書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

違法改造。

2011年03月28日 09時44分01秒 | 意識論関連
 違法に改造した車両などを乗り回し、近隣住民に迷惑をかける者というのが時折いる。

 他人に迷惑をかけることによって、「自分の方が、自由だ。」と思い込みたいがゆえの行動であるため。非常にひつこい。

 こうした行動というのは、根本的に自発性によるものではなく。単に他人との比較によって「自分の方が。」優位に立ったような錯覚に陥りたいから行っているので。全く建設性が存在せず、結局当人の脳は満たされないため。エスカレートすることはあっても、自制することは全くない。

 本当は、それをやりたいのではなく。それをやることによって、他人からの見た目上、すなはち一般論としての「自意識。」を満たすための行動であるため。本質的には自発性が伴わず、全く当人の脳は満足できないのである。

 他人からの見た目に執着するというのは、要するに強迫観念的に行われているだけなので。端的に言って、脳がバカになっているだけなのである。

 何せ、無意識的な強迫観念に従って行動しているだけなので。本質的自発性も、それに伴う自律判断も養われることはない。

 「自己中心的な者に、自己はない。」という言葉があるが。これは「自己。」という概念において、本質的な自己と既に存在しているだけの自己との区別がされていないために、一見すると自己矛盾風味に見えるだけである。

 「自己中心的な。」自己とは、既に存在している無意識習性行動としての自己のことであり。その後に続く「自己はない。」における「自己。」とは、自律的に自己を抑制できるだけの本質的自己、本質的意識行動選択のことである。


 年功序列体質というものは、それを構成している個人が体制に対して従順なばかりで、全く無批判に服従する無責任性によって作り出されるものである。

 こうした年功序列体質から作り出される組織とは、基本的に封建的で、「閉じた。」組織である。

 科学などの分野というのは、本来権威性に依らず、常に自由で、社会に「開かれて。」いなければならない。科学というのは、より多くの人達による、検証に曝されなければならないものであり。検証における基準というのは多数決によるものではなく、あくまで論理的検証に基づくものでなければならない。在野か、或は一流大学に所属しているか、といった、権威性に依らず。常に理論的な検証に基づかなければならないのである。

 暴力団とか暴走族が「閉じて。」いるのは、むしろ必然というものであるが。東京大学だとか、マスコミが「閉じて。」いるというのは、責任放棄の怠慢に他ならない。





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繁殖。

2011年03月28日 00時36分55秒 | 意識論関連
 大脳辺縁系の活動が活発な者程、生殖行動も活発である。

 そのため、ヒトという種の生物というのは、大脳辺縁系の活動が活発な人間へと「淘汰。」が働く。結果、自制心の欠けた酔っ払いみたいなバカが増えることになる。

 生物学は、こうした「結果。」に対して、どのような「目的。」をこじつけるであろうか。


 意思としての「子供を作る。」ことと。生物の結果としての繁殖には直接的な関係はない。レイプであっても子供はできるし、円満な夫婦であっても不妊はある。

 ヒトの先祖が、欲望のおもむくままに、レイプを繰り返した個体の遺伝子が遺されたとしても。それは大脳が肥大する以前の結果的な行動の「結果。」に過ぎない。そもそもネズミ程度の脳にとって、レイプなどという概念自体存在しないであろう。

 レイプという行動に対する、本能的な興奮性というものが存在するとしても。そもそも大脳辺縁系の促す情動行動自体が、自分の意識的選択ではないのである。従って、レイプされて性的な快楽を感じてしまったとしても、それは「意思。」とは無関係の本能的なものでしかない。

 何に対して快楽を感じるか、それ自体は自己選択不可能なものである。


 幼女性愛犯罪者は、再犯率が非常に高いという。大脳肥大という結果への要因の一つとして、ネオテニー(幼形成熟)というのがあり。ヒトの祖先が、より幼い外見の個体に対して繁殖行動を採った結果として、大脳が肥大したという説もある。

 そのため、結果的には幼い子供に性的興奮をしてしまっても、それ自体は何ら異常なものであるとは言えないのである。

 問題なのは、本能的な行動を自律的に抑制できない意思の弱さによる、自制心の欠落である。

 大脳辺縁系の活動が生れつき活発な者の場合、そもそも自制心が弱い傾向というのが露呈しやすい。構造的に「ブレーキ。」が効かないからである。

 しかし、「ブレーキ。」としての意思の弱さがあるとしても。「ハンドル。」としての欲望のコントロールは可能である。それが、「何に対して、貪欲さを発揮するか。」である。

 個人的な純粋行為としての研究などに対して、自分の興味、好奇心といった貪欲さを発揮することができれば。結果的には社会的な禁欲性を持つことも可能なのである。

 あるMRI(核磁気共鳴画像化装置)の研究者は。物体の内部の詳細構造を、非破壊で見ることのできる装置の存在を初めて知った時、「ガーン。」となったという。こうした「ガーン。」という精神的ショックというのは、実は大脳辺縁系の活動の弱い私には、よくわからないものなのである。

 大脳辺縁系の活動が活発であるからといって、バカになる以外の選択肢が存在しないわけではないのである。自分が何に燃えるか、あるいは何に萌えるか、それを知ることができれば単なる本能的な行動への機械的条件反射として犯罪に手を染めなくても済むようになるのである。

 小柴昌俊は、「これなら自分は一生続けられる。そういうものを見つけなさい。」と勧める。まあ、それによって社会的成功が約束されるわけではないのであるが。無為無策に本能のシーケンスに流され、バカげた人生を送らなくて済むのであれば、結局は個人の人生において重要な意味を持つことになるのである。

 それが別に科学的な研究でなくても構わない。幼女の身体に興味があるならば、粘土細工でこさえてもよかろう。絵を描いてもよかろう。それで当人が楽しくて、満足しているのであれば、別に多数の「世間。」から嫌われても、自律的に自分の行動が制御できているのであれば、本質的には社会に迷惑をかけていないのであれば、それは自由というものである。

 養老とかは、「誰が解剖なんて、辛気臭いことするんですか。」などと言うが。そんなことは養老が心配しなくても、自発的興味のある研究者というのはいるものなのである。人というのはそれぞれで、多くの人が嫌がることでも興味を持つ人というのがいるものである。別にやる気のない人間が、それを憂いてとやかく論じることではないのである。

 重要なのは、当人の本質的自発性である。それによって自分の欲望を充たすことができれば、結果的には人畜無害な行動を選択することができるようになる。何に萌えるのかを選択できるのであえば、養老のようなルサンチマン(恨み)をぶちまけて、支離滅裂な観念のまどろみに誘うようなオカルトジジイにはならずに済むのである。

