Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ロザリオ十字軍、ラスト・スパート

2012年05月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 第4次ロザリオ十字軍は、来る5月27日の聖霊降臨の祝日で終了します。

 私たち聖ピオ十世会は、現在、多くの祈りを必要としています。特にローマと聖ピオ十世会との関係について多くの祈りが必要です。フェレー司教さまや聖ピオ十世会の全ての司教さまたちのために熱烈な祈りを捧げましょう。


 聖ピオ十世会がカトリック信仰を純粋に守り抜き、近代主義の汚染から免れますように! 聖ピオ十世会の指導者たちが聖霊に照らされ導かれますように! ルフェーブル大司教さまの智恵深い信仰の闘いを闘い抜きますように!


 願わくは私たちが祈りの「爆撃機」となりますように!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ウィリアムソン司教様による堅振式前の訓話 二〇一二年五月六日・秋田にて

2012年05月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の秋田巡礼でウィリアムソン司教様が執行された堅振の秘蹟の時のお説教を書き起こして下さった方がいらっしゃいますので、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

***

ウィリアムソン司教様による堅振式前の訓話
二〇一二年五月六日・秋田にて/通訳・小野田神父
※[ ]は補足。



[初めの数十秒欠落]
 ……これは七つの秘跡のうちの一つであり、他の六つの秘跡が与えない、特別なお恵みを与えます。そうでなければ、七ではありません。
 堅振の秘跡が与えるものは、堅固さです、力強さです。超自然的な力強さです。
 これはオリンピックの選手のような強さではありません。殉教者の力強さです。
 初代教会には有名な童貞殉教者たちがいました。幼い女の子たちが、ローマ皇帝の前に立ち上がって、イエズス・キリストに忠実を尽くしました。
 今日ではローマ皇帝の前に立ち上がる必要はありません。しかし、私達の家族の前で立ち上がり、あるいは親戚、あるいは会社での同僚、それから新聞、もしかしたら、政府の前に立ち上がる必要があるかも知れません。

 私たちの主が十字架のつけられたときには、罪標には「ナザレトのイエズス、ユダヤ人の王」と書かれていました。
 ユダヤ人たちはそれに反対しました。「ユダヤ人の王とは書かないで欲しい、ユダヤの王と自称した者、と書け」と言いました。
 この違いはどこにあるかというと、殉教者と、この世に歩調を合わせて生きるカトリックの違いです。
 カトリック信者は、天主と歩調を合わせるか、この世と歩調を合わせるかのどちらかであり、両方を選ぶことはできません。
 この世か、あるいは天主です。
 もしもイエズス様が「私は天主である、と思う(I think I am God)」と、おっしゃったなら、ユダヤ人たちとは何の問題もなかったはずです。
 そうしたらユダヤ人たちは「ああ、この人は自分が天主だと思っている。ちょっと頭のおかしい人だ」[と言ったはずです]
 イエズス様は「私は天主である、と思う」とは言いませんでした。
 イエズス様は「私は天主である(I am God)」とおっしゃったのです。
 例えば、「アブラハムが存在する前に、私は在る」と、言いました。「我、在り」ということは、天主のサインであるかのようです。
 イエズス様がまだ三十三歳であった時に、アブラハムが存在する前に「我、在り」、つまり「私は天主である、私は永遠の天主である」と言ったのです。
 イエズス様は決して「私は天主である、と思う」などとはおっしゃいませんでした。
 「天主である」と言ったのです。

 現代、カトリック教会では、教皇様はこんなことを言っています。
 「私たちは本当の宗教の者であるが、他の宗教も悪くない」
 つまりこれは「私たちの宗教は最高だ、と思う」と言っているのです。
 ですから、教皇様はこの世に迎合し、ユダヤ人たちに迎合し、天主の敵たちに迎合しているのですが、天主を喜ばしめているとは言えません。
 今の教皇様の態度は「私は天主である、と思う」と言っているのと同じです。
 「私は天主である」と言ってはいないのです。
 「このカトリックこそ、唯一の、本当の天主の宗教である」とは言っていないからです。
 なぜなら「他の宗教でも救霊は得られる」と言うからです。「他の宗教でも霊魂を救うことができる」と。
 教皇様は、カトリック教会だけが唯一の、本当の宗教であると主張していないからです。
 でも、イエズス様は、「私こそが唯一の本当の天主である、おん父と聖霊とともに、唯一の天主である」と言いました。
 イエズス様は決して「他のいろいろな宗教がある中で、好きなものを選んでいい、私はその選択肢の一つだ」とは言いませんでした。
 今日、堅振を受けて信仰を堅固にされる皆さんは、「私こそが唯一の天主である」と、おっしゃったイエズス様の信仰を持っているのです。

 もしも私が事務所で働いていて、同僚が、こう言ったとします。
 「あなたはカトリック、私は仏教徒、おんなじだ」
 カトリック信者である私たちは、それに同意することはできません。
 おそらく、状況が許さずに、真理をすべて説明することはできないかも知れません。しかし「その通りだ」と同意することはできないはずです。
 旧約聖書の詩編の中に「他の諸宗教の神々は悪魔である」と書かれているからです。

 唯一の、ただ一つの、本当の天主のみがあり、それは父と子と聖霊の唯一の天主です。
 イエズス・キリストは天主のおん子であり、三位の天主の第二のペルソナです。
 イエズス・キリストこそ、まことの天主です。
 天主おん父に属するものはすべて、イエズス・キリストにも属します。そして父と子が所有するものはすべて、聖霊にも属します。

