書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

フィニアス:ゲイジ

2011年03月30日 08時11分20秒 | 意識論関連
 フィニアス:ゲイジに関する話は、脳に関わる話としては有名なはずなのだが。ググっても出て来ない。

 確か、フィニアス:ゲイジという人物は、真面目な技術者で、何かの爆発事故に巻き込まれて、左頬から脳の前頭葉に向かって、巨大な鉄の杭が刺さってしまい。奇跡的に一命は取り留めたのだが、それから以降、ゲイジは人が変わって、ケダモノのような性格に変わってしまった。そんな話である。

 大脳の前頭葉に「意識。」の座があるらしいことの、一つの左証として挙げられる事象として有名なはずであるが。検索では見つからなかった。

 ゲイジは、事故直後、顔面に杭が刺さったまま、左目が飛び出した状態で起き上がり、「一体、何があったんだ。」と話したという。

 意識というと、一般的に言われる意識なら、医学的意識とか、生物学的意識のことであろう。しかし、大脳の前頭葉を失ってなを起き上がって言葉を話すとはどういうことか。

 ゲイジが失った「意識。」とは、一般的にいう医学、生物学上の意識ではなく。「ヒトが人間たりうる所以。」としての理性に関わる意識だけが失われたのである。

 最近はあまり「前頭連合野。」という言い回しが用いられないようだが、何か作為的に使用を忌避しているのだろうか。

 私の論ずる本質的意識とは、より統合的な判断を行う論理的思考としての意識機能のことであり。それによってヒトは人間として行動すること、自律的に判断することが可能となるのである。

 ゲイジは事故後、性格が一変し、嘘も平気でつくようになったという。このことからも、相手を騙すための理性は残されたということになる。

 振り込め詐欺師であっても、他人を騙す程度の理性はある。ただ、嘘つきの理性というものは統合的な、本質的自己判断、自律判断といったものが欠落しているのである。

 目先の欲望だけに支配された理性といっても良いだろう。つまり、理性と欲望の主従関係が逆転しているのである。

 頭に血が上って、興奮状態に陥ると、ヒトは理性を失う。しかし、殺人犯が相手を殺傷する行動には、それなりの論理性は必要である。どうすれば殺せるか、その手順とか手法に関しては最低限の論理的思考は必要である。

 その程度の論理思考であればチンパンジーでもイヌでもネズミでもできる。それを「知性。」だと言い張るのは生物学者の寝言しとか言いようがない。

 統合的な視点から、「その行動の結果。」が、自分の人生においてどの程度の重要度を持つのかを判断するだけの、客観性、統合的な判断をできて。初めて人間としての知能、人間としての意識であると言える。

 サルとかバカにはこれができない。

 単に大脳容積があれば可能な訳ではなく、そこに自発的意思が伴わなければ、自律も客観性も働かないのである。

 どうも、こうした本質的自発性というものが欠落している者からすると、その意味、重要性が認識できないらしい。多分、認識「したくない。」だけのことであろうとは思うのであるが、余程ヒステリックに拒絶するらしい。

 私の意識に関する話は、理解できるかどうかが真っ二つに別れるらしい。いわば、生物種としての「ヒト。」であるだけか、あるいは「人間。」としての理性、意識が働くかどうかの分水嶺、判定基準となるようである。



ゾロアスター。

2011年03月30日 00時32分20秒 | 意識論関連
 「前向きに生きる。」と称して、NHKの番組でゾロアスター教を取り上げるらしい。

 「前向きに生きる。」とは、気分の問題である。それによって人間としての正当な行動選択が可能になるわけではない。

 ゾロアスター教というのは、ツァラトゥストラ教とも発音するが。ナチスを支えたとも言われる論理整合性のない観念の羅列である。

 NHKって、相当アタマがイタいらしい。

 哲学というのは文系の範疇に入るのだが。論理整合性がないということは、普遍性もないということであり。同時に安全性もないのである。

 ナチスの吏官が「前向きに生きた。」ために、一体何人のユダヤ人が死体に変換されたと思っているのであろうか。

 哲学界というのは、とにかく「気分。」が優先するので、気分的に楽になれる話に大衆人気があれば、簡単に大衆迎合するのである。

 「ニーチェが好き。」なんて言ってると、あたかも知的であるかのような錯覚に陥るらしいが。実際には頭が悪いことを露呈しているだけである。

 NHKの編成局は、意図的に私の発言を無視しているようだ。



矛盾。

2011年03月29日 21時12分11秒 | 意識論関連
 これから誰かが、誰も思いつかないような新しい業績を発想するとして。それ自体を計算予測することが可能であろうか。