 個人において、社会的成功には意味はない。「社会的に成功して、それで。」と、某有名俳優が述べたTVCMがあったが、社会的成功というものは、他人からみて羨ましいだけであって、実際には社会的成功をしたからといって、自分のケツの穴は自分で拭くものなのであり、何ら日常生活に変わりなどないのである。食い物であっても、一日に食える量にさしたる違いがあるわけでなし。好き嫌いを言っていれば病気になるのである。

 見方によっては、社会的認知などされることによって、裸で公園に寝転んでいただけで全国ニュースにされてしまうのである。別に酔っ払いが裸で寝ているくらいで全国ニュースになることなど、普通は有り得ないことである。

 酔っ払っていながらも、服がキチンと畳まれていたというから、育ちの良さが滲み出てしまったようである。汚い中年オヤジとは異なり、鍛えられた青年の裸であれば、それ程社会的な制裁を必要とするものでもないと思うのであるが。

 酔っ払いはさておき、TBSの人気アナウンサーが突然自殺したという話もある。社会的な成功をしても、当人の精神が満たされるとは限らないのである。なにせベンツの中で練炭自殺だというから、なんとも贅沢な自殺である。何が気に入らなかったのか、もはや誰にもわからない。

 個人にとって、最終的に重要なのは。社会的な成功ではなく、個人の純粋行為に集中できるということである。他人からの評価がなくても、個人が楽しいと思える行為に熱中していることができれば、個人にとっては最も重要なものなのである。




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混乱。

2011年03月27日 23時45分47秒 | 意識論関連
 買い占めなどの利己的な行動によって、社会に混乱を招くと。あたかも社会の大人の大半が利己的な人間であると勝手に決めつけ、影響されるバカな者が少なからずいる。

 自律のない者というのは、とかく環境に影響されやすく。メディアで取り上げた情報を、この世の全てか何かと勝手に勘違いして、「みんなが無責任であるなら、俺も。」的な観念を振り回すのである。

 マスメディアで取り上げる事象というのは、実際にはレアケース、稀な出来事であり。珍しい出来事であるから取り上げることがほとんどである。

 また、買い占めなどの社会的事象についても、決して大多数の人間の行動によって引き起こされているのではなく。むしろ一部の人間の行動によるものである。

 私が見る限り、買い占めをしているのはごく一部のヒステリー中年女性だけである。

 バカな者に限って、こうした冷静な判断を全くせず。また、統計的な根拠もなしに、勝手に社会全体を知り尽くしたかのような錯覚に陥るのである。

 たとえ統計的に大多数の人間が公益倫理的行動を採らないとしても、それが自分自身の公益倫理的行動を放棄していよい理由にはならないのである。

 バカというのは、すぐに「空気。」に流される。

 自分の自律的判断がなく、環境に流され、迎合する。

 少なくとも、このブログを読んでいる人なら、これくらいのことなら最初から理解しているはずなので、あまり意味はないだろう。

 学生のくせに、あたかも酔っ払っているとしか思えない者を、時折見かける。余程大脳辺縁系の活動が活発で、理性が働かないのであろう。

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教育。

2011年03月27日 22時01分27秒 | 意識論関連
 現在の教育システムにおいて、自己の感情を自律的に制御できるようになるための教育上の指針なり方法論はほとんどない。

 そもそも、教育関係者の誰もが、こうした教育を受けておらず。自己制御自体ができないのであるから生徒達に対してもできないのも必然というものかも知れない。

 養老とかが、「教わっていないことは、教えられない。」などと言っているのも、一理あるとも言える。もちろん「一理。」しかないのであるが。

 親や教師などの大人からの評価を、強迫観念的に欲した結果。成績評価だけにしか意識が働かないチンパンジー的な高い能力を獲得しても、それは成績評価という「エサ。」と引き換えにしか発揮することのできない、極めて限定的な能力でしかなく。また、途中で評価の得られそうにない行為には一切興味を持たず、大多数の意見に流されるだけなので。結局は新しい発見や発明の全くできない単なる「学力の高い凡人。」にしかならないのである。

 東京大学生物学部などは、こうした高学力な凡人しかいないので。体制に迎合するだけで自律的には何も判断しない従順な年功序列体質の歯車の一人に成り下がるのである。

 その結果、生物学的な社会形成習性を無意識的に発揮し、体制に迎合しない人間の意見を徹底的に排除する「閉じた。」体制を作り出すのである。生物学であるから、生物の習性に従うのは必然であろうか。それなら「学。」ではなく、単なる「生物。」でしかないではないか。

 東大というのは、学内の観光ツアーを行いさえすれば、「開かれた大学。」であると言い張るのである。

 北朝鮮や、暴力団、テロリスト集団などに見られる「閉じた。」体制というものは。無意識的な服従性によって、漫然と作り出される封建的集団特有の盲目性である。

 もし、自浄効果が働いているのならば、帝京大学の安部英のような「権威。」に対する精密検証と、それに伴う批判精神によって。自ずと排除されていたはずである。

 養老の言葉に、「論理整合性がないだけ、開かれているではないか。」というのがある。マトモな科学者であれば、この時点で「こいつは頭がイカれている。」と排除しているはずであるが。脳科学者の誰も養老を批判せず、大衆人気のあるペテンにあやかることしかしていないのである。

 「論理整合性を開く。」とは、言っている内容が支離滅裂であるということである。理論的にツジツマの合わない話にしなくてはならないのは、その話が理論的な根拠がなく、単なる観念でしかないからこそ。その観念を「閉じる。」ために論理整合性を「開いて。」いなければならないのである。

 自分勝手な観念の殻の中に閉じ篭るために、論理整合性は「開かなければならない。」のである。

 養老ほど支離滅裂な話をする者も珍しいのだが。こうした支離滅裂な話を真に受けてしまう者しかいない現状が、私は気持ち悪くて仕方がない。養老の観念と共鳴できるようなルサンチマン全開の人間しか、日本にはいないのではないかと思うと吐き気しかしないのだが。恐らく体制から睨まれずにいることを優先し、理解しながらも保身のために沈黙しているのであろう。「学界内部で大勢を占める。」までは、黙って推移を見守っていた方が危険ではないからであろう。非常に「理性的。」でもあるが。その根本動機は極めて利己的でもあり、公益倫理に反する行動選択でもある。

 それは保身が目的であって、研究内容自体は目的ではないということの現れであり。研究者としての素養の欠落をも意味する。


 こと程左様に、自発性のない者の行動というものは。旧来の体制維持、実力を排除する年功序列主義の脱構築性を失わせるものであり。内実を伴わない表面的な権威性を維持するだけの組織の形骸化が生ずるのである。

 こうした集団から、原発の安全性なんぞ確保できるわけがないのである。東大の原子力関係の研究者達が、テレビで偉そうに解説しているが。こいつら原発の設計にも関与しているはずである。何で今更こいつらの言うことを信用しなければならないのか、訳がわからぬ話である。マスコミも頭がおかしいとしか思えない。

