”は、実に40年以上も五井先生の教えに則り、修行を続けているのだそうです。
しかしながら、彼はずっと、こないだの阿部元首相の事件のことにも絡めてましたが、陰謀論にハマり続けているのです!
これ、”神のみ実在する”、”光一元”の光明思想を説く五井先生の道とは相容れないことは、よく考えれば分かることでしょう?
私自身はというと、そういう教えを信条としてタテにするということもなく、それが身についている訳でもありませんが、陰謀論にハマるなんてことはもっと無いです。あり得ない!
といって、それをすべて頭こなしに否定してしまう訳でもなく、現実世界に照らせば、そういうメーソンだか陰始だかの暗躍というものもあるかもしれないのです。
否、ある部分ではあると思った方がいいでしょう。この現実世界というものの多くは、人間の思念が作り出しているものなのだから...
そうです!、陰謀論とは、ヴァーチャルな思念世界に映し出され、作り出された陰性の強い思念の創造(想像)物なのです。
一体、どこまで真実なのか分からない!...然るに、”これこそは真実なのです!、私は見抜いたのです!”、と現場に居た訳でもなく、机の上でその実は、誰かが流している情報に踊らされ、操られているだけなのに、決めつけた言葉を無責任に拡散している...思念から全く抜け出ることなく、脳内で、完結してしまっているのです。
分からないことを、正しい、真実だと決めつけてしまう思念こそは、妄念、カルト思考なのです。
かかるカルト脳に染まっていない、多くの庶民にしてみれば、ウソかホントか分からないマスコミなどの情報など、テキトーに付き合ってればいいだけのことではないか?(無ければ無いで困ることも多々あります)
だのに、数十年に渡って、”消えてゆく姿で世界平和の祈り“を行じていながら、一体何が悲しくて、妄念に囚われ続けなければならないのでしょうか?
口に世界平和を称えて、心の中では、悪魔の支配する地獄世界に向けられているかのようです。
それでいて、完全覚醒を目指しているのだと言う...“ふざけんな!”...ずっと白昼夢に浸ってるくせに!、何度も五井先生を裏切ってるくせに、神、真理への冒涜、いい加減にしろ!、この御仁、一度地獄に落ちてしまえばいいんだ!、そうすれば必死になって神にすがろうとするだろう!...
神を求めることは、道楽ではありません!、観念のお遊戯ではありません!、自分の力の鍛錬、心の強化ではありません!
本気で神を求め、ぶつかろうとしないのに、中々道が開かれないのは、けだし当たり前のことではないか!...だから、いつまでも妄念に囚われ続ける...
...と、こんなエラそうに、説教みたいなこと垂れているのは、彼とは縁があるからです。そして彼は厚顔無恥の徒だからです!
そうでなく、長年、求道し続けているのに、中々思うように道が開かれないと感じている方には、気分を害してしまったかもしれません。同じように厳しい言葉を投げかけることなんか出来ないです。
でもでも、本当に、本気で神を求めているのなら、何も神秘体験と結びつけなくとも、あの画伯のように何十年も思念世界に迷わされ、平安に導かれないというのは私には考えられないのです。
「神を真実に求め続けている人間を神の方がほっとく訳がないのです」という五井先生の言葉がどれだけ支えになったことか!...気休めで言ってるんじゃないですよ!
実は私の方こそ、五井先生を裏切り続けてきた人間なのです。
世界平和の祈りも消えてゆく姿の教えも身についてません。
だけど、「いい思いも悪い思いも神様の中に入れちゃいなさい、思いは神様の方が消してくれるのです。そうすると、いつのまにか神様と一つになっちゃうのです」という五井先生の道は、本当に宗教宗派を超えた、普遍に開かれた道として、私は知らず知らずに導かれてきたのです。
私がいつもここで書いていることは、この道のバリエーションにすぎないと言ってもいいのです。
そして何も五井先生に囚われなくても、あなたはあなた自身に、あなたの神につながればいいのです。
このことは、五井先生自身異を称えないことでしょう。五井先生の道は普遍世界に開かれているのは確かなのです。陰謀論などのカルト思考とは全く似つかわしくないではありませんか?!
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何故、神そのものに向かわないのか?

