教会について(2024年9月16日、札幌)
ブノワ・ワリエ神父
教会とは何かを知ることは、教会の一部であると主張しているすべてのカトリック信者にとって、今日、これまでにないほど不可欠なことです。親愛なる信者の皆さま、私は、連続2回の講話を通して、秘跡によって一致し、教皇によって導かれる、天主が立てられた社会であるカトリック教会の持つ、深遠な本質と使命を、皆さまとともに探求したいと思います。
前半の講義では、教会の分裂、教える教会員と忠実な教会員の役割、天主のみ言葉と聖伝に従う必要性について吟味します。教会の本質的な属性である可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性については、教会の四つのしるしである「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」とともに論じます。
次回行われる後半の講話では、教皇と司教の役割に重点を置きながら、教会内部の構造と権威について詳しく説明します。最後に、団体主義や信教の自由という誤った解釈など、現代的な課題についても併せて考えます。
教会の本質
カトリック教会は、キリストの真の信仰を宣言するすべての人々による、天主によって創立された社会であり、キリストが制定された秘跡によって一致し、キリストが目に見える地上のかしらである教皇の下に立てられた牧者たちによって統治されています。
教会の使命
イエズス・キリストが栄光のうちに再臨されるまで、イエズス・キリストのうちにあるすべての人を教え、統治し、聖化するために、天主の権威と委任を担っているのは、カトリック教会だけです。教会の使命は、貧困や病気、環境汚染と闘うための、また「人類の進歩と普遍的友愛」を促進するための人道的奉仕団体となることではありません。
教会の各部分
教会を、三つの部分に分けることができます。1.地上の民から成る「戦闘の教会」、2.煉獄にいるすべての霊魂から成る「苦しみの教会」、3.天国にいる民から成る「凱旋の教会」です。
一つの社会である「戦闘の教会」の持つ、二つに分けられた側面とは何ですか。
1.教皇と、教皇と一致した司教たちから成り、イエズス・キリストの地上における代理者としての権威をもって教える「教導教会」(Ecclesia Docens)、すなわち「教える教会」、2.キリストの教えを受け、それに従って生きるすべての信者から成る「聴従教会」(Ecclesia Docta)、すなわち「教えられる教会」です。
《「教えられる教会」は、啓示された天主のみ言葉に対して、最も従順で素直でなければなりませんか》。はい。教会の教導職は、「天主のみ言葉の上にあるものではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教え、天主のみ言葉を敬虔に聴き、誠実にこれを守り、忠実に説明する」のです。第一バチカン公会議は、決して教皇を絶対君主と定義しませんでした。その反対に、この公会議は、教皇を啓示されたみ言葉への従順を保証する者として提示したのです。
《この従順と素直さは、永続的な意味での教会の聖伝にも広げなければなりませんか》。はい。「教皇の権威は信仰の聖伝を守るように義務づけられており、そのことは典礼にも適用されます」。ですから、聖アウグスティヌスは、真のカトリック司教の特徴を、こう述べています。「彼らは教会の中に見いだしたものを保持し、学んだことを教え、父祖から受けたものを子らに伝えた」。
教会の必要性
救われるためには、カトリック教会に属することが必要です。これが、教父たち、教皇たち、諸公会議によってしばしば繰り返されてきた、「教会の外に救いなし」(extra Ecclesiam nulla salus)という断言の意味です。
《しかし、天主はすべての人が救われるように望んでおられませんか》。はい。愛に満ちた父として、天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられる」(ティモテオ前書2章4節)のです。だからこそ、天主は、ご自分の教会を、通常にして普遍的な救いの手段として立てられたのです。「教会を母としない者は、天主を父とすることはできない」【聖チプリアヌス】。
