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聖霊降臨後第十八の主日の説教―罪の赦し(2024年、大阪)

2024年09月22日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十八の主日の説教―罪の赦し

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月22日(主日)大阪

 

 

親愛なる兄弟の皆さま、

福音の冒頭で、私たちの主は、洗者聖ヨハネによって、「天主の小羊、世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ばれています。

たとえ隣人だけしか侮辱しないように見えても、罪は何よりも天主に対する侮辱です。天主は、世の罪を取り除くために、ここにおられるのです。そして、このことは、中風の人の癒やしを語っている今日の福音に、はっきりと示されています。私たちの主がなさった中風の人の癒やしは、主がまず霊魂になさったこと、つまり霊的な癒やしを、外的な癒やしを通して、人が見て分かるようにするためなのです。

私たちの主は、この人の罪を消して、赦されました。「あなたの罪は赦された」。私たちの主は、世の罪を取り除くことのできる唯一のお方です。福音の他の箇所には、主がマグダラの聖マリアの過ちを赦される場面(多くを愛したのですから、彼女の罪は赦されたのです)、後には姦通の女の過ちを赦される場面があります。「あなたを罰した人はいなかったか。私もあなたを罰しはしない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」。

1 人の子は罪を赦す

私たちの主が、今日の福音で語っておられるように、人の子は、ここ地上で罪を赦す力を持っています。実際、私たちの主は、天主であると同時に人間であり、福音のテキストには、天主だけでなく、「人の子は罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちは、天主が罪を赦す力を持っておられることを知っていますが、ファリザイ人たちはこう断言しています。「この人は冒涜の言葉を吐いた。天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」と。しかし、福音のテキストには、「人の子は地上で罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちの主は、その人間人類の本性によって、霊魂を成聖の恩寵の状態に回復させるために、この罪を赦す力を行使されたのです。それはなぜでしょうか。この天主の力を他の人々に伝えることができるようにするため、まず使徒たちに、次に聖なるカトリック教会で司祭に叙階されるすべての人々に伝えることができるようにするためなのです。

2 人の子は他の人々に自分の力を伝える

私たちの主は聖ペトロに、すでにこう告げておられました。「私はあなたに天の国の鍵を与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」。ここで、私たちの主は、聖ペトロに非常に多様な力を約束されましたが、その中には、悔悛の秘跡を通して、霊魂を天国に行かせたり行かせなかったりする力も含まれていました。

私たちの主はまた、最初にペトロに個人的に言われたのと同じ言葉を、使徒たちに繰り返して、この力を使徒たちにも与えられました。

そして次には、おそらくもっと明確にされました。ご復活の日に、私たちの主は、首を吊ったユダと不在のトマスを除いて集まった使徒たち全員にご出現になり、こう告げられました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」。この意味は、「私は父から使命を受けた。霊魂たちを救うという使命を」ということです。(洗者聖ヨハネの、「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ」という言葉を思い出してください。)。私たちの主は、御父から救いの使命を受けられ、その同じ使命を教会に委ねられたのです(教会は、司祭の役務を通して、私たちの主イエズス・キリストの救いのみわざを継続するという使命を持っています)。

ですから、私たちの主は、ご復活の日の晩に、使徒たちに、「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」と言われ、そして聖ヨハネは、こう続けます。「イエズスは、そう言いながら、彼らに聖霊を与えるために息を吹きかけて、『聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない』と言われた」。このように、私たちの主は、使徒たちに罪を赦す力を明確に与えられますが、同時に、悔悛者が必要な心構え(天主を侮辱したことに対する痛悔と、自分の生活を改めるという堅固な意向、あるいは真心からの望みと呼ばれるものが欠かせない心構え)を持っていない場合には、罪を赦さない力も与えられるのです。

3 司祭は罪を赦す力を使徒たちから受けた

ご復活の日に、私たちの主が使徒たちに言われた言葉を、今日(こんにち)、司祭叙階式の中で司教が繰り返すとき、この罪を赦す同じ力が司祭に与えられます。

私たちの主は、マグダラの聖マリアに、「あなたの罪は赦された」と言われました。同じように、告解室で司祭はこう言います。「Ego, autoritate ipsius, te absolvo a peccatis tuis, in nomine Patris et Filiæ et Spiritus Sancti-われ、彼の権威によりて、御父と御子と聖霊との御名によりて、なんじの罪を赦す」。ですから、司祭が世の罪を赦すのは、自分自身の権威によるのではなく、私たちの主イエズス・キリストの権威によるのです。

ファリザイ人は、私たちの主の言葉につまずきました。「この人は冒涜の言葉を吐いた! 天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」。そうです、繰り返しますが、罪を赦す力は天主の力です。しかし、私たちの主は、人の子として、その人間人類の本性によって、この力を行使され、その力を使徒たちに伝えられ、使徒たちはその力をカトリック教会の司祭や司教に伝えたのです。

ラザロの復活の場面で、私たちの主が使徒たちに、「解いて行かせよ」と言われたことについて、聖アウグスティヌスが注釈を加えて、こう言っています。「これは、罪に捕らわれた霊魂を解くために、彼らを解いて、成聖の恩寵の自由を、成聖の恩寵の状態を取り戻させるために、私たちの主が司祭に与えられた力のかたどりである」。ここで、聖アウグスティヌスは、そして彼とともに教会の全聖伝は、私たちの主によって制定された悔悛の秘跡を通して、罪がいつも赦されるということを明確に示しています。したがって、プロテスタントが主張するように、「悔悛の秘跡を受けなくても、天主に立ち返るだけで罪は赦される、と言うことができる」というのは偽りです。私たちは、司祭の役務を通して、この秘跡を受け、謙遜に自分の罪を告発し、天主から罪の赦しを得なければなりません。

4 なぜ直接天主から罪を赦されないのか

私たちの罪が、私たちの主から直接赦されるのではなく、司祭を通して赦されることを、私たちの主が望んでおられる理由は、二つあります。

1―本当に赦されているという確信を、私たちが持つためです(私たちは、天主を見ることはできませんが、司祭が次の言葉を繰り返すのを、見たり聞いたりすることはできます。「Ego te absolvo-われ、なんじの罪を赦す」)。