 話を過去に遡って考えてみよう。アインシュタインが相対性理論を発想する以前に、それを予測することは可能であろうか。

 もし、それが可能であるならば。相対性理論自体までも予め予測していなければならない。

 それなら、アインシュタインが発想する前に、既に予測の段階で発想されているということである。

 それは既に予測の範囲を超えている。


 人工知能というものを考えたとき。ヒトが何かを発想するメカニズムを真似ることができれば、計算によって、あらゆる発想は「予測。」されうることになる。

 いわば「知能爆発。」とでもいうべき現象が生じれば、ヒトがあれこれ考えなくても機械が全て計算で出してくれる。

 その時、ヒトが行うべきことは、機械の予測に基づき、実証実験を行うことと。機械が導き出す予測候補の選択であろう。

 機械が導き出す予測の候補は、あくまで候補でしかない。どのような予測結果になるのが望ましいのかは、結局ヒトが選択しなければならない。

 機械が導き出すのは予測だけであり、機械に「正当。」な判断などできないからである。

 「正当。」な判断というものは、結局は人間におけるものでしかない。それこそ地球環境だけを優先すれば、ヒトなどいない方が良いという結論になりかねないからである。

 機械に「正当性。」を判断させても、そこから出てくるのは「機械の正当性。」だけであり、「人間の正当性。」ではない。

 機械である以上、どこまで行っても道具でしかないのである。

 お伽話ですけどね。


 多数の凡人とは異なる発想をするということは、思考の探索性が一般人と異なり深いということである。逆にいうと、凡人が凡人たる所以とは、凡人同士で同じ考えにしか行き着かないということでもある。

 ヒトという種の生物の習性傾向性という、無意識的な「思い込み。」しかできないから、凡人は凡人なのである。

 学校で教わる、過去の偉人の業績を、どんなにたくさん「知って。」いるとしても、それらは自分自身で思い付いた業績ではない。従って、どんなに教わったことを正確に述べることが出来たとしても、それ自体は業績にはならない。

 それこそ、プラトンだのニーチェだの、養老だのといった、単なる有名人の発言の論理整合性が検証できないまま、ただ鵜呑みにしているだけであれば、むしろバカでしかない。

 自分から思いついた話と、他人が思いついたことを知っているだけとは、全く異なることである。

 「当たり前だろ。」そう思ったかな。実は養老はこれを「同じ脳の状態。」と称して同じだと「論証。」している。これを自分から気付いた人が一体何人いるであろう。


 思考の「深度。」は、その集中力に比例する。集中力は自発性に依存し、自発性は意思に依存する。個人の意思とは、本質的意識と同義である。

 環境から与えられる評価報酬という抽象化された「エサ。」に対して機械手続き的条件反射によって、いわば無意識に「学習。」されただけの本質的自発性を欠いた学力では、特定の事柄に対する思考の深度は、与えられる環境に依存する。

 与えられた環境に依存する能力である限り。そこから環境以上の思考深度は得られない。


 有名人の格言風味な言葉を引用すると、知的な風情が漂って、大衆の脳が酔うらしいので、ここでアインシュタインでも引用してみよう。

 「事実を学ぶのはあまり重要ではない。そのために大学は必要ない。本から学べば良い。一般教養大学の教育の価値は、事実を多く学ぶことではなく、教科書からは学べないことを考えるよう頭を鍛えることである。」

 個人的には「頭を鍛える。」という言い回しが嫌いであるが。要するに、「自分から考えるようにならないと、大学の意味はない。」ということであろう。

 「頭を鍛える。」というと、与えられた事柄に対してだけ思考するような盲目性が伴うことが多いので。一般教養(リベラルアーツ)としてのリベラル性、自由度を失うことになり、どうも好きになれない。

 まあ、翻訳の関係もあって、原文の意図がどういうものかは私は知らないので、アインシュタインの意図まではよくわからない。


 一般的な脳の構造を数理モデルで再現しても、そのモデルから導き出される発想とは、結局凡人の発想しかでてこない。

 機械に自発性、すなはち純粋な好奇心が再現できないと、そういうことにしかならない。

 しかし、ヒトであっても自律判断が困難である以上。機械に自律が可能である可能性は低い。何せ、機械としての正当性しか追求できないからである。

 現在の人工知能研究では、基本的に、特定の「目的。」に向かって行動が「整理。」されるように、行動結果に対するバイアスをかけることによって「学習。」させる。この形式というのは無意識的な学習であり、また、何にバイアスをかけるかを予め決めておかなかればならないという、環境依存性から脱することは、構造的にできない。

 何にバイアスをかけるか、それはイヌのシツケでいうところの「いつエサを与えるか。」に相当するものである。

 こうした無意識性学習機能しか持たない人工知能からは、知能爆発的な現象は期待できない。しかし、航空機の姿勢制御などへの応用性はあるので、研究する価値は充分にある。

 思考深度というのは、単なる行動収束とは異なるものである。例えば麻薬常習者が麻薬を求めるような行動とは全く異なる行動であり。試行錯誤を伴うような思考探索性によって導かれるものである。

