簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

絡み合う交通機関(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-25 | Weblog
 文禄年間宇喜多秀家は山陽道を城下に通し、初めて旭川に橋を架けた。
それが京橋で、当初は板橋であった。
街道がこの城下経由に変更されると、川湊も有る京橋周辺は商いの中心
となり、水陸交通の要衝として栄える事になる。



 その後京橋は、何度も架け替えが行なわれている。
明治に入り旧街道は官道(国道)2号線と成り、人車の通行の多い幹線
道路となった。大正時代に入ると板橋は、ようやく鉄筋コンクリート製
の永代橋に架け替えられることになる。



 しかし時代と共に車が増え橋と道は交通のボトルネックとなって行く。
対策として橋が拡幅・補強されたのは、三蟠鉄道が延伸開業したのと同
じ年である。

 橋が強固となると路面電車の通行も可能になり、岡山電気軌道内山下
線が延伸され、西大寺町~東山の旭東線の営業運転も始まった。



 当初三蟠港から桜橋間で開業していた三蟠鉄道が、国清寺迄延伸させ
たのは、この旭東線や、京橋湊での船との接続を考えての事である。

 又これより少し前の時代には、西大寺軽便鉄道もこの京橋周辺地域へ
の乗り入れを考えていた。



 明治44(1911)年12月に、(西大寺)観音と長岡(後の東岡山)の間
で開業した西大寺鉄道は、翌年森下まで延伸開業した。
森下は江戸時代には岡山城下の東入口に当り、惣門が聳えていた場所だ。
 
 同鉄道は、この地盤の固められた旧山陽道をそのまま利用して鉄路を延
伸し、旭東地区で接続を目指したが資金難で断念し免許を取り下げている。



 最終的には森下から急カーブで進路を変え、現在の夢二郷土美術館の
有る辺りに後楽園駅を設け終着駅としたのは大正4(1915)年の事だ。

 その後大正10(1921)年には岡山電気軌道の路面電車番町線が開業し、
鶴見橋を渡った先に後楽園前停留所が設けられた。
京橋での接続は叶わなかったが、西大寺鉄道はこれにより念願の市内で
の接続を果たす事となった。(続)





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