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イエズス・キリストが私たちを愛するあまり、私たちを救うために人となられたその愛の激しさ

2015年12月10日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月の初金曜日に大坂で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

 イエズス・キリストが私たちのもとに来たいという熱望の強さを、愛の炎を一緒に黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教





聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月4日、12月の初金のミサです。イエズスの聖心の随意ミサをしています。今日のこの御ミサの直後に聖時間があります、御聖体を顕示して、その前でロザリオを5連、それからイエズスの聖心の連祷、イエズスの聖心に人類の罪を償う祈りを、イエズス様の聖心の御要求に従って、お捧げする事に致しましょう。これを感謝の為に、お恵みを感謝する為にお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は待降節の初金ですから、イエズス様の御降臨を、人類がどのように待っていたのか、或いはイエズス様の代理者を、日本の人たちがどのように待っていたか、という事に思いを馳せて、そのイエズス様を待ち望む心を、私たちの心に多く引き起こす事にしましょう。実はそれよりも更に、イエズス様は私たちの方に来たかった、私たちの方に来たい、というその愛は、私たちが待ち望むよりも更に多かった、という事を第2点にみて、でも現代の人たちはそれにもかかわらず、まさに、イエズス様を待ち望む人々、イエズス様の熱烈の愛にもかかわらず、冷淡を以って報いている。ですから、最後に私たちは遷善の決心、イエズス様をお愛しする為に、初金の決心を新たに立てる事に致しましょう。

では、イエズス様の御降臨を、太祖の人たちはどれほどの熱意をもって待っていたでしょうか。シメオンは、「主のキリストを見るまで死なない。」と言われていて、毎日、祈りと断食をして、神殿に登って、いつも「救世主が来られるか、来られないか」というのを待っていました。

日本でも、最後の司祭が殉教して、バスチアンの予言があり、「7代の後には、パーパの船がやって来て、パードレたちがまたやって来る。その時には、信仰を自由に表明する事ができる日がやって来る。」その潜伏キリシタンたちの、司祭を待つ7代の間、250年の間、待ちに待って、待ちに待ったその望みはどれほどだったでしょうか。フランス寺が出た、できた、といった時に、潜伏キリシタンたちは、「まさかこれがその待ちに待ったパードレではないか。」と言って探しに行った、隠れながら探しに行ったその人たちの、パードレたちを待つその望みは、どれほど大きかったでしょうか。

それを応える様に、イエズス様の聖心は、私たちに、私たちの元に来たい、というのは更に大きかったのです。イエズス様は、天主の御子は、既にアダムとエヴァが罪を犯したその時、「救世主を送る」という約束をしました。「必ず救世主を送る。」その救世主を送って、天主がいつも私たちの保護をして下さる、というその目に見えるしるしとして、私たちの太祖に、アダムとエヴァに服をくれました。その後、多くの預言者たちを送って、「救世主が来る」という約束を、何度も、詳しく、詳しく、教えてきました。

天主は、もちろん救世主を送る必要はありませんでした。御自分が救世主となって来る必要はありませんでした。しかし、それが天主様の愛の望みだったのです。この世の創造のその前からの愛の計画でした。「私たちの元に、人となってやって来る。」と。イエズス様のその御望みは、私たちと共にいて、私たちからの愛を受けたい。私たちを愛する、私たちを天主がどれほど愛するか、という事を見せて、その答えとして、愛を受けたい、と思っていました。

ですから、イエズス様が人となられて来られた時には、大きな立派な王宮、豪華な神殿、天変地異がなって、山の上で雷が轟いて、もうこれで世の終わりか、と思われたような天主の十戒を与えた時と同じように、恐ろ恐ろしい、大異変を起こしながら、この世に神々として現れる事もできました。皆が、「あぁ、まさに、これこそ天主の御子が人となった!」と震えおののいて、平伏して、礼拝する、という事もできましたけれども、そうではなくて、私たちからの愛をますます得る為に、密かに隠れて、幼子としてお生まれになる事をお望みになりました。私たちが簡単に恐れずに近寄る事ができるように、乳飲み子として、幼き赤子として生まれる事をお望みになりました。どんな貧しい人でも、どんな弱い人でも近付く事ができるように、貧しい馬小屋で、住む家と無く、生まれる宿屋と無く、動物の飼い葉桶で、凍える冬の中で生まれる事をお望みになりました。