 それを機械に行わせることが可能であるかどうかはわからない。

 ヒトであっても、特定の個体にしかできないようなものであるから、極めて特殊な個体の個性に関わるものなのかも知れない。そう考えると、突然変異的な淘汰と同じで、より多くの無駄な研究への没頭がなければ、天才的研究成果は出て来ないのかも知れない。

 ただ、少なくとも結果的に無駄なだけであって、自発的でなければならないのは同じことである。

 国立大学の共通一次試験をクリアする機械は、結構簡単に作れるだろう。しかし、誰も発想できなかったことに「気付く。」ような機械は現段階では存在しない。


生き残り。

2011年03月29日 16時59分38秒 | 日記
 サバイバーズギルド、生き残りの罪悪感というものは、大脳辺縁系が促す錯覚の一種である。

 認知行動療法的な考え方からすれば、生き残った人が、他の人を助けられなかったことに責任なんぞあろうはずはないのだが。観念的に自分の責任や、罪の意識を感じてしまう。

 これは一種の錯覚である。生き残ったという事実だけを挙げれば、被災地ではない大多数の人間にとって見れば、そんな感情すら生じないからである。

 「目の前の人達を、助けられなかった。」というのは、当人の責任ではなく。あくまで感情的な「悔しさ。」によるものである。

 こうした「悔しさ。」を感じるのも、「助けたかった。」という意思があってのことである。

 振り込め詐欺に、そんな感情など一切ない。あるなら詐欺などしないはずである。

 それなら、むしろ罪悪感を感じてしまうことは、人間として「正しい。」反応である。ただ、感情的な「悔しさ。」と、「責任。」を混同してはいけない。

 天災に巻き込まれて命を落とした人達の責任など、誰にも取りようがないのである。だから
「取ろう。」とすることは無駄である。

 ただ、だからといって、「忘れろ。」などと言うのも軽薄である。そんなもの忘れられるわけがない。恐怖体験ほど記憶には残るように脳はできているのである。

 厄介だな。

 ヒトの脳というのは厄介なものなのである。

 「さくらももこ。」だったか、「そういうふうに、できている。」のである。本能的反射自体は変えられないが、意識の持ちようで行動を変えることはできる。

 環境に依存せずにも行動可能である。

 決して「頑張って。」はいけない。頑張ると無駄な努力が増えるのである。出来ることだけやれば良い。それは人それぞれである。

 座ったまま動かないと、血栓が出来て心筋梗塞や脳梗塞のリスクが高まる。そうでなくとも病人は多いのであるから。自分の健康管理をすることであっても貢献なのである。

 それぞれ個人の力は小さなものであるが。皆がやれば予想以上に大きな力となる。東京も戦後の焼け野原から復興するときには絶望しかなかった。

 「私のような人間が、生きて、此処にいて、相済みません。」などという観念を、日本人は共有したがる。

 どうでもいいわ、そんな「気分。」なんか。




結果。

2011年03月29日 13時52分25秒 | 意識論関連
 脳神経回路の数理モデルから導き出されるものとは、常に「結果。」だけである。

 ハードウエア的な結果論をいくら枚挙しても、ヒトの行動の全てを数理モデルのような計算だけでは説明することはできない。

 できるとすれば、無意識な犯罪者とかだな。でもそれなら難解な数理モデルなんかなくてもプロファイリングっつう手法が既にある。

 ネズミとかサル、イヌの行動をコンピュータで予想できたとしても。ヒトの行動の全てを予測することなど不可能である。

 なぜか。それは意識の程度によって行動が大きく変化するからである。

 もし可能であるなら、誰がノーベル賞を取るのかを予測可能ということであり。それはノーベル賞級の発想とか発見自体の予測も可能ということである。

 計算で?。


 そりゃできれば凄いけど、それって理論的に矛盾してないかぇ。

Ponta。

2011年03月29日 13時26分00秒 | 日記
 ポンタとかっつうポイントカードサービスに登録したんだけど、書類の不備とかで登録できないとの旨の手紙が同封されてカードが届いた。

 ポンタのサイトにいけば、何かわかるのかなと思ったら、結局「電話して。」ってことになっていた。

 電話嫌いなんだよな。


 会話ができないわけじゃないんだけど。気分的にリアルタイムで高速処理するのが苦手なので。ツイッターすらやってない状態。

 生年月日の年数が、登録用紙では西暦で書き込むことになっていて。それが間違っていたらしいのだけど。普段役所とかで生年月日を使うのは元号なので、西暦に馴染みがない。

 登録用紙の方で西暦と元号のどちらでもいいようにしておいて欲しいんだけど、それは面倒臭いのでやらないらしい。

 なんでユーザーの方に面倒臭い計算を、しかも店頭で要求しておいて。自分達は面倒臭いからほったらかしって。どうなのよ。

 サービス業なのに。

 登録できなくて困るのはおいらの方じゃないのに。

 手抜きがしたいのか。

 「寝て暮らしたい。」っつうなら、死ねばいいのに。そうすれば永遠に寝ていられる。(毒。)


