🌸 天皇家の「愛」と「憎しみ」4
『要旨』
☆道鏡の影響で、女性天皇は姿を消し、日本の都は京都になった
*孝謙天皇と道鏡の一組のカップルが、日本の歴史を大きく変えた
☆義理の母(藤原薬子)と不義蜜通をおこなった平城天皇
*平城天皇は、桓武天皇の息子
☆「傾国の美女」薬子への愛に端を発した政変
*藤原薬子の兄・藤原仲成が政治を妨げた
☆平城天皇は上皇になり奈良へ戻る
*平城天皇、上皇になった後も、政治介入を行おうとした
*京都の平安京・嵯峨天皇、奈良の平城京・平城上皇が対立する
*平城上皇は負け、出家し、薬子は自害、兄の伸成は殺害された
「藤原薬子の乱」「平城天皇」「嵯峨天皇」
(ネットより画像引用)
⛳女性天皇は姿を消し、日本の都は京都になった
☆孝謙天皇の騒動以降、貴族たち、女性を位につけるのが心配になった
*江戸時代に入るまで、女帝は日本の歴史上から姿を消す
☆奈良から京都への遷都が行われたことも
*道鏡事件が一端を担っていると言われている
☆奈良は非常に仏教界の影響が強い場所
☆奈良は非常に仏教界の影響が強い場所
*道鏡が影響力を持てた背景、彼を支える仏教界の力が存在した
☆道鏡によって痛い目を見た朝廷
*仏教界の影響力やしがらみを断ち切る対策を取った
*奈良から京都へと都を移した
☆孝謙天皇と道鏡の一組のカップルが、日本の歴史を大きく変えた
☆孝謙天皇と道鏡の一組のカップルが、日本の歴史を大きく変えた
⛳義理の母(藤原薬子)と不義蜜通をおこなった平城天皇
☆桓武天皇が平城京から平安京へと遷都、その後起きた「藤原薬子の乱」
☆桓武天皇の息子である平城天皇
☆桓武天皇が平城京から平安京へと遷都、その後起きた「藤原薬子の乱」
☆桓武天皇の息子である平城天皇
*彼は父桓武天皇と非常に仲が悪かった
*平城天皇は、皇太子時代一人の若い女性を見初め妻とする
*平城天皇は、皇太子時代一人の若い女性を見初め妻とする
*母親(藤原薬子)も娘と一緒に宮中へとついてきた
☆薬子には夫のほかに、4人の子どもがいた
☆薬子には夫のほかに、4人の子どもがいた
*皇太子は、薬子と関係を持ち、 一気に夢中になる
*桓武天皇は激怒し、「早く眼を覚ませ―」と叱り飛ばす
*父としては息子が義理の母と不純な関係に陥ることは
*何としても避けたかった
☆桓武天皇自身も、自分の父・光仁天皇の妻
*桓武天皇も井上内親王との密通関係にあった
☆桓武天皇は、藤原氏からすると、天皇家の血が濃すぎない分
*他の親王より、扱いやすかったので天皇になった
⛳「傾国の美女」薬子への愛に端を発した政変
☆桓武天皇が崩御すると、皇太子がが平城天皇として即位する
☆桓武天皇が崩御すると、皇太子がが平城天皇として即位する
*平城天皇は義母である藤原薬子を呼び寄せて、ますます寵愛した
*藤原薬子の兄・藤原仲成の存在が政治を妨げた
*仲成が政治に非常に強い発言権を持つようになる
☆藤原家には、南家と北家、式家と京家という四つの家があった
☆藤原家には、南家と北家、式家と京家という四つの家があった
*薬子たちは藤原式家の一族
☆仲成と薬子の父藤原種継が、奈良から長岡京ヘと移転を提案した
*奈良から都を移すことに反対した勢力に種継は暗殺された
☆平城天皇は、自分は上皇となり、弟に位を譲る
☆平城天皇は、自分は上皇となり、弟に位を譲る
*弟は、日本史上で非常に優秀な天皇として知られている嵯峨天皇
⛳平城天皇は上皇になり、奈良へ戻る
☆上皇になった後も、政治介入を行おうとした
*京都の平安京嵯峨天皇、奈良の平城京平城上皇が対立する
☆嵯峨天皇、坂上田村麻呂を起用し平城天皇たちと戦う
☆嵯峨天皇、坂上田村麻呂を起用し平城天皇たちと戦う
*平城上皇は負け、出家し、薬子は自害、兄の伸成は殺害された
☆日本に「傾国の美女」と言われる存在しない
*数少ない事例として挙げられるのが薬子
*権力者が一人の熟女の魅力におぼれたがゆえに
*ひとつの乱が生まれてしまった象徴的な事例
(敬称略)
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⛳出典、『愛憎の日本史』
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