書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

本能。

2011年03月24日 23時40分16秒 | 意識論関連
 大脳辺縁系が促す情動行動というものは、動物的な本能によって行動を促す。これは祖先における結果的な生存につながった行動習性が受け継がれたものである。

 従って、誰かれ構わずヤリまくった祖先の行動の結果的な「種の保存。」の結果としての本能として、過剰なまでの性的欲望が組み込まれているとしても。それは当人の「意思。」ではない。さらにいえば、女性がレイプによって快楽を感じてしまったとしても、それもまた当人の「意思。」ではない。

 生物として保存された種としてのあらゆる本能自体は全て当人の「意思。」すなはち本質的意識的選択ではない。

 ご先祖様がどのような利己的な行動によって結果的生存につながったのかを。我々子孫は選択できないのである。野生における動物の行動というものに、人間としての倫理とか自律などというものは意味を成さず。全く無関係である。

 従って本能的行動を促す大脳辺縁系の構造自体に、人間としての社会性など存在する論理的な根拠はない。

 単なる本能的な行動結果に基づく生存と、人間としての目的意識に基づく行動とは無関係である。

 「お前ら、どんだけ説明したら理解できるんだよ。」的に投げやりな気分に陥るのだが、それは私の個人的感情論なので、「勝手にムカついていろ。」と無視して構わない。読者の感情論に私が一切関知しないのであるから。皆さんも私の個人的感情も無視して構わない。(んじゃ、書くなよ。)

 本能のままに行動するチンパンジーの結果に対し、如何なる生物学的な追認的なこじつけを行っても、そこから「人間としての社会性。」を証明することは理論的に不可能である。

 野生における動物の行動習性というものは、ある程度の狂暴性や利己性を持たなければ過酷な自然界において生存には結び付きにくい。だが、それは全て結果論である。本能的な行動習性の結果としての生存自体はあくまで結果であって、目的ではない。目的とは、意識によって導き出されるものであり。その意識の広さ、明瞭さに依存する。泥酔者の意識による目的に意味がないのと同様に、本質的意識を持たない者の目的意識などというのは、要するにサルの目的でしかない。

 従って、私の論ずる本質的意識論とは。本質的目的論でもある。

 目的とは、意識によって、認識の範囲内において鑑みることの可能な暫定的な目的のことである。

 絶対的な目的などというものは、有限の認識、有限の記憶容量、有限の思考能力しかないヒトには、原理的に認識不可能なものである。

 たとえば、温室効果ガスの排出が環境破壊に繋がるという認識があるからこそ、排出規制という行動が導き出されるのであり。それ以前の認識がない時点では導き出されることはないことからも。あらゆる行動目的は常に暫定的なものなのである。

 従って、人間は常に新しい認識に基づいて行動目的を更新し続けなければならない。それをできなければ本当の意味においての「人間。」ではないからである。これはあくまで理想に基づく論証であるから、全てのヒトが神経症的にあらゆる認識をしなければならないということではない。現実的には自分の行動責任の範囲内において、認識をすればよい。むしろ問題なのは新たな認識を得たにも関わらず、それが目的行動に反映されない精神的な怠惰なのである。

 人はそれぞれ自分に課された責任というものがあり。それは人それぞれ程度が異なって然りである。重大な責任に関わる人だけが公益倫理的な自律的判断をしなければならないわけではなく。全ての人に、それぞれの責任において、自律判断を行わなければならないのである。

 人は誰も神ではない。完全なる人など実存しえないからである。神が人の理想であるならば、それは目指すべき「方向。」ではあるが、誰もその行く先を認識することはできない。人は神ではないので、有限の認識能力しか持ち得ないからである。






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卵。

2011年03月24日 23時11分27秒 | 日記
 卵がなくなったので、買いに行った。

 行きつけのスーパーにないので、少し離れたスーパーに行ったのだが、やっぱりなくて、さらに別のスーパーも回り、結局5軒回ってどこにもなかった。

 寒い中、悔しいとか思いながら、近所のコンビニでお菓子でも買おうと思って入ったら、あった。1パックだけ。

 卵に関しては、供給自体が少ないみたい。でもパンに関しては供給が乱れているみたい。今日は全くなかった。先日は山積みになってたから、供給自体はあるらしい。

 牛乳は放射能汚染だとか、パッケージの紙パック工場が壊れたとか。いろいろあって供給不足らしい。

 店舗の棚には潤沢にはないんだけど、なんだかんだで入手はできるところをみると、そんなに逼迫しているとも思えない。

 商品が入手困難なので、単価が上がってデフレが治まっているようにも見える。もしかするとこれが原因で景気が上向くかも。楽観し過ぎかな。

 ガスコンロの安全装置の単1電池が入手できなくて、何となく不安。警告ランプが点滅しているうちに入手したいところ。
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いいえ、誰でも。

2011年03月24日 22時15分38秒 | 日記
 公共広告機構(早口言葉みたいだな。)金子みすずCMがかわういらしい。

 あの静かなピアノ曲は、PICNICとかいう邦画のサウンドトラックにあるらしいって、ツイッターで見た。確認はとれてない。

 理論的に見ると、(見るんじゃねぇよ。ほっとけよ。)みすずの詩は、子供の反射的な反応を述べているだけである。(身も蓋も無いな。)

 詩の最後「いいえ、誰でも。」というのは、ヒトという種の生物である以上、こうした反応は普遍的に見られる行動である。従って、「多くの場合。」において、これは間違いではない。

 別にみすずは科学的理論を追求したわけではないので、理論的厳密性は必要ない。(んじゃなんで理論的に見たんだよ。)

 世界的に有名なアニメーション映画監督の宮崎駿は、自身の作品を指して、「気晴らし。」と言った。極端な言い方をすれば「精神的な現実逃避。」のようなものである。

 震災被災者にとっての現実は、あまりに過酷なものである。家族を失った方の中には、顔から表情が失われて、全く現実を認識できていないような方もおられた。悲しみの中枢すら機能しなくなっているのかも知れない。それ程の状況なのであろう。

 あまりに悲し過ぎて、もはや何だかわからない状況なのであろう。

 「恐すぎて、笑っちゃう。」というのは時折ある。ニューヨークの9.11テロの映像でも、あまりの恐怖に、「これは本当は、何か周到に準備されたギャグとかサプライズなんじゃないか。」そう思ったのかも知れない。

 こんなふざけたブログで扱うのも間違いかも知れないが。「悲しい時は、泣くもの。」という通説も、場合によっては真ではない。




 「いいえ、誰でも。」ではないこともある。それが言いたかったのです。


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挨拶。

2011年03月24日 20時22分57秒 | 意識論関連
 挨拶とは何か。挨拶をすると気分的に「安心。」だから行うのである。それは逆にいえば挨拶をしないと気分的に「不安。」であるということでもある。

 挨拶とは儀礼であり。形式である。つまり、表面的ものでしかない。

 挨拶と人格性に関連はない。連続殺人犯の多くは挨拶などの表面的な儀礼はきちんとできるものであり。よく逮捕後に「まさか、あの人が。」といった意外性に驚く話は少なくない。

 子供が元気に挨拶をすると、「元気があって、よろしい。」などと満足するオヤジがいるが。こんなものは大衆凡民の勝手な観念でしかない。大人の前でだけ調子よく挨拶をしておいて、影でコソコソ悪いことをしているクソガキを、私は幼少期にたくさん見ている。

 私のような衝動殺人型の人間は挨拶がヘタクソである。別に挨拶をするなとは言わないが、挨拶の上手下手と人格とは無関係であるということが言いたいだけである。まあ、衝動殺人型の場合、やましい部分があると挨拶である程度雰囲気に出るので、見知らぬ人の場合に挨拶をしてみるのは防犯上有効ではある。だが、連続殺人型の場合はこの限りではない。

 公共広告機構のTVCMとかで、挨拶を要求するような社会的雰囲気の強要に意味はない。挨拶などの形式的、儀礼的な行動に固執するのは、むしろ生物学的な社会形成習性に由来する本能的、感情的な強迫観念によるものに過ぎず。ヤクザや暴走族などのバカの集団ほど形式に対する要求が厳しいものなのである。

 挨拶がどんなに上手でも、それと人格性、公益倫理的な自律判断力とは無関係である。

 挨拶をしたいというのであれば、それは勝手である。しかし、挨拶をしたからといって、それによって安心したからといって、それが「安全。」であることの論理証明にはならないのである。

