遍路道を大きく外れたため、次の札所までは、まだ4キロほども残っている。
しかし、この日は翌日の山登りに備え、歩行を25キロほどと押さえているので、朝も
ゆっくりと出発した。

回を重ね、毎日幾つものお寺を巡っていると、不思議なもので、印象に残るお寺と
そうじゃないお寺が出てくる。当然のことながら、道すがらの厳しいお寺の印象は深い。
また何か特別の出会いか、出来事でも有れば記憶にも刻み込まれやすいが、ただ淡々
と熟してきただけのお寺はどうしても記憶が薄くなってしまう。

ここ59番札所・国分寺は、そんな印象の薄いお寺の一つである。
国道196号を遍路道まで戻り、田圃や住宅地の広がる道を歩いて来たことに間違いは
ないが、どんな光景の中をどう来たのか、その風景はうすぼんやりとしていて定かに
浮かんでこない。お寺もどんな様子だったのか余り印象が無い。

撮りためた写真を見ると町中を少し入ったところに門前があり、その先に石段、それを
上ると正面に本堂、右に大師堂、左手に本坊と納経所が有ることが解る。
「ああ、こんなところだったのか・・」と思い返す。
しかし、たった1枚の写真がトリガーとなって、記憶をまざまざと新鮮に甦らせてくれる
事もある。

境内にあった「修行大師の像」だ。これを見て、「ああ、このお寺か・・・」と。
「握手してお願いしてください、願い事は一つにしてください。あれもこれもいけません。
お大師様は忙しいですから」(続)

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しかし、この日は翌日の山登りに備え、歩行を25キロほどと押さえているので、朝も
ゆっくりと出発した。

回を重ね、毎日幾つものお寺を巡っていると、不思議なもので、印象に残るお寺と
そうじゃないお寺が出てくる。当然のことながら、道すがらの厳しいお寺の印象は深い。
また何か特別の出会いか、出来事でも有れば記憶にも刻み込まれやすいが、ただ淡々
と熟してきただけのお寺はどうしても記憶が薄くなってしまう。

ここ59番札所・国分寺は、そんな印象の薄いお寺の一つである。
国道196号を遍路道まで戻り、田圃や住宅地の広がる道を歩いて来たことに間違いは
ないが、どんな光景の中をどう来たのか、その風景はうすぼんやりとしていて定かに
浮かんでこない。お寺もどんな様子だったのか余り印象が無い。

撮りためた写真を見ると町中を少し入ったところに門前があり、その先に石段、それを
上ると正面に本堂、右に大師堂、左手に本坊と納経所が有ることが解る。
「ああ、こんなところだったのか・・」と思い返す。
しかし、たった1枚の写真がトリガーとなって、記憶をまざまざと新鮮に甦らせてくれる
事もある。

境内にあった「修行大師の像」だ。これを見て、「ああ、このお寺か・・・」と。
「握手してお願いしてください、願い事は一つにしてください。あれもこれもいけません。
お大師様は忙しいですから」(続)


