人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

鎮魂帰神

2022-07-15 11:22:18 | 日本的霊性
古来古神道には「鎮魂帰神」と謂われる、神人感合の秘法が伝えられています。
それは、全く世の表側の宗教界隈からは隠れた、正に秘法たる存在だったのですが、明治、大正時代、出口王仁三郎師によって大本教に持ち込まれました。
鎮魂帰神の法にもいくつか流派があり、単に「鎮魂法」と呼び慣らされる場合も多いのですが、近年では、宮中の神事にも関わりが深いと言われる、「伯家神道」に伝わるそれが知られています。
王仁師が伝えたものは、明治時代の神道家「本田親徳」師が体系づけたものを継承したものであり、一口に言えば、“神がかり“体験へと誘導する方法と言えるでしょう。
これにより、秘法は一気に大衆化され、大本教の存在も広く認知されることとなり、ある意味、埋もれた神が世に表れることになったのかも知れません。
と同時に、それによりその評判も一気に落とす結果になってしまいました。
ただのお話じゃ済まない、神霊の実地のご活動は、実にアゲサゲが激しいものと見えます。
世に知られる、大正期の第一次大本弾圧事件(昭和期にもっと激しい第二次弾圧があった)を引き起こした要因の一つは、その秘法実修時での神霊の“跋扈“による狂態が世人の知られるところとなったため、と言っても過言ではありません。
つまり、そこで、人の肉体か、表層の心によって長きに渡り幽閉され続け、はれて自由に表れるのを許された神サマは、“中途の神“ばかりだったのです。だから、開祖出口なお刀自にかかる「艮の金神」の意志でか、鎮魂帰神法は、中途で禁止されるに至ったのです。
“ミタマを鎮めて神に帰る“...その主眼となるものが、幽閉されていた何かの霊を浮かび上がらせ、あるいはそれを外から掛からせる?...そんなものである訳がない!
私は、正直こういう方面は全くの素人であり、多く語る資格はありません。僅かに学生時代その鎮魂帰神法を踏襲したとされる、“秘術“をある教団でやらされたことがあるくらいです。
自分から求めて関わりを持ったことなど一度もありません!...むしろ、ああいう世界からは離れたい、といつも思っていました。
本来の鎮魂帰神とは、神直々につながる直日(霊)、本心(霊)に帰ることの他には無いはずなのです。これ本田師、王仁師とも述べられているところです。
私には、又王仁師があるところで「鎮魂帰神は、キ教で言う“聖霊のバプテスマ“と同じである」と語っていたことが印象に残っています。
しかし、聖霊のバプテスマは、人為で行われる方法の類ではありません。
天来の聖霊の光の照射というものが前提となるものであり、神の恩寵無しには開かれることは無いのです!
ですから、そこには祈りというものが重要であるのは言うまでもありません。
鎮魂帰神というものも本来は、人為による業にあらず、神ながらのまにまに行われる“神業“なのではないか?
何によるのか、何を主眼にしているのか?...これは意識がどこに向けられているか、と言い換えてもいいでしょうが、それにより何に導かれるかが決まるかも知れないのです!
少なくとも、中途半端な気持ちでやれば、中途の神に蹂躙されるのは目に見えているでしょう。
神に帰える道にあっては、直日(霊)の光の照射に与ることが前提になるはずではないか?
鎮魂の伝では、依り代というか、それをシンボライズしたものとして、各種の“御鏡“が設えてあるのです。
ヨソから神がかかる、とか憑依霊だとかの思念は、さっさと祓うに限るのです!...こういう思念を助長させるものの気がしれません!
思いを超えたもの~神が臨むことを祈る...神式の祝詞であってもいいでしょう。
祈り心を欠いて、神の道など開かれる訳がありません!
本当のところは、鎮魂帰神と聖霊のバプテスマが同じものなのかどうかは分かりません。
ただ、あの隠れた意識を目覚めしめる光が、それは実存的な光と言っておきましょうか...それが何であるのか?...聖霊か、直霊か、はた又?...もはやどちらでもいいです!
普遍的な光であるのは間違いないのだから...
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神示と表徴

