アヴェ・マリア!
愛する兄弟の皆様、
2004年10月31日付けの発行で、教文館から「義認の教理に関する共同宣言」という本が出版されました。
これは、カトリック教会を代表してカッシディ枢機卿とルーテル世界連盟とが、1999年10月31日、アウグスブルクにて署名した文書をルーテル/ローマ・カトリック共同委員会が日本語に訳したものです。
この本が日本で出版されるやいなや、大阪の信者さんの方がこれを購入され、昨年(2004年)末、私にこれについてのどう考えたらよいのか、質問されました。
「もしこの共同宣言によって、カトリックとプロテスタントとの『ほぼ500年にわたる対立の克服』がなされたとしたら、レオ10世教皇やトリエント公会議は何故、ルターに対して異端宣言をしたのか。トリエント公会議は不必要だったのか。ルターが、教皇の文章を焼いてローマを屈辱したのは、正しかったのか。カトリックやルター派が、自説を曲げずに、どうして同意が可能だったのか。」
そこでそれらの質問に答えるために、私は聖ピオ十世会司祭であるレネー神父の分析を日本語に訳して以下のような資料を作りました。これを使って、大阪では、今年2005年の1月の定例の聖伝のミサが終わった後に兄弟姉妹の皆様の前でカトリックの教義とルターの教えとの違いを説明し、この共同宣言についてお話しいたしました。
私たちが、義化に関するカトリック信仰をもう一度確認するために、大変良い機会だと思いますので、レネー神父様の「『義認の教理に関する共同宣言』はペトロの座の信仰の転覆である」をどうぞお読み下さい。またトリエント公会議の義化に関する宣言や、1999年10月27日付けで聖ピオ十世会総長であるフレー司教様がヨハネ・パウロ2世教皇様に書いた公開書簡も、併せてお読み下さい。
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「義認の教理に関する共同宣言」はペトロの座の信仰の転覆である
フランスワ・レネー神父(Fr. François Laisney 聖ピオ十世会司祭)著
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)訳
The "Joint Declaration on Justification"
or: The Subversion of the immaculate Faith of the See of Peter
by Fr. François Laisney
1999年10月31日、アウグスブルクにてカッシディ枢機卿はルーテル世界連盟に属する124の教会と共に「義認の教理に関する共同宣言」に署名した。この「義認の教理に関する共同宣言」は多くの人々を躓かせるという意味での狭義の意味でのスキャンダルである。この宣言の重大性とその濁った背景を垣間見るために、私たちはまずカトリック教会の義化に関する教えとこれに反対するルターの異端を思い起こそう。その時に私たちはこのような共同宣言をするためにどれほどひどい曖昧な言葉遣いをしなければならないかが分かるだろう。この宣言は信仰をいつの間にか害し教会の本質をかじりとってしまうエキュメニズムの典型的な産物だということがはっきり分かるだろう。
A 義化に関するカトリックの教義の再確認
1)義化の真の性質は、罪の状態から成聖の状態への内的変化である
人祖は、創造の時に受けた原初の聖寵に不忠実であったために人類を原罪によって汚した。アダムの子孫である全人類は「闇の子」(1テサロニケ5:5)であり「怒りの子」(エフェゾ2:3)であり、罪の状態におり、天主から離れている。さらに善悪を知り分ける年齢に達すると、それぞれ人はその程度の差こそあれ、罪の数を増していく。人は自分の行為によって罪に堕ちることができるが、自分の本性だけの力では罪から立ち上がることができない。また律法の助けだけでも立ち上がれない。人は、御憐れみにおいて私たちに救い主、天主の御ひとり子私たちの主イエズス・キリストを送って下さる天主の聖寵が必要である。私たちの主イエズス・キリストが私たちを救い給うのは、主にその御受難と十字架のいけにえによる。イエズス・キリストは「全ての人々の贖いとしてご自分を捧げられた」(1ティモテオ2:6)。しかしながら、全ての人々が必ずしも救われるわけではない。何故なら最後の審判の時には審判者の左に置かれるものもあり、彼らは次の恐るべき言葉を聞くだろうからである。「呪われた者どもよ、私を離れて永遠の火に入れ!」(マテオ25:41) 「全てが聖福音に従ったわけではなかった」(ローマ10:16)。この贖いは全ての人々にとって充分ではあるが、個々人はそれを「受け入れ」なければならない。「彼を受け入れたものには、彼は天主の子となる権能を与えた」(ヨハネ1:12)。私たちの主イエズス・キリストを受け入れることこそ、新しい誕生であり、罪の状態という霊的死すなわち天主から離れた状態から、聖寵の状態、義の状態、天主の子の命、イエズス・キリストの神秘体の肢体へと内的に変化することである。その時罪の赦しと成聖の聖寵の注入というキリストとの生命的な一致が起こる。これが義化である。「彼は死んでいたのに生き返り、失われていたのに見いだされた!」(ルカ15:32)
