逢坂の関を越えれば京の玄関口・大谷である。
北に逢坂山(325m)、南に音羽山(593.2m)が聳え、江戸時代には両
脇に山が迫る、正に大きな谷を街道が抜けていた。
今は切り開かれ均された地を国道1号線が抜けていて、車で通過すれば
あっという間であるが、当時は街道でも名うての難所・要衝でもあった。
瀬田を中心とした琵琶湖の港には物資が集積され、しきりに京に向け
運び込まれていた。そのため通行する人も物も多く、それを当て込んで
街道沿いには「四百軒ばかりの長き町筋をなす」有様で、茶店や土産物
を売る店が立ち並び、東海道でも屈指の賑わいを見せていたという。
旧道を行くとこれで何社目であろうか、又々蝉丸神社が有った。
横に「大津絵販売之地」と刻まれた石柱が立っている。浜大津の印鑑店
「ハン六」の二代目・松室六兵衛が、明治時代にこの地で大津絵を刷っ
て売り捌いていたらしい。
大津絵は江戸時代の初期頃から、当初は信仰の一環として描かれた仏
画である。後に民画となり、東海道の旅人にお土産や護符として販売さ
れるようになる。
当時は「東の浮世絵」「西の大津絵」と言われるほどに人気も高かった。
旧街道には、嘗ての茶店の名残を思わすような、八百坪の庭園が自慢
の明治5年創業の「かねよ」や、三代続く「大谷茶屋」等の鰻専門店が
店を構えている。さながら往時の賑わいを再現しているかのようだ。
何れも地元の有名店で、食事時ともなると店先に行列が出来るらしい。
立ち寄りたいところだが、高級そうな店構えに足が竦んで入れない。
評判通り。まだ昼前だというのに、既に店先には客が待っている。
並ぶのは嫌いだから、ともっともらしい理由付けに納得し、匂いだけ
でお腹を満たし、ここは我慢で先を急ぐ。(続)
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北に逢坂山(325m)、南に音羽山(593.2m)が聳え、江戸時代には両
脇に山が迫る、正に大きな谷を街道が抜けていた。
今は切り開かれ均された地を国道1号線が抜けていて、車で通過すれば
あっという間であるが、当時は街道でも名うての難所・要衝でもあった。
瀬田を中心とした琵琶湖の港には物資が集積され、しきりに京に向け
運び込まれていた。そのため通行する人も物も多く、それを当て込んで
街道沿いには「四百軒ばかりの長き町筋をなす」有様で、茶店や土産物
を売る店が立ち並び、東海道でも屈指の賑わいを見せていたという。
旧道を行くとこれで何社目であろうか、又々蝉丸神社が有った。
横に「大津絵販売之地」と刻まれた石柱が立っている。浜大津の印鑑店
「ハン六」の二代目・松室六兵衛が、明治時代にこの地で大津絵を刷っ
て売り捌いていたらしい。
大津絵は江戸時代の初期頃から、当初は信仰の一環として描かれた仏
画である。後に民画となり、東海道の旅人にお土産や護符として販売さ
れるようになる。
当時は「東の浮世絵」「西の大津絵」と言われるほどに人気も高かった。
旧街道には、嘗ての茶店の名残を思わすような、八百坪の庭園が自慢
の明治5年創業の「かねよ」や、三代続く「大谷茶屋」等の鰻専門店が
店を構えている。さながら往時の賑わいを再現しているかのようだ。
何れも地元の有名店で、食事時ともなると店先に行列が出来るらしい。
立ち寄りたいところだが、高級そうな店構えに足が竦んで入れない。
評判通り。まだ昼前だというのに、既に店先には客が待っている。
並ぶのは嫌いだから、ともっともらしい理由付けに納得し、匂いだけ
でお腹を満たし、ここは我慢で先を急ぐ。(続)
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