 「人は、見た目が9割。」などという書籍が流行したが、ヒトの意識の9割は無意識であることに由来する結果論であり。単なる結果論自体をどんなに枚挙しても、それが意識的な目的行動としての正当性の論証にはなっていない。

 むしろ、見た目だとか、個人的な好き嫌いに関わらず、言っている内容の論理的理解に基づく意識的な判断こそが重要なのであり。それがないから振り込め詐欺に引っ掛かるのである。

 ヒトは動物であるため、どうしても行動判断に感情が優先してしまう傾向性がある。嫌いな人間の言うことを無視し、意識から外し、盲目になることで大脳辺縁系を満足させて思考停止に陥ることが気分的に「安心。」なのである。

 カルト宗教の信者などに見られる「アスペクト盲。」などの盲目性は、こうした大脳辺縁系が促す情動行動、思考によって促されるのである。

 こうした行動への「思考。」というのは、実際には「思い。」込みは存在するが。それが正しいのかどうかを「考え。」るための認識は開かれていない。

 一度大脳辺縁系に刷り込み学習されてしまった固定観念、固定的価値観に基づいた行動以外を自律的に選択するためには。それらの観念、価値観が正しいのかどうかを判断するための客観性が必要不可欠であるが。大脳辺縁系が促す行動「学習。」結果というものからは、こうした客観的な視点というものは出てこないのである。

 いわば、大脳新皮質を単なる無意識的行動を学習「された。」ストレージとしてしか使っておらず。行動の全てが大脳辺縁系によって刷り込まれた結果的好き嫌い以外に行動選択をすることが一切できなくなってしまうのである。

 大脳新皮質が、大脳辺縁系の奴隷、外部記憶としてしか使われていないのである。一度こうしたスパイラルに陥ると、もはや新しい認識など存在しないも同然なので。あらゆる事実は意識の上から排除され、無視されてしまうのである。大脳容積の優位性というものは失われ、新たに学習「する。」ことができなくなってしまうのである。

 新たに学習「する。」こと。それこそが認識を変化させ、目的行動のリフレッシュ、更新が可能となるのであるが。既に学習「された。」行動だけしか選択できないということは、機械的条件反射行動しかできないということである。前者が意識機能が働いている状態であり、後者が無意識だけの状態である。

 鳥類のヒナなどに見られる「インプリンティング。」すなはち「刷り込み。」行動というものは、鳥の脳には最初から認識更新を行う機能がほとんどないことから、こうした行動を採るのである。

 カンザシフウチョウの雌が、雄の踊りに夢中になって「酔う。」というのも。そこに目的意識などがあるのではなく、単に脳の古い領域に組み込まれた結果的行動のままに、機械的条件反射行動として組み込まれた行動結果でしかないのである。こうした無意味な行動の結果として生存に適さない場合に、現在の生物学は「進化の袋小路。」などと言い逃れをするのである。

 本能的行動の結果として、それが生存につながれば「目的。」であると言い張り。一方生存につながらなければ「進化の袋小路。」と言い逃れをする。それが現在の生物学のこじつけである。

 こんなご都合主義な言い逃ればかりしておいて、当人達はそれを科学的であると勘違いしている。何か統合失調症とかの精神疾患だとしか私には思えないのだが。東大の佐倉統(さくら おさむ)などは、「学界内部で大勢を占めていない。」などという多数決を持ち出すだけで、一切論理的検証も、また、何らかの反証も持ち出さない。こんな無能で怠慢なバカが東大で教授をやっているくらいであるから、そこからは何ら新しい発見も、また、間違いに気付くわけもないのである。東大というのはこういうバカが集団で年功序列体制維持を行っているだけであり。こうした年功序列体制の原因というものは、集団を形成する個人が体制に迎合することによる保身感情しか働いていないからである。

 これは体制内部にとっては確かに「利己的。」ではないだろうが。社会全体から見れば極めて利己的な保身行動なのである。

 特定の体制内部において利己的でなくとも、体制維持だけを目的とした体制自体の利己主義を振り回すのは、社会全体からみれば充分利己的なのである。(理解してる?。)

 養老とかが言っている集団主義、共同体主義というのは。こうした特定体制内部における利己性を正当化するための屁理屈なのである。ナショナリズムの根本的欠陥というのは、共同体内部に対する迎合性を、あたかも普遍的な意識の広さであるかのようにすり替える部分である。

 「地球の裏側の人間が何を考えているかなど、私の知ったことではない。」などと言いながら、「共同体と、心を一つにしないのは。心の狭い態度です。」などという意識狭窄性全開なことを言い出すのは、明らかに養老の脳がイカれているからに他ならない。

 占い師が「他人の言うことを信じないのは、心の狭い人間だからです。」などと言い張るのと同じことであり。自分に都合の良いことだけを信じ込ませるための詭弁でしかなく。こうしたペテンの手法を養老は取り入れているのである。

 論理的に考えられる者であれば、養老に対して「お前の言うことは、わからん。」の一言で一蹴するが。そうでない大衆は簡単に丸め込まれるのである。この「大衆。」の中に東大生物学部が含まれていることが大問題なのである。

 少しは理解出来たか、このボンクラ共め。(またそういうことをいうー。)




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人肉。

2011年03月24日 14時59分57秒 | 意識論関連
 共食い云々の話になると、時折出てくるのがアンデス山中での航空機事故の話。

 でも、この事故の場合。食べられた人の同意の基に食べているので、これを共食いであるとするのはちょっとおかしい。

 チンパンジーとかの共食いの場合は、相手の同意なんぞ一切得てないし。極めて野蛮な動物の行動の結果なので。これをアンデス山中の状況と同列に扱うのは間違いだろう。

 おいらだって、致命傷を負ってしまって、もう自分は助からないとなれば。別に誰かに食べられても構わないって思う。それを野蛮だなんて一切思わない。ちょっと形式の異なる臓器移植だと思えば、別に野蛮だなんて結論にはならない。

 単に「人肉食。」云々だけを抽出して「共食い。」だなんていうのはおかしい。歌手のCoccoとかが、自分の子供が死んじゃったら、食って自分の血肉にして、ウンコにして出す。って言ってたけど、「死んじゃった。」のなら、それも間違いではないのかなって思う。そういう弔い形式もあるのかなって。だって、箱に詰めて燃やしちゃうとか、石の下に封じ込めることが残酷でないかどうかなんて、もはや個人の価値観の問題じゃん。幼い子供であるなら、母親のお腹に戻れるなら、それもまたその子供の幸福なのかも知れないって、おいらは思うのさ。

 葬儀の形式だって、いろいろあるでしょ。因習に囚われて墓石の下に封じ込められることが「正しい。」なんて言えないじゃない。おいらだったら散骨とかの方が潔くっていいなって思う。石の下に封じ込められるなんて、「俺は妖怪じゃねぇ。」って思うもの。

 幼女誘拐殺人犯の宮崎勤とかの野蛮な「共食い。」と、アンデス山中の事故と同列に語るのは間違い。別に食べたいから食べたんじゃなくて、他に生き残る手段がなくて、仕方なく食べたんだから。それを単に欲望のおもむくままに健康な少女を食っちゃったのと同じにはできないよ。

 おいらの意識論においては、「生存自体に意味はない。」って言ってるけど。それは例えば死んじゃった人から誰からも「食べていいよ。」っつう同意が得られていない場合は諦めろってことであって。何か人肉食であるということだけを論じるのは議論がトンチンカンな気がする。

 いわば物理的な「献身。」的行為は悪だって言っておいて、それじゃ原子炉冷却のために献身的に働いている消防士さんたちを評価するってのは、何かおかしいじゃない。「英雄だ。」って持ち上げておいてさえすれば、原子炉の暴走を止められるっつうのは。言うなれば消防士さん達を「食い物。」にしているのと同じじゃん。

 物理的に消防士さんの肉を食ってないから、それは良いことで。物理的に食ったから悪いことだなんて、なんか都合が良すぎる。おかしい。

 アンデス山中でヒトの肉を食べた人達のことを悪くいうのはおかしい。食べられた人からすれば、食べた人が元気に生き延びてくれることを願っていたんだから。それをいわば部外者でである他人がとやかく言うようなことではない。

 むしろ、彼らの悪口を言うっていうのは。自分の肉体を提供した人の意思に反する卑劣な言動だとさえ思う。そんなことのために提供したはずじゃないじゃんよ。提供した人がうかばれないよ。失礼だよ。違うか?。