(この内的変化において、私たちの霊魂は罪が赦され、客観的に罪は無くなり、天主の成聖の聖寵によって生きる状態となる。これは言葉の最も厳密な意味で「義」とされることであり、客観的な変化である。天主は霊魂に罪があるのにそれを考慮しないのではない。罪があるのに義と認めるのではない。罪が無くなり滅ぼされるので、義となるのである。それ故、カトリック教会はこの変化を、義化と日本語で訳している。)
2)義化の原因は、第1に天主の聖寵であり、第2に人間の協力である
「すべてのよい贈物と、すべての完全な贈物は、変ることなく、変化の影さえもない光の父から、上からくだる」(ヤコボ1:17)。義化は霊魂に対して天主が為す行為の結果であり、いかなる意味においても霊魂がそれを受けるに相応しい功徳もなくいただいた純粋な贈物である。義化される以前には霊魂はまだ罪の状態にあり、従って天主の恵みを得るために功徳を積むことができない。霊魂は正義なる審判者によって課せられた罰を受けるに相応しい身分である。この天主の行為は、先立つ聖寵(gratia praeveniens)である。「天主が最初に私たちを愛された」(1ヨハネ4:19)。しかし私たちの協力を排除するわけではなく、この天主の行為はむしろ私たちからの答えを引き出し要求する。もしも私たちが、天主の先立つ愛に答えなければ、義化という素晴らしい内的変化は起こらない。カトリック教会はこの協力を最初から、特に洗礼の準備において、求めている。何故なら洗礼を受けなければ(あるいは少なくとも洗礼を望まなければ)新しい誕生をすることができないからである。この準備は、私たちの功徳無しに天主から来るものであり、良いものである。この協力は最終的な結果の副次的な原因である。第1の原因に対しては、そこから衝動を受け入れるので私たちは受動的であり、この衝動からは何も善徳に加えられるものはない。しかし、霊魂の変化という最終的な結果に対しては能動的である。この準備という能動的な観点は、放蕩息子の回心にもよく見ることができる。放蕩息子は父のもとに立ち戻った時に罪の赦しを受けた。もしも彼が立ち戻らなかったなら赦しを受けなかっただろう。しかし、彼の立ち戻りは、厳格には赦しを得るために功徳を積むものではなかった。
3)最初の義化
この内的変化の最初の要素は信仰である。内的生命は本質的に全て霊的生命であるので、また知性に最初に知解されたものでなければ何も意志の中にはありえないので、この新しい生命はまず知性によって超自然の心理を受け入れることから始まらなければならない。真の信仰なしに、つまり啓示された信仰に知性が同意しない限り、義化されることは全く不可能である(トリエント公会議)。従って洗礼を受ける前に公教要理を学ぶ必要がある。それは信仰の真理を学ぶためである。まず霊魂は天主に関する知識、天主の善性、罪のために霊魂が置かされている惨めな状態に関する知識、次にキリストの贖いのわざ、私たちの主が提供する憐れみについての知識を得る。そして聖寵に動かされ霊魂は天主を侮辱したことを改悛する、天主の憐れみを待望し、霊魂を「私たちに与えられる聖霊によって私たちの心に注がれる愛」(ローマ5:5)に開く。信仰は義化の最初であり基礎であるので、聖パウロは「信仰によって義とされる」(ローマ5:1)と言う。しかし同じ聖パウロは私たちに愛のない信仰だけでは何でもない(1コリント13:1)と警告する。聖ヤコボは私たちに愛徳のわざのない信仰だけでは死んでいる(ヤコボ2:17,26)と言う。
4)義化の更なる発展
従って、義化は霊的生命、天主の子の生命の始めにすぎない。義化は成長し実を結ばなければならない。キリスト者をして掟の遵守から除外させるどころか、受けた聖寵はキリスト者に掟を遵守する手段を与える。何故なら「愛徳は律法の完成」(ローマ13:10)だからである。聖アウグスティヌスはこう説明する。キリスト者は「律法の下に」あるのではない。何故ならキリストの聖寵によってキリスト者は掟を遵守するので、掟は排斥という罰の下に彼を押しつぶしはしないからである。むしろキリスト者は「律法と共に」(1コリント9:21)ある。何故なら掟は友なる光(格言6:23)であり、キリスト者に天国への道を示し、キリスト者は掟に従って熱心な心で走る(詩篇118:32)からである。