アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
新年あけましておめでとうございます。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの聖名の祝日です。お慶び申し上げます。遅れましたが、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。
今年のクリスマスは、ソウルで過ごしました。日本からソウルの新しい聖堂でミサ聖祭に与れた方々がおられ、心からうれしく思いました。ソウルでのクリスマスは多くの愛する兄弟姉妹の皆様が来られ、聖堂に全員入りきれない感じでした。天主様に感謝します!
クリスマスの直後はすぐにマニラに戻らなければなりませんでした。何故なら男性のために、聖イグナチオによる霊操の黙想会が予定されていたからです。12名の男性が黙想会に参加しました。天主様に感謝!
さて、デ・ガラレタ司教様が昨年の10月になさった「最近の試練から引き出せる有益な教訓」と題される御講話を訳して下さった方がおられます。深い感謝を込めて愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
フランス語の原文と英語訳があります。音声はここをどうぞ。
デ・ガラレタ司教様も言うとおり、私たちは天主様の御助けを得て、罪に対して闘わなければなりません。天主様の側についていなければなりません。私たちは、続けて第二バチカン公会議の中にある誤謬を指摘し続けるつもりです。天主様の御助けを持って聖伝のカトリック信仰を守るつもりです。
聖ピオ十世会2012年の総会では、今年の3月19日に聖ピオ十世会を聖ヨゼフに奉献することが決議されました。願わくは聖ヨゼフが、幼きイエズスを命の危険から守ったように、いつも聖ピオ十世会を守り給うように!
クチュール神父様はアジア管区において2013年を「ルフェーブル大司教の年」とすることを望んでいます。願わくは、天主様の御助けにより、聖ピオ十世会がいつものように創立者ルフェーブル大司教様の足跡を忠実にたどり続けますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
最近の試練から引き出せる有益な教訓
二〇一二年十月十三日土曜日、フランスのヴィルプル(Villepreux)での「聖伝の日」に際し、アルフォンソ・デ・ガラレタ司教は今回の霊的講話を行った。司教は聖ピオ十世会とローマの関係状態を講話において分析している。
親愛なる同僚の皆さん、修道者の皆さん、いとも親愛なる信者の皆さん、友人の皆さん、
皆さんに次のことをお話しするつもりです。すなわち、キリスト者の、霊的な、カトリックの"軍隊"の性質について、信仰のための戦いが引き受けなければならない条件についてお話しし、ローマに対する聖ピオ十世会の状態について、二、三のことをはっきりと告げたいと思います。
ヨブ記にはこうあります。「Militia est vita hominis super terram et sicut dies mercenarii dies ejus この世にいることは人にとって兵役であり、その日々は日雇い軍人の日々のようだ」(ヨブ七章一節)。この聖書のヨブ記にある言葉は、非常に興味深いイメージを提供してくれます。
地上のすべての人間の人生が戦いならば、洗礼と堅信の秘跡を受け、それゆえに王たるキリストのための戦いに従事するカトリック信者、キリスト信者の人生は、ましてやそうであります。すべてのキリスト信者の人生が戦いならば、今日のキリスト信者の人生は、何にも増して、もがき苦しむことであり、戦いであり、尽力することであろうと思います。
この一節に、私たちは戦いの必然性が述べられているのだとわかります。つまりそれは必要なことであり、私たち人間とはそういうものであり、それは目新しいことではありません。いつでもどこでも、人々は戦わなければなりませんでした。人生には戦いがありますが、なによりもまず、永遠を勝ち取るための戦いが存在し、それは多くのことを暗示しています。
これこそ闘争の精神が必要な理由です。兵士の側に求められることは何でしょうか? 間違いなく奮闘する能力、戦う能力、そして勇猛果敢であることです。
この短い一文は、み摂理に触れています。兵士と傭兵の両者は雇い主に奉仕する者であるからです。ですから、私たちは天主のために戦い、聖主イエズス・キリストのために格闘するのです。聖主イエズス・キリストは私たちの長であり、師でありますが、また歴史の主でもあります。そして聖主のみ摂理は、あらゆる細かい個々の状況を治め給うのです。