2022-07-14 12:02:26 | 日本的霊性
私の学生時代、所属していた教団を離れた際、ある教え、教祖を偶像化し、絶対視する愚かさ、恐ろしさを身に染みて感じ取り、それ以降事実上、如何なる特定の団体、教師とも(深い関わりというものはあったにせよ)、その関係が私に根を下ろすことは無かったのです。
その当初は自覚的ではありませんでしたが、これは私の内部に深く根付いたものであり、決定的な意味を持っていたと言えるでしょう。しかし、そこにも裏がある?
その姿なり、言葉なり形をもって表されたものは、ゼッタイに、絶対視することは出来ない!...すべては方便なのではないか?
形は依り代、形なきものの媒体なのです。これは神社によく参拝される方なら分かることでしょう。
神社には、形あるもので絶対視されるものなど何一つありません!
そういうものがあるとしたら、それこそは偶像崇拝というべきものなのです!
絶対性、正統性、優越性などを主張しているものは、”マガツ”というべきです!
真に宗教的狂信ほど、我が国本来の神の道と遠いものは無いのではありませんか?
依り代が、その見えざる神の消息を曇りなく、淀みなく伝えてこそ健全さが保たれるのです。
しかし、この道にあって、目障り、聞き障りな正統性、優越性に曇らされた見方、見立て多いのお!
ことに神示、神典などと分類されているものに...
天理教「おふでさき」、「こふき」結構!...大本教「おほもとしんゆ」、「霊界物語」結構!...「一二三神示」結構!...「要之神示」結構!...
なに?...出口聖師は“一二三”を認めていない?、出所が疑わしい、だからあれは兇党界から来ている?...そう言っている人間の人格が疑わしい!...私はもっとも出所が疑わしい「要之神示」に揺さぶられたのだが...
古代文字、数字...何の文字だか分からないが、形ある文字をもって表されたものではないか?
字句の解釈に躍起になる霊界物語の読者たち、狂信的オニサブラーたち...後を絶たない一二三予言信者たち...虚心坦懐にワニに食われよ!、ハイになれ!
型代、物型理...結構じゃなあ!
神がかく語る...これに数多の外的権威に依存する心根が寄り付く...しかし、これ程見えざる心象、神象を形象を通して伝えるものは無いではありませんか?!
神示を通して、それは思いを超えたところから言葉が出される、ということを表徴しているのでしょう。(それは文字通りと言うことでなくシンボライズされているのです。文字通りなら言葉は絶してしまうでしょう)
形あるものは、形なきものを映し出す。...その形、依り代が表すものとは?
それぞれの心で読み取って下されよ!...“これが神理、真理だ、信じ従え!“、というマガツの声に迷わされてはなりません。
(一頃、“一二三“の続編というフレコミで評判になった、“一二三伝文“や“ヒアイ神示“などは、上記の傾向が感じられ、私の気線とは合いませんでした。“何でも結構!“という訳では無いのです。これは、あくまで私の場合のことを言っているのですが...)
あなたはあなたの神にしか感応出来ないのだから...心の底から、魂から感応するということはそういうことです。そこに正しいも間違いも無い!
否、そこからズレることが間違ってるのだ!、己が魂の目が曇っているのだ!...
ミタマ磨きです!...イヤ、どうやって磨いていいか分からんがな!...
だから...あー思ったり、こー思ったりしてても、ミタマに感じなきゃ分かりません!

カカミ、伏せていては光らんぞ!、裏を返して見なされ!