悔悛と聖体の秘蹟を規則正しく受け、祈りと愛徳のわざの正真正銘の生活を送ることにより、天主の十戒を忠実に守ることができるという可能性を得るばかりか、成聖の度合いを高める可能性をえる。自分が受けた贈物をして愛徳の善きわざによって実りをもたらす人々には、天がその報いとして与えられる。それに対して贈物を受けながら実を結ばない人々は「外の暗闇に投げ出される」(タレントのたとえ、マテオ25:14-30)。言葉の固有の意味において「救い」は霊的生活の最後に来る。「終わりまで堪え忍ぶものは救われる」(マテオ24:13)。義化の前には功徳はありえない。何故なら愛徳がなければ功徳を積めないからである。しかし義化の後に功徳を積まなかった成人には救いはありえない。
この世におけるキリスト者の生活とは、戦い(ヨブ7:1)である。それはこの世に対する戦い(1ヨハネ2:15)、悪魔に対する戦い(エフェゾ6:12)であり、肉に対する戦い(ガラチア5:17)つまり私たちの罪が赦された後も残る罪への傾きに対する戦いである。これらの傾きは罪から由来し罪へと導く。しかしそれら自体では罪ではない(トリエント公会議)。この戦いにおいては義人でさえも時としては軽傷を負い小罪を犯す。そのために彼らは義人であり続けながら(格言24:16)日々「我らの罪を赦し給え」(マテオ6:12)と祈る。
不幸にしてこの新しい生命は、義化の後に犯す大罪によって失われる。そこで悔悛の秘蹟によってもう一度義化を受ける必要がある。悔悛の秘蹟は、霊的復活のように、真摯な痛悔と私の協力を必要とする。秘蹟の「質料」は悔悛の3つの行為であり、すなわち痛悔、告白、償いで、これらがなければ悔悛の秘蹟は無効である。
5)信頼すること、しかし救いの確実さを当然視するのではない
私たちの主が、私たち全てを救うために十字架の上で死去された事実は、誰にも疑うことを赦さない信仰の真理である。しかし私たちの主の犠牲の利益を私たちの誰が自分の霊魂に適応させるかについては啓示されている事柄ではない。木はその実によって判断されるように、私たちが主の掟に忠実であるか否かによって適応の印を持つにすぎない。これは私たちに聖寵の状態にいるか否かについての絶対的な確実さを与えることができない。ましてや私たちが終わりまで堅忍するかについては言うまでもない。従って聖パウロの言うように、私たちは「恐れとおののきを持って私たちの救いのためにはたらく」(フィリッピ2:12)必要がある。同時に「胸に子供を抱く母親」(イザヤ66:12)のように私たちを援助する天にまします私たちの聖父の憐れみ深い助けを全く信頼する。
6)結論
イエズス・キリストにおけるこの新しい生命の完璧な模範は、至聖なる童貞聖マリアである。キリストの御業における聖母マリアの協力は、彼女の「我になれかし(フィアット)」と十字架のもとにおけるキリストと共に苦しんだこと(ルカ1:38及びローマ8:17参照)、さらに聖母が全ての栄光を天主に帰していること(ルカ1:46-55のマニフィカット)において明白である。
トリエント公会議は、この素晴らしいカトリックの義化に関する教えを有名な第6総会において満場一致で可決し、永久のものとして決議した。この満場一致は参加していた公会議の教父たち全てを極めて強く驚かせ、これをほとんど奇跡、また聖霊の援助の目に見える印と考えた。公会議の序言には、これは「キリストが教え、使徒たちが伝え、そしてカトリック教会が常に保持してきた教え」(Dz 792a)と宣言している。そしてその最後の言葉として、公会議はもう一度こう言明している。「もしこの教えを忠実に固く保持しないものは誰であれ、義とされることがない。」また、この教えを保持するのみならず、この教えに「反する誤謬を避け、それから逃れ」亡ければならない、つまり、公会議の規定(カノン)において排斥された教えを「避けて逃れる」必要があると宣言する。
B. ルターの主張した異端説
1)義化の本質に関する誤謬:キリストの正義の外部的帰属(the extrinsic imputation of Christ’s justice)
ルターの異端の基本的な点は、彼が義化とは、罪人が自分の罪を消し去られ現実的に義人となると言う意味での内的に変化をするのではない、と主張したことにある。ルターによれば、義化とは、キリストの功徳を考慮して天主が罪人を罰しないと同意することにすぎない。ルターがする比較は、泥棒が自分の盗んだものを返済することができないが、金持ちは泥棒が何もしないのだが、ただ自分を救済してくれる金持ちを信頼したが故に、泥棒の代わりに泥棒の負債を返済した金持ちによって罰が赦されることである。キリストの掟に従うことに成功せず、ルターは、人は内的な変化を受ける必要がなく、そして不従順をし続けることができる、それはただ単にキリストの約束に信頼したが故に、外的に「義と認められる」からだと主張した。