 都合の良いように「国民に冷静な態度。」を要求しておいて、都合が悪いことには目を潰れというのは、もはやご都合主義というレベルではなく。頭がイカれているとしか思えない。

 本質的意識に関する話を散々隠蔽しておきながら、都合の良い時だけ理性的で冷静な対応を求めること自体、支離滅裂である。個人的感情としては「東大なんぞ焼き討ちにでも遭えばいい。」と思うくらいである。一体何が「国家最高学府。」であろうか、ふざけているとしか言いようがない。

 もちろん、この記事を読んでいる人であるなら、個人的感情論に意味がないことは充分に承知しているであろう。偶然初めて読んだ人がいて、ヒステリックな行動に出たとしても、もはや止める気にもならない。


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品不足。

2011年03月27日 20時21分19秒 | 日記
 商店の品不足が少しずつ治まってきているようである。しかし、時折しか入荷されない商品であると、買い溜めしておかないことには、入手できないままになってしまうので、買い占めるつもりがなくても、どうしても大量に買っておこうとしてしまうらしい。

 まだ、時折大量に買い物をしている人がいる。

 既に品不足に陥っているため、ある程度は量を買っておかないと、無くなってしまうので、なんとなく買い占め状態に陥っているらしい。

 実際に商品によっては供給が滞っているものもあるので、品不足がなかなか解消しない。

 必要以上に買い占めをするつもりがなくても、必要な分は買い溜めをしている状態といった風情である。

 お米などは、産地には充分にあるそうで。これは必要以上な買い占めの影響があるらしい。納豆やヨーグルトなどの発酵食品は、製造工程で停電があると途中廃棄しなくてはならないこともあるため、どうしても供給が間に合わないらしい。

 牛乳や卵は、生産者が被災しているという割には、お店によってある程度供給が間に合っているお店もある。

 パン類は震災以前に戻ったようにも見える。

 豆乳類は震災直後もずっと供給がある。価格も安定している。

 以前にも書いたが、視覚障害者とか高齢者にとって、こうした品不足は生活を直撃する。ペットボトルの水などは、妊婦や乳幼児を抱える親にとっては切実な問題である。小児癌は年齢が低い程進行が早く、致死率が高いからだ。

 「子供は社会の宝である。」という考えは、目先の恐怖心の前には紙屑同然のようである。私は水道水を飲んでいる。政府が隠さず公表しているデータに対し、過剰に反応してパニック的にペットボトルの水を買い占めてしまうと。政府にデータを隠蔽させる口実を作ってしまうことにもなりかねない。

 今回のようなパニックがあったからといって、政府もデータを隠蔽するようなことをするべきではないが。民衆としても冷静さを欠いたヒステリックな反応をすべきではない。国民の一人として、責任ある行動を採らないと、民主主義自体が崩壊しかねないのである。

 なんとなく放射能が恐いという「感覚。」はわからなくはないが。産婦人科医師や、放射線治療医師の多くが「長期に渡って摂取しなければ、発癌率が増えることもない。」と述べている。東大は信用ならないが、東北大は信用してよかろう。東北大で非科学的なペテンを蔓延させた研究者の話はでてこないからだ。そもそも被災地だしね。

 水に放射能が含まれていると、内部被爆になってしまうのであるが。三ヶ月もすればなくなる放射性物質で、なをかつ極めて微量であるから。神経症的にペットボトルの水を買い占めるのは国民としてあるまじき行動である。そもそも東京の場合は極めて一時的で、風向きとか降雨に依存するものであるから、普段から水道水をある程度溜めておくことで、一時的な放射能汚染も回避することもできるのである。

 浄水場も雨水が混入しないようにできないのかね。取水の段階で放射能が検出されたら一時的に取水を停止するとか。供給が不足するとしても、放射能が原因であるなら仕方がないと思うのだが、いかがであろう。食品とは無関係の工場が困るとか、そういった事情があるのだろうか。東京というのは構造が複雑過ぎて、何をやっても何らかの副作用が生じてしまうので厄介である。

 東京の水道水の放射能汚染というものは、今のところ極めて限定的で、微量であるから、それこそ公表しなくてもよいのではないかなどと、役所の人間が考えそうである。

 あらゆる情報が隠蔽された、役人天国にしないためにも。民衆が自律的に自制することが重要である。「自分一人くらい、大勢に影響ないだろう。」と多くの者が無責任な行動を採るから、世の中おかしくなるのである。

 自律のない者というのは、とかく社会環境からの影響を受けやすい。精神年齢が低いといっても良いだろう。感情の制御ができず、ヒステリックでパニクりやすい。行動や思考がその場限りで、一貫した考えというものがない。

 ケダモノじみた行動を採る人間ほど、外見だけは取り繕うので、「見た目。」では判断できないものである。

 ペットボトルの水を買い占めるということは、自分の気分的な満足や安心と引き換えに、胎児や乳幼児を危険に曝しているのと同じことである。

 「なんで、あたしが他人のガキのことなんか考えなくちゃいけないのよ。」

 それなら、あなたは社会全体にとって、必要のない存在ということになるのである。一時的にはそうやってヒステリーを振り回して満足できるであろう。しかし、同じ大脳容積がある以上、良心や無意識的な「超自我。」にさいなまされて、結果的には自己嫌悪に陥るものなのである。臨床も、こういうバカは治療しなければいいのにね。「死にたきゃ死ね。」っつってほったらかせばいいのにね。心が広すぎるのも考え物かもね。


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安心、安全。

2011年03月27日 13時22分41秒 | 意識論関連
 巷では、安心と安全をセット販売する傾向がある。

 だが、現実には気分的な安心と、工学理論的な安全とは同じものではない。

 振り込め詐欺に騙されて、「詐欺でもいいから、振り込ませてくれ。」とヒステリーに陥っている状態とは、振り込むという行動に対する異常なまでの執着を促す情動行動に支配されているのであり。振り込まなければいられない、振り込みさえすれば「安心。」で振り込まないと「不安。」である状態に陥っているからである。

 これは買い占めなどの行動においても、同じことが言える。「皆が大量に買い占めているから、自分も買い占めないと不安であり、買い占めると安心なのである。

 振り込め詐欺の言いなりに振り込むことというのは、結局は暴力団などの資金源になってしまうし。買い占めによって流通を撹乱することになり、結果的には不便を招くのである。

 買い占めは、多数の者が行うから問題になるのであり。より多くの者が行わなければ終息するものである。


 買い占めに対する具体策は簡単である。恐怖心に煽られることなく、自分で自分を律すれば買い占めによる流通撹乱は終息する。理論的には簡単だが、簡単でないのは各々個人の自律的な感情制御である。

 従来の教育システムの中には、自分の感情とか情動を抑制、制御するための対策というものがほとんど一切成されていなかったため。短絡的に学力さえ上がれば良いという大衆観念に基づいた、大衆迎合的な知能論だけで教育の質が評価されてきため。誰も感情のコントロールができない状態なのである。

