昭和20年代から30年代後半、幼少期を北陸の山村で過ごしたM男である。
その頃の記憶は、すでにほとんどは喪失しているが、ただ、なにかのきっかけで、ふっと、断片的な記憶が炙り出されてくることが有るから、不思議なことだと思っている。
古いアルバムに、当時、毎年、学年進級する毎に撮っていた集合写真が貼って有るが、M男が小学校5年生の時の集合写真を見ていて思い出した。
その年(昭和29年)の6月1日に、M男の暮らしていた「O村」が、隣の町等と合併して、「I市」となったことだ。
M男達にとっては、学校の門標が、「O村立」から「I市立」に変わったなくらいにしか感じられらい出来事であったと思うが、当時の井の中の蛙の山村の子供達の頭の中では、「市」というと、「都市」、「都会」のイメージが有って、こんな、田んぼと山ばかりの村が、「市」等と呼ばれることには、大いなる違和感もあった気がする。多分、全国的な町村合併推進の流れで、地元町村もそれに乗ったのだと思われるが、それまで、隣りの町の人達のことを、「町の衆」と呼び、一種へりくだっていた「村の衆」が、いきなり、同じ「市民」と呼ばれることが、なんとも面映ゆくも感じ、一方では、まんざらでもない気もしたものだった。
その当日だったかその前後だったかは思い出せないが、祝賀行事の一環だったのだろうか、小中学校の生徒児童全員が(とは言っても、全員で250人程度だったが)、日の丸の小旗を持たされ 暑い中を、集落の隅から隅までを一周するパレードをしたような気がする。パレードと言っても、学校には、鼓笛や吹奏の楽器も全く無い時代、放送車も無く、ただただ、日の丸の小旗を振りながら、ぞろぞろ歩いただけだったと思うが、その山村にしたら歴史的な日だったということなのだろう。
まだまだ、大都市と地方の農村部との格差は大きく、中学卒業と同時に、大半が、関東園、関西園、中京園等へ集団就職する時代になりつつあった頃の話である。
その後、何度かの市町村合併が為され、「村」を探す方が難しい程になり、「平成の大合併」後等では、子供の頃の日本地図が全く役に立たない程に、行政区画が変わってしまっている。隔世の感有りだ。
(ネットから拝借イラスト)
童謡「ふるさと」 (YouTubeから共有)
私も、松本の方言シリーズ、周辺情報、等々、楽しみに拝見しております。
やはり、同じ時期の合併だったんですね。
いただいたコメントで気が付きましたが、今では、上高地も松本市、乗鞍、槍も、松本市と岐阜県の境なんですね。
明治初期は、筑摩県・・だったんですか。歴史を感じます。
松本、安曇野は、私にとって、好感の土地、これからもお元気で、いろいろお紹介下さい。
コメントいただき有難うございます。
私の生まれた村も1954年に合併し松本市となりました。
私が産まれた地は長野県東筑摩郡○○村でしたが、小学校は松本市立○○小学校へ通うようになっていました。
平成の大合併で松本市は岐阜県と境を接することとなりました。
明治の初期、私の住んでいる地区は現在の岐阜県北部(高山市など)と一緒に筑摩県を形成していましたので、感慨深いものがあります。