十字架の聖ヨハネは、すべてのことはみ摂理であると言っています。私たちの上に起きるすべてのことは、み摂理によって完全に意図され、入念なやり方で私たちに送られる、という意味においてです。
信仰の戦いの超自然的見方
そこで、兵士と傭兵は勝利のためにもがき、戦います。そして地上での人生が戦いならば、それはつまり、勝利はこの地上で得るものではないということなのです。私たちの全生涯が戦いならば、私たちの勝利は永遠において存在するということなのです。
私たちは、この超自然的な、信仰に満ちた目で戦いを眺め続けなければならない、と思います。
私たちはこの地上における人生で、永遠の冠のためにもがき苦しみます。しかし、それは兵士でなくなるということではありません。キリスト信者、カトリック信者は、この戦いは、この人生において遂行するものであると知っており、それは非常に現実的であり、信者は戦わなければなりません。しかし、私たちは決定的な勝利は永遠において見いだされると知っているので、天主がお望みでないなら、この人生においては勝利を得ることを、言わば本当には必要としません。私たちの勝利は、最終的に、私たちと私たちの大切な人々にとっての永遠を勝ち取ることであるからです。
その上、ヨブ記のこの短い一節は、この戦いの別の側面を私たちに教えています。例えばこうです。それは骨の折れること──文字通り、骨の折れることです。信仰のための戦い、超自然の霊的戦いは、この人生において、苦しみと試練、矛盾、そして敗北すら、もたらすからです。
アヴィラの聖テレジアの大変美しい一節があります。キリスト信者に求められることは、勝利することではなくもがき苦しむことである、と聖女は述べ、むしろ、信仰のための戦いが、すでにキリスト信者の勝利であると教えています。
別のある著者はこう述べました。実際、天主は私たちの勝利を求めてはいない。むしろ、私たちが打ち負かされないことをお求めになると。この省察はきわめて興味深いものです。この言葉が今日の教会の危機に対してどれほどうまくあてはまるものであるかを皆さんはご存知です。
天主は私たちに征服することを要求しません。天主は、お望みならば、お望みになる時、お望みのままに勝利をお与えになるお方です。それは天主にはまったく雑作もないことです。ですが天主が私たちにお求めになることは、私たちが所有している善を守ることであり、屈服しないことなのです。
ピ枢機卿の教え
皆さんに読み聞かせたい、ピ枢機卿の言われた一節があります。これは信仰と指導に満ちており、非常にみごとに表現されています。
「イドメアの賢者が言った。『地上の人間の一生は戦いである』(ヨブ記七章一節) この真理は、個人に劣らず社会にあてはまる。すべてのアダムの子らは、二つの本質的なはっきりと異なる実体から作られたので、その身の内に、イザクの妻[レベッカ]のように、反発しいがみ合う二人の人間を抱えている(創世記二十五章二十二節)。この二人の人間、言ってみれば、この二つの本性は相反する性質と傾向を持っている。地上的な人間は感覚の法則に引きずられて、天的な人間に反抗し、絶え間なく反乱している。天的な人間は霊的な法則に支配される。(ガラツィア五章十七節)。これは深く根を下ろした反感である。この反感は、地上では霊の恥ずべき背信によってのみ終わりを告げる。霊の武器を肉へと委ね、それ自身を後者(肉)の決定権に置くことで、である」[1]
というわけで、この戦いの中で "平和" を実現する唯一の方法、つまり平和主義を実践する唯一の方法は肉が勝利することです。そして私たちがこの "平和" を望まないなら死の時まで戦わなければなりません。
何故なら凱旋は来世において存在するからです。これはまさしくピ枢機卿が、以下のように私たちに告げていることです。
これはまさしくピ枢機卿が、以下のように私たちに告げていることです。
「兄弟たちよ、従ってこう言おう。地上における人間の生涯、徳のある人生、義務を果たす人生は、気高い同盟との戦いであり、恩寵という友軍の支えに助けられ、あらゆる肉と世間と地獄の統一勢力に反対する、私たちの霊魂のすべての能力をもってする聖なる十字軍である。すなわち、この世にいる人間の一生は、兵役である。Militia est vita hominis super terram. 」
これが私たちのための戦いです。が、それは社会的な公の戦いでもあります。