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黄色い粉。

2011年03月24日 12時42分55秒 | 日記
 黄色い粉が降り積もっているらしい。千代田区だかが放射線測定したら、全く放射線は出ていないっつう話。

 花粉だろうって話なんだけど。今まで花粉が黄色く溜まったことなんか見たことないので、何となく気持ち悪いやね。たまたま雨の後に花粉が大量に飛んだ直後に再び雨が降って固まったってことらしい。去年の猛暑で花粉の量が凄いからね。

 偶然原発事故の時期に重なったので、放射性物質なんじゃないかって疑われたようだけど。もし原発が原因なら、原発の周辺で真っ黄色に降り積もらないとおかしい。

 水道水にヨウ素131が増えちゃったっつう話。でも、あきらかに関係なさそうな奴が水を買い占めている様子。わからんけどね。孫がいるのかも知れんけど。摂取制限なのは乳幼児とか妊婦さんなので、できればそれ以外の成人はミネラルウォーターは買わないようにしとけよって思う。どうしても不安ならお茶とかにしとけ。

 でも、どうなんだろう、ペットボトル入りの水だからって、本当に放射性物質が入っていないって保障があるのかな。別にペットボトルの水を製造している工場でも、ヨウ素とかセシウムを除去しているわけではないだろうに。まあ、産地が原発から遠ければ遠いほど安全そうではあるけどね。

 疑い始めるとキリがないので、おいらは水道水を飲んでいる。金町浄水場で放射性物質を検出したって話だけど、おいらの家は違う浄水場の方が近いので、気にしなくてもいいのかなって思う。ヨウ素って除去できないのかな。浄水場で除去しちゃえば何の問題もないんだけどな。多分すんごい微量なんだろうな。

 前にも書いたけど、発癌性物質ってのは放射能だけじゃないんだろうけど。結果的に発癌性物質を放出しちゃったという「結果。」に便乗して放射能を正当化する屁理屈はウンザリする。自然界にも発癌性物質はあるけど、それは自然だから仕方ないこと。だから納得ができるけど。そこに便乗して放射能を正当化できるわけじゃないだろうよ。なんか許せないわー。

 核融合炉とかってどうなんだろうね。あれはフェイルセーフ、構造的に暴走したりしないのかね。もし何がおきても暴走しないっつうなら核融合発電が実用化するまで原子炉はやめておいて欲しいな。で、もし絶対に暴走しないっつうなら東京湾に作ろう。その方が送電損失が少ないんだからね。

 福島県のちぢみほうれん草がもったいない。おいしそうなのに。県境なんていう行政区分が危険なんじゃなくて、危険なのは放射能なんでしょ。だったら放射線量を測定して大丈夫なら市場に出荷すりゃいいじゃんか。難しいのか。それって。逆に言えば、他の原発周辺で栽培している農作物の放射能測定もして欲しい。原発に関しては北朝鮮とか何やってるかわかんないからね。もしかしたら放射能ダダ漏れなのかも知れないじゃん。

 一説によると、風力発電の方が採算性が良いって話もある。地熱発電なんて火山とかプレート境界特有のエネルギー源なんだから、地震大国としてはそっちにお金かけた方が正解なんじゃないかね。何かと採算性って話が出てくるけどさ、安全と採算性って秤にかけるようなもんじゃないだろうって思うんだけど。違うかな、違わないような気がする。工場とか工事現場って、基本的に「安全第一。」じゃない。それが結局は採算性につながるからそうしているんだよね。一般企業がそういう選択をしているんだから、国の事業としてもそういう選択をすべきだと思う。

 危険学とか失敗学といった工学系理論は、なぜ原発の危険性に言及してこなかったんだろう。畑村洋太郎とかって東電に買収されてたのかね。航空機の話ばっかりしてて、全然原発の話が出てこなかった。それとも一度重大な失敗をしなければ、その他の失敗については全く応用できないようなものなのかね。でもスリーマイル島原発事故とか、奥尻島災害とか、教訓にできる要素っていっぱいあったと思うんだけどね。

 子供向けの変な遊具とか作ってる場合だったのかね。畑村のジジイは。何か腹立つわー。腹が立ったのでこの辺で終わる。でわまた。



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書き込み炎上。

2011年03月23日 15時04分41秒 | 意識論関連
 意識とかとは無関係な話だったのだが。とある書き込みサイトに迷い込んでしまったので、何となく読んで見たのだが、若干炎上気味だった。

 しかし、こうした書き込みの議論というのは。実際には議論にはなっておらず。「お前の言っていることは薄い。」だとか、「十年早い。」だのといった、単なるその場限りの勝ち負けとか、格好良さばかりに終始していて。何だか議論には一切なっていなかった。

 そもそも勝ったつもりになっている人も、あまり独創性のあるような自発的意見ではなくて。どっかで聞いたような話をひけらかしているだけにしか見えなかった。内容的には栄養学的な話だったと思う。

 大量の知識をひけらかしていると、大衆の観念的にはそれを知能であると錯覚する傾向がある。これは記憶力=知能という観念的な方程式に由来するものであって、この方程式に論理的根拠はない。

 単に暗記能力だけを論ずれば、HDDに較べればヒトのそれは些細なものであろう。それならHDDの容量に比例する「知能。」が存在することの論証があろうか。

 暗記を競技としたイベントがあるそうだが。これは単なる競技っであって、どんなに大量の記憶をしても、そこからノーベル賞級の発見とか発明がでてくるわけではない。そもそも記憶する内容自体が論理的な内容ではなく、支離滅裂なランダム情報の機械的記憶能力を競うだけのものであり。たとえどんなに大量の情報を記憶していても、その論理整合性の有無を発見できなければ、単に覚えたというだけのテープレコーダー的な能力でしかないのである。

 実際、暗記コンテストの優勝者というのは。かなりイタい(+。+)人だったりする。一種の軽いサウ゛ァンなのではないか。

 記憶術の類を習得すれば、大衆観念的には「自分は頭が良くなった。」と勝手に思い込むらしいのだが。誰一人として養老孟司の「脳化。」云々の話に論理整合性がないことには気付くことはない。茂木健一郎とかの脳科学者達は、暗記術の類を開陳して「ほら、皆さんの脳は良くなった。」なんて言われて、大衆は本気にしている。これは私から見ていると一種の軽い統合失調症なのではないかと思う。

 こんなこと言われて気分的に嫌になるのは必然であろう。だが、おいらは読者の大脳辺縁系に組み込まれた機械的条件反射としての嫌悪感には一切感知しない。多少はするけど。

 ごめんね。おいらはあんまり生物的な社会形成性がないので、気分的に当たり障りのない言い方が苦手なんだと思う。

 気分的に嫌になっても。内容さえ論理的に理解してもらえればいいので、おいらのことを個人的に嫌いになっても構わないから、内容だけキチンと理解しておいてね。

 嫌いな人間が正しいことを言うこともあれば。逆に好きな人間がトンデモ発言をしていることもあるんだよね。カルト宗教なんて、大好きな教祖様が地下鉄に毒ガス撒いて来なさいって命令されているでしょ。

 個人的な好き嫌いなんていうのは、要するに生物学者が論ずる「潜在知。」であって、そんなものが本当の知能であるなんて話はオカルトでしかない。大脳辺縁系の構造とか、それが促す行動とかが、個人が個人である論証とか。あるいは人間としての知能であることの論証にもならないんだけどね。

 だって、あなたの大脳辺縁系の構造っていうのは、結局は遺伝的なものでしょ。その遺伝子を、あなた並べた記憶なんてないでしょ。だったらあなたの大脳辺縁系ってあなた自身の選択によって作られたものではないのよ。大脳自体に記憶された潜在的な好き嫌いであっても、それも結局は育った社会とか時代に依存するものであって、時代とか社会自体もあなたの選択によるものじゃないでしょうが。

 んで、養老とかの場合は、こっから「意識に意味はない。」とか「自分の自律などない。」とか「倫理、倫理の大合唱、いつからヒトはスズムシになったんだ。」なんて話に丸め込む。「客観的事実などない。」ってのもあったな。多分こいつ本気で言ってるぞ。

 ヒトは、感情を揺さぶられると理性的な判断を失う性質があって。理性判断が失ったところで、上手に安心感を与えるような観念のまどろみに誘うと簡単にペテンに引っ掛かるようになる。「お金さえ振り込んで頂ければ、全ては丸く納まるんですがね。」なんつって。

 だけど、おいらの意識に関する話には、そういったペテン的な逃げ道がないので、徹底的に理論的に追求するために。多くのヒトは逃げ出しちゃう。「ヒトはそれ程までに弱いもの。」なのかも知れないね。いや、突然急に理解できなくてもいいんだ。少しずつ、一つ一つを積み重ねることが大事。だからこうして断片的に説明しているんだから。前にも言ったけど、慣れることも大切。慣れないことは急にはできないものだからね。

