Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「幼児洗礼そして堅振について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「幼児洗礼そして堅振について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「幼児洗礼そして堅振について」


親愛なる兄弟の皆さん、

一連の公教要理の時間を続けましょう。今は秘蹟について勉強しています。

洗礼についての最後のポイントです。自分の子どもに早く洗礼を受けさせるよう配慮するのは、カトリック信者の親にとっての重い義務です。親が子どもに自然の命と超自然の命の両方を一緒に伝達することが、天主の元々のご計画でした。自らの罪によって、アダムは自然と恩寵を結び付ける原初からの義を失いました。それ以来、恩寵はもはや天主が意図なさっていたように自然に「付属する」ことがなくなってしまいました。それゆえ、子どもは成聖の恩寵を取り去られた状態で生まれるのです。もしアダムが罪を犯さなかったとしたら子どもにあったはずの恩寵が失われている状態、これが原罪なのです。

子どもは自然の命と超自然の命の両方を持つことが天主のご意向でしたから、親は自分の子どもにその超自然の命を、新たな誕生としての洗礼という手段によって授けるのを待ってはいけません。これこそが新たなアダムである私たちの主イエズス・キリストの命であり、子どもたちは洗礼によって主の体の一部となるからです。親が理由もなく子どもに洗礼を受けさせる前に長い間待つことは重い罪です。

すると、次のような反論をする人々がいます。「しかし、子どもはこれについて何も言えません。子どもが選べるようにすべきです」。これは間違った論法です。実際、子どもは自然の命を受けるのも選びません。命を受けるのを選ぶことは誰にもできません! 命は賜物であり、それ自体良いものなのですから、不平を言う余地はまったくありません。命があとでつらい状態になる場合であっても、命それ自体が悪いということを意味しません。そうではなく、命それ自体良いものであり、それゆえに親は子どもに命を与えたことを非難されるべきではありません。教育を受けさせてやらなかったり、親としての世話をしてやらなかったりという落ち度はあるかもしれませんが、命を与えることは落ち度ではありません。同様に、超自然の命は驚くべき賜物であり、自然の命よりもずっと価値がありずっと貴重です。親はそんな賜物を与えることで決して非難されるべきではありません。さらにまた、洗礼のあと良いカトリック教育を受けさせてやる必要があります。そこには落ち度があるかもしれません。しかし、子どもが赤ん坊のときに霊的な命を与えることは間違っていません。

プロテスタントの一部は、彼らの誤ったプロテスタントの信仰のせいで子どもの洗礼を拒否しています。彼らは、洗礼は信仰の宣言の単なるしるしであり、それ自体に効果はないとみなしているからです。そのため彼らは、子どもはその信仰の宣言をすることができないので、洗礼は子どもにとって無益なものだと考えているのです。これは教会の聖伝に反し、幼児洗礼を実践した使徒伝来の聖伝に反しています。幼児洗礼を実践してきたことそれ自体が、まさに、聖アウグスティノによると原罪があることの最も確実な証拠でした。なぜなら子どもには自罪があり得ないので、もし子どもにまったく罪がないとしたら、洗礼は「罪の赦しのために」(使徒行録2章38節)与えられるのですから、洗礼が子どもにとって無益なものだということになってしまうからです。

私たちの主イエズス・キリストはこう言われました。「子どもたちを私のところに来させよ。とめてはならぬ。天主の国を受け入れるのはこのような者たちである」(ルカ18章16節)。キリストのところに来させるためには、洗礼が必要です。洗礼によって、子どもはキリストの体の一部になるからです。それゆえに、私たちの主のこの命令に基づいて、使徒たちと全教会は何世紀にもわたって、常に子どもに洗礼を授けてきました。

聖パウロの書簡の次の一節に、幼児洗礼のヒントが見られるでしょう。それは聖パウロが、カトリック信者でない配偶者が「信者の配偶者と同居するのを承知する」ならば、すなわち、信者である配偶者にカトリック信仰を問題なく実践することを許すならば、信者である配偶者の子は「聖となった」と言うところです。「信者でない夫は信者であるその妻によって聖とされ、信者でない妻は信者であるその夫によって聖とされる。そうでなければ、あなたたちの子どもは汚れたものである。しかし今は聖となった」(コリント前書7章14節)。子どもが聖となったのは、子どもが洗礼を受けているからです。信者でない配偶者が「聖とされ」ているのは、多くの場合そうであったように、それによってその配偶者が回心へと導かれるであろうからです。