(従って、ルターの考えによれば、義化されるのではなく、「宣義」される、あるいは「義認」されるのである。)
2)原因に関する誤謬:人間の側からの協力の拒否
ルターは、原罪によって引き起こされた損害はあまりにもひどく、人間の自由は「義認」の準備に協力するに不能となったと考える。これが、洗礼の前に要求されている準備という福音的な実践にどれほど大きく反しているかと言うことは見ずに、ルターはこのことが天主の名誉を救うと主張する。何故なら、ルターにとって天主の行為は人間の行為を排除するからである。もしも義が天主からのものであるなら、人間から来るのではない。従って人間からのものは何であれ、いわば天主の名誉から「盗まれた」ものである。そこでルターは、人間はいかなるやり方においても功徳を積むことはできず、いかなるやり方においても自分の救いに協力することはできない、と結論付けた。これはルターが天主の超越性を捉えることに失敗したからであった。天主は第1の究極原因であり、副次的な諸原因をなきものとするどころか、究極原因に従属するものとして副次的諸原因を存在させ因果的に作用させるからである。しかしルターはそのことを見ようとしない。
3)義化の結果に関する誤謬:キリスト教的な生活の破壊
人は「義認」の後であっても現実には罪人してとどまるほど腐りきっている。ルターによれば人は同時に義人でありかつ罪人である(simul justus et peccator)。人は、天主の宣言という人間にとって全く外的なものの力によって義人であり、しかし彼のうちに留まる罪の現実のために罪人である。
人間は現実には変化していないので、「義認」の後にも「義認」前と同様に、天主の十戒を遵守することができない。それどころかルターによれば人間は十戒の遵守の義務がない。ただ人間がこれからも追い続けるであろう負債を、人間のために支払い続けてくれるあの富者を信頼し続けるだけで充分である。
この場合、ルターによれば信仰とは本質的に、(カトリック教会の言うように「啓示された真理への知的な執着」ではなく)キリストの功徳によってすでに救われたという信頼である。この信頼は絶対的でなければならず、救いの確かさは絶対でなければならない。
4)カトリック信仰の残り部分の破壊
この義化に関するこの偽りの原理、すなわち “義化が本質的に「基準」(「義認の教理に関する共同宣言」18番)として外的である” ということを使って、ルターはカトリックの教義の多くの点を否定して結論付けた。ルターは私たちをキリストと一致させる、業というものを全て拒否する。彼はキリストの神秘体の現実、諸聖人の通功ということを否定する。彼は、ミサの聖なるいけにえ(冒涜の言葉をふんだんに使ってこれを罵る)と、秘蹟の事効的(ex opere operato)効力、聖職権と裁治権、そしてカトリック教会の全構造(彼は恐るべき冒涜を教皇に発している)、修道誓願、修道生活、贖宥、煉獄、等々を拒否する。道徳的レベルでは、最初の宗教改革者のこれらの誤った原理は、さまざまな結論へと導かれた。それらの結論はそれぞれが原理よりもさらに冒涜的なものであった。例えば「大胆に罪を犯せ、されどさらに大胆に信ぜよ」とか「全ての善行は大罪である」などである。宗教改革は不道徳という実りの悲劇的な記録を産みだした。
それに続いて、ルターほどは退廃していなかった彼の信奉者らは、カトリックの議論の強さに打たれてカトリックの教義の幾つかの要素(何らかの内的聖化であり、これを彼らは「義認」の結果と呼ぶ。ただし彼らは「義認」を内的変化に本質的に存するとは認めていない)を再導入しなければならないと感じた。しかし彼らはルターの元来の主張に固執することを望む人々から攻撃された。反対に他の人々はルターが開いた緩慢の道に従いさらに多くの教義を否定し続けた。それは彼らのリベラルなプロテスタント主義が合理主義において消え失せてしまうまでであり、この合理主義は完全な無神論へと導いている。19世紀におこった主要な反聖職主義者の多くはプロテスタントであった。
ビヨ枢機卿(Cardinal Billot)は、この純粋に外的な「義認」について、「これが「白塗りの墓」(マテオ23:27)という結果をもたらす」と正しくも言っている。以上、私たちの両者の比較は、この2つの教義がどれほど根本的に両立し得ないものであるかを示している。「正義と不義とに何のつながりがあろう。光と闇とに何のまじわりがあろう。」(2コリント6:14)異端を棄て、カトリックの真理を完全に受け入れるという真の回心だけが、プロテスタントの人々をして教会の一致に再び入らせることができる。