2―そしてまた、この秘跡が罪の赦しに不可欠な心構え、すなわち謙遜を与えてくれるからです。私たちは、天主の役務者である司祭から罪の赦しを得るためには、(同じく罪人である)司祭の前で謙遜にならなければならないのです。

親愛なる兄弟の皆さま、この福音を読むとき、私たちの主の行いにつまずいて、「この人は冒涜の言葉を吐いた!」と言ったファリザイ人のようにならないようにしましょう。いいえ、私たちの主は、冒涜の言葉を言ってはおられません。私たちの主は、天主であると同時に人間です。私たちの主は、罪を赦すという天主の力を持っておられ、その大いなるあわれみによって、主は、教会が霊魂を救う使命を継続できるよう、教会にその力を委ねられたのです。私たちの主は、目に見えない力である、霊魂を癒やすという主がお持ちの力の明白なしるしとして、この中風の人を外的に、明白に癒やしたいと思っておられたのです。そして、教会の役務者は、奇跡(あるいは外的な癒やし)を行う力を与えられることはあまりないとしても、その一方で、私たちが信仰の目を通してだけ見ることのできる、さらに偉大でさらに重要な目に見えない力、すなわち罪を赦す力を持っているのです。

エゼキエル書の中で、天主はこう言っておられます。「もし悪人が、自分の犯したすべての罪を悔悛し、私の掟をすべて守り、正しく行動すれば、その人は本当に生きる」、すなわち成聖の恩寵の命を取り戻し、自分自身を救うことができるということです。天主の御あわれみは、秘跡を通して、特にこの悔悛の秘跡を通して伝えられるのです。

ですから、この秘跡を利用し、「世の罪を取り除く天主の小羊」である私たちの主イエズス・キリストに頻繁に近づき、司祭の役務を通して罪の赦しを受け、救いの恩寵を取り戻しましょう。

アーメン。


教会について(2024年9月16日、札幌)

2024年09月22日 | お説教・霊的講話

教会について(2024年9月16日、札幌)

ブノワ・ワリエ神父

教会とは何かを知ることは、教会の一部であると主張しているすべてのカトリック信者にとって、今日、これまでにないほど不可欠なことです。親愛なる信者の皆さま、私は、連続2回の講話を通して、秘跡によって一致し、教皇によって導かれる、天主が立てられた社会であるカトリック教会の持つ、深遠な本質と使命を、皆さまとともに探求したいと思います。

前半の講義では、教会の分裂、教える教会員と忠実な教会員の役割、天主のみ言葉と聖伝に従う必要性について吟味します。教会の本質的な属性である可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性については、教会の四つのしるしである「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」とともに論じます。

次回行われる後半の講話では、教皇と司教の役割に重点を置きながら、教会内部の構造と権威について詳しく説明します。最後に、団体主義や信教の自由という誤った解釈など、現代的な課題についても併せて考えます。

教会の本質

カトリック教会は、キリストの真の信仰を宣言するすべての人々による、天主によって創立された社会であり、キリストが制定された秘跡によって一致し、キリストが目に見える地上のかしらである教皇の下に立てられた牧者たちによって統治されています。

教会の使命

イエズス・キリストが栄光のうちに再臨されるまで、イエズス・キリストのうちにあるすべての人を教え、統治し、聖化するために、天主の権威と委任を担っているのは、カトリック教会だけです。教会の使命は、貧困や病気、環境汚染と闘うための、また「人類の進歩と普遍的友愛」を促進するための人道的奉仕団体となることではありません。

教会の各部分

教会を、三つの部分に分けることができます。1.地上の民から成る「戦闘の教会」、2.煉獄にいるすべての霊魂から成る「苦しみの教会」、3.天国にいる民から成る「凱旋の教会」です。

一つの社会である「戦闘の教会」の持つ、二つに分けられた側面とは何ですか。

1.教皇と、教皇と一致した司教たちから成り、イエズス・キリストの地上における代理者としての権威をもって教える「教導教会」(Ecclesia Docens)、すなわち「教える教会」、2.キリストの教えを受け、それに従って生きるすべての信者から成る「聴従教会」(Ecclesia Docta)、すなわち「教えられる教会」です。

《「教えられる教会」は、啓示された天主のみ言葉に対して、最も従順で素直でなければなりませんか》。はい。教会の教導職は、「天主のみ言葉の上にあるものではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教え、天主のみ言葉を敬虔に聴き、誠実にこれを守り、忠実に説明する」のです。第一バチカン公会議は、決して教皇を絶対君主と定義しませんでした。その反対に、この公会議は、教皇を啓示されたみ言葉への従順を保証する者として提示したのです。

《この従順と素直さは、永続的な意味での教会の聖伝にも広げなければなりませんか》。はい。「教皇の権威は信仰の聖伝を守るように義務づけられており、そのことは典礼にも適用されます」。ですから、聖アウグスティヌスは、真のカトリック司教の特徴を、こう述べています。「彼らは教会の中に見いだしたものを保持し、学んだことを教え、父祖から受けたものを子らに伝えた」。

教会の必要性

救われるためには、カトリック教会に属することが必要です。これが、教父たち、教皇たち、諸公会議によってしばしば繰り返されてきた、「教会の外に救いなし」(extra Ecclesiam nulla salus)という断言の意味です。

《しかし、天主はすべての人が救われるように望んでおられませんか》。はい。愛に満ちた父として、天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられる」(ティモテオ前書2章4節)のです。だからこそ、天主は、ご自分の教会を、通常にして普遍的な救いの手段として立てられたのです。「教会を母としない者は、天主を父とすることはできない」【聖チプリアヌス】。

《天主の啓示も天主が創立された教会も知らない人が、救われるのは可能ですか》。洞察力を求めて祈ったり真の宗教を熱心に求めたりすることを怠る人は、自分の過ちによって無知なのですから、救われるのは不可能です。同様に、いったん教会を発見しても入ることを拒む人は、天主の招きを知っていながら拒んでいるのですから、救われるのは不可能です。しかし、もし人が天主の啓示を含め、自分に与えられた恩寵を意識して拒むのではなく、また適切な心構えが加わるならば、天主が特別な方法でその人を教会に加入させることは可能です。「私たちのいとも聖なる宗教について不可抗的無知であっても、…正直で高潔な生活を送る人は、天主の光と恩寵の働く力によって、永遠の生命に達することができる。なぜなら、天主は、意識して罪を犯してはいない人が永遠の苦しみで罰せられることを、決してお許しにならないからである」【教皇ピオ九世回勅「クアント・コンフィチアムール・モエローレ」(Quanto Conficiamur Moerore)】。天主は全能ですから、通常の秘跡のしるしとは無関係に洗礼の効果を伝えることがおできになるのです。

《霊魂が、この特別な方法で救われるためには、どんな前提条件が必要ですか》。1.天主が存在されること、また天主を求める者に報いをくださることを信じること(ヘブライ11章6節参照)。2.天主が知らせてくださる御旨を知り、それを行おうとする真摯な努力をすること。3.罪に対する真の悔い改めをし、赦しを願うこと―です。しかし、このような特別な方法で教会に入ることが、頻繁にあると考えるべきではありません。そう思うのは無謀なことです。「滅びに至る門は広く、道はやさしく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、道は険しく、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13-14節)。

《教会の外にいる人とは、どのような人ですか》。ユダヤ教徒、イスラム教徒、異教徒など、洗礼を受けていないすべての人々です。洗礼を受けていても、自らの犯罪や罪が洗礼の霊印の効力を妨げ、教会の霊的な善から切り離されている人のことです。その中には、異端者、離教者、破門者、背教者が含まれます。

《教皇の命令に不従順なすべての行為は、それ自体で離教的ですか》。教皇に抵抗したり、教皇の特定の教えや命令に従うことを拒否したりしても、それが自然法や天主の法に明らかに反していたり、カトリック信仰の完全性や典礼の神聖さを傷つけたり損なったりするならば、離教的ではありません。このような場合、教皇への不従順や抵抗は許されるものであり、時には義務なのです。

《破門された人とは、どのような人ですか》。何らかの重大な罪により、教会の目に見える交わりから切り離され、教会の霊的な祝福を奪われたカトリック信者のことです。しかし、公の破門宣告は無効になる可能性があることを心にとめておきましょう。聖ジャンヌ・ダルクの場合のように、破門という法的な刑罰が不当に科され、そのため破門に司法上の適格性も効力もないことがあり得ます。教会はいつか、マルセル・ルフェーブル大司教に対してなされた告発を、完全に不当かつ無効なものと宣言するに違いありません。

《洗礼を受けたカトリック信者が大罪を犯した場合、その信者はまだ教会員でしょうか》。はい。信仰そのものに対して(例えば、異端という罪によって)重大で頑なに罪を犯さない限り、その信者は霊的には死んでいるとはいえ、教会員であり続けます。死んだ枝が、生きている木にまだついているようなものです。したがって、単に教会員であるだけでは、救いに十分ではありません。救われるためには、生きている教会員でなければなりません。つまり、成聖の恩寵の状態にいなければなりません。「教会の子らは皆、自分の優れた身分が自分自身の功績によるものではなく、キリストの特別な恩寵によることを忘れてはならない。さらに、もしその恩寵に対して、思いと言葉と行いをもって答えないならば、救われないだけでなく、一層厳しく裁かれるであろう」。

教会の属性

可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性は、教会の主要な属性です。《教会の可視性とは何ですか》。教会が、キリストによって歴史的に立てられた社会として、人々に公に目に見えるように現れているという事実です。教会は、プロテスタントの間で一般的に信じられているような、共通の信仰や内的な傾向によって一致した人々による、単なる目に見えない集まりなのではありません。

《教会の永続性とは何ですか》。教会が世の終わりまで途切れることなく存続するという事実です。モルモン教徒が信じているように、真の教会が一度存在するのをやめたとか、本質的に堕落したとか、あるいは近代主義者が信じているように、将来何らかの新しい形態に変わる可能性があると信じるのは間違っています。

《教会の不可崩壊性とは何ですか》。教会が、かつて天主なる創立者から受けたすべてのものを保存し、その教義、道徳、秘跡、本質的な組織は、そのまま変わることなく、また変わり得ないという事実です。地獄の門もこれに勝てぬ(マテオ16章18節参照)という天主なる創立者の約束に反して、教会の不変の教導権が、決定的に誤った教理を公布したり、異端的な礼拝を命じたり、誤った秘跡を与えたりするとか、あるいはそれらが可能だとか信じるのは間違いです。

《教会の不可謬性とは何ですか》。それが、決定的な教えにおいても、普遍的な信仰においても、いつの時代も誤謬を免れて保存されているという事実です。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」(ルカ10章16節*)、「真理の御霊(みたま)が来るとき、霊はあなたたちを、あらゆる真理に導かれるであろう」(ヨハネ16章13節)。教会が教理上の誤謬を決定的かつ正式に保持したり教えたりすることができると信じたり、過去の決定的な教えが教理の進化の過程で取って代わられることがあると信じたり、不可謬性のカリスマをあまりにも広義に解釈して、あたかも教会の個々の民が誤謬を犯すことがまったくないかのように考えたりするのは間違っています。なぜなら、異端的な聖職者によってつまずかされる危険があるからであり、また、歴史上最も悪質な誤謬は叙階を受けた者の階級から生まれたという痛ましい事実があるからです。キリストは、そのような飢えた狼や偽の牧者に注意するよう警告しておられます(マテオ7章15節、23章13節、18章6節、使徒行録20章29節参照)。

《教会の不可謬性の範囲に入るのは、どのような真理ですか》。聖書と聖伝に含まれているすべての啓示された真理が、その主要な対象です。例えば、イエズスは真の天主にして真の人間である、といったことです。正式に啓示されたものではなくとも、「啓示の遺産をそのまま保存するために必然的に必要とされる」これらの真理については、「教会の不可謬性の二次的な対象である。これらの真理がなければ、信仰の遺産を守り、説明することはできない」。例えば、霊魂の霊性、人間の意志の自由、あるいは「ペルソナ」、「実体」、「全実体変化」といった、教義が公布される際の哲学的な概念や用語です。

《教皇やエキュメニカル公会議が教える教令は、それぞれ自動的に不可謬ですか》。いいえ、教会の基本原則は、「いかなる教理も、そのことが明白に表明されていない限り、不可謬的に決定されたものとはみなされない」【新教会法典(Codex Iuris Canonici)749条3項】と言っています。

《教会が不可謬的に教えた真理に関するキリスト信者の義務とは何ですか》。信者は、それをそのまま、キリストの教えであると信じて、率直に受け入れなければなりません。

教会のしるし

キリストは、唯一の真の教会であるカトリック教会を創立されました。聖ペトロの上に立てられたもので、ペトロの座はローマにあって、彼の後継者たちがその後もそこで統治しているため、その教会は、ローマ・カトリック教会とも呼ばれています。キリストによって創立された唯一の真の教会は、特に、キリストが教会に与えられた四つのしるし、すなわち特有の言葉によって見分けることができます。それを私たちは、ニケーア・コンスタンティノポリス信経で宣言しています。つまり、教会は「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」なのです。

1.もし教会が唯一でなければ、教会は真理のものではありません。唯一であることは真理の本質的な側面であるからです。2.もし教会が聖でなければ、教会は霊魂を聖化することができません。3.もし教会が公(カトリック)でなければ、教会は、あらゆる時代や場所で、すべての人々に救いを提供することができません。4.もし教会が使徒継承でなければ、キリストに由来する教理、使命、権威を持っていないことになり、単なる人間の組織になってしまいます。

《歴史上、教会とともにあるように思われるしるしが、もう一つありますか》。はい、迫害というしるしです。天主なるかしらに倣って、忠実なカトリック信者はあらゆる時代に迫害を受けるでしょう。「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章20節)。

唯一であること

カトリック教会は唯一です。なぜなら、すべての忠実な教会員は、唯一の真の天主を礼拝し、同じ教理と道徳を宣言し、同じ秘跡にあずかり、同じ牧者に従うからです。真のエキュメニズムとは、「分かれた人々が、過去に不幸にして去ってしまった唯一の真のキリストの教会に立ち戻るのを促すことによって」【教皇ピオ十一世回勅「モルタリウム・アニモス」(Mortalium animos)10番】、すべての人が、カトリック教会がすでに不滅に所有しているその一致に入るべきであるという意向を表明しなければならないというものなのです。

《キリストの霊は、分かれたキリスト教共同体を、「教会に委ねられた恩寵と真理の充満に効力が由来する救いの手段」として用いていると断言することは適切ですか》。いいえ、これは分かれたキリスト教共同体に正統性があるかのようにほのめかすものであり、カトリック教会が唯一であることを損ない、教理上の相対主義を助長するものです。実際には、天主は、カトリック教会をご自分の唯一無二の教会として、また救いの手段の所有者として、決定され創立されたのです。したがって、分かれたキリスト教共同体が多様にあることは、世界の宗教が多様にあることと同様に、キリストのご意向に反しているのです。

《分かれたキリスト教共同体の中には、真の教えを保持し、有効な秘跡を執行しているところもあるのではありませんか》。はい。しかし、それらが真理にして天主をお喜ばせするものである限り、そのような教えや儀式はカトリック教会に属するものであり、異端的あるいは離教的な共同体に属するものではありません。聖アウグスティヌスによれば、教会を去ったキリスト信者は、自分たちがカトリック教会から盗んだものを自分の所有物にしているのです。「教会はただ一つしかなく、カトリックと呼ばれているのはその教会だけであり、また、教会の一致から分かれたそれらの分派に教会の所有物のままで残っているもののおかげで、それを誰が所有していても、生むのは教会なのである」【「ドナトゥス派駁論 洗礼について」(De Baptismo, contra Donatistas)】。

聖であること

カトリック教会は聖なるものですが、その理由は以下の通りです。1.その創立者は天主の御子であり、2.それは聖霊によって活力を与えられており、3.その教義、道徳、礼拝、規律は人を悪から遠ざけて徳へと導くものであり、4.その命令を守る者はすべて善良で徳があり、その勧めに完全に従った人はすべて偉大な聖人となったのであり、5.その囲いの中では数え切れないほどの奇跡が起きている。

《では、なぜ教会の内部にしばしば、つまずきを与える罪人がいるのですか》。「教会は、自分の懐に罪人を抱えているとはいえ、」聖なるものです。「なぜなら、教会自身は恩寵の命以外の命を持っていないからです。教会員が聖とされるのは、教会の命で生きることによってです。もし教会の命から自分を引き離すならば、聖性の輝きを曇らせる罪と無秩序に陥ってしまいます」。天主は、自らの神秘的な御摂理において、あらゆる時代に生きている教会員を聖化して完成させるための御計画の一環として、教会にいる悪を行う者のつまずきを許しておられるのです。

公(カトリック)であること

カトリック教会がカトリックと呼ばれるのは、次の理由からです。1.いつの時代も、どんな場所でも、どんな人間にも完璧に適合し、2.徹底的に全世界に広がることが可能であり、3.普遍的に広がるようにという天主の衝動によって活力を与えられており、4.あらゆる超自然の真理に満ちている。教会は聖霊降臨の日に公(カトリック)となったのであり、キリストの再臨の日まで常にそうなのです。

使徒継承性

カトリック教会は使徒継承です。なぜなら、その教理は使徒たちの教理であり、その使命と権威は使徒たちを通してキリストに由来するものであるからです。教会の司教全員が、十二使徒からの途切れることのない継承によって、人から人へとその聖職をさかのぼることができるのです。

《教会に、弱かったり、世俗的でだったり、堕落したりした司教がいることが、どうして可能なのですか》。司教職とは、聖性を保証するものではなく、使徒的権威のみを保証するだけであるからです。司教が自分の召命に対して不忠実であるならば、高慢、虚栄心、あるいは慰めへの愛着が、しばしば罠となります。天主の恩寵は、地上での神聖な使命を果たすために決してなくなることはありませんが、それでも司教は、自分の召命の恩寵にお応えすることを選ばなければなりません。さもなければ、司教は堕落していくでしょう。司教は常に祈りを必要としており、天主の御前で厳しい説明責任を問われるのです(ティモテオ前書2章1-2節、マテオ18章6節参照)。

 


聖母は、苦しみを通して私たちを超自然の命に生み出した本当の母親

2024年09月18日 | 聖伝のミサの予定

2024年9月15日(主日)聖母の七つの悲しみの祝日 東京 10時半のミサの説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、聖母の七つの御悲しみの祝日を祝っているので、マリアさまの悲しみ・苦しみについて一緒に黙想いたしましょう。この苦しみを通して、聖母が共償者、つまりイエズス・キリストと共同して人類の罪を贖ったという神秘を黙想いたしましょう。

いったい、まず、なぜマリアさまは苦しまれたのでしょうか。その苦しみの意味は何だったのでしょうか?

まず、マリアさまはなぜ苦しまれたのかを黙想いたしましょう。

【1:聖母はなぜ苦しまれたのか?】
考えても見てください。聖母は、「無原罪の御宿り」という特別の特権をもって、原罪の汚れを一切持たずに孕(やど)られました。マリア様は聖寵に満たされて、その充満のうちにお生まれになりました。ご生涯に亘(わた)ってひたすら天主だけをお愛しされて、罪の影さえもあらず、聖なる一生を過ごされた方です。しかし、罪のないマリアさまの御生涯は、悲しみと苦しみに満たされておられました。

『キリストに倣いて』によれば、「キリストのご生涯は、十字架と殉教とであった」とありますが、まさにそれと同じく、マリアさまのご生涯は十字架と殉教の連続でした。マリアさまは自分のためではなくて、主の御旨に従って、天主のために生き、そして天主のみ旨に生きれば生きるほど、マリアさまは人類の贖いのために、御子とともに苦しみの生涯をおくらなければなりませんでした。
今日の『七つの悲しみの典礼』――七つの苦しみそれぞれ――を黙想すると、まさにそれを教えています。

【2:苦しみの価値の違い】
なぜ、罪がなかったにもかかわらず、マリアさまは苦しまなければならなかったのでしょうか?
その答えは、イエズス様が聖母とともに贖いの事業を行うことをお望みだったからです。言いかえると、マリアさまは天主の御旨に従って、第二のエワとして、罪のない被造物として、第二のアダムであるイエズス・キリストの贖いの業に完璧に、良き伴侶として協力されたということです。

イエズス様の御苦しみ、特に十字架のご受難は、自分のためではありませんでした。そうではなく、全人類のため、この世の罪を贖うために、捧げられました。マリアさまの生涯の苦しみも、同じです。御子の苦しみと同じく、自分の罪――罪はありませんから――の償いのためではなく、イエズス様が人類のために捧げた苦しみに自分の苦しみを添えて、天主に捧げ、それを人類の贖いの業の協力と同伴と共同の捧げものとしてお捧げになったのです。

では、イエズス様とマリアさまの苦しみはおんなじだったのでしょうか?もし違ったとしたらどう違ったのでしょうか? 

イエズス様の苦しみとマリアさまの苦しみの違いは、価値が違いました。なぜかというとイエズス・キリストの苦しみは天主の苦しみだったからです。人となった天主の御言葉が苦しんだので、イエズス・キリストの苦しみには、御言葉の無限の尊厳のために、無限の価値がありました。ですから、厳格な正義に基づいて、イエズス様の御苦しみにおいては、全歴史に亙(わた)るすべての人類のすべての罪を贖ってまだ余りがありました。ところでマリアさまの苦しみには、限界があります。つまり有限の価値、しかなかったということです。

【3:なぜ聖母の苦しみに偉大な価値があったのか?】
しかし、有限の価値だったとしても、イエズス様の苦しみにあまりにもよく参与していたので、マリアさまの苦しみの価値にはきわめて莫大な力がありました。苦しみが持つすべての効果は、贖いの効果は、イエズスの苦しみから由来します。マリアさまの苦しみにもしも贖いの価値があったのは、イエズス様の苦しみに与っていたからです。そしてイエズス様が、マリアさまのために特別のお恵みを与えて、マリアさまが苦しむことができるようにしました。もう少し詳しく言うと、イエズス様のお恵みは、マリアさまをして、イエズス様のために、イエズス様によって、言いかえるとイエズス様のせいで、またイエズス・キリストとともに、苦しむことができるように、お恵みを与えたのです。マリアさまはお恵みがあったからこそ、イエズス様と共に苦しみ、この全世界の罪を贖うためにそれを捧げることができました。

聖ピオ十世教皇は1904年に回勅でこう書いています。
「御子と聖母の生活とは、苦しみを絶え間なく共にし、(…)御子の最期の時が来たとき、イエズスの十字架の傍らには、御子の母マリアが立っていた。マリアは、ただ残酷な光景を眺めるだけではなく、御子が全人類の救いのために捧げられたことを喜び、御子の受難に完全に与った。そして、キリストとマリアの間で、意志と苦難とを共にしたことから、聖母は最もふさわしく、【聖寵に】失われた世界の共同の償う者【coreparatrix】となった。そして、救い主がその死と血によって私たちのために贖われたすべての賜物の分配者(Dispensatrix)となることができた。」« En vertu de la communion de douleurs et de volonté qui l'attachait au Christ, Marie a mérité de devenir la très digne Réparatrice du monde perdu, et en conséquence la Dispensatrice de toutes les grâces que Jésus nous a acquises par sa mort sanglante.» とあります。

つまり、マリアさまは、キリストともに苦しみを捧げることによって、キリストとともにその贖いの功徳を得たということです。

キリストのために苦しむことができるんでしょうか? キリストの苦しみは完全ではないでしょうか? 

