岡崎城主・田中吉政による城下の整備と「岡崎二十七曲がり」と言わ
れる街道の付け替えで、宿場は整備され家屋や人口も増え、町は繁栄し
大層な賑わいを見せるようになった。
それは「その賑わい、駿府に次ぐべし」と言われる程の繁栄ぶりが伝
えられている。
宿場は本陣と脇本陣が各3軒あり、旅籠の数は112軒を数え、城下の戸数
は1,565軒もあり、人口は6,500人ほどの規模であったと言う。
当地は「家康と三河武士のふるさと」と言われるように、神君家康公
出生の地であり、家康が浜松城に移るまでの本拠地であり、無骨な三河
武士の故郷である城下町だ。
しかし昔から「岡崎女郎衆はよい女郎衆」と唄われ、「昔より、遊女
の名高く・・・」と言い、「妓百余人有り」と当時の道中案内では伝え
られている様に、「岡崎女郎衆」がとみに知られた土地でもある。
家康所縁の城下町と女郎衆が名高い宿場町では、何となくそぐわない
ように思われる。
しかし宿内に住む男が3,000人余りに対し、女は3400人余りと言うから、
女の方が多く住んでいたことが解る。
その中に女郎衆が100人以上いてもおかしくはなく、街道の評判を得て
いた事も肯ける。
古い町並は戦災で焼失し、往時の面影を残す建物は殆ど残ってはいない。
街道筋には、東本陣跡、脇本陣跡、西本陣跡、御馳走屋敷跡、籠田惣門跡、
対面所跡などがあるが、何れも案内表示で知るのみだ。
しかし伝馬通り、連尺通りや、魚町、材木町など、旧町を彷彿とさせる
地名だけは至る所に残されていて、通りも活気ある賑やかな町並である。
それなのに、古の城下町・宿場町の風情を感じさせる不思議な感覚の町で
もある。(続)
にほんブログ村
れる街道の付け替えで、宿場は整備され家屋や人口も増え、町は繁栄し
大層な賑わいを見せるようになった。
それは「その賑わい、駿府に次ぐべし」と言われる程の繁栄ぶりが伝
えられている。
宿場は本陣と脇本陣が各3軒あり、旅籠の数は112軒を数え、城下の戸数
は1,565軒もあり、人口は6,500人ほどの規模であったと言う。
当地は「家康と三河武士のふるさと」と言われるように、神君家康公
出生の地であり、家康が浜松城に移るまでの本拠地であり、無骨な三河
武士の故郷である城下町だ。
しかし昔から「岡崎女郎衆はよい女郎衆」と唄われ、「昔より、遊女
の名高く・・・」と言い、「妓百余人有り」と当時の道中案内では伝え
られている様に、「岡崎女郎衆」がとみに知られた土地でもある。
家康所縁の城下町と女郎衆が名高い宿場町では、何となくそぐわない
ように思われる。
しかし宿内に住む男が3,000人余りに対し、女は3400人余りと言うから、
女の方が多く住んでいたことが解る。
その中に女郎衆が100人以上いてもおかしくはなく、街道の評判を得て
いた事も肯ける。
古い町並は戦災で焼失し、往時の面影を残す建物は殆ど残ってはいない。
街道筋には、東本陣跡、脇本陣跡、西本陣跡、御馳走屋敷跡、籠田惣門跡、
対面所跡などがあるが、何れも案内表示で知るのみだ。
しかし伝馬通り、連尺通りや、魚町、材木町など、旧町を彷彿とさせる
地名だけは至る所に残されていて、通りも活気ある賑やかな町並である。
それなのに、古の城下町・宿場町の風情を感じさせる不思議な感覚の町で
もある。(続)
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます