当地、今日は 時々 薄日が射したりもしたが 終日、曇天、
明日以降、ずっと雨マークも付いており、本格的な梅雨の様相になってきている。
日没時の北西の空、異様な夕焼け、
体調イマイチ、休養日と決め込んでいたが、夕食前の手持ち無沙汰な時間、
またまた 古いレコード盤等引っ張り出して、聴いているところだ。
每年、夏の夕方になると、飽きもせず聴いているハワイアン、
童謡や抒情歌のスチール・ギター演奏も 「いいね!」。
その内の1曲、誰でも知っている「さくら貝の歌」。
今更になって、ネットで調べてみると、
「さくら貝の歌」誕生秘話等が紹介されているサイトがあり・・、
「へーっ!、そうだったの」
目から鱗・・になっているところだ。
昭和14年(1939年)の秋、鎌倉・由比ヶ浜の近くに住んでいた鈴木義光という青年が、胸を病んで18歳で亡くなった恋人・横山八重子を偲んで
わが恋の ごとく悲しや さくら貝 片ひらのみの さみしくありて
という短歌を詠んだ。この短歌をモチーフにして、彼の友人で、当時、逗子町役場の職員だった土屋花情が作詞したのが「さくら貝の歌」の歌詞。さらに 昭和18年(1943年)に、作曲家を目指していた鈴木義光が その歌詞にメロディーをつけて発表した楽曲だった。ただ、戦時中のこと、ほとんど世の中で知られることもなかったが、戦後になり、山田耕筰がこの曲を気に入り、編曲し、昭和24年(1949年)にNHKの「ラジオ歌謡」で放送したところ、特に女性の心をとらえ、問い合わせや楽譜希望の電話が鳴り止まなかったという。
鈴木義光は その後 筆名を 八州秀章に変え、「山のけむり」、「あざみの歌」、「チャペルの鐘」、「毬藻の歌」等、次々と端正な抒情歌を作り、大ヒットした。「八州秀章」の「八」は 恋人だった横山八重子の「八」、「秀」は やはり 八重子の戒名「誓願院釈秀満大姉」の「秀」を採って付けたと言われており、「さくら貝の歌」は 八州秀章(鈴木義光)の万感が込められた歌であることが分かる。
作詞 土屋花情、作曲 八州秀章 「さくら貝の歌」
1 美しきさくら貝ひとつ
去りゆけるきみに捧げん
この貝は去年(こぞ)の浜辺に
われひとりひろいし貝よ
2 ほのぼのとうす紅染むるは
わが燃ゆるさみし血潮よ
はろばろと通う香りは
きみ恋うる胸のさざなみ
ああ なれど わが思いははかなく
うつし世の渚に果てぬ
スチール・ギター演奏の「さくら貝の歌」 (YouTubeから共有)
倍賞千恵子の「さくら貝の歌」 (YouTubeから共有)
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