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裏の学問

2022-07-12 12:12:24 | 回想
私は昔から知識欲が大勢な人間でしたが、矛盾するようですが、大学三年くらいまで本一冊も読んだこともない有様だったのです。
それまではずっと(今もなお...)興味があった、音楽、プロレス、ボクシングなどの雑誌を読んでいました。
当時、ある宗教団体に入っていましたが、自分から進んで宗教思想とかを研究するような、高尚な?精神とはまるっきり無縁だったと言ってもいいでしょう。
そんな私が本の虫になったのは、その教団を辞めて、五井先生の本と出会ってからです。とにかくそれまで宗教書を読んで感銘を受けたことが無かったのですから、これは、人生において本当に大きな意味があることと言わねばならないでしょう!
で、しばらく先生の著書を次々に求めて行った訳ですが、ある時から五井先生にとらわれることなく、“本格的”な知的探求に踏み入れることになりました。
これ又実に大きな人生の節目です!...つまり精神的な道に主体的に関わるということで、それまではそうではなかったということです。
その切っ掛けは、白光会の青年部のKさんを通じて、自称宇宙考古学者高坂さんを知るようになったからです。
私は、それまで学者というもの、その学究的態度というものに接したことが無かったのでした。
”え、大学で幾らでも接してきたんじゃないかって?...冗談じゃない、そういう学生なんだから、ありきたりの学者なんかに目が留まることなど無かったの!“(笑)
高坂さんと言えば、神武以前の世界的規模に渡る超古代史を伝えるという、「竹内古文献」をポピュラーなものにしたことで知られています。
実は、これは私が辞めた教団の教義の中核部分にまで影響を与えていたのですが、その場は白光青年部が主催していた集会だったはずで、五井先生の道とそれがどうつながるのかは、よお分かりませんでした。
とにかく私はそこで、その学究的態度を感じさせながら、巧みな話術で聞き手を魅了する高坂さんを通して、知的探求熱に火が付いたのは間違いありません。
言い換えれば、それにより私に内在していた学究的性質が呼び覚まされたのです!(大学での私の専攻分野とは何の関係も無いが...大学三年にして裏の学問に目覚めたというべきか?)
その内容は、先の超古代文献を中心に、大本教、大本の裏面史にも関わる秘教(神政龍神会~これに竹内文献と大本反主流派の流れが合わさる)の存在、当時は知る人ぞ知る、幻の預言の書「日月神示」...
う~ん、思い起こせば、大本教、日月神示のことくらいしか脳裏には残っていません。
超古代のことなら何故、出口王仁三郎師の「霊界物語」に触れないのかなあ、とも思ったりしました。
気の遠くなるほど昔の歴史を知っても、たとえそれが真実だとしても、私の実存と神の問題と関わるものでないし...
そして、こうした学びを通して、私の精神にしばらく巣くっていた、あの教団のドグマの呪縛が急速に解かれてゆくのを感じました。
“あそこで教条的に説かれていたのは、ほとんどは他からの受け売り、借りものに過ぎなかったのだ!”、と。
こういう解放的気分と合わさって、いよいよ知的探求に拍車が掛かっていったのです。
しかし、それを駆り立てていたのは、単なる知識欲からではない、その時は自覚的で無かったですが、何か見えないものに導かれているのを感受していたのでした。
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知識欲に導かれて

