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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年7月8日から11日までの聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年07月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

7月8日、9日と大阪で、10日には東京で聖伝のミサを捧げることができました。

大阪の聖堂は、行く度に美しくなっており、常設の聖堂はやっぱりすばらしいとつくづく思います。

東京では、36名の方々が聖伝のミサに与りました。夏休みのご旅行の方々や、体調が優れずにミサ聖祭に与れなかった方々、ウッカリしておられた方、その他の用事の方々がおられたようです。

ミサ聖祭といつもの公教要理の後に、マーチフォーライフに参加しました。私たちの参加者は全員で11名でした。もっとカトリックの参加者の方々が多いと想像していたのですが、私たち以外はほとんどいらっしゃらないようで驚きました。しかし参加してとても良かったと思います。私たちは、ロザリオを一方の手にとって、もう片方にうちわを持って、ロザリオの祈りを唱えながら、お祈りをしながら歩きました。一緒に歩いて下さった愛する兄弟姉妹の皆様の方々に感謝します。

本来なら、カトリック教会こそが、罪なく排除されようとしている赤ちゃんたちを守るために、つまりお母さんのお腹の中にいる胎児の命をまもるために、積極的にならなくてはなりません。

「戦争放棄」をしたはずの日本国憲法(1946年11月3日 公布、1947年5月3日 施行)のもとで、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下のもとで世界で先駆けて中絶法を成立させ(1948年7月13日火曜日)てしまい、罪なき赤ちゃんに対して虐殺を開始して、数千万の幼い日本国民の命が犠牲になりました。日本国だけで犠牲となった胎児たちは、第二次世界大戦のアジア・太平洋地域の犠牲者を遙かに超えています。

日本の中でとくに深刻な問題は、平和に安らかに眠っている赤ちゃんたちが、今なお、大人の都合と身勝手を押しつけられているばかりか、天主の掟と、天主から与えられている赤ちゃんの命の大切さとをまったく無視して、無関心の内に虐殺が進められているということです。ここに表れている肉欲優先・天主無視の姿勢こそが、平和を築こうとする努力とは決して相容れないものです。

日本のカトリック教会は、何よりもさきに、無辜の胎児に対する戦争とテロを止めるように祈り、世界に先駆けて働きかけなければならないのです。

カトリック教会(旧教)の教えによれば、罪なき人を故意に殺害することは、天に復讐を呼び求める罪です。人道に反する罪です。罪のない幼き市民に対してなされる暴力を押さえ込むために、これを禁止させる制裁が必要です。犠牲と祈りのこころが必要です。さもなければ日本は破滅に向かうだけです。自分の子供を大人の都合で虐殺する国に、天主からの祝福はないからです。

私たちには、憲法九条よりも、更に「天主旧教」のほうが、旧教を守るほうが遙かに大切だと考えます。何故なら、憲法九条は罪のない日本国民の胎児を守るのに役に立っていないからです。旧教を守ることが、本当の平和を私たちにもたらすからです。

何故なら、私たちは、唯一の真の天主イエズス・キリストを礼拝し、愛し、賛美することによってのみ、真の平和がやってくるからです。何故なら、イエズス・キリストこそが平和の君(Priceps Pacis)であり、真の平和とは天主の秩序における安寧であり罪こそが真の平和を乱す最悪ものもであるからです。何故ならイエズス・キリストへの従順の内にこそ、罪を避ける聖寵を見出すことが出来るようになるからです。だから、ファチマの聖母マリア様も、聖母の汚れなき御心への信心によって平和を求めるように要求しました。

そのためにこそ、真の平和を希求する私たちは、聖伝のミサ(旧典礼)を大切にし、それによってカトリックの教え(旧教)を守らなければなければなりません。何故なら、「罪と悪魔と悪魔の業とその栄華を放棄し、唯一の真の天主様を礼拝する」という内容のカトリックの聖伝のミサ(旧典礼)には、トリエント公会議をはじめとする、異端を防ごうというカトリック教会の信仰と思いが詰まっているからです。

カトリック教会で昔から言い習わされてきており、ベネディクト十六世教皇様も確認した通り「祈りの法は信仰の法」であり、典礼を変えることは、信仰を変えることに繋がってしまうからです。新しい信仰、新しい宗教へと繋がってしまうからです。

私たちは旧典礼を守ることによって、使徒継承の旧教を守らなければなりません。旧教を変えるというのは絶対あってはならないことです。

主が家を建てて下さらなければ、家を建てる人の労働も虚しい。
主が町を守って下さらなければ、番人の警備も虚しい。

願わくは、我が愛する祖国日本において、赤ちゃんたちの命が守られますように!願わくは、ヘロデのような態度が日本からなくなりますように!

願わくは、日本中の全ての司教様たちが、世界中に向けてこう宣言して下さいますように!

