フィニアス:ゲイジに関する話は、脳に関わる話としては有名なはずなのだが。ググっても出て来ない。
確か、フィニアス:ゲイジという人物は、真面目な技術者で、何かの爆発事故に巻き込まれて、左頬から脳の前頭葉に向かって、巨大な鉄の杭が刺さってしまい。奇跡的に一命は取り留めたのだが、それから以降、ゲイジは人が変わって、ケダモノのような性格に変わってしまった。そんな話である。
大脳の前頭葉に「意識。」の座があるらしいことの、一つの左証として挙げられる事象として有名なはずであるが。検索では見つからなかった。
ゲイジは、事故直後、顔面に杭が刺さったまま、左目が飛び出した状態で起き上がり、「一体、何があったんだ。」と話したという。
意識というと、一般的に言われる意識なら、医学的意識とか、生物学的意識のことであろう。しかし、大脳の前頭葉を失ってなを起き上がって言葉を話すとはどういうことか。
ゲイジが失った「意識。」とは、一般的にいう医学、生物学上の意識ではなく。「ヒトが人間たりうる所以。」としての理性に関わる意識だけが失われたのである。
最近はあまり「前頭連合野。」という言い回しが用いられないようだが、何か作為的に使用を忌避しているのだろうか。
私の論ずる本質的意識とは、より統合的な判断を行う論理的思考としての意識機能のことであり。それによってヒトは人間として行動すること、自律的に判断することが可能となるのである。
ゲイジは事故後、性格が一変し、嘘も平気でつくようになったという。このことからも、相手を騙すための理性は残されたということになる。
振り込め詐欺師であっても、他人を騙す程度の理性はある。ただ、嘘つきの理性というものは統合的な、本質的自己判断、自律判断といったものが欠落しているのである。
目先の欲望だけに支配された理性といっても良いだろう。つまり、理性と欲望の主従関係が逆転しているのである。
頭に血が上って、興奮状態に陥ると、ヒトは理性を失う。しかし、殺人犯が相手を殺傷する行動には、それなりの論理性は必要である。どうすれば殺せるか、その手順とか手法に関しては最低限の論理的思考は必要である。
その程度の論理思考であればチンパンジーでもイヌでもネズミでもできる。それを「知性。」だと言い張るのは生物学者の寝言しとか言いようがない。
統合的な視点から、「その行動の結果。」が、自分の人生においてどの程度の重要度を持つのかを判断するだけの、客観性、統合的な判断をできて。初めて人間としての知能、人間としての意識であると言える。
サルとかバカにはこれができない。
単に大脳容積があれば可能な訳ではなく、そこに自発的意思が伴わなければ、自律も客観性も働かないのである。
どうも、こうした本質的自発性というものが欠落している者からすると、その意味、重要性が認識できないらしい。多分、認識「したくない。」だけのことであろうとは思うのであるが、余程ヒステリックに拒絶するらしい。
私の意識に関する話は、理解できるかどうかが真っ二つに別れるらしい。いわば、生物種としての「ヒト。」であるだけか、あるいは「人間。」としての理性、意識が働くかどうかの分水嶺、判定基準となるようである。
確か、フィニアス:ゲイジという人物は、真面目な技術者で、何かの爆発事故に巻き込まれて、左頬から脳の前頭葉に向かって、巨大な鉄の杭が刺さってしまい。奇跡的に一命は取り留めたのだが、それから以降、ゲイジは人が変わって、ケダモノのような性格に変わってしまった。そんな話である。
大脳の前頭葉に「意識。」の座があるらしいことの、一つの左証として挙げられる事象として有名なはずであるが。検索では見つからなかった。
ゲイジは、事故直後、顔面に杭が刺さったまま、左目が飛び出した状態で起き上がり、「一体、何があったんだ。」と話したという。
意識というと、一般的に言われる意識なら、医学的意識とか、生物学的意識のことであろう。しかし、大脳の前頭葉を失ってなを起き上がって言葉を話すとはどういうことか。
ゲイジが失った「意識。」とは、一般的にいう医学、生物学上の意識ではなく。「ヒトが人間たりうる所以。」としての理性に関わる意識だけが失われたのである。
最近はあまり「前頭連合野。」という言い回しが用いられないようだが、何か作為的に使用を忌避しているのだろうか。
私の論ずる本質的意識とは、より統合的な判断を行う論理的思考としての意識機能のことであり。それによってヒトは人間として行動すること、自律的に判断することが可能となるのである。
ゲイジは事故後、性格が一変し、嘘も平気でつくようになったという。このことからも、相手を騙すための理性は残されたということになる。
振り込め詐欺師であっても、他人を騙す程度の理性はある。ただ、嘘つきの理性というものは統合的な、本質的自己判断、自律判断といったものが欠落しているのである。
目先の欲望だけに支配された理性といっても良いだろう。つまり、理性と欲望の主従関係が逆転しているのである。
頭に血が上って、興奮状態に陥ると、ヒトは理性を失う。しかし、殺人犯が相手を殺傷する行動には、それなりの論理性は必要である。どうすれば殺せるか、その手順とか手法に関しては最低限の論理的思考は必要である。
その程度の論理思考であればチンパンジーでもイヌでもネズミでもできる。それを「知性。」だと言い張るのは生物学者の寝言しとか言いようがない。
統合的な視点から、「その行動の結果。」が、自分の人生においてどの程度の重要度を持つのかを判断するだけの、客観性、統合的な判断をできて。初めて人間としての知能、人間としての意識であると言える。
サルとかバカにはこれができない。
単に大脳容積があれば可能な訳ではなく、そこに自発的意思が伴わなければ、自律も客観性も働かないのである。
どうも、こうした本質的自発性というものが欠落している者からすると、その意味、重要性が認識できないらしい。多分、認識「したくない。」だけのことであろうとは思うのであるが、余程ヒステリックに拒絶するらしい。
私の意識に関する話は、理解できるかどうかが真っ二つに別れるらしい。いわば、生物種としての「ヒト。」であるだけか、あるいは「人間。」としての理性、意識が働くかどうかの分水嶺、判定基準となるようである。