しばらく行くと左側に火除けの神として崇められる秋葉神社があり、江戸・
弘化年間に建立されたと言う常夜灯が残されている。
両側に冨士浅間宮、秋葉大権現と彫り込まれていて、村人が大火の災害から宿
場を守ろうとの願いを込めて建立したものらしい。
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丁度このあたりが西の見附跡だ。
見附というのは石塁で築いた枡形の門のことで、枡形には大木戸(出入りする
ための扉)が付けられていた。宿場町を挟んで東西に有り、東を江戸口、西を
京口等とも呼んでいる。こうした場所は今日では殆どその姿を残してはいない
が、地名として残っているところもある。
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大木戸は原則的には、明け六つ(日の出の明るくなる頃)に開けられ、暮れ
六つ(日の入りの暗くなる頃)には閉じられていた。
当時は灯りの乏しい時代であったため、太陽の明かりがある時間帯が昼、それ
が沈み暗くなれば夜としていた。
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宿場町の治安維持を目的とした出入り口の役割を果たしていた場所だから、
明るい時間帯だけ通行が認められていたのだ。旅人はこの間を縫って出入り
をしていた。
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この辺りには小田原北条氏ゆかりの千貫樋の疎水が流れている。
池の水を駿河の国に引いたもので、関東大震災で壊れるまでは木製のものが
残っていたそうだ。千貫樋の疎水を後に、さらに先に進むとその道の両側に
江戸から29里を示す一里塚がある。
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宝池寺一里塚は復元されたものだが、右側の玉井寺のものは良く原形をと
どめていて史跡に指定されている。その玉井寺には、江戸中期の禅僧・白隠
の「三界萬霊等」と肉太の筆跡で雄渾に書かれた遺墨が残されているという。(続)
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