さらに、旧約には、幼児洗礼をはっきりと証明する二つのタイプの洗礼があります。割礼は生まれて八日目の幼児に行われました! 聖チプリアノは紀元二五〇年ごろ、次のように質問してきたある司教に答えています。「割礼を八日目まで待ったように、われわれは洗礼を授けるのを八日目まで待つべきであるか?」。聖チプリアノの周りに集まったカルタゴの教会会議は全会一致でこう答えました。「われわれは八日目まで待つことさえすべきでない!」。第二のタイプの洗礼は紅海の渡海です。それについて聖パウロはこう言います。「私たちの先祖は…みな雲と海の中でモーゼにおいて洗われた」(コリント前書10章1-2節)。これは明らかに「水と聖霊によってもう一度生まれる」(ヨハネ3章5節)というキリストにおける洗礼の象徴です。さて、ヘブライ人が赤ん坊を海岸に残したままにせず、赤ん坊も親の腕に抱かれて紅海を渡ったことは明らかですから、それは「有効な」渡海だったのです! ですから幼児洗礼は、答えを代父母が行うとしても、有効な洗礼なのです。

聖書の中で、まことの信仰(復活)に異議を唱えていたサドカイ人に向かって、私たちの主はこう答えられました。「あなたたちは聖書も天主の力も知らぬから誤った考えを持ったのだ」(マルコ12章24節)。皆さんお分かりのように、この御言葉はまたこれらのプロテスタントにも当てはまります。これは幼児洗礼という問題についての一つの例ですが、プロテスタントの全ての誤りについても同様です。しかし、プロテスタントの人々が聖書を理解するためには、私たちの主イエズス・キリストが聖書の管理と信仰の遺産を委託なさった教会の言うことに耳を傾ける必要があります。実際、聖パウロはこう言っています。「天主の家は生きる天主の教会であり、真理の柱であり基である」(ティモテオ前書3章15節)。そして、使徒たちにまで直接さかのぼる教会こそ、カトリック教会なのです。

第二の秘蹟は堅振です。子どもは生まれたあと成長しますし、成長する必要があります! 堅振は、まさにその名の通りのものです。洗礼で受けた命を堅固にし、強め、しっかりさせ、堅実なものにします。堅振は私たちを「キリストの兵士」にすると教会は教えています。実際、一つの戦いがあり、それは罪に対する、悪魔やこの世に対する、そして自らの内にある悪しき傾きに対する戦いです。洗礼の時、私たちは悪魔とそのわざ、その誘惑を捨てました。それは、来るべき戦いがあることを私たちに告げるものだったのです。ですから、そのように強められる必要があるのです。堅振を受けるのは、聖霊の特別な流出によってです。

私たちの主イエズス・キリストは、約束しておられた通り使徒たちと最初の百二十人の弟子たちに聖霊を送られた聖霊降臨の日に、この秘蹟を制定されました。聖霊降臨は大変特別な出来事で、そのとき使徒たちはより優れた方法で、すなわち聖香油ではなく、聖霊の火という実在の炎で堅振を受けました! しかし、聖霊によって霊感を受けた使徒たちは、聖香油を塗り按手をすることによって他の人々にも堅振を授けるべきだと理解しました。

使徒行録の中で、私たちは、堅振と洗礼の間のはっきりとした区別を見ます。助祭フィリッポがサマリアに行き、そこで多くの人々を回心させ、彼らに洗礼を授けました。しかし、それからフィリッポはエルザレムに人を送って使徒たちに来てもらうよう願いました。なぜなら、彼は堅振を授けることができなかったからです。ペトロとヨハネがやって来て新たな受洗者に按手し、それによって彼らは使徒たちが聖霊降臨で受けたのと同じ聖霊の流出を受けました。

このように、堅振の質料は、ひたいの上に十字架のしるしをして聖香油を塗ることです。聖香油はオリーブ油とバルサムを混ぜたものです。聖アルフォンソ・リグオリは、もしバルサムを使わなかったならば、条件付きで再び堅振を受ける必要がある、と言いました。彼は、別の油を使ったかどうかを尋ねることさえしません。彼にとっては、そのようなこと自体およそ考えも及ばないことだったからです! ですから、ノブス・オルドが「オリーブ油またはほかのどの野菜の油でも」使うとしていることによって、無効な堅振への扉を開いてしまっているのです。