 だから、今日はこの辺までにしておくね。でわまた。






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大脳辺縁系。

2011年03月23日 12時56分13秒 | 意識論関連
 現在の脳科学界においては、大脳辺縁系の働きこそが人間としての対処対応能力であると言い張る。

 たとえば、以下の文章である。

  大脳辺縁系では、恐怖や怒り、嫌悪、愛着、喜び、悲しみなどの情動といわれる、動物でも 持っている感情をつかさどっています。 たとえば、空腹のときには空腹の情動を感じます。 近くで大きな音がすれば、恐怖を感じます。 自分のなわばりを侵犯されれば、怒りを感じます。 大脳辺縁系のコントロールがあると、いつも決まりきった行動とはなりません。 さまざまな状況に応じて行動に変化が生まれます。 空腹のときには、まず空腹の情動が発生します。そして、そのときの状況に応じた方法で、 餌を探し始めます。


 これらの条件反射的行動はイヌでも可能な行動である。チンパンジーでも可能であろう。さて、これらの行動が人間であることの論理的な証明になるであろうか。

 通り魔の犯行動機とは、「ムシャクシャしたから。」といった感情論でしかありません。その「ムシャクシャ。」とは何か、これこそ大脳辺縁系の促す情動行動に他なりません。

 ネットでチンパンジーをググったら、共食いなどの狂暴行動が山ほどヒットしました。NHKの番組で放送したらしいのですが、現在の生物学に基づく脳科学的な「実証。」というものは、基本的にチンパンジーでもヒトでも同列に考えた、行動習性の結果論だけに基づいた事後追認的なこじつけでしかありません。

 アイヒマン実験において、被験者の多くが行った残虐行為であっても。これらは無意識的な情動行動に基づく行動結果であり。ミルグラムもまた、「サイバネティクスの観点から。」などと称して生物学的なこじつけをしています。こうしたこじつけというのは、偶発的にうまくいったこと「も。」あるから、そこには一定の意味があると言い張る詭弁でしかありません。

 振り込め詐欺に引っ掛かる人の脳においても、感情が理性を押し潰して行動を促すから引っ掛かるのであって。大脳辺縁系が促す情動行動というものは人間としての理性的行動や、意識の広さ、明瞭さを不具にしてしまうものでもあるのです。

 情動の全てが悪いわけではありませんが、単に情動行動だけを人間性であるとするのは乱暴過ぎる勝手な実証不能の観念でしかありません。情動というものは様々なものがあり、暴力的な感情や、利己的な感情も存在することは確かなのです。

 理性は、それ自体人畜無害なものであり。あくまで情動によってのみ行動が促されるのですが。しかし、その情動を選択することによって、自律的に自己の行動を制御することができるという、統合的な意識。本質的な意識の働きによって、より高い人間性として公益倫理的な自律判断行動が選択できるわけです。

 気分だけを論ずれば、こんな記事を書いて多数の大衆から嫌われるよりも。多数の世間に迎合しておいた方が、気分的にはどんなに楽であるか。それでも、本当の意味における社会的要請として考えれば、現在の嘘だらけの生物学や脳科学は批判するべきであると判断して、これを書いているのである。

 大脳辺縁系が促す情動行動というものは、あくまで環境に対する機械的条件反射行動でしかありません。どんなに「多くの場面。」において、それが生存価につながったとしても、それ自体が「人間としての社会性。」の証明にはならないのです。

 シエラレオネで生まれ育ったからとか、ナチス政権下で育ったからとか。そういった環境依存的な言い訳の全ては、自律判断の欠落を証明するものでしかありません。

 環境に依存せず、他人からの評価が得られなくても。たとえ迫害されてでも。何が正しいのかを自律的に判断できなければ、人間としての行動選択はできないものなのです。

 過去の偉人と言われる人達の多くは、こうした世間多数の観念と闘った話が残されています。脳外科医の福島孝徳さんだってそうでしょう。コーヒー豆でもないのに火炙りにされそうになっても「それでも地球は回っている。」とガリレオは言ったといいます。

 ナチス政権下において、ナチスが間違っていることを言えば。それがスイス山中での自害に追い詰められることにもなるんです。


 世間一般の人達というのは、漠然と「社会的に成功している人というのは、知能が高いものであり。また、盲目的に信頼して構わない権威である。」と思い込む傾向があります。「多数の人達に認められているから、間違いなどない。」と、錯覚するのです。

 しかし、現実には多数の人間が疑わないという一面的事実だけに基づき、単に気分的に安心して、思考停止に陥っているだけの場合がほとんどです。

 帝京大学の「血液製剤の権威。」に対して、当時の厚生省の役人の誰も疑うことをしなかったのは何故でしょう。マスコミは、たまたま失敗した役人の悪口をひけらかして正義になった気分を煽るだけで。自分達の間違いは自律的には訂正するつもりは一切ありません。「ヒトとは、そういうもの。」なのです。これは大きな組織になる程体制維持ばかりに固執する傾向があります。北朝鮮などが典型的でしょう。

 組織が大きい程、その組織に対する従順性を発揮していないと不安であるという習性は。生物学的な社会形成習性に由来するものです。組織が大きい程安心し、同時にマイノリティを排除するという情動行動を促すものであり。これは組織の大きさを権威性と見なす観念からくる行動なのです。

 これは子供のイジメなどにも見られる行動原理です。イジメをする側の多数集団を権威として見なし。閉じられた社会の内部における少数派の排除を行う本能的な情動行動であり。その行動は極めてパターン性が強く、普遍的に見られる行動習性なのです。

 何せ、本能的な行動ですから。その行動が先鋭的であるため、イジメはより虐待性が強く反映されることになるわけです。

 暴動などにおいても、その人数というのは狂暴性との比例関係があります。恐らく人数の何乗かに比例するのではないでしょうか。あまり社会心理学的な実験はして欲しくはないのですが。フランスとかではアイヒマン実験をテレビ番組で再現したそうですから。ヨーロッパ人だとやりかねないですね。白人というのはそういうところはシニカルな民族性があります。

 集団心理といわれる、一連の行動習性というものも。要するに本能的に集団で行動することが気分的に安心であることから生ずるものであり。逆にいえば、集団に迎合していないと反って不安に陥ることから、強迫観念的に迎合してしまうわけです。

 日本人というのは、根本的に共同体意識が強い臆病な民族ですから。権威とか多数に対して非常に無批判的であり、同時に迎合的でもある。幼少期にイジメなどを間近で経験していると、余計に迎合性が強くなり、同時に批判精神を失うことになるわけです。

 ヒトという種の生物は、服従する者と、統率する者に分かれる傾向性があります。しかし、これはあくまで本能習性的な結果論であって、それ自体は目的意識があって分かれるわけではありません。単に統率したがる者と、服従してしまう者がいるというだけのことであって、それが必ずしも正しい結果を導くとは限らないのです。

 単に多数の人間から人気があるからといって。それが本当に信頼に値すべき人物であるかどうかは、言っている内容の論理整合性とか、責任性とかで判断すべきことなのであって。何となく無意識的に「マスコミが責任持っているはずだ。」などと思い込むのは、あまりに短絡的で、無防備なのです。

 テレビのCMで流しているからといって、それが短絡的に信用してよいというものではないのです。だからマスコミは「メディアリテラシー。」を視聴者に要求する。これはマスコミの責任逃れの言い訳でしかないのです。金さえ払えば誰でもTVCMは流せるんです。広告収入なしに民放なんて成立しませんから、広告主の批判なんてするわけないでしょ。民放なんて資本主義の奴隷でしかないんですよ。

 恐ろしいことにNHKであっても、大衆に人気が得られそうにない話は無視するんですよ。「視聴者の皆様から、要望がなかったから。」ってね。漫画家の「くらたま。」とかいう観念の塊みたいな人間を審査委員会だかに雇っているでしょ。あれは明らかに大衆からのウケ狙いですよ。香山リカを雇っている大学とかも同じです。大学だって生徒を入れなきゃやってられない。だから学者としてはE級であっても世間的にウケの良い人間を教授に祭り上げておく。さかなクンは実力派らしいけど。



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非環境依存性。

2011年03月22日 17時52分48秒 | 意識論関連
本質的な自発性というものは、その思考過程において環境依存性の影響を受けにくい。

 田中耕一が質量分析計の研究をしていたとき、多くの研究者は諦めてしまった。どんなにたくさんの実験をしても、全く手掛かりさえ見つからなかった為。どうせ続けても評価なんぞ得られそうにないって「思って。」、諦めてしまった方が気分的に楽だった。だから多くの研究者は質量分析計の研究から手を引いてしまった。

