安倍晋三の父親代わりを自任していた叔父・西村正雄は、ネオコン的体質を心配していた(佐高信)
【佐高信「追悼譜」】安倍晋三
「安倍晋三 撃たれる」の報に接して、まず思ったのは、叔父の西村正雄から私がもらった手紙のことだった。西村は安倍晋太郎の異父弟で、旧日本興業銀行の頭取として、みずほ銀行の誕生に力を尽くした人である。
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首相の小泉純一郎の靖国神社参拝を厳しく批判するような骨のあるバンカーだった西村は2006年8月1日に急逝したが、2005年4月16日付の私宛ての手紙でこう書いている。
<安倍晋三に関しても、かねがね「直言する人を大事にしろ」と言っておりますので、厳しく批判して頂きたいと存じます。私にまで「次期総理確実ですね」などとお世辞を言う人もおりますが、その都度「未だ10年早い」と答えています。小泉離れとネオコン的体質からの脱皮が総理になる条件です。然し『文藝春秋』の5月号で彼を総理候補に挙げている人が圧倒的に多く、このような世間の風潮には危惧を感じざるを得ません>
典型的なマザコンだった晋三は、母の洋子の父、岸信介の自慢はしても、父方の祖父の安倍寛のことはほとんど口にしなかった。
しかし、安倍寛は戦争中の翼賛選挙に非推薦で当選した政友会の代議士である。統制派官僚の岸とは対照的なリベラリストだった。『毎日新聞』記者出身で元外相の晋太郎はそれを誇りにし、「私は岸の娘婿ではない。安倍寛の息子だ」というのが常だった。
その晋太郎が亡くなった後、父親代わりを自任していた西村は、もし生きていたら、晋三がネオコン的体質から脱皮せずに、それが悲劇を招いたことを口惜しく思っただろう。
晋三とは3度「会った」ことがある。カッコをつけたのは最初の出会いが「会った」とは言えない形だったからである。私は日本信販の創業者の山田光成にかわいがられたが、その孫の結婚式で同席した。光成の息子の洋二が晋三と成蹊大で一緒で、かなり離れたテーブルに晋三は塩崎恭久と共にいた。私はメインテーブルで城山三郎の隣に座っていたが、塩崎は城山に挨拶に来て私とも名刺交換をしたのに晋三は来なかった。
ところが、西部邁に連れられて行ったバーで3度目に会った時、「彼が最初に会ったのは」と結婚式のことを言ったので驚いた。
2度目に会ったのは彼が首相を一度やめた時である。赤坂で岸井成格と私が夫婦で食事をして通りに出てきたら、彼が荒井広幸と歩いていた。
先に店を出た岸井が「ヤァ」と手を挙げて彼と話をしているところに私が顔を出したので、彼は挙げた手をそのまま止めた。
それで私が大人の対応をして名刺を出し、彼もぎごちない感じで応じた。岸井は『毎日新聞』で晋太郎の後輩でもあり、秘書時代の晋三とも親交がある。厳しく批判していた私との同伴に彼はとまどったようだった。
それを顔に出した晋三に、後からあいさつした私のツレアイは「正直な人だ」と感想を漏らしていた。(敬称略)
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西村正雄
日本の銀行家。日本興業銀行頭取、みずほホールディングス会長
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西村 正雄(にしむら まさお、1932年(昭和7年)11月18日 - 2006年(平成18年)8月1日[1])は、日本の銀行家。日本興業銀行元頭取、みずほホールディングス元会長。
政治家・安倍晋太郎は異父兄であり、その次男・安倍晋三‘甥にあたる。
来歴・人物
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1999年、大手銀行に約7兆4,500億円もの公的資金が注入されたが、各行がこの受け入れに尻込みする中、注入の申請を真っ先に表明して流れを作る場面もあった。同年にはみずほフィナンシャルグループ発足に動き、非金利収入の拡大や投資銀行ビジネスの推進を訴えるなど、2000年前後の金融ビッグバンの牽引役の一人であった。
みずほフィナンシャルグループをみずほコーポレート銀行とみずほ銀行へ分割するグループ編成を考えた。そのため、第一勧業銀行出身のみずほ銀行幹部からは、「コーポレート銀行は『興銀救済措置』だった」と評されている。
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