簾 満月「バスの助手席」

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三蟠港の衰退 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-20 | Weblog


 昭和の時代、岡山市内中心部を流れ下る旭川の右岸近くには、岡山臨
港鉄道が走っていた。国鉄宇野線の大元駅を起点に、南部に出来た岡山
港近くの岡山港駅まで8.1㎞の路線である。名前の通り貨物輸送で収入の
7割を稼ぎ出し、旅客輸送はおまけのような鉄道であった。



 沿線の倉庫や工場には、専用側線が引かれ、物資の輸送に供されてい
たが、時代と共に自動車が普及すると、長大編成の貨車が道路と交差す
る踏切では、慢性的な交通渋滞を引き起こし問題視されるようになる。
 加えて貨物輸送も、小回りのきくトラック輸送への切り替えが急速に
進み、ついには昭和59(1984)年には廃線に追いやられた。



 一方旭川の左岸はと言うと、河口付近には三蟠港が有り、海の交通の
要衝となっていた。江戸末期から昭和40年代頃まで、四国連絡の船便は
この市南部の干拓地に造られた三蟠港から出ていた。
 明治に入ると市内中心部の京橋からは、旭川を下る連絡船も運行され、
三蟠港で船を乗り継ぎ四国へ渡るようになる。



 しかし旭川は元々水深が浅く、特殊な船での運行でも度々欠航が出る
有様で、更に肝心な岡山中心部の港・京橋には古くからの土砂が堆積し
て機能不全に陥っていた。
 加えて明治の末期になると、国鉄宇野線が開通し、更に宇野港が開設
され、ここに四国連絡の宇高連絡船が運行されることになる。



 四国連絡の玄関口としての機能を失った三蟠港の地盤沈下は避けられず、
その打開策として計画されたのが、港と市中心部を結ぶ新たな鉄道の建設
であった。
 こうして大正の頃、旭川の左岸にも一筋の鉄路が敷かれた時代が有った。
大正4(1915)年8月、待望の営業運転を始めた「三蟠軽便鉄道」である。(続)



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