たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

12月24日、

2024年12月24日 20時05分11秒 | 散歩・ウオーキング

いよいよ、2024年(令和6年)の年の瀬も押し迫り、
街のあちこちで、新年を迎える準備風景が見られ始め、
ようやく歳末ムードが漂ってきた感じがする。
老夫婦二人だけの暮らしになって数十年、
年末年始とて、ほとんど普段と変わらぬ暮らしをしてきたが、
今年は、もしかしたら、孫がやってくるかも知れない、
というので、
ある意味では、気が張っているところだ。
さてさて、どんな年末年始になるのやら。

ふっと、12年前の今日2012年12月24日は、どんな暮らしをしていたのか、
気になり出し、ブログ記事を振り返ってみた。


振り返り記事
12年前の今日、2012年12月24日
「今年の白菜は」いまいち!」
👇️
こちら


どうやら、「畑仕事」をしていたようで、
現在とほとんど変わっていない暮らしをしていたことが分かる。
「へー!、そうだったかなあ・・」である。


当地、今日も、「晴」、
最低気温=-4℃、最高気温=12℃、
朝の内は、厳しい真冬の寒さだったが、
日中は、風が無かった分、体感的には、温かくも有り、
食料買い出しに出掛けたついでに、ちょこっと近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で、約6,400歩。

君の名は?
「えーっと?、えーっと?・・・」
出てこない・・・。
帰ってから、確認したところ、
「オキザリス・プルペレア」
だった。


爺さんの備忘録的花図鑑「オキザリス・プルペレア」
👇️
こちら


マンリョウ

ヤドリギ


古い写真から蘇る思い出の山旅・その75

2024年12月24日 10時21分06秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その75
「丹沢主脈縦走」(再)


かれこれ25年前の1999年7月に、当時一時所属していた山の会の仲間に誘われて、「丹沢主脈(蛭ケ岳、丹沢山、塔ノ岳)」を縦走したことが有った。
「家族で山歩き」レベルを自認していたにも拘わらず、うっかり誘いに乗って、ベテラン、健脚男女(7人だったか、8人だったか)の仲間に加わってしまい、かなりハードなコース、長丁場を、ただただ、ひたすらくっついて歩くのが精一杯の山行だった気がするが。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃だったが、写真を撮る余裕等も無かったようで、残っているのは、蛭ケ岳山頂で撮ってもらった証拠写真?1枚だけという有り様。その写真は、プリントしてアルバムに貼ってあり、「OCNブログ人」でブログを始めてまもなくの頃、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めたことが有ったが、外付けHDに残っており、久し振りに引っ張り出して、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」の一つに加えることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


深田久弥著 「日本百名山」
「丹沢山(たんざわさん」
(一部転載)

丹沢山が今日のように登山者で賑わうようになったのは、いつ頃からだろうか。少なくとも私がむかし丹沢へ行った時は、まだあまり知られていなかったようである。たしか私は「山岳」に出ていた丹沢縦走記を頼りに、青野原から焼山に登りヒメツギあたりまで行って、道が分からなくなって引き返した。それが最初だった。
もちろんもっと早くから武田久吉博士などによって、丹沢山塊は紹介されていたが、それはその頃はまだ数少なかった山好きの間だけだった。武田さんは、丹沢には非常に熱心で、この山塊の開拓者あるいは恩人と言ってもよいだろう。
(中略)
丹沢という名前が世間一般に強く印象されたのは、関東大震災だろう。その震源地として急に有名になった。しかし登山者が大勢押しかけるようになったのは、それよりずっと後で、おそらく山麓を小田急電車が走るようになり、距離の近い横浜山岳会が塔ヶ岳の上に山小屋を建てた頃からであろう。横浜山岳会の丹沢に対する貢献も忘れてはなるまい。
東海道線の小田原あたりから、丹沢山塊中でよく見える最も顕著なのは、大山(おおやま)であって、昔の人はこういう形のいい山を放ってはおかない。頂上に大きな岩があって、それが御神体として祀られている。天平勝宝七年(755年)、華厳宗の祖である僧良弁によって開山されたと伝えられる。
大山を一名雨降山(あふりやま)と呼ぶのは、この山の頂上には、いつも雲や霧が多く、大いに雨を降らすからで、そのため雨乞いの山ともなっている。今でもその表登山口には、め組だの、は組だの、消防の寄進の碑がたくさんあるのは、火消しと雨とは関係が深いからだろう。
  時によりすぐれば民のなげきなり
  八大龍王雨やめたまえ
という実朝の歌は、この大山の山神に献じられたものだと言われる。
(中略)
最高峰は、蛭ヶ岳(毘盧ヶ岳)で、一名薬師ヶ岳とも呼ばれた。私がその頂上に立ったのは、随分前のことだが、いかにも深山の感じがしたのは、そこから見渡すあたりが鬱蒼たる森林のためだったろう。
今はどうか。蛭ヶ岳から西に、ズングリした頭の桧洞丸(ひのきぼらまる)がある。丹沢で第二の高峰であるが、樹木で覆われていて道がなく、怪峰とか秘峰とか呼ばれたものだが、今はどうか。
私が百名山の一つに丹沢山(丹沢というのは山塊中の一峰)を取り上げたのは、個々の峰ではなく、全体としての立派さからである。丹沢山塊という名称は、たぶん、高頭式の「日本山岳志」から始まったのだろうと思うが、ただ表尾根を歩くだけでなく、その奥深く入れば、山の規模は大きく複雑で、容易にその全貌がつかめない。
「山岳」第一年一号(1906年)に載っている長文の塔ヶ岳登山記を見ると、案内人を連れている。その後の大正時代の登山者も、多くは案内人を伴ったようである。それほど未知の山であったのに、今日の繁盛ぶりはどうだろう。第一の原因は、東京に近く、手軽に行けるからだろう。谷川岳と丹沢山は東京の大衆登山の二大流行地となった。そして谷川岳に劣らずこの山にも遭難事件が頻繁に起こっている