2022-07-20 10:30:11 | 
私の辞書には”努力、精進”という言葉は無いかの如くです。ズボラなんです!
多分、この性向は死ぬまで直らないでしょう。
こんな私が、”神的なものに与っててていいのだろうか?”(勿論、それは努力して得たものじゃありません)、って思うこともあります。
多分...いいんだろう?...何かの間違いかもしれないが...それに私には不相応だからと、返そうと思っても、返すことが出来ない!...”今日は世界チャンピオン、明日は無冠!“...得たものは失うのが世の常ではありませんか!...何という恵みであろう!
イヤ、ホントは返そうと思ったことなど一度として無いですよ!...私だって、恩寵というものの得難さ、そういう思いは、不遜も甚だしいということは分かっているつもりです。
私はただ、思い描かれたものでない、生きた神的なものにつながりたかっただけなのです!
そういう私を...“心から褒めてあげたい!...お前がどんなにダメで、ミジメであろうとも、そのことだけは!...それを外したらお前には何にも無い、お前は何でも無い!”...うー、結構すぎて、涙が溢れ出るではないか!
そんな私がいつも思うこと...”多くの人は、何故神を求め、その恩恵に与ろうとしないのだろうか?“
”イヤ、そんなこといつでも思っている、何年神信心をし続けてることか!”、と思っている方も多いことでしょう。そのために修行、努力を怠らないんだとか...
イヤイヤ、私が言うのは、漠然と思っているだけだったり、自分の信仰、信念のことだったり、自分の力に頼るようなことではありません!
何故、神そのものに向かって、ぶつかっていかないのか?、ということなのです!
自分の信念や力をタテのようにしているのなら、いつまで経っても神に開かれることがありません。自分に閉ざされたまま、ということ...だから、狂信者ほど神に遠い者は居ないのです。
これには、神についての先入観、固定観念などがアダになっているのでしょう。
本来性から外れた宗教、スピなどが、あなた本来の神、神そのものから遠ざけているのです。
その迷妄から覚める道でもっとも強力なものは、あなたの神、神そのものにつながることに他なりません。
然るに、何故、神につながるには、何段階ものレベルを通過しなければならないとか、チャクラのすべてを開かなければならないとか、面妖な道をわざわざ設えなければならないのだろうか?!...何故、なぜ、ナゼ???
あなたの神がそう教えたのだろうか?
真に、マコトに...どうかあなたの神に尋ねて下さい!...祈りをもって!
祈るということは、思いめぐらしたり、何かを信じ込むことじゃありません。
そうした意志想念を超えた、意識を神そのものに向ける、否、祈ることで意識が自動的に向かうということです。
そして、感じ取って欲しい...必ずや、思いの覆いが取り去られ、そこから光が差し込むことで、愛、平安に導かれるのを!
こういうことは、努力しない、ズボラな私だから言えるのかもしれません。
”何も為すことは出来ない!、祈ること以外は”...それは真実に神に出くわしたら分かることなのですから...

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どこまでも思いを神に!