 森永のケーキシロップのキャップって、金型で一体成型しているのかね。

 何気なく金型の構造を予想してみたら、できない。

 どうなってんの。

 手品?。

 こういうことに関して日本の技術者はすんごい難解なことをするんだけど。ポイントカードとか、ウェブサイトに関しては手抜きが多い。

 ウェブページの作成だって、ものづくりであることに変わりはないはずなんだけど。ソフトウエア工学に関しては手抜きが多い。

 「このページは、最新の技術で作られているので、このブラウザでは見ることが出来ません。」とか平気で表示させる。

 何のための「最新。」なのか、本末転倒で意味不明である。


 ポンタのサイトで、メールによる連絡ができないなら、登録なんぞしないぞ。もう二度とローソンなんか使うもんか。(嘘。バリューローソン大好き。)



懸賞。

2011年03月29日 11時40分13秒 | 日記
 gooブログの編集画面の広告に、「フルーツメール。」なる懸賞サイトの広告が載っている。

 何となくgooに掲載されていると信頼できそうな気がするのだが、錯覚かな。NTTの方である程度審査しているのかな。

 国内最大の懸賞サイトなんだそうで、これはNTTサイトの広告として嘘はないだろう。

 懸賞とかアンケートのサイトにいくつか登録したこともあるのだが、東芝アンドロイドだと画面がスクロールできないページが出てきたり、何を要求されているのかもよくわからないサイトもあって、結局ポイントの類は全く集められていない。

 つくずく不器用だなと思う今日この頃。

 金にもかならない論文みたいなものばっかり書いて、学界からも、マスコミからも無視されて。

 たまにYouTubeとかでPerfumeとか見たりして気晴らししてる。でもこういうのって無料でいいのかな。著作権とかクリアしてるのかな。

 東芝アンドロイドには、「YouTubeウイジット。」っつうソフトウエアが組み込まれていて、これが最初のバージョンだと、どうにも汚くて観賞に耐えられなかったんだけど。アップバージョンで突然高画質になったので、ストライクウィッチーズとか見まくりである。

 あまりに変態じみた番組なので、首都圏では放送されていないらしいのだが。ネット上では「そんなの関係ねぇ。」的に(古っ。)無料配信されまくりである。

 ネット上だと、こうした無料視聴が野放し状態なので。何をやっても無料なんじゃないかという錯覚を利用して、ヒマゲー会社は儲けているのである。

 最初は無料としておいて、途中から知らない間にお金を取るという、軽いフィッシング詐欺みたいなビジネスモデルが、そんなに長続きするとも思えないのだが。

 多分一瞬の流行で終わるだろうね。さようならー。でわまた。

NHK。

2011年03月29日 11時23分19秒 | 意識論関連
 茂木健一郎が再びNHKに出るらしい。

 「人生相談。」などと称して、「そのままで、良いんですよ。」の一点張りで相談者を撹乱しておいて。それでもNHKは茂木を「信頼。」し続けるらしい。

 宗教みたいだな。「アスペクト盲。」ってやつだな。

 審査委員会みたいなのに倉田真由美とか採用しているらしいから、何も見えないのも必然だろうな。

 それでも受信料は取るらしい。

 凄いわー。

 それこそ解説委員会から編成まで大改造しないと「変わる。」ことができないらしい。

 組織腐敗の構造に、本能的な従順性に由来する年功序列的封建制度が関与していることを。何らかの実証的実験によって「証明。」されるまでは無視するつもりらしい。

 自分達の体制腐敗は無視したまま。

 「メディアリテラシー。」と称しておけば、自分達の判断に責任を負わなくて良いと思っているらしい。「視聴者の皆様からのご要望。」としておけば、ペテンの垂れ流しが正当化できると思っているらしい。

 悪いのは「バカな視聴者の皆様。」ってこと。「俺らは悪くないもーん。」





EQ。

2011年03月29日 01時05分49秒 | 意識論関連
 EQの根拠となるものは、金儲け分野において、社会的に成功した人間の傾向性を統計的に集計したものである。