「世界の本当の平和を築くためには、主が平和を下さるようにしなければなりません。私たちの主イエズス・キリストが私たちに与える平和は、この世が私たちに与える平和とは全く異なるからです。私たちの主イエズス・キリストをこそ、日本にとって本当の友人、真の友人として作るべきなのです。」

「聖伝のミサの改変よりも、むしろ世界の国々がこのミサ聖祭の精神、十字架の犠牲の精神、カトリック信仰を噛みしめるように祈り行動しなければならない。旧典礼は世界の宝」と。

400年前の長崎の殉教者たちと声を合わせます。「至聖なる御聖体の秘蹟は、讃美せられさせ給え!」LOVVADO SEIA O SÃTISSIMO SACRAMENTO!Louvado seja o Santíssimo Sacramento!Benedictum sit Sanctissimum Sacramentum!

願わくは、全世界において、御聖体の内に真にましまし給う私たちの主イエズス・キリストが礼拝され、賛美され、愛され、慕われ、敬われますように!!


さて、ユスト高山右近の列福式の日程が決定されました。ユスト高山右近は、聖伝のミサに与って霊操をしていました。聖伝のミサしか知りませんでした。旧教をまもった武士でした。

列福式は以下のように行われます。

日時: 2017年2月7日(火)正午より
場所: 大阪城ホール(大阪市中央区)
教皇代理: 列聖省長官 アンジェロ・アマート枢機卿

●動画「ユスト高山右近を讃う」歌【河合まり子 作詞・鈴木和之作曲】 みはたかき しろにありとも

2007年7月1日に行われた高山右近像祝別式(小豆島新聞より)

ユスト高山右近 マニラにおける帰天400周年(通説2015年2月5日) 本当は、2015年2月3日

では、聖伝のミサのご報告を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミサの報告をお送りいたします。

7月8日(金)ポルトガルの寡婦聖エリザベト の御ミサには14名が、
7月9日(土)聖母の土曜日 の御ミサには15人が、御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

8日金曜日のミサのお説教では、日本とゆかりの深いポルトガルの女王エリザベトの一生をお聞きしました。
ミサを何より愛した聖女に倣って、善き僕の一人が悪い僕のわなから救われた話はどても興味深かったです。
自分も、御ミサを愛し、これからも出来るだけ沢山の御ミサに与りたいし、日本中で 聖伝のミサがあげられて、多くの人が御ミサの御恵みを受けられる日が来るよう、聖女のお取次ぎをお願いたしました。

9日土曜日のミサのお説教ではファチマのメッセージの核心について黙想しました。
「マリア様の汚れなき御心への信心をする人を天主様の玉座を飾る花として、マリア様が御自ら花を置いて下さり、その花を天主様はとても大事に思ってくださる」という話をお聞きして、うれしくてたまりませんでした。
ファチマ100周年の準備としてのロザリオと小さい犠牲の十字軍も、俄然やる気がでました!!がんばります!

9日御ミサの後の公教要理では「愛徳」について勉強しました。
神学的な勉強は、聞いているときはなるほどと わかった気になっていますが、帰ってきてもう一度話をしてみるとなかなかうまくいきません。まだ理解が足りないのですね。
今日わかった事は、「愛徳は天主様との特殊な友情関係」である事、天主様との友情はひとつ(超自然の至福を分かち合う事)だけである事でした。

愛徳を勉強する前に「徳」の概念について触れましたが、『可能性と実現の間にある良いことをする状態が徳である。』というところがよく理解出来ませんでした(/_;)
「可能性」→「実現」の間に「徳」が位置していることがピンときませんでした。質問する間もなく悶々としていました。すみません・・・・。


【お返事】
「徳」virtus というのは、何か良いことをするための習慣 habitus です。
良いことをする agere bonum ため、ということは、「その良いことをすることができる」ということから、「良いことを為した」ということへと移ること(運動)です。
「そうする能力がある、それをすることができる」から、「それを為した、やった、実現した」へとの動きがあるからです。
「能力がある、できる、可能である」ということは、ラテン語では potentia と言います。
「為した、行為した、やった、実現した」ということは、ラテン語では actus と言います。
そこで、
「可能性 potentia」→「実現 actus」
という運動、動きがあることが分かります。
ここまでは、わかりやすいですね。

ところで、「徳」というのは単なる純粋な「可能性」potentia ではなく、「より簡単に、よりうまくできる状態で、より上手に行為する習慣がついている」ことです。
かといって、「徳」というのは、いつも行為しているという状態ではありません。うまくできる状態ですが、まだ「為してしまった」actus わけではありません。

例えば、人間は、目と耳と十本の指とがある限り、ピアノをうまく弾くということがあり得ます、その可能性があります。
練習をすればするほど、ピアノをうまく弾けるような状態を作り上げ、ピアノをうまく弾く習慣をつけることができます。良いピアニストになります。
だからといって、良いピアニストは、いつも現実にピアノを弾いているわけではありません。ピアノを現実に弾いていなくても、ピアノをうまく弾くことができる習慣をつけている人は、ピアニストと呼ばれます。

そこで、言ってみると、「可能性」→「実現」の間に「徳」が位置していると考えられるのではないでしょうか?
どう思いますか?


