映画と本の『たんぽぽ館』

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「切羽へ」井上荒野 

2012年05月16日 | 本(恋愛)
あと、もうほんの一歩なのに

切羽へ (新潮文庫)
井上 荒野
新潮社


                   * * * * * * * * * 

切羽(きりは)とは耳慣れない言葉ですが、
トンネル工事、または石炭などを採掘する構内作業の現場の、一番先端のこと。
恋愛小説には相容れない言葉のようでいて、
今作では非常に切ない状況を表した言葉となっています。


かつて炭鉱で栄えた離島。
セイはそこの小学校で養護教諭をしています。
画家の夫と二人暮らし。
二人はもともとこの島の出身ですが、
学生時代からしばらく島を離れていて、近年戻ってきて暮らし始めたのです。
冒頭、眠ったままのセイを抱き寄せる夫に、
自分が卵の黄身になったように感じるというセイに、満ち足りた生活を感じさせられます。
何不足なく充足された生活。

そんな所へ、新任教師として赴任してきた石和。
どうしてか彼のことが気になり、惹かれていくセイ。
二人が実際に会話したり、ともに過ごしたりする機会はとても少ないのです。
愛の言葉など論外。
けれども、例えば同じ場に多くの人がいていても、
全身でその人の気配だけを意識したりするような・・・そんな密やかな思い。
なぜか相手にとっての自分も同様の存在であることが確信できてしまう。


うわあ・・・、遠い昔の片思いを思い出してしまう。
(もっともその場合の相手の思いは、多分こちらには向いていなかった・・・!)
でも、そんな事ってやっぱりあると思うんですよね・・・。
自分の失われた半身を求めるかのように、相手に惹かれてしまうというようなことが。


ラストの最大の山場で、例えてみれば、二人は互いのトンネルの切羽にいるのです。
あともう少し、ほんの少し掘ればお互いのトンネルが繋がるのに、
二人はあえてそれをしない。


石和は指を二本、自分の唇にあてた。
それからその指を私のほうへ近づけた。
素早い、乱暴とさえいえる動きだったのに、指は私の唇の前でふっと止まった。
「さようなら」
その言葉を、石和は、はじめて使ってみる言葉のように、ゆっくりと発音した。



どうですか、これ。
指で唇に触れることすらも、思いとどまるというこの、狂おしいほどの切ない思い。
これは逆に官能的ですらありますね。


このストーリーには、逆にどんどんトンネルを掘りまくる(?!)人物が配されています。
セイと同僚の教師、月江。
彼女の愛人は本土の人ですが、妻子がある。
月江はいわば肉食系、セイとは対局にあるんですね。
このように己の欲望に忠実なのは羨ましくもあるけれど・・・、
その行き着く先は地獄であることを、セイも石和も知ってしまうのです。
だからこそなんでしょうね。
あえて二人は切羽の刹那で留まる。


甘く切ない物語です。
忘れかけた乙女心が、揺り起こされます・・・。
やっぱり女性好みの作品でしょうね。
でも、直木賞受賞作です。
男性の感想を聞いてみたいところです。


「切羽へ」井上荒野 新潮文庫
満足度★★★★★