 要するに、生物的な社会形成習性的な「世間的なウケの良さ。」を基準としたものである。

 従って、ペテン師が社会的に成功したとしても、それを「知能。」であると言い張るようなふざけた話である。

 振り込め詐欺というのは、EQが高いに違いない。そうでなければ相手を丸め込むことができないだろうし。また、組織的に統率がとれないからである。

 「こういう人物は、世渡りがうまい。」というのがEQの正体である。

 アホくさ。

茂木。

2011年03月29日 00時14分40秒 | 意識論関連
 茂木健一郎の業績とは何かを調べてみたが。脳神経回路の数理モデルに関する論文が評価されたのだという。

 脳神経回路の数理モデルということは、要するに脳の各論、部分的断片についての論文ということである。

 コンピュータに置き換えれば、プロセッサのニーモック動作に関する知識に詳しいということであろう。違うかな。まあいいや。

 本質的意識とは、脳全体の動作に関わる機能の話であり。コンピュータで例えれば、ソフトウエアの動作信頼性に関わるような話である。

 ハードウエア工学というのは、あくまで固定された動作しかできないものであり。既に存在する本能とか情動に関わる話であろう。

 しかし、ソフトウエア工学の場合。その「意図。」によってはウイルスにもワクチンにもなりうるものであり。お絵かきソフトにも、表計算ソフトにも成りうる自由度を持った話である。

 まあ、機械のハードウエアの場合、ソフトウエア工学の要請に応じて変更することも可能であるが。脳の場合はそう簡単に変更するわけにはいかない。というか無理。

 だから意識論なのである。

 本質的意識論のベースとなるのは社会心理学の分野であるが。生物学の観念にまで言及するので、科学哲学的な領域にまで踏み込まざるを得ない。正直、領域が広すぎて手にあまる。

 今更変更不可能な大脳辺縁系の構造や、固定観念的な無意識行動とは異なる、書き換え可能な意識の領域が、無意識ではない本質的意識である。

 ちょっと難解風味だな。こりゃアクセスIPも減るわな。








犬。

2011年03月28日 23時44分23秒 | 意識論関連
 先程、NHK教育で「犬学。」という番組をやっていた。「犬。」である「大。」ではない。

 イヌは飼い主や、他者からの視線に敏感であるという。

 一般的に言われる「自意識。」という概念は、他者からに視線に対する反射的な無意識のことである。

 「他人からの見た目。」こそが自分の意識の本質で、それ以外は自分の意識ではないという理屈は。要するに自発的な自律判断が存在しない者だけに特有の概念である。

 イヌの場合、他者からの視線なしに自制することが困難であるという。逆に言うと、他者からの視線に執着するということでもある。


 飼い主との信頼関係において。双方の大脳辺縁系の一部である「視床下部。」から分泌される「オキシトシン。」という物質によって、双方の情動的な信頼関係が結ばれるというのである。

 イヌにおける信頼関係というものは、基本的に盲目である。特定の対象に対する異常なまでの執着によって、必死になって媚び従い。疑うことをしない。そのため爆弾を背負わせて敵の車両に「特攻。」させることも可能である。

 ヤクザに見られる「鉄砲玉。」や、テロリズムに見られる「自爆。」なども、「特攻。」の一種であろう。

 太平洋戦争において、日本は英米からの迫害を受けていたわけではない。従って、パレスチナ人の自爆攻撃と同列に扱うのも、事情が異なる。にも関わらず、盲目的に自爆特攻を受け入れた日本人の民族性とは、現実には特に迫害などを受けてもいない相手に対して、言葉だけで洗脳されて盲目化する程の従順さを持っている。

 「言葉の力。」などという話を、文系の人間は好む。あらゆる「力。」は、その使途、方向性を制御する意思なくして意味を持たない。ルワンダの虐殺も、ラジオ放送による「言葉の力。」の暴走によって引き起こされたのである。

 「力。」それ自体を信仰するのは、何も考えたくない文系の人間特有の観念である。

 「勇気がわく。」だの「元気が出る。」などの気分の問題にすりかえたがるのが文系の特徴である。気分が乗らないと何もしたくないケダモノみたいな奴らが文系というものである。

 文系の人間というのは、物理学への理解はしたがらないのだが。生物学に関しては「わかる。」と言う。それは従来の生物学における結果と目的を混同した観念との親和性によるものである。

 何も考えずに、無為無策な情動行動の結果に対し。事後追認的なこじつけを正当化できる従来の生物学のパラダイムというものが。理論的に考えることの苦手な文系の人間にとって感情的に「楽。」なのである。






出川哲朗。

2011年03月28日 21時18分25秒 | 日記
 サイという動物は非常に危険な生物である。本気になればトラックの一台くらい、簡単に転覆させられる。

 以前、故あって長時間檻にいれておかなければならないことがあった後。檻から放した時に、余程ストレスが溜まっていたのだろう、檻をド突き回して暴れた映像を見たことがある。

 物凄かった。

 もはや「天災。」である。

 動物を甘くみて、危険なロケにエスカレートするのはやめて欲しい。

 以前にも、「日曜の夕食後に、あまり厳しい映像など見たくはない。」と言ったが。度を越すと単なる残虐性にしかならない。

 悲惨な状況というのは東北北陸の沿岸だけで充分である。もう5年くらいは見たくない。うんざりだ。それこそバラエティー番組なら「空気読めよ。」って話である。

 バラエティー番組というのは、どちらかといえば芸術に分類されるものであり。科学的な検証に供するものではない。宮崎駿の映画とか、金子みすずの詩と同じで、「気晴らし。」なのである。だから「空気を読む。」ことは、むしろ必要なことである。