「さて、この同じ競争要素を、この同じ対立勢力を、もはや個人的な人間のうちにではなく、むしろ社会と呼ばれる人間の集合体のうちに認めるようになるなら、そのとき、その奮闘はさらに重要な割合を占める」とポワティエの司教(ピ枢機卿)は言い、聖書の創世記をこう引用しました。
「 『すると主はレベッカにこう仰せられた。おまえの胎内には、二つの民がいる。おまえから出る二つの民は、離れ去る。一方の民は他の民よりも強く、兄は、弟に仕えるだろう』(創世記二十五章二十三節)
だから、兄弟たちよ、人類は二つの民から成り立っている。霊的人間と物質的人間である。気高く、彼に関して高められたあらゆるものが付属している霊魂の典型のように思われる人間たちである。もう片方は、地上的なあらゆる粗暴さを身につけた肉を提示している。一民族に襲いかかる最大の不運は、この二つの相反する力の狭間での停戦である。この停戦は異教に見いだされた。
聖霊は(聖書の中で)、このあるまじき降伏に引き続く、ありとあらゆる社会的・家庭的悪を、私たちに描き出し(知恵の書十四章)*、この最後の一筆、以下の事実で描写を完成させている。つまり、戦争よりも何千倍も致命的となったよどみの中にたゆたう人間は、あれほど多くの巨悪を「平和」と名づけるほど、みずからを欺いたのだ、と。」
これは正確に現代のありさまを描写しているではありませんか? 平和、平和、平和!と。
*「その生活を幾度も戦いに投げ込んだのに、無知はそれほどの悪を平和とさえ呼んだ」(知恵の書14:22)
「致命的な無感覚」と、ピ枢機卿は続けます。「それは死の無感覚、沈黙、墓の中の死体をかじる虫たちの静かな動きに肩を並べるべき陰鬱な平和に他ならない」
「天主のおん子が、平和ではなく剣を持ち込んでお下りになった時、人類はこの屈辱と不道徳のありさまで惨めにやつれていた(マテオ十章三十四節)。創造主なる天主は、人間が肉に対して戦うことができるように、人類の手の中にこの霊の剣を置いた。だが、人間は恥ずべきことに、その手から剣を取り落としてしまった。私以前に他の人々が述べたと同じように[2]、イエズス・キリストは、長いこと捨て置かれていた埃まみれの地からその剣を拾い上げた。
その剣をキリストのおん血に浸した後、いわば、キリストご自身のおん体で試した後、以前よりも鋭利なものにして、キリストが地上に打ち立てるために来た新しい民に対し剣をお返しになった。そうして、人間性の中の霊と肉の間にある敵意の再びのせめぎ合いが始まり、それは世の終わりまで決して止むことはない。すなわち、Non veni pacem mittere, sed gladium 私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」
これがピ枢機卿の言われた長い一節ですが、すべてが言い尽くされている、すべてのことが非常にうまく説明されていると言える、と皆さんにはおわかりでしょう。ヨブが語り、天主のみことばである、この戦いの必然性は、単に個人の内面の衝突というだけでなく、家庭や学校に限定されず、本質的に社会、政治そして宗教的戦いでもあるのです。二つの精神、二つの民があります。私たちはこの避け難い戦いに従事しなければならず、その戦いを続けなければなりません。
私の考えでは、この描写は皆さんに以下のことをよく理解させてくれると思っています。つまり、信仰の戦いとは何か、カトリック信仰の戦い、市民社会のただ中でのキリスト者の戦い、この背教のただ中にある、教会のこの恐るべき危機における聖伝の戦いとは、一体何であるのか、ということをです。
そこで、今から最近の諍い、私たちがこの一年にくぐり抜けた、非常に困難な諍いに関して省察してみましょう──本当のことを言いますと、今までと同じである敵のため、ではなく、私たちの間の意見の相違、まったく論理的な、説明可能な、人間的な相違のために生じた困難さがありました。私たちが全員人間であると分かったからといって、みずからの衣を引き裂く(憤怒に嘆く)必要はありません。私たちには他の人々と同じような限界があります。原罪以来ずっとあること、つまり、無知、悪意、脆弱、という根源的な意味においてです。
これが実のところ、事実上、過去一年の間に起きたすべての困難の原因です。私たちの間のいくつもの困難と試練、それはまた、最大の困難と最大の苦渋に満ちた試練です。だからこそ私たちはこのことを軽く受け止めてはならず、ましてぞんざいに解決することもしてはなりません。これはちょっとした家族間の衝突のようなものです。つまり、多くの気配り、愛徳、分別、巧みな知恵とともに解決されねばなりません。が、確実に解決されるはずです!
