江戸時代、山科の追分けは、柳緑花紅の札の辻とも、髭茶屋追分けと
も言われたそうだ。
追分けには、髭茶屋町、南追分町、北追分町の三町が並んでいたという。
元々は「道林町」と称したらしく、天正年間に豊臣秀吉が西国出兵す
る際、この地では道案内のため、町の門々に桃燈(ちょうちん)を出し
て送迎した。
秀吉は大層喜び、この地に「桃燈町」という名前を与えたと伝えられ
ている。その後、秀吉が方広寺の大仏を造営したさいには、当地の街道
が付け替えられた。
この時、桃燈町から「髭茶屋町」と「八軒屋敷町」に分離したという。
地図を見ると今日でも、「八間屋敷町」「髭茶屋屋敷町」「髭茶屋桃
燈町」の地名は残されている。
「髭茶屋町」と言うのは、髭づらの老人がここで茶店を出していこと
から、旅人が何時しか「髭茶屋」とか、「髭追分け」と呼ぶようになっ
たとか。
又「八軒屋敷町」は、分離独立した当初の軒数が八軒であったからだ。
「放光山・閑栖寺」の前に道標が建っている。
寺は天文23(1554)年の創建の、浄土真宗・真宗大谷派の寺院という。
何時頃の物かは分からないが、東面には「東 逢坂関」、南面(正面)
には「東海道」、西面には「西 京三条」と刻まれている。
寺は一時焼失したらしいが、東海道の昔からこの位置にあったという。
街道に面して、長屋門が建ち、屋根上には太鼓楼を構える独特の山門で、
元文3(1738)年に完成した。
太鼓は東海道を往来する旅人に、時刻を知られていたと言う。
門前に、「つきせぬいのちのほとけに帰命す」と「今月のことば」が掲
示されていた。(続)
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