慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「藤原薬子の乱」「平城天皇」「嵯峨天皇」

2024年01月26日 | 歴史
🌸 天皇家の「愛」と「憎しみ」4

『要旨』
 ☆道鏡の影響で、女性天皇は姿を消し、日本の都は京都になった
 *孝謙天皇と道鏡の一組のカップルが、日本の歴史を大きく変えた
 ☆義理の母(藤原薬子)と不義蜜通をおこなった平城天皇
 *平城天皇は、桓武天皇の息子
 ☆「傾国の美女」薬子への愛に端を発した政変
 *藤原薬子の兄・藤原仲成が政治を妨げた
 ☆平城天皇は上皇になり奈良へ戻る
 *平城天皇、上皇になった後も、政治介入を行おうとした
 *京都の平安京・嵯峨天皇、奈良の平城京・平城上皇が対立する
 *平城上皇は負け、出家し、薬子は自害、兄の伸成は殺害された






 
「藤原薬子の乱」「平城天皇」「嵯峨天皇」
(ネットより画像引用)

女性天皇は姿を消し、日本の都は京都になった
 ☆孝謙天皇の騒動以降、貴族たち、女性を位につけるのが心配になった
 *江戸時代に入るまで、女帝は日本の歴史上から姿を消す
 ☆奈良から京都への遷都が行われたことも
 *道鏡事件が一端を担っていると言われている
 ☆奈良は非常に仏教界の影響が強い場所
 *道鏡が影響力を持てた背景、彼を支える仏教界の力が存在した
 ☆道鏡によって痛い目を見た朝廷
 *仏教界の影響力やしがらみを断ち切る対策を取った
 *奈良から京都へと都を移した
 ☆孝謙天皇と道鏡の一組のカップルが、日本の歴史を大きく変えた

義理の母(藤原薬子)と不義蜜通をおこなった平城天皇
 ☆桓武天皇が平城京から平安京へと遷都、その後起きた「藤原薬子の乱」
 ☆桓武天皇の息子である平城天皇
 *彼は父桓武天皇と非常に仲が悪かった
 *平城天皇は、皇太子時代一人の若い女性を見初め妻とする
 *母親(藤原薬子)も娘と一緒に宮中へとついてきた
 ☆薬子には夫のほかに、4人の子どもがいた
 *皇太子は、薬子と関係を持ち、 一気に夢中になる
 *桓武天皇は激怒し、「早く眼を覚ませ―」と叱り飛ばす
 *父としては息子が義理の母と不純な関係に陥ることは
 *何としても避けたかった
 ☆桓武天皇自身も、自分の父・光仁天皇の妻
 *桓武天皇も井上内親王との密通関係にあった
 ☆桓武天皇は、藤原氏からすると、天皇家の血が濃すぎない分
 *他の親王より、扱いやすかったので天皇になった

「傾国の美女」薬子への愛に端を発した政変
 ☆桓武天皇が崩御すると、皇太子がが平城天皇として即位する
 *平城天皇は義母である藤原薬子を呼び寄せて、ますます寵愛した
 *藤原薬子の兄・藤原仲成の存在が政治を妨げた
 *仲成が政治に非常に強い発言権を持つようになる
 ☆藤原家には、南家と北家、式家と京家という四つの家があった
 *薬子たちは藤原式家の一族
 ☆仲成と薬子の父藤原種継が、奈良から長岡京ヘと移転を提案した
 *奈良から都を移すことに反対した勢力に種継は暗殺された
 ☆平城天皇は、自分は上皇となり、弟に位を譲る
 *弟は、日本史上で非常に優秀な天皇として知られている嵯峨天皇
 
平城天皇は上皇になり、奈良へ戻る
 ☆上皇になった後も、政治介入を行おうとした
 *京都の平安京嵯峨天皇、奈良の平城京平城上皇が対立する
 ☆嵯峨天皇、坂上田村麻呂を起用し平城天皇たちと戦う
 *平城上皇は負け、出家し、薬子は自害、兄の伸成は殺害された
 ☆日本に「傾国の美女」と言われる存在しない
 *数少ない事例として挙げられるのが薬子
 *権力者が一人の熟女の魅力におぼれたがゆえに
 *ひとつの乱が生まれてしまった象徴的な事例
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『愛憎の日本史』

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 戦乱時の黒幕1「平将門」「... | トップ | 「入鹿の首塚」「乙巳の変」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事