簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

三島水辺の文学碑(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-08 | Weblog

 旧東海道の街道筋からは外れるが、市内の白滝公園の近くには、川の流れ
に沿って「三島水辺の文学碑」と言う通りがある。三嶋大社とJR三島駅を
結ぶ位置に有り、桜川(三カ所用水)に沿って、当地に関わりのあった作家
や文学者など著名人12名の文学碑が建ち並んでいる。ここは正式には水上
通りと言うらしいが、「静岡まちなみ50選」に選定されている。





 北海道で生まれ、中学生時代には両親の元を離れ祖母と共に伊豆の湯ヶ島や、
浜松、沼津など主に静岡県内で生活した作家の井上靖は、その体験を「しろば
んば」「あすなろ物語」「夏草冬涛」などの自叙伝的な作品を残しているが、
ここには昭和29年に発表された「少年」の一説が刻まれている。

 山と川しか知らない山村育ちの少年達が初めて目にする三島の町への驚きと、
その賑わいにおっかなさで少し腰が引けた様子が何とも微笑ましい。





 十返舎一九の東海道中膝栗毛からは、弥次さん喜多さんが三島の宿で宿探し
をする場面が刻まれている。投宿そうそう湯屋に飛び込んで、その後のスッポ
ン騒動に繋がる序章である。
他には太宰治や司馬遼太郎などは、三島の湧水について寄せた一文が紹介され
ていて、この地が伏流水による湧水が豊富な町であることが窺い知れる。





 白滝公園から流れ出る川面では、カルガモの姿を目にすることもあるらしいが、
生憎この日は一羽もいない。煉瓦鋪装された歩道には柳並木が続き、その根元に
は地元のボランティア活動によると言う草花が彩りを添えていて、少しだけ文学
に触れた心が、和まされる通りとなっている。(続)

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マナー(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-06 | Weblog

 十辺舎一句の描く「東海道中膝栗毛」の弥二さん喜多さんは、決して品よ
く行儀の良い道中を続けているわけではなく、酒や性、滑稽を楽しむ浮薄な
浮世人そのものの旅を楽しんでいる。
今流にいえば世間のマナーなんてものは、糞っ喰らえとばかりに荒唐無稽な
事件を行った先々で繰り返している。







 この地では、西坂で道連れとなった男と三人連れで、道中子供から買い取
ったスッポンを手にとある宿に草鞋を脱いでいる。女子衆に料理させ、一杯
やろうと言う算段では有ったが、ここはなにしおう三島女郎衆の地、おとな
しくできるはずもなく、大枚を叩いてお決まりの夢を結ぶ。

 ところが宴が終わり寝静まったころ、食いそびれたスッポンが這い出して、
あろうことか弥次の指に食いついてしまい宿は大騒ぎ、このすきに連れの男・
十吉は弥次の有り金全部奪って姿を消してしまう。
何のことは無い、道中で意気投合し連れになった男は旅人の懐中を狙う胡麻の
灰だったのだ。路銀を無くした二人はこの先しばらく、文無しの貧乏旅を強い
られることになる。







 ところでマナーと言えば、この地の交通マナーは素晴らしいと思う。
道中の史跡を見逃さないようにするためには、どうしてもあっちこっちと道
路を何度も行ったり来たり横断する。
こんな時歩道で待っていると、すかさず当たり前のように道を譲ってくれる。
いけないこととは知りつつ、つい近道をしてしまう時すら、車の途切れを待
つまでもない。
たまたまかとも思ったが、箱根に入って以来行く先々で体験したのだから、
これには当地の当たり前のマナーであろう。
我が地元ではまずあり得ないことで、これには本当に感心した。(続)

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三島宿(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-03 | Weblog

 この地は東海道の宿場町であると同時に、下田街道や甲州街道が交差する
交通の要衝として知られたところだ。
更には三嶋大社の門前町とあって大層な賑わいを見せた町でもある。



 特にこれから箱根を目指す旅人には英気を養う場所として、また山を下っ
て来た旅人は疲れを取るしばしの休息地として利用したと言うから、その賑
わいは相当なものであったと思われる。
鋭気の補強には、一様に名物のウナギでも食していたのであろうか。
今でもこの町には、うなぎと書かれた暖簾を掲げる店が多い。



 当時の宿場人口は4000人余り、戸数は1000戸余り、本陣が2軒、脇本陣は
3軒、旅篭の数は何と70軒を超えていたと言う。
人足が一人34文に対し、飯盛り女郎は500文と言われ、当時のガイドブックに
は「いにしえより名高し」と書かれていたそうだ。



 郵便局の角を少し入ったところには問屋場跡があるが、小さ木札で忍ぶの
みである。この道を問屋小路と呼ぶらしく、鎌倉に続く古道である。
三島にはこのような小路が八本あることを、道路に埋め込まれたプレートが
告げている。



 更にその先が本町交差点で、北に向かえばJRの三島駅がある。
ここを少し行った店先に世古本陣跡や、通りを隔てた反対側には樋口本陣跡
などの記念碑が立てられているが、何れもうっかりしていると見落としてし
まいそうなぐらい目立たない。



 宿場町は、現在の三島市本町辺りに有った。
今ではホテルや銀行、飲食店や商店、事務所など様々な建物が軒を並べが建
ち並びのんびりと旧跡探し等は憚れるような繁華な町並に様変わりしている。
そんな町には、当時を偲ばせる遺構は残念ながら何も残されてはいない。(続)



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大社と福太郎(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-01 | Weblog

 三島宿の中心、三嶋大社にやってきた。
平安時代から三嶋明神と呼ばれ、伊豆の国の一宮として広く信仰を集めてき
た古社である。
韮山の蛭が小島に流された源頼朝が、源氏の再興を願い百日祈願をしたこと
でも知られている。頼朝は、伊豆に挙兵した第一戦では、その勝利の報告に
参拝し、境内の石に腰を下ろしたと言う。その腰掛石は今も境内に残り伝え
られている。





 街道に面して立つ石の大きな鳥居をくぐる。
広重の東海道五十三次では「三島 朝霧」として、籠と馬に乗りこれから箱根
西坂を目指す旅人の背景に、霞む姿で灯籠と共に描かれているところだ。





 境内には石敷の参道が本殿に向け真っ直ぐに延びている。
総門を潜り、更に神門を潜った先の右手には高さ15m、目通りの幹回りが3m、
樹齢1200年と言う金木犀の大木が有り、天然記念物に指定されている。
開花時にはその芳香は馥郁たるもので、それは風向きによっては10キロにも及
ぶと言う。その先の舞殿を回り込めばご本殿である。





 境内の一角に「三嶋大社名物 福太郎餅」と書かれた看板を見つけ、立ち
寄ってみる。
大社の神事に登場する「福太郎」に因む、福を授けると言う縁起餅らしい。
古来より邪気を払い、滋養にも富んだヨモギを餅に搗き込み、顔に見立てて
丸めた団子に烏帽子状にしたこしあんを被せ包んでいる。

 一口で頂ける草餅で、程よい甘さのこしあんは、共に供される「ぬまづ茶」
との相性も良く、まさに門前の名物に美味いものありで、歩き疲れた身体を癒
してくれる。(続)




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