 教育関係者であって、所詮は大衆迎合的に学力だけが上がれば良しとする体制が構築されてしまっているため。学力向上=評価、報酬といった構造に迎合するだけの、封建的な体制維持にしか意識が働いていないのである。

 これはマスコミなどと同じで、多数の人間からの要望に応える形の大衆迎合しかしていないのである。

 「それが、民主主義というものである。」などという下らない固定観念など聞きたくはない。「民衆。」がバカであるから「民主主義。」が「バカ主義。」になってしまうのである。

 「誰にも教わっていないから。」などというのも、厳密には泣き言に過ぎない。理解可能な理論であるならば、理解可能な誰にでも「思いつく。」ことは可能である。可能でありながら、自分では思い付かないというのは、思い付いた者からすれば大多数の人間がバカなだけにしか見えないからである。まあ、この話は後述するとして、話を戻そう。

 教育を行うのは、基本的には一定の適性基準に基づいた認可を受けた者が行っている。しかし、従来のあらゆる基準においては、一定の学力、一定の知識に基づいた限定的な能力の測定しかしておらず。一級建築士が強度偽装をしないことなど、国家試験では一切保証しないのである。

 教育に関わる関係者であっても、取り立てて認知科学的な知識や理論に基づいて教育のシステムを構築しているわけではなく。単に従来の教育システムを機械手続き的に受け継ぐだけの体制維持体質から脱却、脱構築することなど、一切意識上にはないのである。

 「人間としての社会性。」となる、公益倫理的自律判断の基礎となる本質的な自発性、本質的「意思。」のない、体制迎合的で怠慢な、無意識的な人間だけで構成された、結果的な封建的な年功序列的な組織からは。自律的な自己感情制御のための教育など、一切行われることはない。

 大衆が学力に執着するのは、それが社会的成功とか、個体の生存とか、金儲けにつながりそうであることから。いわば本能的、利己的な感情に基づいているが故にヒステリックに執着するのであり。そんなものが社会全体にとって公益倫理的な判断であるわけがないのである。

 震災によって生き残った学生達に対して、現地の教育者達は突然、思い出したように「他人の為になるような人になって下さい。」などと言い出す始末である。

 これは、「人間にとって、本当に大切な資質とは何か。」を忘れていたとしか言いようがない。

 アイヒマン実験についての書籍を読んでおけば、とりあえずアイヒマン実験に類似した状況には迎合しないかも知れない。しかし、スペースシャトルチャレンジャーの技術者のように、自分の地位や利権を棄ててでも公益倫理的に自律判断が可能であるかどうかは関係がない。

 放送大学などは、「技術者倫理。」と称して、技術者だけに倫理を要求しておいて、それ以外の一切には倫理が必要ないかのごとく言い張る。そして、最終的には「本講座を受けて、勇気が出る。元気が湧く。」などと感情論にすりかえるのである。完全に脳が壊れているとしか思えない。よくもまあ、何も考えずにこんな講義を公共の電波を使って放送できるものだと、呆れるばかりである。

 自分の感情を自律的に制御できない者が大半を占めている限り、民主主義はまともに機能することはない。民衆が自律的に買い占めをやめることができないのであれば、もはや政府による配給制限でもしなければならなくなる。それは極めて非効率的で、無駄の多い、役人天国であろう。

 政府の方から金町浄水場から大人には影響のないレベルのヨウ素131が検出されたことをきちんと公表しているのであるから。ここで「民衆。」が採るべき行動とは、妊婦や乳幼児の健康のためにペットボトルの水を、自主的に買わないようにすることである。それができないというのならば、もはや社会主義でも振り回さなければならなくなる。

 民衆がバカであるなら、バカの行動の全てを統率する「誰か。」としての権威にお任せしておくしかないと、大衆観念的には「思う。」であろう。しかし、その統率を行う基準自体が単なる学力成績だけであるなら、結局は北朝鮮のような年功序列体質による、封建的な体制維持に陥るのは必然というものである。結局は利己的な社会的成功に執着する人間が、「チンパンジーの瞬間記憶。」よろしく異常な学力を発揮して、統率側に就くことになるからである。

 天下り役人の言い訳である、「私は30年間も、安月給で働いた。だから、少しくらい甘い汁を吸ってもよかろう。」とか、「何で俺だけ。」といったルサンチマンの類というのは、結局は養老孟司のそれと全く同根なのである。

 日本の社会において、どの程度の人間が養老のルサンチマンに共鳴して満足しているのかは私の知るところではない。養老の著作の販売部数から類推して大多数を占めている可能性は高いであろう。それなら、私がどんなに本質的意識について論じても全ては徒労に終わる可能性は充分に高い。

 諦めてしまえば簡単である。諦めてしまえば何も「考え。」なくて済むので、私の大脳辺縁系は現実逃避できるので楽になれる。「嫌な話は、意識から外す。無視する。」ことによってバカになることが可能であろう。

 認知症患者は不幸であろうか。否、認知症患者に不幸だの幸福だのといった基準は意味を成さない。その場限りに行動して、気に入らなければ暴れて、大脳辺縁系のおもむくままに、何も迷わず短絡的に行動しておくことが出来ることを、果たして「不幸。」であると言えるであろうか。


 目先の感情、情動のおもむくままに行動しておけば。とりあえず意識の表層は「楽。」になれる。そうした目先の感情を自分で制御することを全くしたことのない者からすれば、私の意識に関する話は理解し難い「屁理屈。」でしかなかろう。自分にとって都合よく解釈をでっちあげて、勝手に観念のまどろみ、自己満足のまどろみに浸って「安心。」するのであろう。

 冷静に考えれば、この記事を注意深く読んでいる人であれば。自己満足のまどろみに浸って満足しているような人ではなかろう。アクセスIPはますます激減しているが、閲覧数は増える傾向が見られる。これは一種の「淘汰。」が生じているのであろう。それなら私も不安に陥ることもなく、冷静に論じていれば良いのであろう。

 ただ、一体何が原因で一般周知が行われないのか、理解が進まないのか。そのポイントというか「ツボ。」のようなものが見えないので、どう説明すれば良いのかすら見えない状態である。とりあえず、思い付くまま説明をしているのだが、全くコメント類も入らないので、「糠に釘。」的な気分である。まあ、気分であるからどうでも良いのだが。




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絶対嘘つき。

2011年03月26日 17時01分36秒 | 意識論関連
 絶対に嘘しか言わない人物がいたとする。この人は嘘以外を絶対に言わないので、この人物の嘘は誰にでも嘘であることが明白である。