自発的。

2011年03月28日 19時36分15秒 | 意識論関連
 チンパンジーが、実験室において、他者に道具の提供を行う。

 これを東大とか京大のバカ学者達は「自発的。」であると言い張る。

 自分が逆の立場になったとき、相手から道具の提供を得られるように予め道具を渡しておくことにしている場合。これはギブアンドテイクの関係が成り立つ。

 自発的とはいっても、相手との取り引き関係が成立する場合には、これは本質的な自発性である証明にはならない。

 利他行動自体の抽出が人間としての社会性を証明し得ないことは、既に述べた。どうやら自発性に関する錯誤が生物学者にはあるようだ。


 あらゆる犯罪類は、一般的に「自発的。」行動であるとされる。しかし、殺人犯が自己の行った犯行の理由について、論理的な説明をすることはできない。大抵は「ムシャクシャしたから。」とか「ムカついたから。」であって、そこに合理性のある行動選択は存在しない。

 本質的自発性というものは、環境に左右されずに自律的に行う行動のことであり。特定環境下において限定的に抽出される行動であるならば、それは環境依存性の行動「結果。」でしかないのである。

 他者からの評価報酬といったものとは無関係に、何の見返りも求めず行って、初めて本質的自発性ということができる。しかし、実験においては特定時間内での限定的行動抽出であるから。別の実験場面において、逆の立場になる可能性を予測するくらいなら、チンパンジーにでもできるとしても、何ら不思議でも何でもない。

 そもそも、道具は提供しても。その道具によって得たエサ自体は、道具を提供した個体に対して「お礼。」とか「おすそわけ。」は一切行わないのである。一説には、親であっても子供には与えないという。

 そもそも、エサに関わるあらゆる実験においては。常にエサという報酬に対する行動しか観測することは構造的にできない。そこでどんなに限定的な特定行動を抽出しても、それがチンパンジーの自発性の証明になどならない。

 既に周知された、チンパンジーの残虐行動は。もはや如何なる断片的行動抽出を行っても、反証することが不可能であることを忘れては困る。

 一切見返りが受け取れない状況におかれたとして、当人(当サル)もそれを理解していることが確実でも。なをかつ利他的行動を採ったとするなら、それを「自発的。」と言っても間違いではなかろう。

 何を行っても一切エサが与えられない状況で、餓死するまで利他行動を続けることができれば、それは自発性といっても間違いではなかろう。

 サルとはいえ、それは残虐なので、実行して欲しくはない。それこそサルの自発性を立証するために、実験者の非人間性を立証したのでは本末転倒であるからだ。

 たとえ、特定環境下においてサルの自発性を立証したとしても。既に実証されている残虐性の反証には一切ならないのであるから。被験者(被験サル)は全くの無駄死にである。それこそ単に「その個体だけ。」が自発的に利他行動を採ったことを証明したことにしかならない。個体の個性に依存する話であるなら、タクシーのフロントガラスをぶち壊して運転手を引きずり出し、指の爪を剥がして顔を喰うチンパンジーもいるのである。それがサルの「個性。」というものであろう。

 ゲームがうまくできなくて、自動車のワイパーを折りまくったバカの行動であっても。その行動は一般にいう「自発的。」である。自律も何にも働かないまま「個性。」を振り回してしまうから迷惑なのである。

 「個性は身体だ、だから安心して同じを求めれば良い。」などと称して、既に存在する本能のおもむくままに「個性。」を振り回すから、社会的に迷惑となるのである。

 自分自身の「個性。」を知ることによって、自分自身の感情の制御ができれば、自分の「個性。」の出し方、扱い方も制御できるということである。

 その意味において、都合よく「個性を出せ。」などというのは身勝手な話であることに間違いはない。この点においてのみ養老にも「一理。」はあろう。

 もちろん「一理。」以外の一切は存在しない。


ケーキ。

2011年03月28日 13時06分30秒 | 意識論関連
 元暴走族だったというケーキ職人がいるという。

 暴走族でありながら、ケーキを作るのが好きというのは。外見的にはキャラクターがちぐはぐで、何となく格好悪い。そのため、長い間、彼はケーキ作りが好きだということを隠していたという。