そればかりではありません。私たちがそのイエズス様にますます近寄って、イエズス様のその御姿を倣う事ができるように、イエズス様は、30年間、私たちと全く同じ生活をする事を望まれました。私たちと全く同じく、子供として、お父さんお母さんに従順に従い、子供として成長し、労働し、肉体労働し、労働者として生活しました。しかもその受ける賃金は本当に、働けども働けども、手に何も残らないような貧しい生活でした。私たちに、どれほどこの私たちも同じ生活をする事をお望みになるかを知らせようとしました。

そればかりではありません。イエズス様は、罪人である私たちが受けるべき全ての苦しみを、全て自分の身に引き受けて、罪の償いを果たし、どれほど私たちを愛するかを示す為に、十字架の上で、極悪人として死刑を受ける事を望まれました。天主の御旨の従順のまま、それを受け入れられました。

私たちをどれほど愛しているか、という事を示す為に、十字架の上に付けられて、両手を大きく開けて、私たちをあたかも抱擁するかのように、待ち望んでいるかのように、「さあ、私だ、恐れるな。さあ、労苦する者よ、私の元に来て休め。私が回復させよう。私のくびきは軽く、優しい。私は柔和で謙遜な者であるから、私に倣え。さあ、私の元にやって来い。私が地上から上げられた時に、私は多くの人々、全ての人を私の元に引き寄せよう。」私たちの主は、御自分の聖心が、私たち罪人の為に開かれた、救いの箱舟となる様に、その脇腹を開かせて、聖心を私たちの為に開いて下さいました。

イエズス様の聖心の御影は、聖マルガルタ・マリア・アラコックに言って、「この聖心を、皆の前で飾るのを望む。」そうすれば、心の固い人でも、その私の心臓を見て、それに心を打たれて、それに感動して、天主が人となって、私たちと同じ肉体を持って、私たちと同じ心を持って心臓を持って、愛に燃える、燃え盛る火を、愛の炎で燃えていて、この、その愛に燃えるあまりに、苦しみの茨の冠、十字架の苦しみを受けた、という事が分かるように、この御影を、開かれた、私たちの為に槍で貫かされた、開いた聖心を描く事をお望みになりました。

キリシタンたちが7代ずっと待っていた日本に、イエズス様の聖心の為にいつもお祈りをしていた、日本の潜伏キリシタンたちの為に、最初に横浜で造られた教会は、イエズス様の聖心に捧げられた教会でした。第2番目はマリア様の教会で、長崎に建てられました。

イエズス様が私たちを愛して、私たちのためにこれほど、私たちの元にいたい、と思うのはこればかりではありません。更にイエズス様は、私たちの元に御聖体として残りたい、私たちと一緒に留まりたい、日夜私たちの元にいたい、真の天主、天地の創造主、全能の天主の御父、御父の輝ける栄光の御一人子が人となって、更に私たちの為に御聖体となって、パンの姿をとって、私たちと共に昼夜留まりたい。そればかりではありません、私たちの霊的な糧となって、私たちの元に、私たちと一つになりたい、と思っています。

聖パウロは、イエズス様のこの愛、天主に対する従順とその御謙遜を見て、「天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、皆膝をかがめて、『イエズス・キリストは主である』と崇める。」と言っています。

この私たちの愛の王であるイエズス・キリストの聖心をみると、私たちはどうしても、愛を、愛を以って応えざるをえません。イエズス様は、多くの全ての人がイエズス様を愛するように、この人となる事を望まれました。聖心の姿で描かれる事を望まれました。

しかし残念な事に、多くの人はイエズス様の事を知りません。イエズス様がどれほど私たちの事を愛しているか、という事を知っていません。或いは無関心です。或いは知っていても冷淡です。或いは知って、「イエズス様の事を礼拝したい」と思っても、ちょうどヘロデの元に居たエルサレムのように、「イエズス様を礼拝してはいけない」と言われていたり、「イエズス様の前に跪いてはいけない」と言われたり、多くの人は、イエズス様に対して為すべき、イエズス様が望んでいる、愛と、礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いをする事ができないでいます。或いは、しないでいます。