 唯一の天主を信じる信仰は、殉教者の信仰です。
 イエズス様が「私は天主である、と思う」と言っていたとしたら、十字架にかけられる必要はありませんでした。
 今日、カトリック信者が「ああ、他の宗教もいい宗教だ」言うならば、明日、殉教者はいないでしょう。
 そのようなことを言うカトリック信者が、救霊をまっとうすることができるのかどうか、わかりません。
 カトリック信者が、他の宗教もよいものであって、それを信じているとしたら、司教様や司祭たちによって[誤って]教えられたのだとしたら、無知のために、その責任を問われずに、霊魂を救うことができるかも知れません。しかし、大変危険です。
 カトリック信者たちが、これが真理である、とは思わなかったのだけれど、こう言ったほうがこの世とうまく歩調を合わせて生きることができるからこう言った、のだとしたら「他の宗教も善いものである」と言っている司教様や司祭たちには、大きな責任があります。

 常識として、このホテルの中を「あなたの宗教は間違っていますよ」と言って歩き回るほどの馬鹿はいません。これは常識です。
 しかし、このホテルに泊まっているお客さんの一人が、私たちに近づいて来て立ち止まり、
 「あなたの信じている宗教と、私の信じている宗教は、同じほどに善いものだ」
 と言ったとしたら、私は「それはあなたの意見ですよ」と言うことはできますが、「その通りです」と言うことはできません。
 そして、彼が「それはカトリックという宗教に関するあなたの意見だ」と言ったとしたら、私は「あなたは正しい」と言うことはできません。
 その人は、「自分の宗教は正しいと思っている間違った意見」を持っています。
 「カトリックの宗教は正しい」というのは、意見ではありません。
 私(たち)には、確実性があります。(I have a certainty)
 私達の意見ではなくて、私たちの "外" にある確実性です。

 こんな簡単な比較の仕方があります。
 ある人が、2+2=3だ、と言ったとします。他の人は、2+2=5と言います。2+2=6という人もいるかも知れません。
 そして、「2+2=4だ」という人は、単なる意見だ、と思っているのではありません。
 そのような人は、自分たちの考えの外側に「2+2=4」という現実(reality)があることを知っています。
 自分が思っていることの外にある現実が、その人に確実性を与えるのです。
 しかし、2+2=3だと言う人には、確実性はありません。確実性があるとしたら、間違った確実性です。自分の頭の中にあるものと、頭の外にある現実と対応していないからです。
 私たちの考えの外には、現実が存在しています。
 天主様のお恵みによって、皆さんと私が、カトリック信仰を持っているならば、カトリック信者でない方々が持っていない、私たちの考えの外にある現実を、私たちは持っています。
 私たちの考えの外側にある現実というものは、非常に大切なものであって、天国に行くか地獄に堕ちるかというのは、この現実を認めるか認めないかにかかっている、と私たちは知っています。
 そして何世紀にも渡って、カトリック信者たちは、この現実を認めるために[証人となるため]命を投げ出してきました。

 今日、堅振を受ける親愛なる友人の皆さん、間違いを犯さないで下さい。
 皆さんは、私たちの考えの外にある現実の信仰において堅振を受けるのであって、このことについては、殉教の血を要求されるかも知れません。
 ヨーロッバとアメリカ合衆国では、迫害の印が現れつつあります。
 ローマ皇帝のような人が立ち上がって、来たる将来、世界がうまくいかないのはカトリックのせいだ、キリスト教徒のせいだ、と迫害し始めるかも知れません。ネロ皇帝の元であったように、カトリックがその責任をとれ、と言われるかも知れません。
 その時に、皆さんと私は、信仰のために命を投げ出す覚悟ができていなければなりません。
 ですから、私たちには力強さが必要です。
 その時に、天主様が私たちに、堅固さを与えて下さるようにお祈りしましょう。
 しかし、殉教の血を流すその日が来るまで、私たちは毎日、血を流さない殉教をしなければなりません。
 日々、カトリック信仰を守っていく困難さです。

 今日、堅振を受ける親愛なる友人の皆さん、皆さんが今、何をしているかということよく考え、理解して下さい。
 皆さんはこれから、毎日の、血を流さない殉教の契約書にサインをするのです。
 そして、もしかしたらある日、血を流す殉教しなければならないかも知れません。血を流す殉教というのは、天主様からの大きなお恵みです。なぜならば、煉獄を通らずに、一直線に天国へ行くことができるからです。
 しかしカトリック信者は殉教者となることを求めないようにしましょう。それは、天主様に挑戦をするようなことだからです。
 しかし、天主様が私たちをして、そのような殉教をしなければならない状況に置いたとしたら、殉教を受け入れなければなりません。
 今日、このごミサで、堅振を受けるすべての皆さんのためにお祈りします。私たちはすべて、互いにお祈りしあいましょう。
 天主様が私たちを殉教にお呼びになるとしたら、私たちはそれを受け入れて、それを耐え忍ぶ力を受けるでしょう。そして、互いに祈り合うでしょう。堅振を受ける方々のためにもお祈りします。それは、私たちが日々の殉教生活を達成することができるためです。

 これらすべてのことが、難しいと思えるとしたら、天主の御母の方に目を向けましょう。マリア様はすべてのことを易しく、簡単にすることができるように助けてくださるからです。なぜなら、マリア様は私たちの母であり、マリア様のできる限りを尽くして、おん子イエズス様に、そして天国へと導いて下さるからです。
 そして、残る巡礼のあと数時間を、皆さんの心を、秋田のマリア様に捧げて下さい。
 天主の御母の訪問を受けたということは、日本にとって、ものすごい特権を受けたということです。

 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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