(つづく)
愛する兄弟の皆様、
2004年10月31日付けの発行で、教文館から「義認の教理に関する共同宣言」という本が出版されました。
これは、カトリック教会を代表してカッシディ枢機卿とルーテル世界連盟とが、1999年10月31日、アウグスブルクにて署名した文書をルーテル/ローマ・カトリック共同委員会が日本語に訳したものです。
この本が日本で出版されるやいなや、大阪の信者さんの方がこれを購入され、昨年(2004年)末、私にこれについてのどう考えたらよいのか、質問されました。
「もしこの共同宣言によって、カトリックとプロテスタントとの『ほぼ500年にわたる対立の克服』がなされたとしたら、レオ10世教皇やトリエント公会議は何故、ルターに対して異端宣言をしたのか。トリエント公会議は不必要だったのか。ルターが、教皇の文章を焼いてローマを屈辱したのは、正しかったのか。カトリックやルター派が、自説を曲げずに、どうして同意が可能だったのか。」
そこでそれらの質問に答えるために、私は聖ピオ十世会司祭であるレネー神父の分析を日本語に訳して以下のような資料を作りました。これを使って、大阪では、今年2005年の1月の定例の聖伝のミサが終わった後に兄弟姉妹の皆様の前でカトリックの教義とルターの教えとの違いを説明し、この共同宣言についてお話しいたしました。
私たちが、義化に関するカトリック信仰をもう一度確認するために、大変良い機会だと思いますので、レネー神父様の「『義認の教理に関する共同宣言』はペトロの座の信仰の転覆である」をどうぞお読み下さい。またトリエント公会議の義化に関する宣言や、1999年10月27日付けで聖ピオ十世会総長であるフレー司教様がヨハネ・パウロ2世教皇様に書いた公開書簡も、併せてお読み下さい。
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「義認の教理に関する共同宣言」はペトロの座の信仰の転覆である
フランスワ・レネー神父(Fr. François Laisney 聖ピオ十世会司祭)著
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)訳
The "Joint Declaration on Justification"
or: The Subversion of the immaculate Faith of the See of Peter
by Fr. François Laisney
1999年10月31日、アウグスブルクにてカッシディ枢機卿はルーテル世界連盟に属する124の教会と共に「義認の教理に関する共同宣言」に署名した。この「義認の教理に関する共同宣言」は多くの人々を躓かせるという意味での狭義の意味でのスキャンダルである。この宣言の重大性とその濁った背景を垣間見るために、私たちはまずカトリック教会の義化に関する教えとこれに反対するルターの異端を思い起こそう。その時に私たちはこのような共同宣言をするためにどれほどひどい曖昧な言葉遣いをしなければならないかが分かるだろう。この宣言は信仰をいつの間にか害し教会の本質をかじりとってしまうエキュメニズムの典型的な産物だということがはっきり分かるだろう。
A 義化に関するカトリックの教義の再確認
1)義化の真の性質は、罪の状態から成聖の状態への内的変化である
人祖は、創造の時に受けた原初の聖寵に不忠実であったために人類を原罪によって汚した。アダムの子孫である全人類は「闇の子」(1テサロニケ5:5)であり「怒りの子」(エフェゾ2:3)であり、罪の状態におり、天主から離れている。さらに善悪を知り分ける年齢に達すると、それぞれ人はその程度の差こそあれ、罪の数を増していく。人は自分の行為によって罪に堕ちることができるが、自分の本性だけの力では罪から立ち上がることができない。また律法の助けだけでも立ち上がれない。人は、御憐れみにおいて私たちに救い主、天主の御ひとり子私たちの主イエズス・キリストを送って下さる天主の聖寵が必要である。私たちの主イエズス・キリストが私たちを救い給うのは、主にその御受難と十字架のいけにえによる。イエズス・キリストは「全ての人々の贖いとしてご自分を捧げられた」(1ティモテオ2:6)。しかしながら、全ての人々が必ずしも救われるわけではない。何故なら最後の審判の時には審判者の左に置かれるものもあり、彼らは次の恐るべき言葉を聞くだろうからである。「呪われた者どもよ、私を離れて永遠の火に入れ!」(マテオ25:41) 「全てが聖福音に従ったわけではなかった」(ローマ10:16)。この贖いは全ての人々にとって充分ではあるが、個々人はそれを「受け入れ」なければならない。「彼を受け入れたものには、彼は天主の子となる権能を与えた」(ヨハネ1:12)。私たちの主イエズス・キリストを受け入れることこそ、新しい誕生であり、罪の状態という霊的死すなわち天主から離れた状態から、聖寵の状態、義の状態、天主の子の命、イエズス・キリストの神秘体の肢体へと内的に変化することである。その時罪の赦しと成聖の聖寵の注入というキリストとの生命的な一致が起こる。これが義化である。「彼は死んでいたのに生き返り、失われていたのに見いだされた!」(ルカ15:32)