オリーブ油は、聖霊降臨のときのような聖霊の火を象徴しています。また聖霊の象徴である鳩は、天主との和解のしるしとして、洪水ののちにオリーブの木の枝をくわえて来ました。平和は聖霊の実の一つだからです(ガラツィア5章22節)。また運動選手は、彼らを強めるために油を塗られました(今でも彼らはあらゆる種類の軟膏を塗ってもらいます)。油を塗るのは、十字架のしるしで、肌のうちで最も見えやすい部分であるひたいの上に行われます。これは、私たちが十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストにおいて信仰を告白しなくてはならないことを象徴しています。私たちは「福音を恥としてはならない。福音はすべての信仰者を救う天主の力であるから」(ローマ1章16節)です。

聖伝の堅振の形相は、司教がひたいに油を塗りながら言う次の言葉で成っています。「われ聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝に十字架のしるしをなし、救霊(たすかり)の聖香油をもって汝を堅固にす。」

堅振の執行者は司教です。司教は大司祭であり、新たに生まれた信者を完成させることのできる大司祭です。司教は戦闘の教会の指揮官です。この秘蹟の重要性は、授けるために司教を必要とするという事実によって明らかです。非常に特別な場合には、特別な委任によって、司祭がこの秘蹟を有効に執行することができます。司教区が広い場合にあり得るもので、その場合は司教総代理が委任を受けます。あるいは、司教が病気のため、この秘蹟を執行するのに助けを必要とする場合に、その委任がなされます。教皇だけがその委任をすることができます。東方典礼カトリック教会の司祭は、洗礼ののちすぐに堅振を授ける委任を受けていますが、西方教会ではその慣習はありません。

堅振は霊魂にしるしを、殉教にまで至る信仰を告白することができるキリストの兵士としてのしるしを刻印します。実際、聖霊のその特別な賜物、剛毅の賜物は殉教者において明らかになります。彼らは、死も恐ろしい拷問も恐れず、罪を犯すよりはむしろ死を、私たちの主イエズス・キリストを否むよりはむしろ死を選ぶのです。私たちは自分がそのしるしを受けたのだということを覚えておくべきであり、それゆえに罪に対して強くあり、誘惑に対して常に強く「いいえ」と言い、罪に対して「いいえ」と言い、天主に対して「はい」と言うべきです。「でも」や遅れ、ためらいがあってはなりません。どんな状況の下でも、罪を犯すことは決して許されません。私たちの主イエズス・キリストは、絶対の忠実を、死に至る忠実を捧げるのにふさわしいお方です。なぜなら主は、死に至るまで忠実なこれら良き兵士たちに、永遠の栄光の冠を与えてくださるからです。「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに命の冠を与えよう」(黙示録2章10節)。

もっと通常の状況であっても、堅振の秘蹟による特別な恩寵は、私たちがキリストの国を拡げるための勇気を持ち、言葉と行いの両方を使ってただ信仰を告白することによって宣教者となるための勇気を持つのを助けてくれます。聖なる生活という証言が、私たちの主の国を拡げるための素晴らしい手段なのです。

堅振の秘蹟は生きている者の秘蹟です。堅振を受けるためには成聖の恩寵の状態でなければなりません。罪の状態で堅振を受ければ汚聖になります。子どもが青年期の霊的な課題を克服するための準備をし、信仰において強くなるように、十二歳より前に子どもに堅振を受けさせるのは良いことです。子どもに堅振を受けさせることは親の義務です。

堅信の儀式は単純ですが重要です。この儀式は、聖霊降臨の晩課の讃歌である「ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス(聖霊よ来り給え)」を歌うことによって、聖霊を荘厳に呼び求めることで始まります。その後、全員がひざまずき、司教が立ち上がって全員の上に両手を広げて、イザヤの預言に従って七つの霊を呼び求めます。「その上に主の霊がやどる。知恵と分別の霊、賢慮と強さの霊、知識と主への恐れの霊が。彼は、主へのおそれをよろこびとする」(イザヤ11章2-3節)。

それから司教は座り、受堅者が一人ずつ順番に司教に近づいて足元にひざまずき、代父または代母が右手を受堅者の右肩に置いたまま受堅者の後ろに立ちます。司教は親指に聖香油をつけ、それから両手を受堅者の頭に置いて、次のように言いながら親指でひたいに十字架の形に聖香油を塗ります。「われ聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝に十字架のしるしをなし、救霊(たすかり)の聖香油をもって汝を堅固にす」。受堅者は「アーメン」と答えます。これが、秘蹟そのものが授けられるまさにその瞬間です。その後、司教は、受堅者の強さや耐える力を調べる象徴として、受堅者の頰を軽く打ちます。