ローマと私たちの関係の今日に至るまでの要約
私が考えていることを皆さんにお伝えしたく思います。この危機において、私たちは多くのさまざまな意見、対立する意見、そしてたぶん、今もなお数名の脱会者を出していると聞いているからです。そこで私はこう独り言を言いました。少なくとも私の考えを皆さんに知ってもらうべきであると。ですので、自分の立場を説明するために二、三の事実を手早く、もう一度振り返ってみましょう。
つまり、簡単にこれまでのことを、ロザリオ十字軍の終了から始めて説明します。一二〇万環のロザリオをお捧げするという目標の祈りの運動、この運動は今年の聖霊降臨の祝日をもって終わりました。この十字軍の終わりに、私たちはローマから三つの返答を受け取りました。次々とです。その時には、聖ピオ十世会の(教義上の宣言のための)提案書、それは四月に提出されたものですが、その提案書はローマにありました。そして、聖霊降臨の祝日の後、私たちは教理聖省から最初の返答を受け取りました。
この返答の中で、ローマ当局ははっきりと私たちの提案書を拒絶し、受け入れないと告げました。そしていくつかの訂正を施す結果となった、と告げました。それをまとめるとこのようなものです。第二ヴァチカン公会議受け入れる必要がある、新ミサの適法性(liceity)を受け入れる必要がある、現在の教導職、つまり、聖伝の正真正銘の解釈者、であるがゆえに、現在の当局が何が聖伝で聖伝でないかを述べるということを受け入れなければならない、新教会法を受け入れなければならない等々。これが当局の返答でした。
その時、私はこれはみ摂理のお応えであったと思いますが、ミュラー大司教の任命がありました。彼らはミュラー大司教を教理聖省長官、また同時に聖ピオ十世会と接触中のエクレジア・デイ委員会長官に任命しました。おお!この聖省の長官とエクレジア・デイ委員会委員長に任命されたこの大司教は──加えて、彼が信仰の真理の数ヶ所に疑問を投げかけたという事実があります──今日では信仰の擁護者なのです。
この方は、実は、聖ピオ十世会と古くからの面識があります。彼はツァイツコーフェンの私たちの神学校がある教区、レーゲンスブルクの司教でしたし、私たちはすでにこの大司教との間に困難や対立を抱えていました。三年前、大司教は、ツァイツコーフェンでの叙階式を執行する予定だった司教を、破門するぞと脅迫しましたが、その際の当事者は私でした。
従って、大司教は破門すると私を脅し、司祭叙階される予定の未来の司祭である助祭たちも脅しました。その後、彼は脅迫を撤回しましたが、この方が私たちへの尊敬も好意も持っていないことは明らかです。彼はすでにこう言っていました。聖ピオ十世会の司教たちがするべき唯一のことは、教皇様に自分たちの司教職を辞職して返上し、修道院に引っ込んで沈黙することだと。なんとも情け容赦のない方ではありませんか? そして、大司教はきわめて素っ気なく言いました。私たちはとにかく公会議を受け入れなければならない、これがすべてだと。議論すべきことは、もはや何一つありませんでした。
私たちが聖霊の照らしを待っていたちょうどその時答えを得た
ところで、総会の前に、総長様は教皇様に手紙を書きました。どちらが本当に教皇様の返答であるのかを見極めるためにです。私たちが経験した問題の大部分は、ローマからの矛盾した伝達があったという事実に起因するからです。
つまり、当局の数名は私たちにこう告げていました。「教理聖省からの返答は公的なものである。聖省の人々は彼らの職務を行っている、だがそれは無視すればよろしい。ただ書類は保管しておきなさい。とにかく我々は合意を望んでいる。貴会が今あるまま、貴会を承認することを望んでいる」と。
ですが、教理聖省の返答とミュラー大司教の任命は、この二回目の伝達と一致していませんでした。そこで、事態の真相を得るため、フェレー司教様はどちらが教皇様の返答、教皇様のお考えなのかを見極めるため手紙を書いたのです。総会の直前、総会よりも先に行われた黙想会の間に、総長様は返答を受け取りました──これは教皇様からフェレー司教様に与えられた最初の返答でした──フェレー司教様は私たちに、日曜日、黙想会の終わりに会食の時に、こう言いました。"ここに私が教皇様から受け取った手紙があります。その中で、教皇様は教理聖省の返答は間違いなくご自分の返答であると確認し、認めておられます。そして教皇様は教理聖省の要求、教会法的承認のための必須条件を喚起し、三つのポイントにまとめてこられました。
1) 現在の教導職──つまり、ローマ当局が、聖伝の正銘な解釈者であることを承認すること、
2) 第二ヴァチカン公会議は完全に聖伝と一致しており、それを受諾しなければならないこと、
3) 聖ピオ十世会は新しいミサの有効性(validity)と適法性(liceity)を受諾しなければならないこと、
彼らは「適法性」(licéité)と書きました。──フランス語では、licéité という言葉は多分に曖昧な意味を含んでいます──彼らにとって、それは単に「法に適っている」、あらゆる法の形式に則ったものを指しているに過ぎませんが、教会法の用語では、それはもっと深い意味を含み、事実上の掟、法的効力を持つものであるということになるのです。しかしながら、教会はカトリック信仰に反するいかなる法も持てません。そういう意味では、私たちは典礼改革と新ミサの適法性についてあらゆる議論をし尽くしました。なぜなら、それは教会内で法的効力を持ち得ないからです。それは不可能です。信仰に反するからです。新しいミサとともに当局は信仰を破壊しているからです。そして当局は実際に「有効性と適法性」と書いてきたのです。
つまり、私たちの戦いにおいて本質であるすべてのことに関して──二つの民、二つの霊の間の戦い──降参し、裏切ることが必然であったということがおわかりでしょう。そのとき、明らかにこのポイントについて、み摂理は私たちのために総会への道しるべを示してくれました。ローマのほうこそ、こう言ってきたのですから。「いや、私たちは、教義的なレベルに留まる。聖ピオ十世会は現在までに拒否したすべてのことを受け入れよ」と。
(続く)
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新年あけましておめでとうございます。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの聖名の祝日です。お慶び申し上げます。遅れましたが、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。
今年のクリスマスは、ソウルで過ごしました。日本からソウルの新しい聖堂でミサ聖祭に与れた方々がおられ、心からうれしく思いました。ソウルでのクリスマスは多くの愛する兄弟姉妹の皆様が来られ、聖堂に全員入りきれない感じでした。天主様に感謝します!