2022-07-11 10:48:05 | 求道、探究
私は昔から知識欲が大勢でして、自分で言うのもおかしいですが、宗教や精神世界に関する知識もかなりある方だと思っています。
そんなものはねえ、その道が深ーい段階に入る上では、何の訳にも立たないんですよ!、ただのガラクタにすぎないんだから!...な~んて、アタシャ、頭ごなしに、そういう頭を使うことを否定するつもりはありませんよ!
そりゃ、確かにある関門を突破する際には、そうならざるを得ないこともあります。
もっと具体的に言えば、それは神が顕わになる時でしょう。そうならざるを得ないとは、自分じゃなく、神の方がそうなさしめる、ということに他ならないのです。
そうでなきゃ、”知識などなんにもならない“、ということも頭でそう思ってるだけでしょう。
私について言えば、私はそういうサガを持って生まれた人間であることを認めなければなりません。そして知識を追求することでかなり役に立っている部分もあるということも...
これは、ほとんど同じ時期に知ることになったのですが、キリストの無者「小池辰雄」先生や、先生の訳本無しには、おそらくひっかからなかったであろう、現代の預言者「ベルジャーエフ」、謎の秘教団体、「大調和協会」の「命御、命位様」、小長谷修聖師を通じて降ろされていた、ミロク神示の前身、「要之神示」などは、その後もずっと私に少なからずの影響をもたらしたものでしたが、おそらく私の大勢な知識欲が高じなければ、出会うことはなかったでしょう。
そして又、それら道の縁たちを通じて感じさせられたことは、知識を追い求めているだけではダメだ、ということだったのです。
それらを通じて神が顕わになるということ、向こうに神を置いて、思い描き、崇めるのでなく、こちらの実存が揺さぶられるようにも、中から呼び覚まされるものを感じずにおれなかったのです。
それらから知識的にも多く学ばされたことも確かなことでしたが、それは愛とか情動的なものと切り離されず、それに裏打ちされたものだ、ということを当時はそうとは知らずに示されていたのです。
そういうことも私の生来からの大勢な知識欲から端を発していたかもしれないのです。
もっとも、それは“行きつくとこまで行かないときが済まない!“、というパッションの表れなのかもしれませんが...
元々知性的というより、情動的な人間という自覚はあります。
何にしても、人それぞれ持って生まれた気線に応じた在り方、導かれ方というものがあるのでしょう。
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この不穏な世の中にあって

2022-07-10 09:48:56 | 雑感
安倍元首相の狙撃死事件、本当に驚きました。
一時は、政治、思想団体絡みのテロかと思いましたが、犯人の某宗教団体への私怨によるものとのことで、類発の怖れは無いと思われます。
政治家が宗教団体のスポンサーになることなど昔から常識であり、安倍氏がどこまで関与していたかは分からないですが、本当はそこの幹部を狙っていた、というのだからお気の毒な話ですね。
色々言われるけど、他の歴代首相にも言えることですが、安倍政権下で日本が戦争に巻き込まれるとか、思想統制が行われるとか、現実に国民が被害を被ったということもなく、比較的穏やかに暮らせることが出来たのだから、私はその長年のお勤めを感謝したいと思っています。
常に柔和な態度を崩そうとせず、感情の高ぶりを見せようとせず、裏を返せば何を考えているのか分からない(あの笑みが...)、という歴代の中でも最も日本人らしい首相だったんじゃないかと思います。(私など森友学園問題の時は、九割方失脚すると思いましたが...色々な意味でスゴイ人なんでしょう?)
ご冥福をお祈りします...。

私は、いつも“思いを超えた、離れた!”、などと言ってますが、自分が、自分からそうなったなんてことは言ってません。
元来私は、とてもそんなこと言える人間じゃないのです。思いが離れられない、固着する質の性格なのです。今でも!
人を殺してやろうと思ったことだってあります。そういう負の思いに取り付かれると、自分から中々離れられなくなります。
”ポジティブな思いに切り替えて!“、なんて言いますが、もうその思いの根っからしてネガティブになってるようで、そんなこと出来る気がしてきません。
だから、自分からはどうすることも出来ないのです!
ただ一つ、私は何も出来ないけど、神的なものに通ってもらうということがあります。
このものにあって、”思いが超えられる“、ということがあるだけなのです。
ま、これを身に覚えるようになって、あの固着状態がずっと続くことは無くなったのは確かなことですが...
何も思いから離れようとか、思い方を変えようとしなくても、自ずと思いが閉ざされた状態が開かれる!
何故そうなるのか?...多分私は、昔からある、その思いの固着状態にある時の苦しみを自覚していることと、自分で思いを変えられない、という無力感、絶望感をイヤというほど知っているからでしょう。
だから、思いを超えた神的なものが臨んだら、ぱっと意識が向かい、自分をそこに預けることが出来るのでしょう。
だから、私をどうこうするんじゃなく、与るということがあるだけなのです。
この不穏な世の中にあって...あらゆる人に、それぞれの在り方で、“神的なものが顕れ、生きて働かんことを!”
かく祈らざるを得ません。
コメント (2)
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