 田中が研究を続けたのは、「できるかどうかがわからない。」から続けたのであり。それは同時に「できないことの証明もない。」から続けたということでもある。こういった執念にも似た熱心さというのは、本質的自発性がなければ発揮されることはない。

 田中はいわゆる研究バカである。研究室に閉じこもって、朝から晩まで実験機械に囲まれているのが楽しくて仕方ないという「変人。」である。だからノーベル賞を獲っても実験をやめる気は一切ない。


 成績評価を抽象化した「エサ。」として獲得した学力だけでは、成績評価をおこなう他者の存在が不可欠であり。この他者の存在なくしてそれ以上のいかなる能力も発揮されることはない。教えられたことが間違っていても、間違ったまま憶えなければ成績評価にならないからである。たとえ間違っていることに気付いたとしても、その間違いを指摘しても評価されそうにないと決め付け、多数他人の意見に迎合して、一切精密検証性も発揮されることはないし。また、それに伴う批判精神も発揮されえない。

 チンパンジー同様に、与えられて発揮される能力以外の何も発揮されることはないが。逆に与えられて発揮される能力は異常に高いのである。

 チンパンジーの瞬間記憶能力が異常に高いのは。エサに対する異常なまでの固執と、それ以外への意識の働きが全く存在しないことによる異常なまでの集中性によるものである。

 千住鎮夫の教育方針として、「脳にとって最も重要なのは集中である。」という部分がある。だが、千住の教育方針の最も重要なのは、「集中を最も促すのは、好きなことである。」という部分なのである。

 自分の本当に好きなこと、本当に自発的にやりたいことでなければ、本当の集中力というものは発揮されない。

 この話になると必ず出てくる話が「褒められることが大好き。」という話である。こうなると先天的にバカなんじゃないかと思うのだが、大乗仏教よろしくバカの一言で片付けてしまうのは慈悲に欠けるので、一応話を続ける。

 千住一家の一番バカなのが長男の博である。千住博は子供の時、壁に落書きをしていた時に父親に見つかり、その時落書きをやめたという。

 「落書きを見つかれば、叱られるものである。」と、わかっていながら落書きをしていたからに他ならないのだが。父親の鎮夫は「なぜ、描くことをやめた。」と言ったそうである。そしてこう続けた、「自分が良いと思うことであれば、他人の目を気にせず全うしなさい。」と。

 この話をNTVのバラエティー番組で取り上げたとき、司会の島田伸□は「こんなんは、天才一家のやることであって。俺ら凡人には関係ない。」と言った。聞き慣れない話、難しそうな話、自分ができなかった、しなかった事柄に対して、既にやらなかった自分の行動を事後正当化する形式で、論理的根拠もなく観念的に否定することで気分的に安心するのである。

 「褒められないとできない。」というのは、要するに「甘え。」ているだけである。哺乳類などの養育の必要な生物の習性として、他者からの認証、他者からの評価といったものへの本能的な快楽、固執というものは。いわば運命論的な呪縛である。

 運命であるなら、もはや抗うことは不可能であると、バカな哲学マニアはいうであろう。先天的に組み込まれた行動であるなら、もはやそれ以外の一切の行動選択は不可能であると言うであろう。だが、それらの「言い訳。」の類には一切の論理的根拠はない。

 先天的に組み込まれた行動習性、本能が促す行動というものは、それらは自己自身が意識的に選択したものではない。だが、選択したものではないからこそ、習性や本能というものを自律的に抑制し、本質的合理性判断を行って、初めて本質的「自己。」ということができるのである。それで初めて「人間。」としての意識、知能であるということができるのである。

 それはノーベル賞だとかの社会的評価とは全く関係のないものであり。無名の人であっても自律的に公益倫理的判断を行えれば、それは「人間としての知能。」を持っているということなのである。

 社会の大多数は無名の人である。その大多数の人によって社会というものは成立していることを、多くのヒトは忘れている。社会はノーベル賞受賞者などの社会的に評価を得た者によって作られているのではなく、無名の大多数の民衆の自律によって成立しているのである。

 こうした社会を破壊するのは、社会的評価や報酬にしか興味を持たない自律のない人間である。

 養老孟司がやたらと「世間が。」云々持ち出すのは、本質的には自発的な選択をほとんどしなかったことに対する恨み、ルサンチマンをぶちまけているからである。また、そうした恨みに共鳴しているバカが少なからずいることも事実である。

 こうしたバカが、社会の半数を超えているなら、もはや本質的意識云々という話は無意味であろう。「猫の耳に念仏。」であるからだ。

 しかし、養老だのニーチェだのといった自己満足のまどろみに浸る快楽を促すオカルトを、オカルトであると認識できれば、その限りではない。

 残念ながら、私はキリスト様でもお釈迦様でもないので。この世のバカのいちいちを面倒看るつもりはない。自分のことは自分でなんとかするための意識論である。私は私のこと以外の誰も面倒看るつもりはない。


 何の話だったか、本質的自発性の話だった。

 それならなぜ、この記事冒頭で田中耕一を挙げたのか。それはノーベル賞のような画期的発見や発明というものは、自発的な研究でなければ成しうることが極めて稀であるからである。

 環境依存的に評価報酬ばかりを「目的。」とする限り、そこには本質的自発性も、それに伴う本質的集中力も発揮されない。そこには研究自体に目的意識が存在しないからである。

 業績のねつ造などの、嘘が生じるのは。研究内容自体が目的なのではなく、研究に成功して評価されることが目的であるからだ。

 これらは環境依存性の結果であるが、田中の業績は非環境依存性の目的の結果である。

 社会的な評価というのは、どちらにせよ結果論でしかないので。それ自体に意味があるわけではない。

 ねつ造やペテンというのは、公費を用いて研究する上において損失、無駄にしかならない。社会的には「お荷物。」でしかないのである。原発の事故など大損害ではないか。

 「絶対に安全。」と標榜していたのであるから、セシウム137をばら撒いた時点で嘘ペテンなのである。「想定外。」などというのも、全く言い訳にはなっていない。あらゆる想定に基づいて安全性を確保しても、安全性に「絶対。」などということは原理的に不可能なのであり、嘘以外の何物でもないのである。

 こうした嘘を平気で言い張れるような、本質的自発性のない人間というのは、脳が常に「餓えて。」いるため。他人からの評価に「餓えて。」いるため。過剰な利益を要求する傾向がある。それゆえ利己的な行動を採るのである。

 それに対して、自発的に研究に没頭する者であれば、研究自体で脳が満たされているため、外見上禁欲的に見えるし、事実、社会的には禁欲的なのである。

 自発的研究であれば、研究自体への貪欲さを発揮出来ることによって。それ以外の社会的な成功とか、評価報酬といった結果論には興味が薄いため。ねつ造やペテンといった嘘をつくことがないのである。

 さらに、評価報酬や社会的認知などに興味がないので、評価されない領域であっても怯まず研究に没頭するのである。その結果、多くの凡人が成し得ない先端の研究成果にまで到達することがあるのだ。

 研究職のように、評価が重要な職業でなくても。例えばパン屋が、安全で美味しいパンを毎日作り続けることには。社会的な評価はさして得られることはない。多少売上が多くても、パン屋の収入には限度がある。従って、無名の一般人にとって、社会的成功とか過剰な評価というものは無縁であり。こうした無名の人達の日々の地道な積み重ねによって、社会というものが成立しているのである。

 過剰な評価報酬を求めない禁欲さ無しに、社会は成り立たないのである。


 ましてやエネルギーが有限であることが露見したこれからの社会において、過剰な欲望による社会的負担は一切必要ないのである。

 自分の中の欲望というものを、一体何に注ぎ込むことが、自分にとって重要であるか。それがわかれば、自分が生きることの意味にもなり。その意味がわかれば、結果的に多数他人の生活のことも大切にすることができるようになるのである。

 自分のことを大切にできなければ、他人のことも大切にはできない。

 これは「定理。」である。通り魔が、「俺のような人間は、死刑になったらいいんじゃ。」などと言い張るのは、自分のことを大切に思えないからこそ通り魔という自暴自棄な行動へと駆り立てられてしまうのであり。こうした本質的自発性の欠落こそがバカへの近道なのである。