 この絶対嘘つきは、本当に嘘つきであろうか。

 たとえ自分にとって不利になることがわかってても、彼は嘘しか言わない。たとえ他人にとって利益になるとしても、嘘しか言わない。

 それは嘘つきであると言えるであろうか。


 現実の嘘つきというのは、常に自分にとって都合の良いように嘘をつく。従って、信頼を得ようとする相手に対して、断片的に本当のことも言うのである。

 本当の嘘つきというのは、嘘と本当を使い分けるのである。

 「当たり前だろ。」と思ったかも知れない。だが、ペテン師の類というのは、こういった屁理屈を持ち出してきて、相手の意識や思考を撹乱するのである。

 ここでは単純化して話したが、実際にはペテン師は話をややこしくして相手の思考能力をオーバーフローさせておいて、普段なら当たり前に理解できることであっても、理解できないように追い込むのである。

 なので、予め頭の隅にでも置いといて頂きたい。他にもペテンの手法は山ほどあるらしいのだが。大抵は話をややこしくすることで相手の思考を撹乱する。サンデルとかもそうだね。あいつの講義は本当は正義の話なんかじゃなくて、特定条件下における判断の話しかしていないからね。



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排水作業。

2011年03月26日 15時32分09秒 | 日記
 原発では、高濃度の放射能を含んだ水が建物内部に溜まってしまっていて。それが作業の妨げになっているらしい。

 原子力保安院も、何か欲しいものがあったら公募するべきである。ポンプが欲しいなら欲しいって言いなさい。自分達だけでは何もできないことが露呈しているのだから、今更格好つけていないで、「助けて。」って言いなさい。今更何を隠蔽したって、信頼なんか回復できないんだから、むしろ積極的に情報公開することで信頼を得るべきです。
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迷惑。

2011年03月26日 12時24分24秒 | 意識論関連
 やたらと他人に迷惑をかけたがる人間というのがいる。こういう人間というのは、自分では自分が制御できないので、誰か他人に制御して欲しくて。その制御してくれる誰か「他人。」を求めて迷惑行為をしているので。すんごくひつこい。

 ヤクザがヤクザの幹部に従順なのは、ヤクザの幹部が自分を制御してくれるからであり。自分勝手な観念によって「かっこいい。」とか勘違いしているからである。

 土居健朗が提唱した「甘え。」に関する話とは、こうした「カッコイイ。」という子供じみた感情論についても言及している。ただ、残念ながら生物学的な社会形成習性にまでは踏み込んでいない。

 飼い主の手を噛む小型犬の苛立ちと、迷惑な人間の勝手な苛立ちは、情動行動的には同根であり。本能的な強迫観念に基づいているので始末に負えない。

 「バカにつける薬はない。」というが。バカというのは意識の問題なので、薬だけでどうにかなるようなものではないのだろう。

 昔、というか今でもいるんだろうけれど。神に目覚めたテロリストの本を読んだことがある。アイルランドのUVRという、IRAの対抗組織の一員だったらしいんだけど。彼が言うにはアイルランド紛争っていうのは宗教戦争ではないらしい。

 結論的には「カッコイイ。」っつうのがテロの理由だったらしいのである。

 「力。」を持つ集団に所属することによって、気分的な安心感を得ることができる。ヤクザとかテロリストといった集団は、自分の暴力性と服従性を正当化できるため。生物学的な社会形成習性を短絡的に満たすことができるのである。

 集団で迷惑行為をして満足しているので、迷惑極まりないのだが。当人達は非常に満足しているため、集団以外の人間の迷惑には一切意識が働かないのである。

 仲間内だけの正義を共有して、気分的な満足によって思考停止に陥っているので。本能的な快楽の限りを尽くすのである。

 イヌは、訓練やシツケによって、従順に育てることが可能である。よく訓練されたイヌは人の役に立つことも可能となる。盲導犬が人を助けたという話は少なくない。

 しかし、盲導犬というのは「犬種。」ではない。盲導犬に適した種のイヌであっても、最初から野犬の群れで育てば、それは野犬としての行動しかできないのである。

 むしろ盲導犬のように、人に従順な行動を採っている状態というのは。生物種としては無駄な行動であり、「洗脳。」状態であると言える。ヒトによって訓練をされることによって、盲導犬は盲導犬足りうるのであり。訓練という刷り込み学習的な環境なくして盲導犬としては使えないのである。

 養老とかっていうのは、要するに「俺らはイヌと同じで、誰かがシツケてくれなきゃ自分じゃ何にも判断できないから。お前ら世間が面倒見てくれ。」という意味で、「世間が悪い。」「社会が悪い。」「環境がおかしい。」「お寺は何してる。」と言っているのである。

 これは秋葉原の通り魔と、言っている内容としては同じことである。

 通り魔ですら、一部では人気があるらしいから。特に犯罪を犯していない東京大学名誉教授に人気があっても、珍しいことではない。

 むしろ「ポピュラー。」なことであろう。

 大多数のヒトは、養老とかニーチェを読んで満足する。

 このブログを読んでいる人はせいぜい160人程度であるから、決して大多数ではない。むしろ、時折ぶちギレるヒステリー男のブログに付き合っているくらいだから、むしろ変人といっても過言ではなかろう。

 養老とか通り魔が主張する「世間が悪い。」という話には、具体的な解決策などが全く提示されていない。極めて抽象的に「何で、○○なんですかねぇ。」的な「質問。」形式にしかなっていないのである。

 要するに養老の言っている話には、論理的根拠とか、原因究明とか、それに伴う再発防止策とかが全く存在しないのである。

 養老は本当は、ヒゲボソゾウムシのケツの穴を覗いていることが楽しいのであって。「人間とは何か。」についてなど、自分自身の意識についてなど、本当はどうでもいいと思っているのである。

 なんだか偉そうに「人間とは。」的な話をしておくと、大衆にウケて金になるので、調子に乗って観念をぶちまけているだけなのである。

 現実には何の役にも立たないばかりか、多数のマスコミ大衆を洗脳して思考停止に陥れているのである。

 しかし、大多数のマスコミ大衆は、そうは思わないらしい。

 大多数という集団心理によって、それで気分的には安心であるため。検証も何も行うつもりもないのである。

 それでマスコミは責任を全うしていると勘違いしているのである。


 古館一郎は、「養老先生が、中国に木を植えろとおっしゃっていた。」などと言っていた。だから?。それが?。

 論理的に考えることが苦手な文系の人間というのは、観念的な断言という、格言風味な話が大好きで。予め誰かに決め付けてもらっておけば、自分では何も考えなくても良いと勘違いしているのであろう。格言風味な決め付けによって、脳が酔っているのである。

 権威に服従しておけば、自律的には何も考えなくても、何の責任も負わずにいられるものであると、大衆観念的には思うらしい。

 アプリオリな「思い込み。」に対して、多くのヒトは何の疑いも持つことはない。それが安心だからである。

 安心なことというのは、同時にそれ以外のことに対する不安感、恐怖感も作り出しているために。むしろ不安なことは感情的には拒絶するのである。

 アスペクト盲などの盲目性というものは、実はそれほど珍しいものではなく。網膜上の盲点とか、脳梗塞などに伴う半側無視などの症状にも見られる普通の出来事、ポピュラーな現象なのである。

