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ベネディクト十六世:学者が作った新しいミサにより、古代教会以来の典礼の歴史が断絶し、連続性が破壊した

2016年02月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 引退教皇であるベネディクト十六世は、こうおっしゃっています。

古いミサ典書が禁止されるということは、全典礼史を通じて一度もなかった。

【ローマ・ミサ典書の】改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたこと。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかった。

ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しない。

古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味する。

今回【新しいミサで】起きたことは、古い家を壊して新しい家を建てた【のと同じこと】。
歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止した。

典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとした。

これらが私たちに大きな損害を与えた。

教会が、いきいきと生きていくことができるためには、典礼の歴史の連続性を認め【なければならない】。

私たちが今日経験している教会の危機は、「たとえ神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である【新しいミサによる】典礼の崩壊が原因であると、私は確信している。

今日、【新しいミサの】典礼において、天主が存在しており、天主が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっている。


 ベネディクト十六世の言葉をお聞きください

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。

 しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。

 トリエント公会議ののちにつくられた新しいミサ典書は、今回のミサ典書の刊行とはまったく違う性質のものでした。宗教改革は特に、典礼の「改革」というかたちではじまりました。カトリック教会とプロテスタント教会というふたつのものが、はじめから別々のものとして、平行してあったわけではありません。教会の分裂は、ほとんど気づかれることなく進行したのです。もっともはっきりと目に見えて現われ、歴史的にもっとも深刻な影響を与えたのは、典礼における変化でした。この変化は場所によってもさまざまで、その結果、カトリックであるか、もはやカトリックではないかの境界線を引くことは、ほとんどできないような状態でした。

 典礼についての統一的な規則の不備と、中世における複数の典礼形態の並存の結果として生じたこの混乱の状態に直面して、ピウス五世は、二〇〇年以上の典礼の歴史を示すことのできない地域教会に対してのみ、疑いなくカトリック的なものとして、ローマ市教会の伝統的なミサの本文であるローマミサ典書を導入することを決定したのでした。二〇〇年以上の歴史を示すことができれば、そのカトリック的な性格は確実であると見倣され、それまでの典礼にとどまることができたのです。

 いままでの、そして、いままで合法的であると見倣されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。

 しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。

 これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。

 教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。

 もし典礼において、信仰の共同体、世界にひろがる教会の一致とその歴史、生きているキリストの神秘が現われるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現わすのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、ひとつの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件のもとでは、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。それゆえ私たちは、第二ヴァティカン公会議の本来の遺産に、ふたたび生命を呼び醒ますような、新しい典礼運動を必要としているのです。」
(『わが信仰の歩み』春秋社より)

シュナイダー司教:聖ピオ十世会は、教会のための賜、天主の御摂理がお使いになる道具の一つだ

2016年02月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 参考資料として、カザフスタンのアタナシウス・シュナイダー司教様が、つい最近ブログ「ロラテ・チェリ」としたインタビュー(2016年2月1日 公開)の一部をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****


ロラテ・チェリ:聖ピオ十世会(SSPX) は、教会内で典型的ではない状況にあります。司教様は、何故、多くのカトリック信徒たちが聖ピオ十世会と共に行動することを恐れている、あるいは不安に思っていると思いますか?司教様が見たことから、聖ピオ十世会はどのようなどのような賜を主流の教会にもたらすことができると思いますか?

シュナイダー司教様:誰かがあるいは何かが重要ではない、あるいは弱い時には、誰もそれを恐れはしません。聖ピオ十世司祭兄弟会を恐れる人々は、究極的には、恒久のカトリック真理を恐れ、カトリック真理が道徳と典礼の領域に求めることを恐れているのです。

私たちの祖先たち、そして、最もよく知られている聖人達が過去千年間やったやり方で、信じ、礼拝し、道徳的に生活しようと聖ピオ十世会が努力するとき、私たちは聖ピオ十世会のカトリック司祭たちと信徒たちの生活と仕事を、現代における教会のための賜であると、しかも、教会内部における、現行の一般的な信仰の危機、道徳と典礼の危機の巨大さを治癒するために天主の御摂理がお使いになる道具の一つであるとさえ考えなければなりません。

聖ピオ十世会の一部には、しかしながら、全ての人間社会においてそうであるように、奇妙な人もいます。正義と愛徳とを欠き、従って本当の「教会と共に考える“sentire cum ecclesia,”」を欠くやり方と思考を持っている人で、独立的な教会となり教会における最高裁となる危険があります。しかし、私の知る限り、聖ピオ十世会の大部分は健全な部分であり、私は聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教様のことを、模範的な本当のカトリック司教であると考えています。聖ピオ十世会の教会法上の立場が承認される希望があります。

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Rorate Caeli: A non-typical situation in the church is the Priestly Society of St. Pius X (SSPX). Why does Your Excellency think that so many Catholics are afraid of the SSPX or anxious about any association with it? From what Your Excellency has seen, what gifts do you think the SSPX can bring to the mainstream Church?

H.E. Schneider: When someone or something is unimportant and weak, nobody has fear of it. Those who have fear of the Priestly Society of St. Pius X ultimately have fear of the perennial Catholic truths and of its demands in the moral and the liturgical domain.

When the SSPX tries to believe, to worship and to live morally the way our fore-fathers and the best-known Saints did during a millennial period, then one has to consider the life and the work of these Catholic priests and faithful of the SSPX as a gift for the Church in our days – even as one of the several instruments which the Divine Providence uses to remedy the enormity of the current general crisis of the faith, of the morals and of the liturgy inside the Church.

In some sectors of the SSPX there are, however, as it is the case in every human society some eccentric personalities. They have a method and a mindset which lack justice and charity and consequently the true “sentire cum ecclesia,” and there is the danger of an ecclesial autocephaly and to be the last judicial instance in the Church. However, to my knowledge, the healthier part corresponds to the major part of the SSPX and I consider their General Superior, His Excellency Monsignor Bernard Fellay, as an exemplarily and true Catholic bishop. There is some hope for a canonical recognition of the SPPX.


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