「西川原・就実」を出た列車は、続いて百間川の橋梁を渡る。
江戸時代の大洪水を契機に岡山城を守るため、藩お抱えの儒学者・熊沢
蕃山が考案した「川除けの法」を基に、藩郡代の津田永忠が設計・施行
したとされる旭川の放水路・人工の川で、貞享4(1687)年に概ね出来
上がっている。
「川除けの法」とは、旭川の川筋に大荒手を設け、洪水時に城下に水が
入り込みそうなときは荒手堤を超して、田畑に水を誘導し、城下の洪水に
備えるという考えだ。すなわち荒手は旭川が増水したときに、分流してき
た水を受け止め、水の勢いを削ぎ、同時に土砂の流出をコントロールする
機能を持たせたものとなる。
当初これにより城下は洪水から守られたものの、大雨の度に下流の村落
の田畑では甚大な被害が出ていた。しかし城下への水が入る事への利害得
失を考えると、この事には目をつぶらざるを得なかったようで、その為被
害のあった村落には水損に応じた「加損」という助成米を与えていたと言う。
その後洪水時の流路をそのまま川とし「二の荒手」「三の荒手」を更に
築き、土砂の運ばれるのを防ぐと同時に、堤防の整備も進めた。
これによりいざという時は巨大な放水路となり、平時でも上流では放水路、
下流では干拓地の維持という仕組みが出来上がった。
近年行われた発掘調査では、江戸時代に築かれた「二の荒手」が見つ
かり、300年余りの歴史が明らかになった。これは幅20m、長さ180m、
石の数2万5千個にも及ぶ見事な石張り遺構で、長さの百間がこの川の
名の由来となっている。(続)
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