クリスマスの直後はすぐにマニラに戻らなければなりませんでした。何故なら男性のために、聖イグナチオによる霊操の黙想会が予定されていたからです。12名の男性が黙想会に参加しました。天主様に感謝!
さて、デ・ガラレタ司教様が昨年の10月になさった「最近の試練から引き出せる有益な教訓」と題される御講話を訳して下さった方がおられます。深い感謝を込めて愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
フランス語の原文と英語訳があります。音声はここをどうぞ。
デ・ガラレタ司教様も言うとおり、私たちは天主様の御助けを得て、罪に対して闘わなければなりません。天主様の側についていなければなりません。私たちは、続けて第二バチカン公会議の中にある誤謬を指摘し続けるつもりです。天主様の御助けを持って聖伝のカトリック信仰を守るつもりです。
聖ピオ十世会2012年の総会では、今年の3月19日に聖ピオ十世会を聖ヨゼフに奉献することが決議されました。願わくは聖ヨゼフが、幼きイエズスを命の危険から守ったように、いつも聖ピオ十世会を守り給うように!
クチュール神父様はアジア管区において2013年を「ルフェーブル大司教の年」とすることを望んでいます。願わくは、天主様の御助けにより、聖ピオ十世会がいつものように創立者ルフェーブル大司教様の足跡を忠実にたどり続けますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
二〇一二年十月十三日土曜日、フランスのヴィルプル(Villepreux)での「聖伝の日」に際し、アルフォンソ・デ・ガラレタ司教は今回の霊的講話を行った。司教は聖ピオ十世会とローマの関係状態を講話において分析している。
親愛なる同僚の皆さん、修道者の皆さん、いとも親愛なる信者の皆さん、友人の皆さん、
皆さんに次のことをお話しするつもりです。すなわち、キリスト者の、霊的な、カトリックの"軍隊"の性質について、信仰のための戦いが引き受けなければならない条件についてお話しし、ローマに対する聖ピオ十世会の状態について、二、三のことをはっきりと告げたいと思います。
ヨブ記にはこうあります。「Militia est vita hominis super terram et sicut dies mercenarii dies ejus この世にいることは人にとって兵役であり、その日々は日雇い軍人の日々のようだ」(ヨブ七章一節)。この聖書のヨブ記にある言葉は、非常に興味深いイメージを提供してくれます。
地上のすべての人間の人生が戦いならば、洗礼と堅信の秘跡を受け、それゆえに王たるキリストのための戦いに従事するカトリック信者、キリスト信者の人生は、ましてやそうであります。すべてのキリスト信者の人生が戦いならば、今日のキリスト信者の人生は、何にも増して、もがき苦しむことであり、戦いであり、尽力することであろうと思います。
この一節に、私たちは戦いの必然性が述べられているのだとわかります。つまりそれは必要なことであり、私たち人間とはそういうものであり、それは目新しいことではありません。いつでもどこでも、人々は戦わなければなりませんでした。人生には戦いがありますが、なによりもまず、永遠を勝ち取るための戦いが存在し、それは多くのことを暗示しています。
これこそ闘争の精神が必要な理由です。兵士の側に求められることは何でしょうか? 間違いなく奮闘する能力、戦う能力、そして勇猛果敢であることです。
この短い一文は、み摂理に触れています。兵士と傭兵の両者は雇い主に奉仕する者であるからです。ですから、私たちは天主のために戦い、聖主イエズス・キリストのために格闘するのです。聖主イエズス・キリストは私たちの長であり、師でありますが、また歴史の主でもあります。そして聖主のみ摂理は、あらゆる細かい個々の状況を治め給うのです。
十字架の聖ヨハネは、すべてのことはみ摂理であると言っています。私たちの上に起きるすべてのことは、み摂理によって完全に意図され、入念なやり方で私たちに送られる、という意味においてです。
信仰の戦いの超自然的見方
そこで、兵士と傭兵は勝利のためにもがき、戦います。そして地上での人生が戦いならば、それはつまり、勝利はこの地上で得るものではないということなのです。私たちの全生涯が戦いならば、私たちの勝利は永遠において存在するということなのです。