聖パウロはこう書いています。実は、キリストは私達がキリストのために苦しむことを望んでいる、と。聖パウロの言葉を引用します。「私は今、あなたたちのために受けた苦しみを喜び、そこで、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの御苦しみの欠けた所を満たそうとする。」(コロサイ1:24)キリストの御苦しみの欠けたところを満たす――それが、キリストが望まれていることです。

こうすることによって、マリアさまはイエズス様とともに苦しみ、そして全世界の苦しみのために、必要な功徳を共に贖うことができました。

功徳というのは一体なんでしょうか?

功徳というのは、聖寵の状態で、つまり大罪を赦されて罪を赦されて、まったく自由に、天主を愛するために、ならかの善意を行ったり、苦しみを耐え忍ぶときに、わたしたちは功徳を積むことができます。この功徳というのは天主と人間との愛の交流・友情関係から生じます。

マリアさまは有限とは言え、イエズス様への深いそして強烈な愛をこめて、まったく自由にすべてをお捧げになりました。そこで、マリアさまの行いや苦しみは、まずマリアさまの聖徳の高さ、それからマリアさまとキリストの一致の深さによって、また主の深いマリアさまへの愛と憐れみと御厚意によって、天主の御心に非常に叶うものであって、最高に価値のあるものとして功徳を得ることができました。ですから、聖ピオ十世のいいかたによると、聖母は、全世界の救いのために、もっとも相応しい価値があるやり方で「デ・コングルオ」のやりかたで、功徳を得たといいます。

では、マリアさまが、キリストとともにわたしたちの罪を贖った、その功徳を得たということは、いったい何を意味するのでしょうか。その意味は、三つあります。

まず第一は、わたしたちの霊的生活にとって非常に大切なことです。これは、マリアさまは、わたしたちの霊的に生みの母となったということです。マリアさまは確かにイエズス様を肉体的に御産みになりました。マリアさまがイエズス様を御産みになったときには、陣痛の苦しみも一切の苦しみもなく、傷もつけずにマリアさまの胎内から奇跡的に御産まれになりました。マリアさまはキリストを御産みになる前も御産みになる時もその御産みになった後も、傷のない童貞でした。

ところが、イエズス・キリストとマリアさまはともに、わたしたちを霊的にお生みになります。それは十字架のもとで、のことでした。イエズス・キリストとマリアさまがともにわたしたちを霊的に超自然の命に生み出そうとするとき、その二人は苦しみました。特にマリアさまは陣痛の苦しみがありました。それが七つの悲しみにあらわれています。この苦しみがあったからこそ、マリアさまは、わたしたちを霊的に生むことができる本当の霊的な母親となることができました。

そのことを確認するかのように、イエズス様は十字架のもとで聖ヨハネを通して、全人類に宣言します。
「おまえの母親だ」と。

そしてマリアさまにはこう言います。
「婦人よ、お前の子を見よ」と。

苦しみのうちに、マリアさまはわたしたちを超自然の命に生み出した本当の母親です。ですからマリアさまは、母親のような方ではなくて、本当の母だといわなければなりません。苦しみの中に、わたしたちを生んでくださいました。

第二はその結果です。もしも、罪のないイエズス・キリストが、聖なる天主であるイエズス・キリストが、苦しみを受けたのならば、また、原罪の汚れのない罪を一切知らないお方がこれほどの苦しみを受けたのならば、実はこの世で苦しみは避けることができない、という事実があります。これが第二のわたしたちに教えることです。

第三に、キリスト教がわたしたちに捧げることができる救い・福音とは、一体なんでしょうか。これはまず、わたしたちが苦しみを避けることができない、ということです。しかし、それは第三の点に行きます。苦しみを避けることができないけれども、イエズス・キリストの十字架によって、イエズス・キリストの十字架だけによって、わたしたちはこの苦しみを救いの手段と変えることができる、天国への道とすることができる、天国への王なる王の黄金の道とすることができる、ということです。それを、マリアさまの悲しみが、わたしたちに教えています。

【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
第一のエワは、自分の個人的な自由な行動によって、全人類の破滅のために第一のアダムに協力しました。二人で、アダムとエワは罪を犯しました。聖母は、自分のまったく個人的な自由な行動によって、愛をこめて、全人類の罪の贖いに協力しました。

聖ペトロ・ダミアノは、わたしたちにこう言っています。「一人の女性エワを通してこの地上に呪いが来たが、一人の女性マリアによってこの地上の祝福が回復した。」(A curse came upon the earth through a woman; through a woman earth's blessing is restored.) と。

聖アウグスチヌスも同じことを言っています。引用します。「人間を騙すために、一人の女エワを通して毒が人間に差し出された。人間の贖いのために、一人の女マリアを通して救いが人間に差し出された。」(In man's deception, poison was served him through a woman; in his redemption, salvation is presented him through a woman.)と。

ですから、今日、わたしたちの本当の母であるマリアさまに、そして苦しみを受けたマリアさまに、感謝いたしましょう。わたしたちが、聖母を通して超自然の命を受けたということを、感謝いたしましょう。わたしたちはでは、選善の決心として、何をたてたらよいでしょうか。わたしたちも十字架のもとに、マリアさまとともに立たなければなりません。そのために、いったい何が一番良い手段でしょうか。それはミサ聖祭です。ミサ聖祭においてイエズス・キリストの十字架が再現されるとき、マリアさまも霊的にわたしたちとともにおられるからです。

ではマリアさまとともに、わたしたちの十字架と苦しみを主にお捧げすることが出来るお恵みを求めつつ、ミサを捧げましょう。

「私にも御傷を負わせ、御血を流し給える御子の十字架によって私を酔わせ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること

2024年09月18日 | お説教・霊的講話

なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること

2024年9月14日(土)十字架称賛の祝日 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は十字架の称賛の祝日です。
十字架の称賛というのは、十字架の神秘、‟十字架というものが非常に高い賛美と栄光を受けるべきものである”ということを示す祝日です。

今日は、このミサの前に、ある方から、こんな質問を受けました。
「なんで、イエズス様は十字架につけられたのですか? なんで、天主は、この世を創った方は、十字架の上で手を広げて亡くなったんですか?」
この十字架の称賛の祝日にピッタリの質問ですので、ぜひこの答えを話したいと思います。

なぜ天主は、この世を創った方は、わたしたちを愛している方は、罪がなかったにもかかわらず、十字架の上で、こんなにも裸になって、茨の冠を被せられ、鞭を打たれて、傷だらけになって、あたかも極悪人の様になってそんな姿で、奴隷のように、十字架につけられ、捨てられて、亡くならなければならなかったのでしょうか?

なぜかというと、これは、わたしたちが犯した罪を、わたしたちに代って、償うためだったのです。
なぜかというと、罪を犯すと、その罪はどうしても償わなければならないからです。
なぜかというと、天主というのは、非常に聖なる方で、その主に対して犯した罪は、どうしてもその犯された秩序を回復しなければならないからです。

もしも誰かが、悪戯(いたずら)の男の子がやってきて、お父さんがせっかく作ったきれいなものを壊してしまった。そうしたら男の子が『お父さんごめんなさい』と涙を流して謝ってきたので『許してあげよう』・・・。でも、この壊されたのはいったいどうするんだ・・・。男の子は、できるかぎりそれを元通りにしなければなりません。でも男の子は元通りにすることはとても一人ではできません。するとお母さんがやって来て『ああ私が手伝ってあげましょう』。お母さんが、きれいにそれを直してくれた。秩序を回復してくれた。

それと同じように、似たようなことで、人間は天主に対して、無限に聖なる方に対して、罪を犯したので、それをどうしても償わなければなりません。しかし人間の限りある力では、無限の聖なる方に対して犯した罪を償うことは、とてもできませんでした。償うためには、無限に聖なる方が必要です。罪のない方が償わなければ、秩序を回復できません。

そこでイエズス・キリストが、天主の御子が、まったく罪のない聖なる天主の御子が、人間となって、わたしたちの名前でわたしたちのかわりに、わたしたちが受けるべき罪をすべて背負って、その罰を受けるわたしたちの代わりに、償ってくださったのです。

ですから、イエズス・キリストのその苦しみを見て、わたしたちの受けるべき罰は、罪は、すべてもうきれいに流された、すべて秩序は回復したんだ、もう過去のことは一切なかった、としてくださったのです。

そして、イエズス・キリストは最も苦しい苦しみを受けたので、その報いとして、最も高い栄光を受ける方となりました。

では、この十字架の称賛の神秘はわたしたちに何を教えているのでしょうか? 三つのことを教えています。

ひとつは、もしかしたら、ある嘘の宗教の人が、偽物がわたしたちにやって来て、「ああ私たちのこの宗教を信じるとこの地上では平和が来ます。そうしたらこの地上では苦しみがなくなります。この地上ではすべてが良くなります。」―――そんなことを言ったら、それは信じないでください。

この世ではどうしても苦しみがあるからです。なぜかというと、わたしたちの罪の償いとして苦しみがこの世に入ってきたからです。苦しみと死と悲しみは、わたしたちが罪を犯したので、この世に来ました。ですからわたしたちはどうしてもそれを避けることができません。

もしも誰かが、「どんな宗教でもよい、苦しみが無くなれば、平和が来れば、そしてこの世が幸せになればよい。あの世のものでなくこの世のものであること、誰かに限ったものではなく全ての人の幸せをこの世で実現することを切に、切に、祈ってやまない」と言ったとしても、でも、どのようなものでも、天主であっても、この世を創造された方であっても、それはできないのです。なぜかというと、人間が罪を犯し続けているから・・・それが第一です。つまり、この世には必ず苦しみがあるということを、私たちに教えています。イエズス様でもそれを避けることをしませんでした。

第二には、もしもわたしたちが天国に行くとしたら、行こうとするならば、むしろわたしたちは苦しみを使わなければならない、ということです。キリスト教が約束している救いとは、来世の約束です。この世では苦しみを避けることはできません。しかし、この世の苦しみは彼岸の栄光に喜びに変わる、ということです。その時、苦しみや悲しみは、避けるべき悪ではなく、愛をこめて受け入れるべき善への手段になるのです。

第三の点は、では‟苦しむのであればなんでもよいのか”というと、そうではありません。わたしたちに、本当のしあわせ、本当の栄光を与えてくれる手段は、たった一つしかありません。イエズス・キリストの十字架です。これだけが天につながる唯一の橋です。道です。イエズス・キリストの十字架を通らければ、誰も父のもとに天の国に行くことはできないんです。イエズス・キリストの十字架だけが称賛を受けて、そうでないならば称賛を受けません。しかし、苦しみをイエズス・キリストと一緒に捧げることによって、イエズス・キリストと一緒に同じような栄光にいくことができる、ということです。イエズス・キリストと一緒に苦しめば苦しむほど、栄光もますます高くなる、ということです。

その証拠が、聖金曜日にイエズス・キリストと一緒に十字架につけられた二人の泥棒がいます。盗賊です。あまりにも悪を犯したので、ついに十字架の刑を受けた二人の悪人です。一人は右に、もう一人は左につけられました。

右につけられた盗賊は、確かに自分は悪いことをした・・・だから自分が十字架につけられたのは当然のことだ・・・と、罪を悔い改めます。

ところが左は、そうではありませんでした。イエズス・キリストを罵りました。「あなたは救い主だというが、もしも救い主だというならば自分と俺を救え。さあ救ってみろ。この十字架から救ってみろ。」といろいろ罵(ののし)るのです。