2022-07-18 09:55:51 | 
一昨日失ったカードケースが...昨日出て来た!
よかった!...不幸災難が一夜でラッキーに!
出て来たから言う訳じゃないですが、どうも失くしたという感じがしなかったのです。 “‘きっと出て来る!“、という予感もありました。
ああいう日常のすったもんだのこともブログに書いてみるもんですね。見えない“お助け“ネットワークとつながるみたいだし?...
そして、このことは、ただ“よかった!“、というだけのことにしてはいけないのです。
ああいう目にあっても、あの御方のご愛に与れる!...そのことをもっと日常と一枚のものとして深めて行かないと...って誰が?、私が?...そおなんだけど、そおじゃない!
私がそういう境地を目指すとか、そういうことじゃありません?
神智学や本山博さんなどによると、悟りに至るには、アストラル界とかカラーナ界とかのレベルを経て、プルシャのレベルに達すると、個体的レベルを超越して、神的なものと合一するのだそうです。個体的レベルを超越するという境地?
これはもう、言葉では言い表せない段階であろうことは分かるのですが、誰がそういう境地に居るのか?、その境地に至ると、ある種の霊能力が開けるそうですが、誰に開けて、誰にそれが可能なのかどうか?...それともそう思いたいのかどうか?...“君、どう思う?、どう感じてる?”
もう、現実に即して言えば、神的な、絶大なるものが、顕わになり、通られてゆく...ただそれに意識され、ゆだねるしかない!...
その中に私が深まってゆくということはあるでしょう。それはどこまでも“深められてゆく”、ということなのです。
何でこういうことを強調するかというと、元々そういう質を強く持っていた、”私が!“、という自我意識から離れるためですよ!
いや、そのためってのもありましたが、いつのまにか、もう、自然とそうなってしまう...
アストラルとかカラーナとかプルシャだとかのことは知らない!
”自分が、自分が”と思っているレベルか、それを超えた神的レベルしかないだろう?...
初めから、”神に導かれ、神が顕わになり、通られる”、ということがあるだけなのです。
そう、初めから私はプルシャのレベルに居たのです!...ってそんなバカなことは無い!
あのね、だったらあんな”すったもんだ”、やってる訳ないでしょ!
私は、どんなにダメ人間でも、自分の思いを神に開いていたい!...ただそれだけです。
そうでないと、この浮き世はやり切れないし...
言葉で言うのは簡単ですが、”どこまでも思いを神に!”...これは、すべての人生でとてつもなく大きいことです!
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夢でも覚めても

2022-07-17 09:57:24 | 祈りと瞑想
カード入れのケースを紛失した!
えらいこっちゃ!
悪用されるうー...
個人情報がああ...
メンドクサ!、チクショー!

ぐああ...取り乱してしまいました。うろたえ、ヤケを起こしてしまいました!
日頃、平安に与っているんじゃないかって?
あー、そういう時もある...でも今はそれどころじゃないの!、心はそっちに行っちゃってんだから...悪いか!
そうです!...いつも言ってることだけど、私は人間が出来てないのです。宗教的修行は勿論、人生修行を怠ってきたのです。性格、生活破綻者なのです!
自分が自分をどうにも出来ないことは、小学校の頃からイヤというほど知らされてます。
だから、到底人様に対してエラそうに説教じみたことなど言える訳ありません。
だけど、そんな私でも、イヤそんな私だからこそと言うべきか...心落ち着いた時、祈ってみる...神に思いを向けてみる...
あのねえ、そんなことしたってカードケースが戻ってくる訳じゃないし、とっちらかってる思いが平静になる訳が...あるんだ!
イヤ、今度はかりは一寸と思っていても、毎度のことながら、ウソのように思いが晴れてきて、安らぎを取り戻すようになるのです。
これは、断じて“そのように思った“ことではなく具体的現実なのです。心の持ち方をプラスに切り替えた、とかそういうことじゃありません!
自分の心を自分でコントロールすることでは無い!、それは(私の場合特に)不可能なことなんだってば!
“平安だ!“...これは心とか思いを超えたところから、神から来るのです!
自分から変わろうとしなくても、自ずと変わる!...これは、もう絶大なものがあります!
これが私自身の現実...真実...カード社会など信じられるか?!
カードの紛失なんて夢みたい(夢だといいな...)ですけど、この現実は、夢でも現実なのですよ!(夢でも覚めても体験される!)
祈る、神に思いを向ける...言葉にしてみたらそれだけです。
それだけでそうなるのかって?...なるんだ!
“そんなもんでか?“、と思っている人は、神というものを観念として思い描いているだけなのです。
私自身の現実、実存に直に臨むもの...それを現臨と呼んでいるまでです。
こーなってしまうところに現臨がある、こーなってしまうから現臨なのです!
とはいえ、あー、とっちらかってしまう、ということは、いつもそういう状態でない、ってことなんですけど、それは修行が足りない、というか出来てないんだからしょうがないのです。
”いつも、そうでなきゃならない“、なんて思っていてもしょうがない!、出来ないんだから...
でもでも...いつまでもそんな状態のままなのか、どうかは分かりません!
それもこれも、あの御方次第...自ずとそうなることに任せるしかありません...。




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