《天主の啓示も天主が創立された教会も知らない人が、救われるのは可能ですか》。洞察力を求めて祈ったり真の宗教を熱心に求めたりすることを怠る人は、自分の過ちによって無知なのですから、救われるのは不可能です。同様に、いったん教会を発見しても入ることを拒む人は、天主の招きを知っていながら拒んでいるのですから、救われるのは不可能です。しかし、もし人が天主の啓示を含め、自分に与えられた恩寵を意識して拒むのではなく、また適切な心構えが加わるならば、天主が特別な方法でその人を教会に加入させることは可能です。「私たちのいとも聖なる宗教について不可抗的無知であっても、…正直で高潔な生活を送る人は、天主の光と恩寵の働く力によって、永遠の生命に達することができる。なぜなら、天主は、意識して罪を犯してはいない人が永遠の苦しみで罰せられることを、決してお許しにならないからである」【教皇ピオ九世回勅「クアント・コンフィチアムール・モエローレ」(Quanto Conficiamur Moerore)】。天主は全能ですから、通常の秘跡のしるしとは無関係に洗礼の効果を伝えることがおできになるのです。
《霊魂が、この特別な方法で救われるためには、どんな前提条件が必要ですか》。1.天主が存在されること、また天主を求める者に報いをくださることを信じること(ヘブライ11章6節参照)。2.天主が知らせてくださる御旨を知り、それを行おうとする真摯な努力をすること。3.罪に対する真の悔い改めをし、赦しを願うこと―です。しかし、このような特別な方法で教会に入ることが、頻繁にあると考えるべきではありません。そう思うのは無謀なことです。「滅びに至る門は広く、道はやさしく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、道は険しく、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13-14節)。
《教会の外にいる人とは、どのような人ですか》。ユダヤ教徒、イスラム教徒、異教徒など、洗礼を受けていないすべての人々です。洗礼を受けていても、自らの犯罪や罪が洗礼の霊印の効力を妨げ、教会の霊的な善から切り離されている人のことです。その中には、異端者、離教者、破門者、背教者が含まれます。
《教皇の命令に不従順なすべての行為は、それ自体で離教的ですか》。教皇に抵抗したり、教皇の特定の教えや命令に従うことを拒否したりしても、それが自然法や天主の法に明らかに反していたり、カトリック信仰の完全性や典礼の神聖さを傷つけたり損なったりするならば、離教的ではありません。このような場合、教皇への不従順や抵抗は許されるものであり、時には義務なのです。
《破門された人とは、どのような人ですか》。何らかの重大な罪により、教会の目に見える交わりから切り離され、教会の霊的な祝福を奪われたカトリック信者のことです。しかし、公の破門宣告は無効になる可能性があることを心にとめておきましょう。聖ジャンヌ・ダルクの場合のように、破門という法的な刑罰が不当に科され、そのため破門に司法上の適格性も効力もないことがあり得ます。教会はいつか、マルセル・ルフェーブル大司教に対してなされた告発を、完全に不当かつ無効なものと宣言するに違いありません。
《洗礼を受けたカトリック信者が大罪を犯した場合、その信者はまだ教会員でしょうか》。はい。信仰そのものに対して(例えば、異端という罪によって)重大で頑なに罪を犯さない限り、その信者は霊的には死んでいるとはいえ、教会員であり続けます。死んだ枝が、生きている木にまだついているようなものです。したがって、単に教会員であるだけでは、救いに十分ではありません。救われるためには、生きている教会員でなければなりません。つまり、成聖の恩寵の状態にいなければなりません。「教会の子らは皆、自分の優れた身分が自分自身の功績によるものではなく、キリストの特別な恩寵によることを忘れてはならない。さらに、もしその恩寵に対して、思いと言葉と行いをもって答えないならば、救われないだけでなく、一層厳しく裁かれるであろう」。
教会の属性
可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性は、教会の主要な属性です。《教会の可視性とは何ですか》。教会が、キリストによって歴史的に立てられた社会として、人々に公に目に見えるように現れているという事実です。教会は、プロテスタントの間で一般的に信じられているような、共通の信仰や内的な傾向によって一致した人々による、単なる目に見えない集まりなのではありません。
《教会の永続性とは何ですか》。教会が世の終わりまで途切れることなく存続するという事実です。モルモン教徒が信じているように、真の教会が一度存在するのをやめたとか、本質的に堕落したとか、あるいは近代主義者が信じているように、将来何らかの新しい形態に変わる可能性があると信じるのは間違っています。