イエズス様は、そのような私たちの事を、おそらくゲッセマニの園にてよく御覧になっていた事でしょう。ゲッセマニの園にて、そのような冷淡な私たちの態度を見て、辛く思っていた事でしょう。イエズス様に捧げられた霊魂たちが、特に司祭や修道者たちが、イエズス様の聖心に対して冷淡であればあるほど、どれほどイエズス様の聖心を傷付けた事でしょうか。

残念な事に私たちも、イエズス様の聖心にどれほど冷淡であったでしょうか。「イエズス様がこれほど愛している」という事を知りつつも、イエズス様に、その愛に、私たちはどれほどの愛を以って応えてきたでしょうか。「イエズス様がお望みの事はこれだ」と、分かっていながらも、「イエズス様の聖心に逆らう事だ」と、知りつつも、自分の都合で、自分の好みで、自分の好奇心で、自分の欲望で、自分の望みで、自分のやりたい事をやってきてしまったのではないでしょうか。私たちは、イエズス様の愛に愛で応えるべきであるにもかかわらず、自分の為にその愛をとっていたかのようです。イエズス様は私たちに、「心を尽くして、力を尽くして、全てを尽くして愛するように。」と、「真心を尽くして愛するように。」とお命じになるのですけれども、私たちは、それをできないでいました。

イエズス様は今日、私たちにもう一度、御自分の愛の火に燃える聖心を示して、「少なくとも、お前は私を愛するように。」「この世の人たちは、私に対して冷淡と、無関心と、冒辱で応えている。少なくともお前は私を愛せ。」私たちも拙いながら、イエズス様の愛に、愛を以って応える事に致しましょう。

では、どのような決心をしたら良いでしょうか?私たちも、太祖の、或いは日本の私たちの先祖、先輩たちを学んで、イエズス様をお愛しするが為に殉教していった何十万という多くの日本のキリシタンの方々を見て、イエズス様を待ち望みつつ、イエズス様を愛するお恵みを乞い求めましょう。

イエズス様は私たちの元に、この聖心の姿で人となって、私たちと同じ肉を持って来られる事を望みましたから、御聖体に於いて留まる事を望まれましたから、イエズス様の聖心の信心と、御聖体の信心は全く一つですから、イエズス様はマルガリタ・マリア・アラコックを通して、イエズス様の聖心の信心を、イエズス様の聖心を愛する為に、イエズス様の聖心を愛を以って、愛を愛で返す為に、御ミサに与るように、初金の御ミサに与るように、初金で御聖体拝領するように、御聖体礼拝をするように、聖時間を作るように持つように、とお望みになりました。ですから、今日私たちは、イエズス様の聖心を愛するが為に、聖時間を一緒に共に過ごす事に致しましょう。イエズス様の聖心を愛する事に致しましょう。

イエズス様の聖心に、日本の多くのカトリックの方々が、イエズス様の聖心を、イエズス様の御神性に、天主であるイエズス様に相応しいやり方で、相応しい礼拝と、天主イエズス様に為すべき心と、態度と、愛と、礼拝を以って、礼拝する事ができますように、讃美する事ができますように、感謝する事ができますように、お祈り致しましょう。

日本のカトリック信者さんの方々のみならず、日本の全ての方々が、イエズス様の聖心の愛の深さを知り、イエズス様の聖心の元にいらっしゃるように、イエズス様の聖心に、慰めと、平和と、喜びと、救いを見出す事ができますように、唯一の救い主であるイエズス様を、この見出す事ができますように、このクリスマスの時に見出す事ができますように、お祈り致しましょう。今日聖時間の時にお祈り致しましょう。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の汚れ無き御心が唯一、イエズス様の聖心を全き完璧なやり方でお慰めし、礼拝し、感謝した方です。マリア様の御心を私たちも受ける事ができますように、マリア様の御心を以って、イエズス様をお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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