 小さな子供をテーブルの前に座らせ、目の前にその子供が大好きなお菓子を置いて、「食べてはいけませんよ。」と言い付けておいて、部屋に一人で放置しておく。

 こうした人体実験が行われたことがあるのだが。私個人としては子供とは言え当人に内緒でビデオ撮影を一般公開するのは失礼であると思うのだが。とにかく、この実験において、目の前のお菓子に手をつけなかった子供というのは、「一人遊び。」ができるかどうかが別れ目となった。

 自分の欲望を、自分で抑えられるのは、そこに自発的な楽しみが見つけられるかどうかにかかっているのである。「子供の話でしょ。」と思うであろうが、ヒトという種の生物である以上、大人でも基本的には同じことである。

 一人遊びとか、一人で研究に没頭するというと。大衆の観念的には「根が暗い。」とか「気持ち悪い。」などと勝手に想像するだろうが。そんな大衆凡民の観念など、「豚小屋の正義。」であると切り捨てる。

 「みんなで仲良く集団レイプ。」が「明るい。」行動なのか。「仲間で楽しく振り込め詐欺。」が「気持ち悪くない。」とでもいうのか。

 「くらたま。」などのアラサー女の多くが、こうした下らない観念を振り回すのである。大脳辺縁系の活動が活発になっているので、本能的な行動習性としての社会形成習性が促す集団行動性を正当化するために。根拠のない観念を振り回して満足したいのである。

 私にしてみれば、「お前らみたいなケダモノの観念こそが気持ち悪いんじゃ。」と、言いたい。まあ、これは個人的な感情論なので無視して構わないのだが。

 女性の場合、40歳前後に大脳辺縁系の活動が活発になるため。それまでの活動の活発でなかった年代には、本能のおもむくままに生きていても概ね問題が起こらなかったという経験上の無意識な「学習。」によって、本能的な行動こそが人間性であると勝手に勘違いしているのである。

 女性の「オバタリアン。」的な行動というものは、三十代前半まではほとんど発揮されず。それ以降急激にケダモノ化が進むのである。従ってケダモノの論理に耳を貸してはいけない。アラサー女というのは養老とかと一緒で丸め込むことに関して天才的というか、異常なまでの執着を発揮するからである。それこそ「だって、みんなそうじゃない。」などという多数決的な安心感を用いて、それ以外の選択が絶対に不可能であるかような観念を振り回すからである。女性は若くても集団性が強く、集団でいることが観念的に安心なのである。

 その意味において、養老は「フェミニスト。」なのである。養老がやたらと「世間。」を気にするのは、養老の生物学的な社会形成習性が強力であるために。「世間。」に迎合していないといられなかった自分を事後正当化するために、恨み、ルサンチマンを振り回しているのである。

 養老は文系の人間としか話をしたがらない。文系の人間というのは、要するに論理的に考えられないから文系なのであり。そうでないと養老は自分の観念に丸め込むことができないことを学習したからである。


 自発的研究テーマを持っている者であっても、こうした構造については認識していない人間は少なくない。そもそも自発的研究内容だけしか興味がないような人間であるために、生物学的な社会形成習性自体に興味もなく、人畜無害であると思っているらしい。脳外科医で有名な福島孝徳氏なども、そうした一人であろう。

 研究というものは本来孤独なものである。大多数に迎合していれば、気分的には安心していられるだろうが。そこから新しい発見というものは出てこないのである。「ハーメルンの笛吹き。」に、大衆の多くはつられてしまう。ヒトの大脳辺縁系は、そういう風にできているからである。それを止められるのは大脳新皮質の容積に由来する。大脳新皮質を使いたくないというのならば、それが大脳の萎縮を招き、認知症に陥るのも必然というものである。

 論理的反証があるなら、いくらでもかかってきなさい。コメント欄は解放してある。二度と立ち直れないくらい徹底して論破して差し上げよう。それでも挑むくらいの気概が、今の人には欠けている。

 大学生の中には、学食で一人で食事を摂ることを脅迫神経症的に拒絶する人がいるという。あなたは学食で一人で食事をしている人を見て、「あの人は、一緒に食事をする人もいないような淋しい人だ。」などといちいち気にするのか。それとも仲間内でそんなことをコソコソ共有して楽しいのか。そんな他人の噂話をコソコソ共有することが陰湿であるとは思わないのか。どうなんだ。それとも、そんなことは一切考えたこともなしに、何となく強迫観念的に一人で食事を摂ることもできないのか。それが大学に合格しただけの「知能。」の結論なのか。

 結局は、大学入試に合格できても、単にそれだけのことだったのである。どんなに学力成績が高くても、それは極めて限定的な能力基準でしかなく。全く自発的な思考などできない憐れな存在なのである。脳トレ類と一緒で、何の役にも立たないばかりか。むしろ封建的な年功序列制度の迎合的な歯車の一つに成り下がることしかできないのである。それこそが本当の成果というものを蔑ろにする害悪であることには、一切気付くこともできず。ただ既に存在する社会に迎合するだけの小市民でしかないのである。

 それが人畜無害なものであると思ったら大間違いである。アウシュビッツ絶滅収容所のアドルフ:アイヒマン中佐の行動原理と同じものであることを、ゆめゆめ忘れてはいけない。





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偏り。

2011年03月22日 17時23分47秒 | 日記
 相変わらず商品が偏っている。

 ティッシュペーパーとかトイレットペーパーが見つからない。トイレットペーパーに関しては、大きい方をしたらお風呂のシャワーで洗い流せばいいので、なんとかなるけど。花粉症の鼻水はちょっと不便。流しまでいちいち行って流すのだけど、症状が出ているときはずっと流しに張り付いているような状態。ここ数日は雨が降ってて症状が治まっているのでいいけど。明日からは晴れるっていうから、ちょっと嫌だな。

 パン類は潤沢にあった。

 牛乳も結構あった、神奈川県産が多かった。福島県産とかは売れないらしい。ちゃんと放射線レベルを測定しておけば福島県産でも買うのに。恐いのは放射線であって、福島県産じゃないからね。そう思っているのはおいらだけ?。逆にどこ産であっても放射線レベルは測って欲しいんだけどな。

 ヨーグルトも多少出てきた。

 電池類は相変わらずなかったな。

 レトルトカレーは少ないけれど、野菜も精肉も潤沢にあるのでカレーが食いたきゃ作ればいい。

 缶詰類は多少出てきたけど、少ないな。

 仕入れ自体は通常通りだそうなので、買い溜めが原因だって話。山形県はお米は潤沢にあるって。

 誰だよ、買い占めして満足しているバカは。サルか?。おサルさんなのか?。大脳容積の優位性が働かないのか?。大脳辺縁系だけ使っても爬虫類と変わらないからな。わかってんのか?。買い占めとかしている奴に限って食品腐らせて捨てるんだろうな。脳の使い方間違ってるんだけどな。そんなことしてるから振り込め詐欺に引っ掛かるんだけど、そこまでは考えが及ばないんだろうな。はぁー。

 多分、本当のバカならこの記事読んでないんだろうな。でわまた。




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環境依存性の学習。

2011年03月22日 13時55分12秒 | 意識論関連
 チンパンジーをタッチパネルが操作できるようにしておいて、画面上に1から任意の自然数までをランダムに数秒間表示して、その後に数字を全て同じ四角形に置き換えて表示する。

 チンパンジーが置き換えられた四角形を、置き換えられる前に表示されていた数字の順番に触ることができたら、エサが出てくる。

 こうした装置を作っておくと、チンパンジーはヒトの大学生よりも高度な瞬間記憶能力を発揮するという。

 それを東京大学生物学部とかマスコミ、そして一般大衆は「知能。」であると見なす。認知科学も脳科学も、それに対して一切検証も反論も批判も、なぁんにもしない。もう笑っちゃうね。おいらの脳は理解できないもの。

 チンパンジーが記憶できないくらい高速で難解な問題を出し続けると。チンパンジーはどうなるでしょう。答えは「ぶちギレて暴れる。」でした。秋葉原の通り魔と一緒なんですね。それが「知能。」だなんて言えるんですかね。少なくとも東大生物学部は言ってますけどね。


 特定環境の下における、特定の能力向上も一面的には「知的能力。」であると言っても構わないんだろうけど。それが「人間としての知能。」とは無関係なのは明白。どんなに特定環境下での特定能力を発揮したからといって、それがその個体の信頼性の証明になんてならない。

 「人間としての知能。」というのは、環境に依存せずに自律的に公益倫理的な判断ができることが絶対条件。でも、それができない人間にとっては、そんな理論は存在しないも同然なのね。東大生物学部とか、多くのマスコミ大衆にとっては、もしかしたら存在しては困るのかも知れない。