《教会の不可崩壊性とは何ですか》。教会が、かつて天主なる創立者から受けたすべてのものを保存し、その教義、道徳、秘跡、本質的な組織は、そのまま変わることなく、また変わり得ないという事実です。地獄の門もこれに勝てぬ(マテオ16章18節参照)という天主なる創立者の約束に反して、教会の不変の教導権が、決定的に誤った教理を公布したり、異端的な礼拝を命じたり、誤った秘跡を与えたりするとか、あるいはそれらが可能だとか信じるのは間違いです。
《教会の不可謬性とは何ですか》。それが、決定的な教えにおいても、普遍的な信仰においても、いつの時代も誤謬を免れて保存されているという事実です。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」(ルカ10章16節*)、「真理の御霊(みたま)が来るとき、霊はあなたたちを、あらゆる真理に導かれるであろう」(ヨハネ16章13節)。教会が教理上の誤謬を決定的かつ正式に保持したり教えたりすることができると信じたり、過去の決定的な教えが教理の進化の過程で取って代わられることがあると信じたり、不可謬性のカリスマをあまりにも広義に解釈して、あたかも教会の個々の民が誤謬を犯すことがまったくないかのように考えたりするのは間違っています。なぜなら、異端的な聖職者によってつまずかされる危険があるからであり、また、歴史上最も悪質な誤謬は叙階を受けた者の階級から生まれたという痛ましい事実があるからです。キリストは、そのような飢えた狼や偽の牧者に注意するよう警告しておられます(マテオ7章15節、23章13節、18章6節、使徒行録20章29節参照)。
《教会の不可謬性の範囲に入るのは、どのような真理ですか》。聖書と聖伝に含まれているすべての啓示された真理が、その主要な対象です。例えば、イエズスは真の天主にして真の人間である、といったことです。正式に啓示されたものではなくとも、「啓示の遺産をそのまま保存するために必然的に必要とされる」これらの真理については、「教会の不可謬性の二次的な対象である。これらの真理がなければ、信仰の遺産を守り、説明することはできない」。例えば、霊魂の霊性、人間の意志の自由、あるいは「ペルソナ」、「実体」、「全実体変化」といった、教義が公布される際の哲学的な概念や用語です。
《教皇やエキュメニカル公会議が教える教令は、それぞれ自動的に不可謬ですか》。いいえ、教会の基本原則は、「いかなる教理も、そのことが明白に表明されていない限り、不可謬的に決定されたものとはみなされない」【新教会法典(Codex Iuris Canonici)749条3項】と言っています。
《教会が不可謬的に教えた真理に関するキリスト信者の義務とは何ですか》。信者は、それをそのまま、キリストの教えであると信じて、率直に受け入れなければなりません。
教会のしるし
キリストは、唯一の真の教会であるカトリック教会を創立されました。聖ペトロの上に立てられたもので、ペトロの座はローマにあって、彼の後継者たちがその後もそこで統治しているため、その教会は、ローマ・カトリック教会とも呼ばれています。キリストによって創立された唯一の真の教会は、特に、キリストが教会に与えられた四つのしるし、すなわち特有の言葉によって見分けることができます。それを私たちは、ニケーア・コンスタンティノポリス信経で宣言しています。つまり、教会は「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」なのです。
1.もし教会が唯一でなければ、教会は真理のものではありません。唯一であることは真理の本質的な側面であるからです。2.もし教会が聖でなければ、教会は霊魂を聖化することができません。3.もし教会が公(カトリック)でなければ、教会は、あらゆる時代や場所で、すべての人々に救いを提供することができません。4.もし教会が使徒継承でなければ、キリストに由来する教理、使命、権威を持っていないことになり、単なる人間の組織になってしまいます。
《歴史上、教会とともにあるように思われるしるしが、もう一つありますか》。はい、迫害というしるしです。天主なるかしらに倣って、忠実なカトリック信者はあらゆる時代に迫害を受けるでしょう。「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章20節)。
唯一であること
