「先陣庵」に向かう道すがら、集落の近くで石碑を見付けた。
道路脇に建つ大きな自然石の正面に、「源平藤戸合戦沖ケ市激戦地の碑」
と刻まれている。
この石碑、倉敷観光コンベンションビューローや藤戸史跡保存会が出す
「藤戸周辺の史跡めぐり」の地図では紹介されていない。
どうやら地元の郷土史家が、歴史を後世に伝えんと平成に入り建てた
ものらしく、沖ケ市と言うのが、この辺りの旧地名のようだ。
佐々木盛綱の上陸地で、ここで源平両軍が正面衝突し、激しい戦いが夕
暮れまで続いたが源氏方の勝利に終わり、平家は這々の体で屋島へと逃
げ落ちた。
そこから北に200mほど坂を上ると、西明院という真言宗善通寺派の
寺があり、その登り切った正面の高台に、「先陣庵」がある。
その右の山を少し上ったところには、「金毘羅大権現」も祀られている。
寺は広い境内の正面に本堂を構え、児島八十八ケ所霊場の第43番札所と
成っている。その境内に有る「先陣庵」が、次の44番札所だ。
源平藤戸合戦先陣の功で、盛綱は恩賞として備前国・児島を領有した。
地頭として一族と共に当地に入国すると、嘗て上陸した地に「天暦山先
陣寺」を建立した。
両軍の将兵や、殺された漁師の霊を慰め、先陣を記念するためだ。
嘗ては広大な敷地を要し、壮大な寺院であったらしいが、何時しか廃れ
今日ではこの一宇の小庵となって残るのみだ。
ここは種松山の東北の山裾、町を見下ろす南部の小高い丘の上だ。
「金毘羅大権現」の祀られている高台に上ってみると藤戸の町が一望で、
当時島であった事が良く解る。
後世になってこの地では、工事などで地中を深く掘ると、錆びた武具
や人骨が沢山出土したと伝えられている。(続)
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