 自分ができないことを、どうして他人に要求できるんだろうね。おかしな話だわー。論理整合性が欠落してるってことは、既に統合失調症だってことなんだけどね。病気だってことなんだけどね。

 泥酔した酔っ払いが、「俺は酔っ払ってなんかいねぇ。」って主張するように。既に統合失調とか認知症の「患者。」っつうのは自覚症状がないんだね。

 カントの「純粋理性批判。」みたいな、観念的な話に論理整合性が存在しないことには気付くことができない。論理整合性よりも、固定観念的に純粋理性への嫌悪感を無意識的に「学習。」してしまっているので。既に信じ込んで疑うことすらしなかったことを、今更覆されても、気分的に受け入れたくないんだね。こういう「ヒト。」達の大脳辺縁系は。だから無意識的に学習してしまった固定観念的行動傾向を「潜在知。」とかって言い張って、あたかもそれこそが個人が個人であることの論証であるかのようにしておきたいんだね。そうしておけば気分的に「安心。」なんだろうね。「バカのままでいられる。」んだろうね。

 こういうヒト達っていうのは、バカのままでいることが気分的に楽なので、何が何でもバカでいようとするんだね。大脳辺縁系のおもむくままに、何も考えずに。ただ固定観念のまどろみの中を堂々巡りしておけば「安心。」なもんだから、それ以外の論理的事実の全てを意識の上から外して、自己満足のまどろみに浸っていられる。

 認知症患者に対して、認知症の症状があるってことを自覚させると。反って認知症が悪化したりする。「ああ、私はもう認知症なんだ。」って刷り込み学習しちゃうのが原因。

 「諦める。」っていうのは、要するに思考停止の快楽のことを指す。諦めると大脳新皮質を使わなくて済むので、大脳辺縁系が楽になれるので、大脳辺縁系のシーケンスのおもむくままに流されておいて「安心。」したいんだね。

 「安心。」という感情は、その価値観に対しての気分的な安らぎを与えるものであると同時に、その価値観に反するものに対しての気分的な恐慌も促す。心理臨床であれば、こうした精神的な恐慌を取り除くことだけが「目的。」であって、ナチスの元首が異常行動をするようになっても一切責任は負うことなどない。心理臨床っていうのは、おそらくそれだけで手一杯なんだ。とにかく目の前の患者をどうにかしないと、最悪死んでしまったら素も子もないからね。

 私の意識に関する話は、こうした病人の気分的な「治療。」とは全く反するものであって、むしろ今まで「社会生活には支障がない。」だけの、人間としては最低の「ヒト。」であっても、そのことには臨床心理は一切言及しない。

 この「社会生活には支障がない。」っつうのも、実は怪しくて。原子炉暴走させた奴らだって、「社会生活には支障がない。」っつうことになっているんだからね。どんなに無責任であっても、「その社会。」において支障がなければ、臨床は言及しない。

 「その社会。」の在り方に言及するのが私の意識論。「その社会。」っていうのを構成している全てのヒトに関わる話なので、本当は「気分が悪いから、読みたくない。」なんていうのは許したくはない。でも許しておかないと心が狭いような気がするので、赦す。

 私の意識論を読んで、情緒不安定に陥っているなら。それはむしろ理解しているからなので、気分的な不安定を切り抜けられれば本当の「心。」を持つことが出来るはず。要は慣れの問題。慣れてないから不安なだけで、慣れればなんてことない。カルト宗教だって、信者であることに慣れているから安心して信じていられる。こんなこと言ったら、まるでカルト宗教と同じみたいに聞こえるかな。けれど、それは観念だからね。嘘だと思うなら考えてみればいいでしょ。ヒントとして、ガリレオを「コーヒー豆扱い。」した当時の社会の人達を考えてみれば良い。

 社会的に評価のある、無責任な人間に対する批判精神を持つことというのは、持っている当人の気分的には嫌なことであっても。本当の「社会的要請。」だと言える。

 「社会的な評価。」というのは、要するにその時代における流行に過ぎない可能性が高い。占いやオカルト類の「人気。」への評価というものに、科学的な普遍性なんぞないからね。

 こういうことを言うと、必ず「科学は人間を不幸にする。」とか言い出すバカがいるので反論しておく。

 原発の暴走は科学が引き起こしたものではない。むしろ、原発に付帯する利権、欲望によって引き起こされたものなのである。

 温室効果ガスの大量排出であっても、むしろそれが危険であることを認識させたのは科学であって。大量排出の根本原因は、それを行ったヒトの無意識的な行動の結果なのである。

 科学とは認識であり、かつ、「力。」でもある。その「力。」をどのように使うのか、その目的「意識。」こそが重要なのであって、科学自体に罪など存在しない。純粋理性そのもの自体は人畜無害な理論でしかないからだ。

 どのような危険が存在しても、何も知らずに気分的に安心していたいというなら、ボルネオの山の中にでも住めば良い。

 既に存在している社会において、何が必要で、何が不要なものであるかを、個人が自発的、かつ自律的に選択できなければ、本当の意味における「民主主義。」など成立しえない。「民。」がバカでは「バカ主義。」にしかならんだろ。

 ちょっと手が塞がったので、中断。



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エアコン。

2011年03月22日 13時26分14秒 | 日記
 火力発電所も被災していて、夏の電力需要に対応できないっつう話。

 おいら、前から思ってたんだけど、エアコンって電気で動かさなきゃいけないわけじゃないと思うんだよね。

 エアコンの原理である「ヒートポンプ。」ってさ、コンプレッサーを動力で回すことで働くわけさね。だから、カセットコンロのボンベとかでエンジン回して、直接コンプレッサー回ししてもいいんだよね。

 もちろんエンジンで回していると、「インバーター。」みたいな器用な動作はできないんだけど、真夏の炎天下であれば最大出力で回しっぱなしでいいんだから、予備的な冷房装置としては充分役に立ちそう。

 それこそ人力でもある程度はコンプレッサーは回せるんじゃないかな。回している人は暑いけど、頭から水かぶりながらなら良い運動になりそう。おいらは自転車好きだから、漕いでもいいかなって思う。

 発展途上国とかでも、こうした人力装置類っていうのは需要がありそうだから、どっか作らないかな。

 東京の真夏は凄い蒸し暑さだからね。沖縄出身の歌手のCoccoさんとか「東京は、蒸し暑いだからー。」って言ってたくらい。真夏の東京で、昼間に停電になったら、今のままだと熱中症で死ぬ人続出だろうね。

 暑くなるまで3ヶ月、今のうちから何か準備できないのかな。コンプレッサー反転させれば暖房もできるしね。
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屈折放水塔車。

2011年03月21日 23時03分13秒 | 日記
 19日の段階で「屈折放水塔車」の話が出てたらしい。ドイツ製の高さ50mの圧送機とかもおいらが言う前日に出てたのね。全く情報に疎いわー。

 50mっつうと、17階相当ってこと。凄いね、そんなのあったんだ。夢とか嘘みたい。最初から手配してたのかね。テレビで見て、文字通り「仰天。」しました。

 今日の夕方に灰色とか黒い煙が出たとかで作業中断してたけど、何だったんだろう。気持ち悪いわー。

 屈折放水塔車とかの先端にカメラつけときゃ、ヘリコプターで放射線の中偵察しにいかなくてもよかったんじゃん。なんだかな。無駄に人的資源使いすぎ。

 東大病院 放射線治療科が放射能汚染に関する情報を、ツイッターで公表しているらしい。今TXのWBSでやってた。

 見てみたけど、なんだか断片的な話ばっかりでよくわからない。ヨウ素131っつうのは半減期が8日だとか、セシウム137は30年だとか。

 半減期っていうのは、放射線の量が半分になる時間のことだそうです。だから充分に放射線がなくなるまではその10倍くらいになるのかな。

8日:1/2
16日:1/4
24日:1/8
32日:1/16
40日:1/32
48日:1/64
56日:1/128
64日:1/256
72日:1/512
80日:1/1024

 ヨウ素131の場合、放射線量が1/1024になるのに80日ってことになるのかな。三ヶ月位でほとんど影響はなくなるって言ってた。

 セシウム137の場合は厄介、90年経っても1/8にしかならないので、ヒトの一生に影響する。でも、セシウムとかヨウ素って選んで被爆できるわけじゃないからな。専門家の話って日常生活に則した話に訳して話さないので、なんだかわからない。