(この内的変化において、私たちの霊魂は罪が赦され、客観的に罪は無くなり、天主の成聖の聖寵によって生きる状態となる。これは言葉の最も厳密な意味で「義」とされることであり、客観的な変化である。天主は霊魂に罪があるのにそれを考慮しないのではない。罪があるのに義と認めるのではない。罪が無くなり滅ぼされるので、義となるのである。それ故、カトリック教会はこの変化を、義化と日本語で訳している。)
2)義化の原因は、第1に天主の聖寵であり、第2に人間の協力である
「すべてのよい贈物と、すべての完全な贈物は、変ることなく、変化の影さえもない光の父から、上からくだる」(ヤコボ1:17)。義化は霊魂に対して天主が為す行為の結果であり、いかなる意味においても霊魂がそれを受けるに相応しい功徳もなくいただいた純粋な贈物である。義化される以前には霊魂はまだ罪の状態にあり、従って天主の恵みを得るために功徳を積むことができない。霊魂は正義なる審判者によって課せられた罰を受けるに相応しい身分である。この天主の行為は、先立つ聖寵(gratia praeveniens)である。「天主が最初に私たちを愛された」(1ヨハネ4:19)。しかし私たちの協力を排除するわけではなく、この天主の行為はむしろ私たちからの答えを引き出し要求する。もしも私たちが、天主の先立つ愛に答えなければ、義化という素晴らしい内的変化は起こらない。カトリック教会はこの協力を最初から、特に洗礼の準備において、求めている。何故なら洗礼を受けなければ(あるいは少なくとも洗礼を望まなければ)新しい誕生をすることができないからである。この準備は、私たちの功徳無しに天主から来るものであり、良いものである。この協力は最終的な結果の副次的な原因である。第1の原因に対しては、そこから衝動を受け入れるので私たちは受動的であり、この衝動からは何も善徳に加えられるものはない。しかし、霊魂の変化という最終的な結果に対しては能動的である。この準備という能動的な観点は、放蕩息子の回心にもよく見ることができる。放蕩息子は父のもとに立ち戻った時に罪の赦しを受けた。もしも彼が立ち戻らなかったなら赦しを受けなかっただろう。しかし、彼の立ち戻りは、厳格には赦しを得るために功徳を積むものではなかった。
3)最初の義化
この内的変化の最初の要素は信仰である。内的生命は本質的に全て霊的生命であるので、また知性に最初に知解されたものでなければ何も意志の中にはありえないので、この新しい生命はまず知性によって超自然の心理を受け入れることから始まらなければならない。真の信仰なしに、つまり啓示された信仰に知性が同意しない限り、義化されることは全く不可能である(トリエント公会議)。従って洗礼を受ける前に公教要理を学ぶ必要がある。それは信仰の真理を学ぶためである。まず霊魂は天主に関する知識、天主の善性、罪のために霊魂が置かされている惨めな状態に関する知識、次にキリストの贖いのわざ、私たちの主が提供する憐れみについての知識を得る。そして聖寵に動かされ霊魂は天主を侮辱したことを改悛する、天主の憐れみを待望し、霊魂を「私たちに与えられる聖霊によって私たちの心に注がれる愛」(ローマ5:5)に開く。信仰は義化の最初であり基礎であるので、聖パウロは「信仰によって義とされる」(ローマ5:1)と言う。しかし同じ聖パウロは私たちに愛のない信仰だけでは何でもない(1コリント13:1)と警告する。聖ヤコボは私たちに愛徳のわざのない信仰だけでは死んでいる(ヤコボ2:17,26)と言う。
4)義化の更なる発展
従って、義化は霊的生命、天主の子の生命の始めにすぎない。義化は成長し実を結ばなければならない。キリスト者をして掟の遵守から除外させるどころか、受けた聖寵はキリスト者に掟を遵守する手段を与える。何故なら「愛徳は律法の完成」(ローマ13:10)だからである。聖アウグスティヌスはこう説明する。キリスト者は「律法の下に」あるのではない。何故ならキリストの聖寵によってキリスト者は掟を遵守するので、掟は排斥という罰の下に彼を押しつぶしはしないからである。むしろキリスト者は「律法と共に」(1コリント9:21)ある。何故なら掟は友なる光(格言6:23)であり、キリスト者に天国への道を示し、キリスト者は掟に従って熱心な心で走る(詩篇118:32)からである。