 盲点とは、片目を閉じて、一点を見つめた先に。腕を伸ばした握り拳一つ分程度外側に、小さな見えない領域が存在するのだが。その存在を認識することができない、もとい、認識することが困難である。

 両目が見える人であれば、互いの盲点を両方の目が補いあうので、見えないことによる危険性はないが。片目が見えない状態においては、見えない小さな領域があることを意識しておかないと、重大なミスを招くことがある。

 脳というものは、普段問題を生じない事象について、それを無視することによって、余計なことに意識を奪われないように、認識を「整理。」してしまう。

 錯視などの錯覚現象というのは、普段は経験しないような特殊な場面を与えられたときに生ずるものである。特殊な図像に対しての適応がなされていないことによる、認識能力の暴走のようなものである。

 縦縞の中で猫を育てると、横縞を認識出来なくなるという。縦縞の中で育てられた猫の脳にとって、横縞は存在しなくなってしまうのである。「慣れ。」とは、そういう現象も引き起こすのである。

 ヒトという種の生物を、天動説の中で育てると。地動説を火炙りにしようとする。

 カルト宗教の中にいれば、地下鉄に毒ガスを撒くこともある。

 普通の生活を送っている人物をアイヒマン実験という環境におけば、権威のいうなりに他人に危害を加えることもある。

 多くのヒトは、それを他人事であると意識から外す。

 「ヒトとは、そういうものである。」




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トラックバック。

2011年03月26日 12時10分41秒 | 日記
 何だかトラックバックがついたので、試しに見てみたら、どうやらUQワイマックス関連の記事を自動的に集めているページのようだった。

 まあ、意識に関する話とは無関係なので、ほったらかしにしておくことにする。
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葛と藤。

2011年03月26日 10時39分28秒 | 日記
 「葛藤。」でググってみたら、蔓性植物がお互い譲り合わない様を形容した言葉らしい。

 仏教用語では、煩悩と同義だそうである。

 まあ、大抵の場合、葛藤の結末は煩悩が勝るので、葛藤している時点で間違いなんだろう。

 オウム真理教幹部の林郁夫が、もし葛藤などという迷いをせず、内部告発に踏み切ったら。惨劇は食い止められたかも知れない。でも、もしかすると教団に抹殺されていたかも知れない。

 人道的、公益倫理的判断を行ったからといって。それが必ずしも社会にとって役に立つとは限らない。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者が、その危険性を告発したとしても。偶然事故が起こらなければ、この技術者は単なる「神経質な理論家。」としてしか扱われないであろう。

 危険性というのは、「絶対に危険。」であることを証明できない。危険性とは、「絶対に安全。」であることの反証でしかない。だから、危険性告発というのは、実際に事故などが発生しないと、多くのヒトはその意味に意識が働かない。

 「気分的に面倒臭い。」のである。


 正直、私自身いくら説明しても理解されない話をし続けるというのは面倒臭い。だが、それは私の個人的な感情論であるから、これは私自身の本質的意識としては無視しなければならないものである。そこに葛藤の余地などあってはならない。

 そうか、葛藤というのは「余地。」であり、「余計なこと。」なのか。だから煩悩と同義なんだな。

 だけど、一般的に「悟り。」を開いたなんて言ってる場合。ほとんど全ては「考えるのが、面倒臭いので。諦めた。」という意味でしか使われない。

 「迷いがない。」状態には二種類ある。本能のおもむくまま何も考えない状態と、本能に惑わされずに確固たる意思を持ち続ける状態である。

 どちらが「正しい。」のかは、最初から選択の余地などないのである。

 居酒屋で、何人かで酒を呑み。固定観念を共有しあって気分的に満足した後、家に帰る時になって、その内の何人かが、車を運転して帰ることを知ったとする。

 飲酒運転は危険であることを告げると、相手は激昂して怒鳴り散らす。周りの仲間も「それ程酔っていないから、大丈夫。」と諭す。あなたは仲間内では神経質で、「空気を読まない。」変人扱いされる。警察に通報すれば、あなたは裏切り者として扱われ、二度と楽しい飲み会には誘われることはないであろう。多くの友人を失うであろう。下手をすると仕事まで失うかも知れない。

 もし、放置しても、交通事故は起きないかも知れない。


 ヒトの意識の9割は無意識である。アルコールなどで脳が麻痺していれば99%以上は無意識であろう。「俺は既に酔っ払っているから、もはや理性的な判断なんぞ、出来なくって構わない。もはや仕方がない。」そう思い込むこともできるであろう。

 「仕方がない。」とは、厳密には「それ以外の一切の選択の余地が存在しない。」という意味である。

 本当にないのか?。


 私の気分的には、酔っ払い相手に理性を求めているような徒労感でいっぱいである。時折ふざけた文章になるのは、こうした気分的な憂鬱を紛らわすための感情的「息抜き。」とか「気晴らし。」である。それが反って信憑性を失わせているとしても、そこまでは私の知ったことではない。

 「信じる者は、救われる。」盲目的にペテンを鵜呑みにしておけば、気分的には「救われる。」であろう。ドストエフスキーで満足している安物の哲学マニアの類なら、自分の個人的な感情さえ満たされていれば安心であろう。「救われる。」のであろう。

 だが、私に言わせれば、それは酔っ払いの屁理屈でしかない。


 言語によって、意識を撹乱させることは簡単である。だが、言語を用いて意識を喚起することは困難である。「喚き、起こす。」というくらい、大声で言わないと、誰も自己満足のまどろみからは起きて来ないからである。





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羞恥心。

2011年03月25日 22時15分43秒 | 意識論関連
 「恥ずかしい。」っていう感情は何か。それは他人からの見た目に対する恐怖心。

 大学生が、学食で一人で食事するのが恥ずかしいらしい。でも、そんなの学生だけの特殊な感覚であって、社会人は誰もそんなこと恥ずかしがったりしない。

 大脳辺縁系の働きが活発なヒトっていうのは、どうしても感覚優先で物事を判断してしまうため。考えが浅くて表面的。

 くらたまの漫画とかって、よく、「みんな、そうなんだ。」っつう観念的な安心感を、あたかも「人間として、それが正しい。」行動や思考であるかのように錯覚している部分が非常に多い。

 一人だけ考えとか行動が違うと感情的に「恥ずかしくて。」それが精神的に不安だから拒絶して。逆に多くのヒトが同じ思いや行動をしていると観念的に「恥ずかしくない。」もんだから、気分的に安心して、満足感に浸って思考停止に陥る。