 「すぐには、健康に影響はない。」って話も、何だかおかしい。放射線の影響って大体がすぐに出るもんじゃないはず。出る位被爆したらもう手遅れだろ。一生の間に影響がある値であれば、それは「健康に被害を及ぼす。」って言っていいはず。

 「国として、然るべき処置。」なんて言ってるけど、「情報隠蔽して、都合の良いようにごまかす。」だけなんじゃないかね。発癌率だって、結局日本人の2/3は癌で死ぬんだから、個人が癌になっても、原発のせいかどうかなんて立証できないから、垂れ流しでも責任負わなくて良いって思ってる。原発推進派ってそういう投げやりな計算を平気でする。

 「発癌率が67%が68%になっても、大して変わらねぇんだから、別に構わねぇだろ。」っつう話。一般感覚からしたら、0.01%だって上がって欲しくはない。薄く広く害を与えることは罪にならないと思っている連中なんだな。心がない学者っていうのはなんでも数字だけで「実証。」したがる。「1%ぐらい誤差だろ。」ってね。

 東大病院も本当に説明する気あるのかな。ねぇんじゃねぇのか。あいつら。だから技術論ばっか並べてんじゃねぇか?。何せ東大だからな。信用ならないね。鈴木さんには悪いけどさ。

 こういう話をすると、あいつらは必ず「何をやっても環境破壊にはなる。」とか言い出すんだ。それは確かにそうかも知れんけど、誰も好き好んで環境破壊しているわけじゃないんだ。仕方なく破壊してしまってきた「結果。」に便乗する形で放射能汚染を正当化するっていうのは、あまりに理想は低すぎて、本当の意味での「社会の要請。」には答えていない。こういう奴らに公費使わせるのやめさせたい。そう思うのっておいらだけ?。





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遅い。

2011年03月21日 13時02分18秒 | 日記
 原発事故現場に圧送機が入るらしい。74式も投入されるらしい。水で中性子が防げるらしいから、観察窓にアクリル水槽、車体外側、内側に水入りペットボトルを徹底して欲しいな。東急ハンズで買えるよね。板橋区の前野合成とかでも売ってる。「アクリル板。」で検索かければいくらでも出てくるか。水槽とか作っている会社に発注すれば、優先的に作ってくれるはず。

 頼むからハイパーレスキューとか自衛隊員の使い捨てみたいのは極力避けて欲しい。どんなに身体鍛えていても、放射線には効果がないんだからね。そういうアドバイスみたいのは誰もしないのかね。原子力保安院の役人達って、ただ呆然と見てるだけなのかね。こういうのを「学力が高いだけのバカ。」っつうんじゃないかね。違うかい?。

 レスキューの隊長さんが「申し訳ない。」なんて責任感じなくていいからね。隊長さんが悪いんじゃないから。

 乃木希典大将みたいに責任感じて自害とかしなくていいんだからね。明治時代から漫然と精神論を唱え続けて来た日本人全体の責任なんだから。もっと原子力保安院の人間に説明求めて、どうやったら被害が少なくできるか、徹底して対策させて。あいつらただのバカの集団なので、聞かなきゃ答えないよ。認知症の初期症状と一緒で、「取り繕う。」ことしか考えていないから。自分の保身しか「意識。」の上にはないから。

 役人に責任取らせるには、書類を作るのが一番良いらしい。文書で残っていると責任逃れができなくなるので、徹底して文書で質問書類を作れば良い。動かぬ「証拠。」を大量に作ることが部下の危険を少しでも下げることになるなら、膨大な書類と、そのコピーを作成して頂戴。「最善の防護策を出せ。」って書いてあったのに、テキトーな事できないじゃん。思いつく限りの防護策を出さなかったら責任問題にできるでしょ。日時とか、出した相手とか、明確に記録しとけば、責任取らないわけにはいかなくなるでしょ。

 現場だから難しいかも知れないけど、事務職に連絡して徹底してね。一人の人間に出来ることなんてそんなにないんだから、出来る限り有効な手段を選択すべき。

  原子力保安院なんか無能だから、もうゼネコンから出向で技術者呼んでこいよ。原子炉作ったゼネコンだってあるんだろうよ。日本は企業の方が工夫ってもんが効く。だから何にも思いつかないようなバカ役人なんか無視して、ボランティアで募って技術者集めた方が良い。日本全体を救うんだから、ボランティアだって集まるよ。現場の人間ばっかりに頼ってんじゃねぇよ。現場だけじゃどうにもなんねぇよ。 






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努力、努力、努力。

2011年03月21日 11時26分06秒 | 意識論関連
 天才脳外科医師福島孝徳氏が、「努力、努力、努力。」と言っていたので、ちょっと反論。

 福島さんも言ってたけど、日本の年功序列社会においては努力というものは意味を成さないんですよ。福島さん自身、アメリカに「逃げた。」わけでしょ。そういう「工夫。」なしにただ努力とかっていう精神論を強要したって、過労死を推奨したり、無駄死にを増やすだけなんだ。鬱病患者に「がんばってね。」っていうのは厳禁なんですよ、医者ならそれくらい知っているでしょ。

 福島さんのお仕事は、努力が報われるから「やる気。」も起きる。脳腫瘍の摘出手術の術後経過というのは、他の疾患と較べても圧倒的に回復が見られる。そりゃ「やる気。」も起きますわな。

 でも、どうでしょう、スペースシャトルチャレンジャー号の技術者が、乗組員の安全を最優先にしようとして、NASAをクビにされそうになるとして。そこに「やる気。」だとか「勇気。」なんて出ますか?。

 努力による成果が認められない社会環境においては、努力辛抱根性といった精神論など、念仏と変わらないんですよ。


 そもそも、福島さんが日本の医学界で認められなかったのは。年功序列という、成果を蔑ろにするような漫然とした無意識的な体制維持体質に因るものでしょうが。

 年功序列というのは、要するに「上。」の人間に対する服従性によって形成される、生物学的な「社会性。」、社会形成習性に由来するものなのです。万一福島さんが読んでたら、私の意識論本文も読んで下さいな。一般向けではないので、他の人には勧めませんが。

 「上。」の人間を「畏れ。」「敬う。」ことによって、要するに権威の顔色ばかりうかがって、本当に自分が成すべき事を忘れて。ただ、体制に従順に服従していることが気分的に「安心。」なんですよ。それが日本の医学界における年功序列体質の原因なんです。

 世間的な社会的評価だけを欲して、学力への評価という「エサ。」につられて漫然と、かつ異常なまでに固執した結果的な学力の「使い道。」もわからず。結局は誰かの顔色ばかりうかがって、無意識的に体制維持に加担しているバカ医者は、未だに少なからずいるでしょうが。

 酒の席で「だって、社会的に評価されなきゃ、やってられないじゃないですか。」なんて言っている研修医は、少なくないんですよ。こういう本質的な自発性のない人間というのは、環境に迎合するだけで、すぐに認めてもらえないことなんか一切やりません。

 福島さんが日本の医学界から認められなくても「努力。」できたのはどうしてですか。それは福島さん自身が、「患者を救うんだ。」っつう強い意思、本質的自発性があったからでしょうが。

 単に目先の評価しか見ていない、意識できないような意識の狭い人間達にとって、他人には精神論的なことを強要しておきながら、自分は体制に迎合するだけの嘘つきが非常に多いんですよ。そういう嘘つきに加担するような発言は慎んで頂きたい。(ぷんぷん。)

 自分から何かを成そうとする本質的自発性、強い「意思。」があれば、福島さんが特に励まさなくても、世間体制から認められなくても勝手にやりますよ。努力っていうのは、他人から強要されて行うものではなくて、自分から自発的に、誰にも何といわれようと、評価されなくても、たとえ「コーヒー豆扱い。」されてでもやるもんなんです。それが本当の努力というものなんです。

 福島さんは脳の物理的な治療しか興味がないから、本質的意識とは何かなんて興味もないかも知れませんけどね。脳外科手術で通り魔を「治療。」できるんですか。年功序列体制を「治療。」できるんですか。シエラレオネの少年ゲリラを「治療。」できるんですか。

 私にだって出来るかどうかはわかりませんよ、でもね、そうした「意識。」の問題を扱うことによって出来る可能性はあるんですよ。それは脳外科手術では物理的にできないことなんです。

 その場の気分で精神論みたいなことを軽々しく発言しないで頂きたい。福島さんみたいな人気者の発言は「力。」を持っているんですよ、単なる「力。」の大きさに意味などありません。その「力。」を何に使うか、それが本質的意識、目的意識に関わることなんです。






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