カトリック教会は唯一です。なぜなら、すべての忠実な教会員は、唯一の真の天主を礼拝し、同じ教理と道徳を宣言し、同じ秘跡にあずかり、同じ牧者に従うからです。真のエキュメニズムとは、「分かれた人々が、過去に不幸にして去ってしまった唯一の真のキリストの教会に立ち戻るのを促すことによって」【教皇ピオ十一世回勅「モルタリウム・アニモス」(Mortalium animos)10番】、すべての人が、カトリック教会がすでに不滅に所有しているその一致に入るべきであるという意向を表明しなければならないというものなのです。
《キリストの霊は、分かれたキリスト教共同体を、「教会に委ねられた恩寵と真理の充満に効力が由来する救いの手段」として用いていると断言することは適切ですか》。いいえ、これは分かれたキリスト教共同体に正統性があるかのようにほのめかすものであり、カトリック教会が唯一であることを損ない、教理上の相対主義を助長するものです。実際には、天主は、カトリック教会をご自分の唯一無二の教会として、また救いの手段の所有者として、決定され創立されたのです。したがって、分かれたキリスト教共同体が多様にあることは、世界の宗教が多様にあることと同様に、キリストのご意向に反しているのです。
《分かれたキリスト教共同体の中には、真の教えを保持し、有効な秘跡を執行しているところもあるのではありませんか》。はい。しかし、それらが真理にして天主をお喜ばせするものである限り、そのような教えや儀式はカトリック教会に属するものであり、異端的あるいは離教的な共同体に属するものではありません。聖アウグスティヌスによれば、教会を去ったキリスト信者は、自分たちがカトリック教会から盗んだものを自分の所有物にしているのです。「教会はただ一つしかなく、カトリックと呼ばれているのはその教会だけであり、また、教会の一致から分かれたそれらの分派に教会の所有物のままで残っているもののおかげで、それを誰が所有していても、生むのは教会なのである」【「ドナトゥス派駁論 洗礼について」(De Baptismo, contra Donatistas)】。
聖であること
カトリック教会は聖なるものですが、その理由は以下の通りです。1.その創立者は天主の御子であり、2.それは聖霊によって活力を与えられており、3.その教義、道徳、礼拝、規律は人を悪から遠ざけて徳へと導くものであり、4.その命令を守る者はすべて善良で徳があり、その勧めに完全に従った人はすべて偉大な聖人となったのであり、5.その囲いの中では数え切れないほどの奇跡が起きている。
《では、なぜ教会の内部にしばしば、つまずきを与える罪人がいるのですか》。「教会は、自分の懐に罪人を抱えているとはいえ、」聖なるものです。「なぜなら、教会自身は恩寵の命以外の命を持っていないからです。教会員が聖とされるのは、教会の命で生きることによってです。もし教会の命から自分を引き離すならば、聖性の輝きを曇らせる罪と無秩序に陥ってしまいます」。天主は、自らの神秘的な御摂理において、あらゆる時代に生きている教会員を聖化して完成させるための御計画の一環として、教会にいる悪を行う者のつまずきを許しておられるのです。
公(カトリック)であること
カトリック教会がカトリックと呼ばれるのは、次の理由からです。1.いつの時代も、どんな場所でも、どんな人間にも完璧に適合し、2.徹底的に全世界に広がることが可能であり、3.普遍的に広がるようにという天主の衝動によって活力を与えられており、4.あらゆる超自然の真理に満ちている。教会は聖霊降臨の日に公(カトリック)となったのであり、キリストの再臨の日まで常にそうなのです。
使徒継承性
カトリック教会は使徒継承です。なぜなら、その教理は使徒たちの教理であり、その使命と権威は使徒たちを通してキリストに由来するものであるからです。教会の司教全員が、十二使徒からの途切れることのない継承によって、人から人へとその聖職をさかのぼることができるのです。
《教会に、弱かったり、世俗的でだったり、堕落したりした司教がいることが、どうして可能なのですか》。司教職とは、聖性を保証するものではなく、使徒的権威のみを保証するだけであるからです。司教が自分の召命に対して不忠実であるならば、高慢、虚栄心、あるいは慰めへの愛着が、しばしば罠となります。天主の恩寵は、地上での神聖な使命を果たすために決してなくなることはありませんが、それでも司教は、自分の召命の恩寵にお応えすることを選ばなければなりません。さもなければ、司教は堕落していくでしょう。司教は常に祈りを必要としており、天主の御前で厳しい説明責任を問われるのです(ティモテオ前書2章1-2節、マテオ18章6節参照)。