山行コース・歩程等

東野バス停→八丁坂ノ頭→(東海自然歩道)→姫次→原小屋平→地蔵平→蛭ケ岳山頂→
鬼ケ岩ノ頭→棚沢ノ頭→不動ノ峰→丹沢山山頂→竜ケ馬場→日高→塔ノ岳山頂→花立→
(大倉尾根)→大倉バス停 
(標準歩行所要時間=約10時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

集合時間=7時、集合場所=JR中央線藤野駅、だったため、
自宅を早朝に出発、JR中央線、普通列車 松本行に乗車、
集合した仲間は、確か、リーダーを含めて、男性5人、女性2人、
だった気がする。
藤野駅からは、路線バス(神奈川中央バス)で、
蛭ケ岳登山口の有る、「東野」に向かった。
「東野バス停」には、7時40分頃に到着、
早速、出発したようだ。
いきなり、急登が始まり、喘いだように思うが、
10時頃、「八丁坂ノ頭」に着き、「焼山」からの「東海自然歩道」と合流、
しばらく平坦な尾根道が続いたような気がする。
「姫次」は、展望が良いとされているが、濃いガスがかかり、全く展望無し。
「原小屋平」「地蔵平」を経て、
12時30分頃、丹沢最高峰、[蛭ケ岳山頂](標高1,672.7m)に到着、


やはり濃いガスに覆われて、幻想的な雰囲気。
展望は叶わず。
この日の関東内陸部は、30度を超す猛暑だったようだが 
山頂は、天然のエアコン?状態で、爽快。
ここで、昼食となったが、予期せぬサプライズが有った。
それは、参加者の中に、都内で有名料理店?の店主?(シェフ?、料理長?)を
している方がおられて、
前日に準備したという自慢の料理数品を担いできてくれていて、
解説しながら、全員に提供されたことだった。
しばし、料理談義になったような気がする。
ただ、長丁場とて、ゆっくり休憩している時間は無しで、
13時頃には、「蛭ヶ岳山頂」を出発したようだ。
がっつり歩くのが目的の山行、
花を探したり、写真を撮っている余裕等無し、
シモツケソウ等、チラホラ咲いていたが チラ見だけ。
登山道の脇の濃いガスの中 鹿の親子のシルエットも見えたが・・・、
「鬼ヶ岩ノ頭](標高1,608m)、「棚沢ノ頭」、
「不動ノ峰」(標高1,614m)を経て、
14時30分頃 「丹沢山山頂」(標高1,567.1m)に到着したようだ。
登山者,ハイカーの姿見えず、静かな山頂で、小休憩。
「竜ヶ馬場](標高1,504m)、「日高」(標高1,461m)を経て、
15時30分頃、「塔ノ岳山頂」(標高1,490.9m)に到着。
やはり、濃いガスに覆われていて、展望全く出来ず、
尊仏山荘前広場で、小休憩。
なんとか、ここまで、歩き通すことが出来、
後は、長い長い「大倉尾根(バカ尾根)」を下るのみ、
ホッとしたような気がする。
16時頃、「花立」(標高1,370m)を経て、
「大倉尾根」を下るに従い、ガスが途切れ、視界が開けてきて、
高度が下がるにつれ、暑さも加わり、
膝が笑い出し、ヘトヘトになりながら、
18時頃、ようやく「大倉バス停」に、到着したようだ。
発車間際のバス便が有り、全員駆け足で乗り込み、
小田急渋沢駅に、18時頃到着。
駅前の居酒屋で、打ち上げ反省会にも加わった。

梅雨の真っ只中でありながら、幸い、雨具不要の山行ではあったが、
1日、約10時間も歩く山行等、後にも先にも経験が無く、
どうなることかと最後まで不安だった気がする。
なんとか、仲間にくっついて歩けた、達成感、満足感を感じながら、
小田急選、横浜線で、帰途についたのだった。

足、腰、痛!、痛!の今となっては、よくも、歩けたものよと、
我ながら信じられない山行だったが、 
二度と再び歩くこと不可能な、最初で最後の「丹沢主脈縦走」は、
貴重な体験であり、ベテランなら当たり前の山行なのだろうが、
「家族で山歩き」レベルにとっては、思い出深い山旅のひとつになったのだった。
あの日、一緒に歩いてくれた、Uリーダーと仲間達に、改めて、謝!、謝!である。