昭和30年代半ばに、地元の高校を卒業するまで、M男は、北陸の山村で、祖父母、父母、弟、妹 7人家族で過ごした。東西が山稜の狭い盆地で、その真ん中を日本海に向かって1本の川が流れ下って、童謡「ふるさと」の絵にもなるような風景の山村だった。
M男の家族は、形の上では、3世代同居で、当時の農村では、ごく普通の家族構成であったが、祖父と祖母は、再婚者同士、母は、祖母の養女で、父は、婿養子、つまり、M男と祖父母とは、血が繋がっておらず、複雑な関係の家族ではあった。
しかし、当時のM男には、その辺の事情等、理解出来るはずもなく、近所隣りの、3世代同居、4世代同居の家と、同類の家であると思い込んでいたため、なんの違和感も持たず、暮らしていたのだった。
M男は、祖父のことを、「ジイチャ」と呼び、祖母のことを、「バアチャ」と呼んでいた。
「ジイチャ」は、昭和32年に亡くなり、「バアチャ」も昭和40年には亡くなっており、もはや、思い出せる記憶も、極く僅かになってしまったが、「ジイチャ」と「バアチャ」について、今だったら思い出せる いくつかの断片的な、かすかな記憶を炙り出して、書き留め置こう等と思っているところだ。
その1
「孤高だった?、ジイチャ」
M男が小学生の頃のジイチャは、まだ、60代だったはずである。
中肉中背、一見、健康そうに見えていたジイチャではあったが、ニコニコして、孫であるM男達の相手をしてくれたり、遊んでくれたりするような、やさしさを持ち合わせた人ではなかった。
孫に限らず、祖母とも、父母とも、親密に話しをしている姿を、M男は、見たことが無く、いつも 苦虫を噛み潰したような顔、厳格な態度で、近寄り難い雰囲気を漂わせていた。
当時の農村では、田植えや稲刈り等の農繁期には、子供まで手伝いをし、家族総出で農作業をするのが当たり前だったが、M男のジイチャは、決して、農作業に手を貸すことはせず、てんてこ舞いの家族を尻目に、一人悠然と、川へ魚釣りに行ってしまうような人でもあった。
地域の人達との付き合いも一切せず、家族とも一線を画して、自分の世界で生きているといった風だったような気がする。
当然、周囲から、「変わり者」という目で見られ、陰口をたたかれていたはずであるが、本人は、まるで 頓着無く、どこ吹く風・・というふうで、平然と暮らしていたのである。
複雑な家族関係からくる、なんらかの事情で、そのようなジイチャになってしまったのかも知れない。皆、当たり障りのないよう、気を遣っていることは、子供のM男でも感じられ、特に嫌っていた訳ではないが、決して、なつくことはなかった。
朝起きると、囲炉裏(いろり)の上座にどっかり座り込み、「煙管(きせる)」で「刻み煙草(きざみたばこ)」を吸いながら、ほとんど動かない後ろ姿が、目に焼き付いている。
時々は、多分、歳暮等でいただいた清酒だったと思うが、徳利1本を、囲炉裏端に置き、自分で採ってきた「浅葱(あさつき)」に味噌を付けて酒の肴にし、一人、チビチビやっていることもあって、どんなにか、祖母、父母からは、恨めしく思われたに違いない。
1日中、慣れない農作業でくたくたになっていた、東京育ちのまだ若かったM男の母が、たびたび 癇癪を起こしたり、泣きじゃくる姿を見せていたが、子供のM男には、感じ得なかった、家族関係の確執、葛藤から生じたものだったのだろうと、後年になって思ったものだ。
そんな、自分勝手な?、孤高の?ジイチャであったが、いくつかの特技を持っていて、その特技が 家族や地域の人達と、ほんの僅かな接点になっていたように思う。
(つづく)
(ネットから拝借イラスト)