私たちは、この超自然的な、信仰に満ちた目で戦いを眺め続けなければならない、と思います。
私たちはこの地上における人生で、永遠の冠のためにもがき苦しみます。しかし、それは兵士でなくなるということではありません。キリスト信者、カトリック信者は、この戦いは、この人生において遂行するものであると知っており、それは非常に現実的であり、信者は戦わなければなりません。しかし、私たちは決定的な勝利は永遠において見いだされると知っているので、天主がお望みでないなら、この人生においては勝利を得ることを、言わば本当には必要としません。私たちの勝利は、最終的に、私たちと私たちの大切な人々にとっての永遠を勝ち取ることであるからです。
その上、ヨブ記のこの短い一節は、この戦いの別の側面を私たちに教えています。例えばこうです。それは骨の折れること──文字通り、骨の折れることです。信仰のための戦い、超自然の霊的戦いは、この人生において、苦しみと試練、矛盾、そして敗北すら、もたらすからです。
アヴィラの聖テレジアの大変美しい一節があります。キリスト信者に求められることは、勝利することではなくもがき苦しむことである、と聖女は述べ、むしろ、信仰のための戦いが、すでにキリスト信者の勝利であると教えています。
別のある著者はこう述べました。実際、天主は私たちの勝利を求めてはいない。むしろ、私たちが打ち負かされないことをお求めになると。この省察はきわめて興味深いものです。この言葉が今日の教会の危機に対してどれほどうまくあてはまるものであるかを皆さんはご存知です。
天主は私たちに征服することを要求しません。天主は、お望みならば、お望みになる時、お望みのままに勝利をお与えになるお方です。それは天主にはまったく雑作もないことです。ですが天主が私たちにお求めになることは、私たちが所有している善を守ることであり、屈服しないことなのです。
ピ枢機卿の教え
皆さんに読み聞かせたい、ピ枢機卿の言われた一節があります。これは信仰と指導に満ちており、非常にみごとに表現されています。
「イドメアの賢者が言った。『地上の人間の一生は戦いである』(ヨブ記七章一節) この真理は、個人に劣らず社会にあてはまる。すべてのアダムの子らは、二つの本質的なはっきりと異なる実体から作られたので、その身の内に、イザクの妻[レベッカ]のように、反発しいがみ合う二人の人間を抱えている(創世記二十五章二十二節)。この二人の人間、言ってみれば、この二つの本性は相反する性質と傾向を持っている。地上的な人間は感覚の法則に引きずられて、天的な人間に反抗し、絶え間なく反乱している。天的な人間は霊的な法則に支配される。(ガラツィア五章十七節)。これは深く根を下ろした反感である。この反感は、地上では霊の恥ずべき背信によってのみ終わりを告げる。霊の武器を肉へと委ね、それ自身を後者(肉)の決定権に置くことで、である」[1]
というわけで、この戦いの中で "平和" を実現する唯一の方法、つまり平和主義を実践する唯一の方法は肉が勝利することです。そして私たちがこの "平和" を望まないなら死の時まで戦わなければなりません。
何故なら凱旋は来世において存在するからです。これはまさしくピ枢機卿が、以下のように私たちに告げていることです。
これはまさしくピ枢機卿が、以下のように私たちに告げていることです。
「兄弟たちよ、従ってこう言おう。地上における人間の生涯、徳のある人生、義務を果たす人生は、気高い同盟との戦いであり、恩寵という友軍の支えに助けられ、あらゆる肉と世間と地獄の統一勢力に反対する、私たちの霊魂のすべての能力をもってする聖なる十字軍である。すなわち、この世にいる人間の一生は、兵役である。Militia est vita hominis super terram. 」
これが私たちのための戦いです。が、それは社会的な公の戦いでもあります。
「さて、この同じ競争要素を、この同じ対立勢力を、もはや個人的な人間のうちにではなく、むしろ社会と呼ばれる人間の集合体のうちに認めるようになるなら、そのとき、その奮闘はさらに重要な割合を占める」とポワティエの司教(ピ枢機卿)は言い、聖書の創世記をこう引用しました。