悔悛と聖体の秘蹟を規則正しく受け、祈りと愛徳のわざの正真正銘の生活を送ることにより、天主の十戒を忠実に守ることができるという可能性を得るばかりか、成聖の度合いを高める可能性をえる。自分が受けた贈物をして愛徳の善きわざによって実りをもたらす人々には、天がその報いとして与えられる。それに対して贈物を受けながら実を結ばない人々は「外の暗闇に投げ出される」(タレントのたとえ、マテオ25:14-30)。言葉の固有の意味において「救い」は霊的生活の最後に来る。「終わりまで堪え忍ぶものは救われる」(マテオ24:13)。義化の前には功徳はありえない。何故なら愛徳がなければ功徳を積めないからである。しかし義化の後に功徳を積まなかった成人には救いはありえない。
この世におけるキリスト者の生活とは、戦い(ヨブ7:1)である。それはこの世に対する戦い(1ヨハネ2:15)、悪魔に対する戦い(エフェゾ6:12)であり、肉に対する戦い(ガラチア5:17)つまり私たちの罪が赦された後も残る罪への傾きに対する戦いである。これらの傾きは罪から由来し罪へと導く。しかしそれら自体では罪ではない(トリエント公会議)。この戦いにおいては義人でさえも時としては軽傷を負い小罪を犯す。そのために彼らは義人であり続けながら(格言24:16)日々「我らの罪を赦し給え」(マテオ6:12)と祈る。
不幸にしてこの新しい生命は、義化の後に犯す大罪によって失われる。そこで悔悛の秘蹟によってもう一度義化を受ける必要がある。悔悛の秘蹟は、霊的復活のように、真摯な痛悔と私の協力を必要とする。秘蹟の「質料」は悔悛の3つの行為であり、すなわち痛悔、告白、償いで、これらがなければ悔悛の秘蹟は無効である。
5)信頼すること、しかし救いの確実さを当然視するのではない
私たちの主が、私たち全てを救うために十字架の上で死去された事実は、誰にも疑うことを赦さない信仰の真理である。しかし私たちの主の犠牲の利益を私たちの誰が自分の霊魂に適応させるかについては啓示されている事柄ではない。木はその実によって判断されるように、私たちが主の掟に忠実であるか否かによって適応の印を持つにすぎない。これは私たちに聖寵の状態にいるか否かについての絶対的な確実さを与えることができない。ましてや私たちが終わりまで堅忍するかについては言うまでもない。従って聖パウロの言うように、私たちは「恐れとおののきを持って私たちの救いのためにはたらく」(フィリッピ2:12)必要がある。同時に「胸に子供を抱く母親」(イザヤ66:12)のように私たちを援助する天にまします私たちの聖父の憐れみ深い助けを全く信頼する。
6)結論
イエズス・キリストにおけるこの新しい生命の完璧な模範は、至聖なる童貞聖マリアである。キリストの御業における聖母マリアの協力は、彼女の「我になれかし(フィアット)」と十字架のもとにおけるキリストと共に苦しんだこと(ルカ1:38及びローマ8:17参照)、さらに聖母が全ての栄光を天主に帰していること(ルカ1:46-55のマニフィカット)において明白である。
トリエント公会議は、この素晴らしいカトリックの義化に関する教えを有名な第6総会において満場一致で可決し、永久のものとして決議した。この満場一致は参加していた公会議の教父たち全てを極めて強く驚かせ、これをほとんど奇跡、また聖霊の援助の目に見える印と考えた。公会議の序言には、これは「キリストが教え、使徒たちが伝え、そしてカトリック教会が常に保持してきた教え」(Dz 792a)と宣言している。そしてその最後の言葉として、公会議はもう一度こう言明している。「もしこの教えを忠実に固く保持しないものは誰であれ、義とされることがない。」また、この教えを保持するのみならず、この教えに「反する誤謬を避け、それから逃れ」亡ければならない、つまり、公会議の規定(カノン)において排斥された教えを「避けて逃れる」必要があると宣言する。
B. ルターの主張した異端説
1)義化の本質に関する誤謬:キリストの正義の外部的帰属(the extrinsic imputation of Christ’s justice)
ルターの異端の基本的な点は、彼が義化とは、罪人が自分の罪を消し去られ現実的に義人となると言う意味での内的に変化をするのではない、と主張したことにある。ルターによれば、義化とは、キリストの功徳を考慮して天主が罪人を罰しないと同意することにすぎない。ルターがする比較は、泥棒が自分の盗んだものを返済することができないが、金持ちは泥棒が何もしないのだが、ただ自分を救済してくれる金持ちを信頼したが故に、泥棒の代わりに泥棒の負債を返済した金持ちによって罰が赦されることである。キリストの掟に従うことに成功せず、ルターは、人は内的な変化を受ける必要がなく、そして不従順をし続けることができる、それはただ単にキリストの約束に信頼したが故に、外的に「義と認められる」からだと主張した。
