何時もの家庭に戻ったので昨日は、横須賀へ今年度の観艦式の護衛艦公開に行ってきました。9年前には乗艦し海上で本番の観艦式を見聞出来たので今回もと申し込みましたけど外れ。まあ艦内見学だけで仕方ないかと午後にはお天気が回復する予定で家人と出撃。
RICOH GXR MOUNT A12 と コシナColorSkopar 21mm/f4 早田さんのところでゲットしたElmar 9cm/f4沈胴 それにNikon P310 がお供です。
9年前の観艦式の記録はこの通りです。もう行けないかも知れないなと思った次第です。(^0^;)
JR横須賀駅から5分で基地です。旧海軍鎮守府のために敷設された線路だとよく分かります。そして逗子に回っているのは関係者の住居のためだったのかも知れません。
おーっと思ったのは今回公開されていたのがこの新しい「いせ」だったことです。さすがに艦内は格納庫と甲板のみの公開でしたが、200m弱の甲板は広かった。
見学者は、前後のエレベーターでドーッと上甲板へ案内されご覧の通りブラブラ一回り。かっての伊勢は航空戦艦と呼ばれ3万五千トン、36cm砲四門ある鋼の艦でしたが、こちらは1万3千トンの航空護衛艦と云うべきもので電子兵器満載の模様です。詳しいことは分かりません。(^0^;)
こんな具合です。ヘリコプターや物資を上下させるのです。東日本大震災でも物資輸送に活躍したはずです。
そして桟橋の反対側の艦「いなずま」を見ました。こちらは機関操作室や艦橋までゆっくり見ることが出来ました。
艦橋です。露出補正せず。
「いなずま」は呉所属で「いせ」とともに式典に参加とのことです。ソマリア沖へ派遣されて海賊対策に当たっていた艦です。食堂だったか護衛する豪華客船と併走している写真が飾ってありました。軍艦の護衛付きには乗客も安心したことでしょう。 ヘリコプター格納庫には、東日本大震災での支援模様の写真が展示してありました。艦内のお風呂が印象的。
その後は長い繋留桟橋を一巡り、式典に備えて艦の清掃に余念の無い様子でした。9年前に見た「あたご」も健在です。 艦尾の文字は全艦というか戦前の海軍と同じ文字体が使われています。それについては軍艦の命名基準とともに9年前の記録に書いていたはずです。
「あたご」の艦橋、強力な電波を出すフェイズドアレイレーダ。
などなどをフラフラしつつ見物しておりました。
(Elmar 9cm/f4)
この旗は大変好きなデザインです。半分カットした何処かの新聞の旗は大嫌いですけどね。
ついでに見つけたのがこの潜水艦、艦尾の翼がX型です。見えるかなぁー。そうりゅう型?スターリングエンジンを持った潜水艦と思いますが、他の艦に比べやや小振りです。ホントにそうなのかは定かではありません。潜水艦の内部については永遠の謎です。(^0^)
こんな具合で昼ご飯を食べそびれて、ベルニー公園でお握りとなりました。
横須賀は亡くなった義父が海軍の兵隊時代に佐世保から横須賀の砲術学校へ入校し学んでいたようです。その学校跡はまだ米軍基地内です。学校へ行くには駅前の桟橋から船で対岸に渡っていたようですね。衛所跡が残されています。義父はその後、戦艦金剛にのっていた様です。何処かで沈められ無事内地へ帰還。しかしながら、詳しくは聞かないままでした。
海に面したベルニー記念館では「公園の名前を何故小栗公園としなかったのか?」といちゃもんを付けたら、小栗上野介の功績を横須賀市の人はちゃんと分かっていらっしゃるようですね。酔考さんにご報告しなければなりません。 フランス人の名前を付けた経緯の説明はしどろもどろだったのですが、それ以上は意地悪しませんでした。(^0^)
頂戴した小冊子には小栗氏が非業の死を遂げた群馬県倉渕村の烏川河畔に建つ顕彰慰霊碑の写真まで載っていましたので良しといたします。
(追記)
古い写真を掘り起こしました。酔考さんのお祖父様の筆になる小栗上野介顕彰慰霊碑です。10年前に訪れておりました。
明治維新直前に輸入したロッテルダム製の蒸気ハンマーを見学したり、しばらく軍艦を眺めたりでなかなか有意義な一日でありました。 このハンマーは平成9年まで米軍の造船所となった横須賀海軍工廠内で使われたそうです。
この一件でも小栗氏の功績は大です。倉渕村の菩提寺には東郷平八郎から小栗家に贈呈された感謝状が飾ってありました。横須賀造船所なかりせば日本海海戦の大勝は無かった云々と書いてありました。
歴史はこの様な積み重ねです。いいとこ取りをして途中を省略することは出来ません。事実を積み重ねることが必要と思う最近の国際関係です。
と何だか脱線したところで本日はお仕舞いです。これから体調復帰のために戸締まりをして散歩に出ます。