「 『すると主はレベッカにこう仰せられた。おまえの胎内には、二つの民がいる。おまえから出る二つの民は、離れ去る。一方の民は他の民よりも強く、兄は、弟に仕えるだろう』(創世記二十五章二十三節)
だから、兄弟たちよ、人類は二つの民から成り立っている。霊的人間と物質的人間である。気高く、彼に関して高められたあらゆるものが付属している霊魂の典型のように思われる人間たちである。もう片方は、地上的なあらゆる粗暴さを身につけた肉を提示している。一民族に襲いかかる最大の不運は、この二つの相反する力の狭間での停戦である。この停戦は異教に見いだされた。
聖霊は(聖書の中で)、このあるまじき降伏に引き続く、ありとあらゆる社会的・家庭的悪を、私たちに描き出し(知恵の書十四章)*、この最後の一筆、以下の事実で描写を完成させている。つまり、戦争よりも何千倍も致命的となったよどみの中にたゆたう人間は、あれほど多くの巨悪を「平和」と名づけるほど、みずからを欺いたのだ、と。」
これは正確に現代のありさまを描写しているではありませんか? 平和、平和、平和!と。
*「その生活を幾度も戦いに投げ込んだのに、無知はそれほどの悪を平和とさえ呼んだ」(知恵の書14:22)
「致命的な無感覚」と、ピ枢機卿は続けます。「それは死の無感覚、沈黙、墓の中の死体をかじる虫たちの静かな動きに肩を並べるべき陰鬱な平和に他ならない」
「天主のおん子が、平和ではなく剣を持ち込んでお下りになった時、人類はこの屈辱と不道徳のありさまで惨めにやつれていた(マテオ十章三十四節)。創造主なる天主は、人間が肉に対して戦うことができるように、人類の手の中にこの霊の剣を置いた。だが、人間は恥ずべきことに、その手から剣を取り落としてしまった。私以前に他の人々が述べたと同じように[2]、イエズス・キリストは、長いこと捨て置かれていた埃まみれの地からその剣を拾い上げた。
その剣をキリストのおん血に浸した後、いわば、キリストご自身のおん体で試した後、以前よりも鋭利なものにして、キリストが地上に打ち立てるために来た新しい民に対し剣をお返しになった。そうして、人間性の中の霊と肉の間にある敵意の再びのせめぎ合いが始まり、それは世の終わりまで決して止むことはない。すなわち、Non veni pacem mittere, sed gladium 私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」
これがピ枢機卿の言われた長い一節ですが、すべてが言い尽くされている、すべてのことが非常にうまく説明されていると言える、と皆さんにはおわかりでしょう。ヨブが語り、天主のみことばである、この戦いの必然性は、単に個人の内面の衝突というだけでなく、家庭や学校に限定されず、本質的に社会、政治そして宗教的戦いでもあるのです。二つの精神、二つの民があります。私たちはこの避け難い戦いに従事しなければならず、その戦いを続けなければなりません。
私の考えでは、この描写は皆さんに以下のことをよく理解させてくれると思っています。つまり、信仰の戦いとは何か、カトリック信仰の戦い、市民社会のただ中でのキリスト者の戦い、この背教のただ中にある、教会のこの恐るべき危機における聖伝の戦いとは、一体何であるのか、ということをです。
そこで、今から最近の諍い、私たちがこの一年にくぐり抜けた、非常に困難な諍いに関して省察してみましょう──本当のことを言いますと、今までと同じである敵のため、ではなく、私たちの間の意見の相違、まったく論理的な、説明可能な、人間的な相違のために生じた困難さがありました。私たちが全員人間であると分かったからといって、みずからの衣を引き裂く(憤怒に嘆く)必要はありません。私たちには他の人々と同じような限界があります。原罪以来ずっとあること、つまり、無知、悪意、脆弱、という根源的な意味においてです。
これが実のところ、事実上、過去一年の間に起きたすべての困難の原因です。私たちの間のいくつもの困難と試練、それはまた、最大の困難と最大の苦渋に満ちた試練です。だからこそ私たちはこのことを軽く受け止めてはならず、ましてぞんざいに解決することもしてはなりません。これはちょっとした家族間の衝突のようなものです。つまり、多くの気配り、愛徳、分別、巧みな知恵とともに解決されねばなりません。が、確実に解決されるはずです!