(従って、ルターの考えによれば、義化されるのではなく、「宣義」される、あるいは「義認」されるのである。)
2)原因に関する誤謬:人間の側からの協力の拒否
ルターは、原罪によって引き起こされた損害はあまりにもひどく、人間の自由は「義認」の準備に協力するに不能となったと考える。これが、洗礼の前に要求されている準備という福音的な実践にどれほど大きく反しているかと言うことは見ずに、ルターはこのことが天主の名誉を救うと主張する。何故なら、ルターにとって天主の行為は人間の行為を排除するからである。もしも義が天主からのものであるなら、人間から来るのではない。従って人間からのものは何であれ、いわば天主の名誉から「盗まれた」ものである。そこでルターは、人間はいかなるやり方においても功徳を積むことはできず、いかなるやり方においても自分の救いに協力することはできない、と結論付けた。これはルターが天主の超越性を捉えることに失敗したからであった。天主は第1の究極原因であり、副次的な諸原因をなきものとするどころか、究極原因に従属するものとして副次的諸原因を存在させ因果的に作用させるからである。しかしルターはそのことを見ようとしない。
3)義化の結果に関する誤謬:キリスト教的な生活の破壊
人は「義認」の後であっても現実には罪人してとどまるほど腐りきっている。ルターによれば人は同時に義人でありかつ罪人である(simul justus et peccator)。人は、天主の宣言という人間にとって全く外的なものの力によって義人であり、しかし彼のうちに留まる罪の現実のために罪人である。
人間は現実には変化していないので、「義認」の後にも「義認」前と同様に、天主の十戒を遵守することができない。それどころかルターによれば人間は十戒の遵守の義務がない。ただ人間がこれからも追い続けるであろう負債を、人間のために支払い続けてくれるあの富者を信頼し続けるだけで充分である。
この場合、ルターによれば信仰とは本質的に、(カトリック教会の言うように「啓示された真理への知的な執着」ではなく)キリストの功徳によってすでに救われたという信頼である。この信頼は絶対的でなければならず、救いの確かさは絶対でなければならない。
4)カトリック信仰の残り部分の破壊
この義化に関するこの偽りの原理、すなわち “義化が本質的に「基準」(「義認の教理に関する共同宣言」18番)として外的である” ということを使って、ルターはカトリックの教義の多くの点を否定して結論付けた。ルターは私たちをキリストと一致させる、業というものを全て拒否する。彼はキリストの神秘体の現実、諸聖人の通功ということを否定する。彼は、ミサの聖なるいけにえ(冒涜の言葉をふんだんに使ってこれを罵る)と、秘蹟の事効的(ex opere operato)効力、聖職権と裁治権、そしてカトリック教会の全構造(彼は恐るべき冒涜を教皇に発している)、修道誓願、修道生活、贖宥、煉獄、等々を拒否する。道徳的レベルでは、最初の宗教改革者のこれらの誤った原理は、さまざまな結論へと導かれた。それらの結論はそれぞれが原理よりもさらに冒涜的なものであった。例えば「大胆に罪を犯せ、されどさらに大胆に信ぜよ」とか「全ての善行は大罪である」などである。宗教改革は不道徳という実りの悲劇的な記録を産みだした。
それに続いて、ルターほどは退廃していなかった彼の信奉者らは、カトリックの議論の強さに打たれてカトリックの教義の幾つかの要素(何らかの内的聖化であり、これを彼らは「義認」の結果と呼ぶ。ただし彼らは「義認」を内的変化に本質的に存するとは認めていない)を再導入しなければならないと感じた。しかし彼らはルターの元来の主張に固執することを望む人々から攻撃された。反対に他の人々はルターが開いた緩慢の道に従いさらに多くの教義を否定し続けた。それは彼らのリベラルなプロテスタント主義が合理主義において消え失せてしまうまでであり、この合理主義は完全な無神論へと導いている。19世紀におこった主要な反聖職主義者の多くはプロテスタントであった。
ビヨ枢機卿(Cardinal Billot)は、この純粋に外的な「義認」について、「これが「白塗りの墓」(マテオ23:27)という結果をもたらす」と正しくも言っている。以上、私たちの両者の比較は、この2つの教義がどれほど根本的に両立し得ないものであるかを示している。「正義と不義とに何のつながりがあろう。光と闇とに何のまじわりがあろう。」(2コリント6:14)異端を棄て、カトリックの真理を完全に受け入れるという真の回心だけが、プロテスタントの人々をして教会の一致に再び入らせることができる。
(つづく)