 「ヒトとは、そういうものである。」

 「ヒト。」としてはね。

 「ヒト。」という生物種としての習性、傾向性としてはね。

 でもね、「ヒト。」という種の生物というものが、それ以外の行動の一切が不可能であることの論理的証明は存在しない。

 アイヒマン実験における被験者のおかれた環境において、被験者の多くが採った行動をどんなにたくさん枚挙しても。それが「人間の行動選択として正しい。」という理屈は出てこない。

 出てこないにも関わらず、「出てくるかも知れない。」っつってんのが東大生物学部。チンパンジーの遊園地作って血税無駄遣いしている。

 例えば、シエラレオネの少年ゲリラとか、振り込め詐欺の仲間を。チンパンジーの代わりに鋼鉄とポリカーボネートのケージに閉じ込めておいて、彼らがどのような行動を採ったら、既に行われた非人間的行為を反証できるのであろうか。

 具体的にどのような行動を採れば「人間としての社会性を立証した。」ことになるのであろうか。この問いに対して、東京大学生物学部は一切具体的な解答も、また、反証も行わないのである。

 単に、「利他的行動を採った。」というだけでは、何ら「人間としての社会性を立証した。」ことには成り得ない。集団レイプにおいて、仲間にレイプを譲ることも、また、振り込め詐欺集団内部において、仲間に食事をおごることも、行為自体は「利他行動。」であり。こうした集団内部だけにおける「利他行動。」というものは、何ら社会全体において公益倫理的行動選択であるとは言えないのである。

 たとえ公益倫理的行動を採ったとしても、特定環境下、それこそ衆人環視下のような特定環境において、どのような行動を採ったとしても。それが本当に自律的判断であることの論証など、原理的に不可能なのである。単に監視している人間の顔色を窺っただけの、表面的な取り繕いに過ぎない可能性を排除することは不可能である。

 難しいかぇ?。

 多分、難しいんだろうなー。だから問題にならないんだろうから。


 ヒトという種の生物の中には、残虐行為をする者がいる。これは厳然たる事実である。その残虐行為を行った人物が、一体何を行ったとしたら、この人物が公益倫理的な自律判断を常に可能であると証明することができるのであろうか。

 殺人の罪で20年間服役した殺人犯が、出所した後数週間で再び殺人を犯したという話がある。この殺人犯が獄中の20年間において、どのような行動を採れば再犯しないという証明ができるであろうか。あるいは、どのような行動を採らなければ、自律的に自分の情動行動を抑制できると言えるのであろうか。

 もし、具体的にそれが言えるとしよう。ならば、なぜ、そうした立証を行わないまま刑期を迎えたからといって出所させてしまったのであろうか。

 皆さん、考えたくないですか。面倒臭いですか。

 そういえば、訪問アクセスIPに対して、実際の閲覧数が3倍くらいあるのは。おいらの言ってる内容がわかり難いからなのかね。何度も読み直しているのかね。何度も読み直している人がいるんだとすれば、なるべく解りやすいようにしたいとは思うんだけどね。

 話を戻しましょう。

 ある囚人が、その行動を自律的に制御でき。また、意識の広さによって公益倫理的な判断が可能であることを、特定行動から立証可能であるとするならば。なぜ、再犯はなくならないのか。なぜ、立証してから出所させないのか。

 もし立証可能であるにも関わらず、立証せずに社会に解放するというのは、これは司法の怠慢、手抜きではないのか。というかあまりに無責任ではないのか。

 現実には、特定環境下においての特定行動の抽出からは。人間としての社会性。すなはち、公益倫理的な自律的判断が常に可能であることの証明、立証は不可能なのである。

 「そんなことを考えたら、あらゆる他人を信用できなくなっちゃうし。また、信用できないなら、自分が他人から信用されることも無意味になっちゃう。」って思った?。それが恐いですか?。

 多分、おいらの言ってることは、恐いんだと思う。でも、恐いとか恐くないというのは気分の問題であり。大脳辺縁系が促す価値観によるものであるってことも、理論的には理解しているんだと思う。

 私の意識に関する話というのは、ペテン類とは異なり逃げ道がない。そのため気分的に楽になることができない。徹底的に意識の明瞭さ、広さを要求するため。気分的「救い。」がない。

 ペテン類の場合。「飴とムチ。」の使い分けをすることによって、上手に意識誘導を促して論理的思考を撹乱させることができる。だから、最終的には気分的には「楽。」になることができるので、ペテンに引っ掛かるのは簡単なのである。

 騙されやすい環境というのは、多くのヒトが騙されることを望むようにできている。

 脳というのは、理論的に考えることよりも。気分的に楽になることの方を優先するようにできている。

 理論的に考えることというのは、場合によって気分的に嫌になることもある。嫌にしかならない場合もある。大脳辺縁系と大脳新皮質は背理関係にある。そのため気分的な「葛藤。」というものが生ずるのである。

 葛と藤、なんで植物なのかは良く知らないのだけど。この二つの植物は共存できないのかな。関係ないけど。後でググってみよっと。

 天使と悪魔。悪魔に魂を売るのは簡単だけど、天使の囁きに耳を傾けるのは難しい。天使というのは囁くことしかしないからね。それに対して悪魔っていうのは声がデカイ。脅迫的に行動を促すから、多くのヒトは悪魔の声に従ってしまう。

 アイヒマン実験というのは、環境によって促される悪魔の行動に対し。自分の中で囁く天使の声に従うことの重要さを促すものである。

 オウム真理教の幹部、林郁夫は。教団からの命令に従うべく、毒ガステロを実行するとき。「自分は他人を救うために医者になったのに、こんなことをして良いのか。」と葛藤したという。

 しかし、結局テロは実行されてしまった。アイヒマン実験の被験者の多くと同じように、葛藤を抱えながらも、最終的には権威者の命令のままに他人に暴力行為を行ってしまうのである。もとい、「行ってしまいがちな傾向。」がある。

 福島第一原発の津波対策に対して、「このままでは危険なのではないか。」と思った技術者がいたかも知れない。しかし、それ以上の対策を行うことが採算性に適しないとして無視したのであろうか。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者も、気温低下に起因する「Oリング。」の柔軟性低下による燃料漏れと、それに伴う大事故の可能性を予期していながら、最終的には発射の延期をさせることは出来なかった。


 天使というのは、常に声が小さいらしい。

 「んあっ?。もっとでっけぇ声でしゃべれよ!。」

 とか言うのは酷である。優しい心というものは酔っ払いみたいに大声でしゃべるものではないからだ。

 ヒトの意識の9割は無意識であるという。従って、本当の意識とは1割以下なのである。その声が小さいのは必然というものであろう。

 無意識的行動の全てが悪魔的であるわけではない。しかし、機械的な条件反射行動というものを漫然と続けていれば、状況に依っては悪魔の行動になってしまうのである。

 アイヒマン実験でも同じことが言える。普通、権威の言うことに従っていれば、特に問題なく生活することが可能であろう。C型肝炎患者の大量生産することも、600万のユダヤ人を虐殺することもないであろう。「概ね。」問題ないのである。

