簾 満月「バスの助手席」

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軽便鉄道の開通(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-22 | Weblog
 江戸期の干拓地に造られた三蟠港は、四国連絡などの要港として繁栄
していたが、宇野港(玉野市)が開港し、宇高連絡船が運航を始めると
その機能が低下、港は衰退する。
そこで地番沈下を防ぎ、港周辺の活性化の為鉄道インフラが検討された。



 国が軽便鉄道敷設法を制定した当時は、全国で軽便鉄道の開設がブー
ムとなっていた。そうした背景が有り、当地にも大正3(1914)年2月
「三蟠鉄道株式会社」が設立された。

 三蟠港から岡山中心部に近い桜橋(さくらばし)の間に線路を敷設、
旅客や貨物を運ぶ混合列車を走らせる、これが「三蟠軽便鉄道」の開
業で、大正4(1915)年8月のことであった。



 旭川右岸の浜野には、明治40(1907)年に岡山製紙が立地した。
当時、桜橋駅近くには、岡山瓦斯会社や鐘淵紡績岡山工場もあった。
又京橋上流の津島には、陸軍第17師団が造営された。



 鉄道はこうした施設や工場に向けて、日用品や原材料、石炭等を輸送
する目論見である。
また干拓で拓かれた新田は穀倉地帯で、生産物を運ぶ役割も狙っていた。
旭川の水深の影響を受ける船運のみでは不安定で、代替え輸送を陸運で、
との思惑を見据えての開業である。



 因みに鐘紡岡山工場は、明治14(1881)年7月に県最初の岡山紡績所
として開業した。昭和初期頃までは綿糸生産工場で、それ以後は麻毛生
産に切り替えている。工場の閉鎖は昭和20(1945)年10月の事で、その
跡地は「岡山市さくら住座住宅」として開発された。



 又岡山瓦斯会社は、明治43年(1910)1月に株式会社として設立され、
今でも大きなガスタンクを構え「岡山ガス株式会社」として同地に存続、
「岡山製紙株式会社」も同様に今も健在だ。
第17師団の跡地は、現在の岡山大学の津島キャンパスになっている。(続)



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