ローマと私たちの関係の今日に至るまでの要約
私が考えていることを皆さんにお伝えしたく思います。この危機において、私たちは多くのさまざまな意見、対立する意見、そしてたぶん、今もなお数名の脱会者を出していると聞いているからです。そこで私はこう独り言を言いました。少なくとも私の考えを皆さんに知ってもらうべきであると。ですので、自分の立場を説明するために二、三の事実を手早く、もう一度振り返ってみましょう。
つまり、簡単にこれまでのことを、ロザリオ十字軍の終了から始めて説明します。一二〇万環のロザリオをお捧げするという目標の祈りの運動、この運動は今年の聖霊降臨の祝日をもって終わりました。この十字軍の終わりに、私たちはローマから三つの返答を受け取りました。次々とです。その時には、聖ピオ十世会の(教義上の宣言のための)提案書、それは四月に提出されたものですが、その提案書はローマにありました。そして、聖霊降臨の祝日の後、私たちは教理聖省から最初の返答を受け取りました。
この返答の中で、ローマ当局ははっきりと私たちの提案書を拒絶し、受け入れないと告げました。そしていくつかの訂正を施す結果となった、と告げました。それをまとめるとこのようなものです。第二ヴァチカン公会議受け入れる必要がある、新ミサの適法性(liceity)を受け入れる必要がある、現在の教導職、つまり、聖伝の正真正銘の解釈者、であるがゆえに、現在の当局が何が聖伝で聖伝でないかを述べるということを受け入れなければならない、新教会法を受け入れなければならない等々。これが当局の返答でした。
その時、私はこれはみ摂理のお応えであったと思いますが、ミュラー大司教の任命がありました。彼らはミュラー大司教を教理聖省長官、また同時に聖ピオ十世会と接触中のエクレジア・デイ委員会長官に任命しました。おお!この聖省の長官とエクレジア・デイ委員会委員長に任命されたこの大司教は──加えて、彼が信仰の真理の数ヶ所に疑問を投げかけたという事実があります──今日では信仰の擁護者なのです。
この方は、実は、聖ピオ十世会と古くからの面識があります。彼はツァイツコーフェンの私たちの神学校がある教区、レーゲンスブルクの司教でしたし、私たちはすでにこの大司教との間に困難や対立を抱えていました。三年前、大司教は、ツァイツコーフェンでの叙階式を執行する予定だった司教を、破門するぞと脅迫しましたが、その際の当事者は私でした。
従って、大司教は破門すると私を脅し、司祭叙階される予定の未来の司祭である助祭たちも脅しました。その後、彼は脅迫を撤回しましたが、この方が私たちへの尊敬も好意も持っていないことは明らかです。彼はすでにこう言っていました。聖ピオ十世会の司教たちがするべき唯一のことは、教皇様に自分たちの司教職を辞職して返上し、修道院に引っ込んで沈黙することだと。なんとも情け容赦のない方ではありませんか? そして、大司教はきわめて素っ気なく言いました。私たちはとにかく公会議を受け入れなければならない、これがすべてだと。議論すべきことは、もはや何一つありませんでした。
私たちが聖霊の照らしを待っていたちょうどその時答えを得た
ところで、総会の前に、総長様は教皇様に手紙を書きました。どちらが本当に教皇様の返答であるのかを見極めるためにです。私たちが経験した問題の大部分は、ローマからの矛盾した伝達があったという事実に起因するからです。
つまり、当局の数名は私たちにこう告げていました。「教理聖省からの返答は公的なものである。聖省の人々は彼らの職務を行っている、だがそれは無視すればよろしい。ただ書類は保管しておきなさい。とにかく我々は合意を望んでいる。貴会が今あるまま、貴会を承認することを望んでいる」と。
ですが、教理聖省の返答とミュラー大司教の任命は、この二回目の伝達と一致していませんでした。そこで、事態の真相を得るため、フェレー司教様はどちらが教皇様の返答、教皇様のお考えなのかを見極めるため手紙を書いたのです。総会の直前、総会よりも先に行われた黙想会の間に、総長様は返答を受け取りました──これは教皇様からフェレー司教様に与えられた最初の返答でした──フェレー司教様は私たちに、日曜日、黙想会の終わりに会食の時に、こう言いました。"ここに私が教皇様から受け取った手紙があります。その中で、教皇様は教理聖省の返答は間違いなくご自分の返答であると確認し、認めておられます。そして教皇様は教理聖省の要求、教会法的承認のための必須条件を喚起し、三つのポイントにまとめてこられました。
1) 現在の教導職──つまり、ローマ当局が、聖伝の正銘な解釈者であることを承認すること、
2) 第二ヴァチカン公会議は完全に聖伝と一致しており、それを受諾しなければならないこと、
3) 聖ピオ十世会は新しいミサの有効性(validity)と適法性(liceity)を受諾しなければならないこと、
彼らは「適法性」(licéité)と書きました。──フランス語では、licéité という言葉は多分に曖昧な意味を含んでいます──彼らにとって、それは単に「法に適っている」、あらゆる法の形式に則ったものを指しているに過ぎませんが、教会法の用語では、それはもっと深い意味を含み、事実上の掟、法的効力を持つものであるということになるのです。しかしながら、教会はカトリック信仰に反するいかなる法も持てません。そういう意味では、私たちは典礼改革と新ミサの適法性についてあらゆる議論をし尽くしました。なぜなら、それは教会内で法的効力を持ち得ないからです。それは不可能です。信仰に反するからです。新しいミサとともに当局は信仰を破壊しているからです。そして当局は実際に「有効性と適法性」と書いてきたのです。
つまり、私たちの戦いにおいて本質であるすべてのことに関して──二つの民、二つの霊の間の戦い──降参し、裏切ることが必然であったということがおわかりでしょう。そのとき、明らかにこのポイントについて、み摂理は私たちのために総会への道しるべを示してくれました。ローマのほうこそ、こう言ってきたのですから。「いや、私たちは、教義的なレベルに留まる。聖ピオ十世会は現在までに拒否したすべてのことを受け入れよ」と。
(続く)
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