 ある日、ふと、暴走族仲間に「俺、実はケーキ作るの好きなんだ。」と、打ち明けたところ、偶然にも相手もケーキ作りが好きだったという。

 結局、その仲間と一緒にケーキ作りを始めてからは、暴走族とは無縁になってしまったという。現在、プロのパティシエとして働いているという。


 大脳辺縁系の活動が活発な者というのは、どうしても本能的に他人からの見た目、一般に言う「自意識。」の促す強迫観念によって、外見上の同一性に執着してしまうため。他人から「格好悪い。」とか「そんなことして、何になる。」とか言われると、脊髄反射的に自分の個人的に好きなこと、純粋行為から遠ざかってしまうのである。

 脊髄反射とは熱いものに触れたときとかに、「あちっ。」っと手を離す行動のようなものである。

 多数他人からの評価に、自分の行動が流されてしまうというのは。生物学上の「社会性。」であるところの社会形成習性に因るものである。つまり、本能的に多数とか他人の顔色をうかがってしまう習性があるのだ。

 「暴走族がケーキ作り。」このことに対する一般大衆的な評価は「格好悪い。」ではないだろうか。しかし、ケーキを作ることによって迷惑行為をやめることができたのであるから、むしろ社会的には歓迎すべきことである。

 大衆観念というのは、どうしても表面的な「格好。」にばかり目がいってしまい。本質的な社会性には意識が働かない。「人は、見た目が9割。」なのである。


 便所掃除をさせて更正させた例もあるが、これは便所掃除を一緒にやらせている社長さんの人格に依存したものであり。何らかの理由でこの社長さんがいなくなれば、簡単に暴走族に逆戻りであろう。

 実際、更正したといいながら、外見的には悪人を装っていなければならないというのは。本質的には更正していないのである。「今更格好悪くて、やめられない。」のである。

 タマゴ屋とかいう弁当屋も同じ構造である。結局は社長の采配が上手なだけであり、服従対象として「安心。」なだけである。

 偶然服従対象が人格者であった場合にのみ、その社会形成習性は「社会的。」であるが。この「社会性。」とは統率者の人格に依存したものでしかないので、「甘え。」が転移しただけのことであることに変わりはない。

 「折角更正したんだから、今更蒸し返すんじゃねえよ。」と思うかも知れないが、本質的な自律ができなければ、当人が不幸な人生を歩むことになるので、ここはあえて隠さず公表するべきである。水道水に放射性物質が含まれている可能性を公表するのと同じで、パニックになるから隠蔽するという卑怯なことはするべきではない。

 自分が何をしていると楽しいと思えるのか。満足できるのか。それは他人の誰も保障などしてはくれない。少しくらい可愛い顔の少女に「格好悪い。」と言われようとも、「上等。」くらいに無視する気概が欲しいものである。

 そもそも、あなた自身が他人の評価を行う時に、相手の人生についての保障などしないではないか。そんなに深く考えて他人を評価しているだろうか。

 つまり、多数他人にとって、あなたの人生など、どうでもよい他人事に過ぎない。それなら多数他人の上っ面な評価に惑わされることに意味があるだろうか。

 「一人で学食で飯が食えない大学生。」同様、なぜか「考え。」が浅いのである。

 なぜか、それは他人から評価報酬的な「エサ。」を与えられないと自発的には何も考えることができないように育ってきてしまっているからである。

 自分からは考えていないのである。

 こうした自発的思考というものは、マイケル:サンデルの講義を受けても出来ないものであろう。サンデルの講義は、一種のゲームでしかない。特殊な条件による「縛り。」の下に考えを求められているだけであり。その「縛り。」方が学生の脳を酔わせるだけのものでしかないからである。

 構造的に自発的思考を促すようにできていない。

 しかし、本質的自発性を持った、純粋行為には。創意工夫といったものが必ず伴う。伴わない場合には、それはむしろ環境に流されているだけの行為である可能性が高い。

 格好良さに憧れて路上でスケボーをやっている少年を時折見かけるが。外見上の格好良さを求めている限り、それは迷惑行為にしかならない。だから上達もしない。当然、誰からも評価されることはない。

 本当にあなたがやっていて楽しいことが何かは、当人にもなかなか判別できないものである。他人からなら、なをさらである。

 ゲーセンで格闘ゲームを散々やったが、勝てなくてムシャクシャしたから自動車のワイパーを折りまくったバカがいた。こいつは格闘ゲーム自体が楽しいのではなく。格闘ゲームで目立っている他人に憧れているだけである。途中で気付け、バカが。

 どんなにA-ha体験ゲームをやっても、「気付く。」ことの全てが鍛えられるわけではない。そもそも、ゲーム類というのは、どんなにやっても、そのゲームに対する能力向上は見られても、それ以外の能力は一切向上することはない。

 それは実は学力においても同様である。どんなに教えられたことを正確にこなしたとしても、それ以外の事柄に対して、たとえば論理的な精密検証性や、それに伴う批判精神も養われることはない。