すると、右にいた盗賊は、あまりにもひどいことを言うので耐えきれずに、「黙れ、この方は罪がないのにもかかわらずこうやって苦しんでおられる。お前は一体なんだ。悪いことをしていながら何を言うのか。」と言って叱るんです。その次にイエズス・キリストに向かって「主よ、あなたが天の国に行かれるときにわたしのことを思い出してください。」というと、イエズス・キリストは、この右の盗賊に向かって「お前は今日わたしとともに天国にいる」。すべての罪は赦されました。

苦しみは同じでしたが、イエズス・キリストとともに苦しむときに、それは栄光に変わります。天国行きの切符に変わります。今日の十字架の称賛の祝日は、これをわたしたちに教えています。

今日は、なぜイエズス様がこんなにも聖なる方が十字架に苦しまれなければならなかったか――それは私達を天国に導くためだ、引っ張ってくださるためだ、とわたしたちに教えている、ということを黙想しました。

最後に、マリアさまにお祈りしましょう。マリアさまはいつも十字架のもとに来て、十字架から逃げずに、イエズス様とともにおられました。マリアさまが天国でわたしたちのためにお祈りしてくださっています。わたしたちも、マリアさまのように、いつもイエズス様の十字架のもとにいることができますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十七の主日の説教―キリストの神性(2024年、札幌)

2024年09月17日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十七の主日の説教―キリストの神性(2024年)

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月15日、札幌
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親愛なる兄弟の皆さま、
 
今日の福音で、イエズスは、聖書の知識を大いに自慢しているファリザイ人に、こう尋ねられました。「あなたたちは、キリストについてどう考えているのか。…キリストは誰の子か」。

私たちの主の質問は、律法学士たちに、キリストの父について、よく考えさせようとするものでした。なぜなら、キリストは肉によれば本当にダヴィドの子(つまり子孫)であったにもかかわらず、彼らが思っていたように、キリストはダヴィドの子であっただけではないからです。キリストは、彼らに照らしを与えて、キリストが天主の本性をお持ちであることと、キリストが永遠において生まれ給うたことについて、考えさせたいと望んでおられます。そして、彼ら自身が認めている聖書そのものから、キリストは単なる人間以上の存在、単なるダヴィドの子以上の存在でなければならないことを証明されるのです。

私たちの主は、詩篇109篇を引用されました。その詩篇は、ダヴィド王によって書かれたものであること、また約千年後にダヴィドの一族から生まれることになるメシアを扱ったものであることは、ユダヤ人の誰もが認めていました。

その詩篇は、不可解な言葉で始まります。「主は私の主に言われた。私が敵をあなたの足台とするまで、私の右に座れ」。

「主」という言葉は、天主のことです。ですから、「天主は私の天主に言われた」と訳すこともできます。「私の主」とは、メシアのことです。ダヴィドは「私の」と言っていますが、それはメシアが自分の子孫であるはずだからです。

しかし、なぜダヴィドは、「主は、私の子であるメシアに言われた」と言わないのでしょうか。なぜダヴィドは、「主は私の主に言われた」と言うのでしょうか。ダヴィド王は、メシアを「私の主」と呼ぶことで、私たちの主が人間(ダヴィドの子)であると同時に天主(父なる天主の子)であることを、はっきりと告知しているのです。

しかし、ダヴィドが高慢になって間違ったと、人々に思われないように、私たちの主は、「ダヴィドが霊感を受けて」という表現を使っておられます。ダヴィド王は聖なる作家であって、天主の霊感の影響の下に、また天主の「霊」が言われたことを書き取って、聖書の一部を書いたのです。(ミサの信経で、私たちは、聖霊について「預言者によりて語り給えり」(Qui locutus est per Prophetas)と唱えているではありませんか。)

ですから、ダヴィドの預言の分かりやすい意味はこうです。「父なる天主は、肉によってまた私の子となるであろう永遠の御子キリストに、こう言われた。『あなたの死によって、あなたの栄光ある復活と昇天によって、あなたのすべての敵(死と悪魔)に打ち勝った後に、私の右に座れ』。次に、御父はキリストを『いっさいの権勢と能力…の上に、またこの世ばかりでなく来るべき世にとなえられるすべての名の上に置かれた』(エフェゾ1章21節)」。

「あなたの足台」とは、最大限の屈辱と平伏を意味します。この考えは、征服者が時々行う残酷な習慣から借りてきたもので、完全な服従のしるしとして、敗者の首に足を置くというものです。獰猛な征服者の中には、馬に乗る際に、王族の捕虜を足台にした者がいたという記録があります。ペルシャ王シャープールはローマ皇帝ヴァレリアヌスをこのように扱い、傲慢なタタールの皇帝ティムールは、トルコ皇帝バヤジッドを同じように扱いました。
このことは、キリストに関して、審判の日に成就することでしょう。
 
聖ヨハネ・クリゾストモスと聖アウグスティヌスは、ファリザイ人が論敵から教えられるよりも、高慢な無知のままでいることを好んだと指摘しています。彼らは、自分たちがイエズスよりも劣っていることを何度も経験していたため、「その日から、あえて問いかける者もなくなった」のです。

親愛なる兄弟の皆さま、

今日の福音から二つの教訓を引き出すことができます。

第一に、私たちの主に関する多くの預言は、主がお生まれになる何世紀も前に記録されていたもので、ユダヤ人にはよく知られていたということです。

ブッダ、ムハンマド、ルター、その他の有名な宗教指導者に関して、真の預言を一つでも挙げることができますか。

私たちは、他の人々を照らし、説得力のある証拠を通して、彼らをカトリック信仰へと導くために、護教学を知る必要があります。

第二に、そうすることは、私たちにとって大きな慰めになるはずです。私たちの主は天主です。今日、主は大いに無視されているかもしれませんが、そうであっても、主がどのようなお方であるかは何も変わっていません。

願わくは、主がすべての敵を打ち砕き、私たちを「私たちの主人の喜びに入」らせてくださいますように。アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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