 だから、普通のヒトの多くは観念的に「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという、論理的根拠のない実証不能の観念を振り回し、結局は他人に多大な迷惑をかけてしまうことにもなるのである。

 多くのヒト達に迎合しておけば安心である。その安心が作り出す価値観によって、多くのヒト達とは迎合しない人間に対する論理的根拠のない不安感、恐怖感は作り出されるのである。

 その強迫観念こそが「恥ずかしい。」という感覚なのである。

 「空気を読む。」という言葉がある。「その場の雰囲気に迎合する。」と換言しても間違いではなかろう。アイヒマン実験において、被験者の多くは、その場の空気を読んでしまった結果、自身の本当の意図とは全く異なる野蛮行為に手を染めてしまうのである。

 バカなガキが「空気読めよ。」なんて強迫強制的に行動や言動を求めることがある。こうした大衆迎合的行動への異常な執着というのは、そこに自律的な行動選択への重要性に意識が全く働いていないからである。

 むしろ、言っている本人こそが強迫観念によって操られているからこその発言なのである。

 先程、「悪魔は声がデカイ。」と述べたが。感情的な観念に由来する言動であるからこそ、強迫的であり、強制的であり。また、感情的なのである。

 ヒトは他人の感情を逆なですることを忌避する傾向がある。それは感情的でない者ほど、感情的な者のヒステリーに従ってしまう傾向がある。

 その結果、ヒステリックで感情的な者の主張に対し、多くの者は無意識的に誘導されてしまう傾向がある。

 こうした誘導の結果、ヒステリックで感情的な行動こそが多数や大勢を占める結果を導き、ますます多くの者をヒステリックで感情的な行動への気分的安心感へと誘うのである。

 ヒステリースパイラルとでも名付けておこうかな。ルワンダ内戦の大きな要因とされる、感情的な興奮状態というのは、こうして加速させられるのである。

 一度、こうしたスパイラルが生じてしまうと、もはや誰にも手がつけられない。多数というのは非常に大きな「力。」を持っているため、一度暴走を始めると抑制は効かないのである。

 「力。」を制御する目的意識は失われ、「力。」それ自体を振り回すことが目的になってしまうのである。

 本当に恐ろしいのは、「私の話。」ではなく。誰にも意識のない暴走の方が遥かに危険なのである。気分的な不安感よりも、論理的危険性を重要視すべきなのである。


 スタンレー:ミルグラムの「アイヒマン実験。」とか、「バーナル効果実験。」。あと「監獄実験。」とかも、できれば目を通しておいて欲しいですね。一度で良いですから、ヒトという種の生物の行動習性というものは知っておいて損はないですから。

 「ヒトという種の生物の行動習性。」とは、あなたの行動習性でもあるんですからね。

 今日はブチ切れません。最後まで読んで頂き有り難うございました。







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文字化け。

2011年03月25日 12時48分50秒 | 日記
 文字化けっつうのが時折起こる。

 日本語の文字コードが違うために正しい表示ができないってことらしいんだけど。表示させるときに日本語としてマトモかどうかくらい判別できんじゃないかね。嫌なのかね。何なんだろうね。

 Appleマッキントッシュで文章書いて、東芝アンドロイドに読み込ませると文字化けが起こる。不便。

 文字コードって、複数あるらしんいんだけど。明らかに文章としておかしいコードの羅列であるなら、文字化けしてることはマシンで認識出来るはずだと思うんだけど。それは何でやらないんだろう。手抜き?。それとも何かすんごく面倒臭いことなのか?。

 でも、文字化け起こしちゃうとどうにもならないんだから。デフォルトで文字コードを手動で切り替えることが出来るようにでもしておいて欲しい。

 「文字化け。」ボタンみたいのがどっかについていて、文字化け起こしたら、それを何度か押せば文字化けが治るみたいなのでもあるといいな。何にもないと、ただ文字化けした文字列を見る以外になぁんにもできないのは、なんだかとてもハイテク機器の仕事とは思えない。

 何とかならんのか。文字化け。

 東芝アンドロイドの場合、どうもマッキントッシュ標準の文字コードが文字化けの原因らしい。よくわからない。うーむ。





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冷蔵庫。

2011年03月25日 11時33分45秒 | 意識論関連
 「自律。」判断に関する話で、おいらが連想するのが、食肉の産地偽装を内部告発した冷蔵会社の社長さん。

 顧客が嘘をついて、一般市民をペテンにかけている。そのことについて告発したら、それ以外の顧客会社までもが、この冷蔵会社から撤退しちゃったんだそうだ。

 なんかおかしくね。むしろ偽装とかを告発してくれるような冷蔵会社であるならば、それは積極的に扱ってもらおうとするもんなんじゃないかね。

 撤退した会社って、もしかしてやましいところがあったのかぇ。あやしい。

 その後、紆余曲折の後に冷蔵会社は再建したんだそうだけど。告発直後に撤退した会社名までも公表して欲しいって思うのおいらだけかね。だって、あやしいじゃんか。知りたい。

 冷蔵会社さんからすると、もう顧客を失いたくないって思うかも知れないけどさ。でも、一体どういう「理由。」で撤退したのか知りたいわー。理由だけでも聞きたいわー。なんなのさー。何が気に入らなかったのさー。




 漢数字の「一」と、伸ばすときの「ー」ってキャラクターコード的には同じなのかね。どうでもいいんだけど。ふと思ったのでーす。




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変換効率。

2011年03月25日 11時02分34秒 | 日記
 真夏の電力需要対策として、電力消費の大きな施設にガスタービン発電機を普及させるって話が出てる。

 前にも言ったんだけど、エアコンっつうのは電気で回さなきゃいけないって物でもないんだけどね。ガスタービンでもレシプロでも、風車でも何でもいいから、動力でコンプレッサーを回しさえすれば冷やしたり暖めたりすることはできるんだからね。

 ガスタービン発電だって、どのみち燃料は必要なんだから、その燃料の動力でコンプレッサー回せば良いのに。

 燃料で動力を得て、それで発電して、またモーターで動力に変換してコンプレッサー回すって。その途中に電気要らないでしょう。

 電気で回すとインバーターっつう器用な動作ができるので、その分省エネではあるんだけれど、インバーターっつうのは最大出力で回している時には全く省エネ効果がないものなのよ。

 だから、電力消費の大きな施設であるならば、エアコンの一部を燃料動力で直接駆動するエアコンにしておいて。真夏の糞暑い時には動力全開で回すんならその方が効率は良い。

 理解している?。

 おいらって説明下手?。

 それともおいらのことが嫌いで理解したくないとか?。

 もしかして読者全員おバカさん?。(だから、そーゆーこというなって。)




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