 それは東大生物学部を見れば明らかである。

 養老孟司が名誉教授であるから、キチガイしかいないのも必然である。






撹乱。

2011年03月28日 10時44分17秒 | 意識論関連
 養老の著作を読み返して見たが、基本的に論理的根拠のない仮説に基づき、自分の観念を正当化する形式である。

 一般大衆的には、あたかも論理的根拠のように見えることであっても。実際には根拠ではなく、仮説であったり、或はそれ自体が観念であることも少なくない。

 いくつか前の記事でも書いたが、嘘つきというのは嘘だけを言う訳ではない。ポパーを取り上げ「反証主義。」だとか言っているが。「皆さん、そうでしょ。」的な論証は少なくない。

 あたかも科学的な論証のような風味を醸しているだけであって、実際には論理整合性の欠けた実証不能の観念でしかないのである。

 養老の言っていることは、兎に角「徒に胡乱。」であるため。多くのヒトは読み進めるうちに理論的な検証性を失ってしまい、「何となく、わかったような気分。」に陥るらしいのである。むしろ「わからなかった。」ことが恥ずかしいとか勝手に思い込み、外見上の「自意識。」によって、いわば認知症の初期症状のごとく「取り繕って。」いるだけなのではないだろうか。

 養老の「理論。」からは、実際には何ら実用的な具体策などは一切出てこない。北大の澤口俊之が唯脳論の解説をしていたが、結局彼も理解できなかったことを述べている。

 理論が理解できない場合、それが単純に理論的に難解であるために理解できない場合というのがあるが。養老の「理論。」は初めから論理整合性が欠落しているのであるから、これは理解できないのは必然である。


 EQという基準がある。これは理論的な根拠を伴うものではなく、IQと同じで単なる基準でしかない。「適切な感情を発する。」などとして、対象者を数値化、ランク付けしているだけであり。「適切な感情。」の基準自体に理論的根拠がないのである。

 ヒトは、感情それ自体によって行動の全てが決定するわけではない。本質的意識によって自律的に感情抑制をすることによって。また、それを行い続けることによって、より自律的に感情を抑制できるようにもなるのである。

 それこそ、本当に耐えられない感情であるならば、他の行動へと「逃避。」あるいは「昇華。」させることも可能である。連続殺人型と言われる大脳辺縁系の活動の活発なヒトであれば、芸術などの「気晴らし。」自体を生業とすることが「向いている。」とも言われる。こういうタイプのヒトは、他人からの評価に敏感であるため、多数他人からの評価を受けることに対しての執着があり。それが結果的に社会的成功につながることが多いようである。

 本質的意識を喚起すると、一時的には精神的恐慌をきたすこともある。だが、それは今まで何も考えず、無意識に環境に流されるままに生きて来た、意識の怠慢に由来するものである。

 養老などのペテンに騙されても、考え自体が一変することはなく。むしろ固定観念のまどろみに誘われるのがオチである。そもそも誰も理解してなどいないのであるから、思考に影響などあるわけがない。むしろ、ゾロアスター教と同じように読み手の都合の良いような勝手な解釈が可能であるため、固定観念のまどろみに浸って満足できるのである。

 断片的に養老を正当化することは可能である。嘘つきというのは本当のことも言うからである。

 唯脳論というのは、生物学では常識とされた「社会生物学。」ソシアルバイオロジーに基づいたものである。何でもこの社会生物学というのは、発表当初は袋だたきにあっていたらしいのだが。まともに反論できる人間がいなかったために、なし崩し的に常識化してしまっていたらしい。

 東京大学生物学部が、「動物の行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという戯言を公表している以上、もはや社会生物学は否定されたのである。

 にも関わらず、私の話を誰も取り上げないというのは、意図的な無視以外の何物でもない。生物学の呪縛を解いたのであるから、それこそナンタラ賞の類を貰ってもおかしくはないと思うのだが。あらゆる学界が沈黙してしまった。

 沈黙したということも、反応のひとつではあろうから、それなりに浸透しているのかも知れないが。後になって急に取り上げられても、もはや誰も信用できない。

 ブログ版の意識論を発表する何年も前から、各界にCD-R版を送付してあり。その中において、「私の指摘、受け売りによって、ジジイの吊るし上げをすることは許さない。」と書いているので、たとえ今更養老の反論ができたとしても、全く価値がない。

 私は多数からの同意とか、内容を共有する味方が欲しいわけではない。論理的に理解しろと述べているだけである。

 むしろ反論があるならコメント欄に書き込んで構わない。単純にわからないことがあれば質問も受け付ける。特に専門知識などなくて構わない、私自身大脳生理学的なことに関しては素人同然である。「恥ずかしい。」などという恐怖心に惑わされず、議論を戦わすだけの批判精神を忘れたから、ペテンを鵜呑みにしてしまったのである。

 私の言うことは、決して理論的に難解であるとは思えない。むしろ単純過ぎるゆえの拒絶反応なのかも知れない。