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

マーチフォーライフはたくさんの方がいらっしゃったのでしょうか?
私ももし大阪近くであったら是非とも参加したいと思います!!
暑い中、小野田神父様は喉もかすれて大変お疲れだったと思うのですが、マリア様が小野田神父様のこの犠牲を、東京の信者の方の犠牲を、日本の隠されたテロの償いと改善に報いて下さることと思いますm(_ _)m
マーチフォーライフの写真を少しネットで拝見させて頂いたのですが、小野田神父様のお父様がちょっと写ってらっしゃいました!(^^)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様


小野田神父様、こんにちは!
無事にマニラに戻られましたでしょうか。
私は国内を車で移動をして御ミサに与りに参りますが、
小野田神父様をはじめSSPXの神父様方は国内に留まらず国外まで銀の翼で
飛び回っていらして、本当に大変だと思います。それも一重に私たちの霊魂の為であることに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。


御ミサのレポートをお送りいたします。
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○今回の御ミサでこれだ!と分かった点
聖福音の例の家令は、ファティマのマリア様である。
そのファティマのマリア様の御心のお約束は、私たちの永遠の助かりを保証する、永遠の住所に迎えてくれるのみならず、「天主様にとって価値のある貴重な霊魂」、「聖徳のいちばん高いところまであげられる」
というすばらしい尊いお約束であるということ。

○今回でもよく分からなかった点
この日の聖福音の解釈を、以前何かの解説書で読んだ際に
(何に書かれていたのか失念してしまったのですが・・・、もしくはどちらかの神父様がお話して下さったのかもしれません)
家令は自分自身、主人の負債者は隣人、友人は天国に先に行った霊魂たちであり
自分が死を迎える時に、主人の負債者達つまり今は天国に行った友人の霊魂たちが
助けて、天主様に霊魂の助けを願ってくれる、とあり
ずっとこのように理解していたのですが、この解釈は正しいのでしょうか。

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マーチ・フォー・ライフにも参加ができたことを、案内を下さった兄弟の方、
またお声がけしてくださった神父様、そして天主様に感謝いたします。
しかも、ロザリオを祈りながら参加ができたことはとても素晴らしいお恵みでした。
ロザリオのお祈りを唱えつつ、同じ参加者の方々や沿道からマーチを見ていた方々、
そのようなカトリックのお祈りを全く、もしくはほとんど知らない方々の耳にも
使徒信経やイエズス様やマリア様のお名前が少しでも耳に届けられたならば良かったと思いました。

マーチに参加した方々が「何故、中絶がいけないのか」というこの活動の根本的な問題に対してどのような考えをもっていらっしゃるのか、私たちカトリック信者がもつ答えとは隔たっているのでは、という印象を受けました。(実際にお話ししておりませんので分かりませんが)
より多くの方々が、カトリック教会の教えを知り、人間中心の考えから
「天主様のもつ生命に関する権利を人間の権利として好き勝手に扱うことはできない=中絶はできない」
という真理に導かれますようお祈りいたします。

8月15日からはじまるロザリオ十字軍によりよく参加できますよう、マリア様の汚れなき御心によりすがりお祈りいたします。
日本からもっと多くの召命がありますよう、お祈りいたします。

デオグラチアス!

【お返事】

福音書のたとえは、その以前の通りのご理解で正しい理解です。
「家令は自分自身、主人の負債者は隣人、友人は天国に先に行った霊魂たちであり
自分が死を迎える時に、主人の負債者達つまり今は天国に行った友人の霊魂たちが
助けて、天主様に霊魂の助けを願ってくれる」です。

今回のミサ聖祭での黙想は、次の点を考察しました。
1)私たちは、天主に債務がある。【書簡】
2)私たちは、臨終の時、天主に、天主から受けたことについて報告する監査報告の義務(責務)がある。【福音】
3)天主への厳しい監査報告の時に、「憐れみ」を乞い求めることができれば良いが、すでに憐れみを乱用し、馬鹿にし、侮辱してきた人々にとって、それはできずに地獄に落ちてしまう。【ファチマ1917年7月13日】
4)しかし監査報告をパスする特別のやり方がある。それをすると、単にぎりぎりで受かる(救霊が約束される)のみならず、天主にとって大切なものとなり、高い聖徳まで導かれる。それが、聖母の汚れなき御心への信心である。債務を負けてくれるようで、福音書の僕に似ているけれどごまかしではない。天主の望みである。【ファチマ1917年6月13日】

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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