最後の祈りは、私たちが聖霊の神殿であることを思い出させてくれます。そのあと最も重要なのは、堅振を受けたばかりの人々が、使徒信経を唱えることによって公に信仰を告白することです。そのとき彼らは、生涯の終わりまで今告白しているその信仰を守る準備のできた兵士としてそこに立っているのです。また、あらゆる祈りの模範である「天にまします」も唱えます。祈りによって、勝利の恩寵を受けることになるからです。また、最も良く使う祈りである「めでたし」も唱えます。マリア様は私たちの主と分かちがたいお方だからです。

聖霊に満たされて、お告げの日にイエズスの御母となり給い、聖霊降臨の日に教会の御母となり給うた殉教者の元后である聖母が、堅振を受けるすべての人をその特別な御保護のもとに置き、彼らがキリストのまことの兵士となるようお助けくださいますように! 「無原罪の聖母の騎士」となることは、私たちに自分の堅振を思い出させ、天国での永遠の報いに至るまで私たちを助けてまことに騎士として生きるようにしてくれる、私たち全員にとって大きな助けなのです。アーメン。

"On the Sacrament of Baptism" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「洗礼の秘蹟について」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「洗礼の秘蹟について」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On the Sacrament of Baptism


My dear brethren,

Baptism is the first of the seven Sacraments: one cannot receive any other Sacrament unless one is baptised first. It is the door to the other Sacraments, especially the most Holy Eucharist. Already St Justin said: “And this food is called among us "Eucharistia" [Εὐχαριστία = the Eucharist], of which no one is allowed to partake but the man who believes that the things which we teach are true, and who has been washed with the washing that is for the remission of sins, and unto regeneration, and who is so living as Christ has enjoined.” The true Faith, Baptism and a life in the state of grace, these conditions for receiving Holy Eucharist are the same today as they were the beginning of the Church.

Baptism is the first because it is a birth: the beginning of life! “Amen, amen I say to thee, unless a man be born again, he cannot see the kingdom of God” (Jn. 3:3). That new birth is “of the water and of the Holy Ghost” (Jn. 3:5). And it is a birth to everlasting life: that new life received at baptism blossoms in Heaven. Here below it can be lost; in Heaven it can no longer be lost. But it is essentially the same life.

The Church teaches that our Lord has instituted Baptism when He was baptised in the Jordan, thus sanctifying the waters. After He was baptised by John the Baptist, the heavens opened, the voice of the Father was heard and the Holy Ghost came under the visible appearance of a dove: this signifies that by Baptism we are made children of God and temples of the Holy Ghost. Then our Lord Himself started to baptise: He baptised His first apostles and then they baptised the other disciples as St John says (4:1-2): he was one of the very first two Apostles, perhaps baptised by our Lord Himself.

The matter of baptism is natural water, or rather the washing by natural water. It can be administered in three ways, either by immersion as was common at the beginning of the Church, or by pouring water in such a way that it flows over the body, or by aspersion (with enough quantity to make a real washing). Indeed if you need a wash, you can either take a bath, or wash under a tap or take a shower. The common way to baptise now is by pouring water, being the more practical way. Immersion especially in cold countries proved rather dangerous, especially for little children!

The matter signifies the washing of the soul from sin and from the punishment of sin: but it also signifies the “burial with Christ”: baptism by immersion clearly signifies it, but also the simple pouring of water does have that signification: indeed in a burial ceremony usually the faithful put either some flowers, or some dirt on the coffin without necessarily covering it entirely. Now St Paul says: “Know you not that all we, who are baptized in Christ Jesus, are baptized in his death? For we are buried together with him by baptism into death; that as Christ is risen from the dead by the glory of the Father, so we also may walk in newness of life” (Rom. 6:3-4).

In order to be valid, it is necessary that the water flows on the skin: some Protestants sometimes are so sloppy in their way to administer Baptism that it is invalid. I knew a case in the USA where a young man, who wanted to become Catholic, told me that he had been baptised by his uncle, who was a Protestant minister, and that uncle told him he had simply dipped his finger in water and traced the sign of the cross on the forehead with it. Now if you had fallen in the mud, and then dip one finger in the water and trace a sign of the cross on your muddy skin, are you going to be clean? Not at all! You need either to take a bath or to take a shower, or at least to wash under a tap! It is interesting to know that St Alphonsus in his Moral Theology explicitly mentions that case and says that in such a case the person needs to be conditionally re-baptised.

The signification of the “matter” is made clear by the “form” of Baptism. This form is explicitly found in the Holy Gospel: “Going therefore, teach ye all nations; baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost” (Mt. 28:19). The invocation of the most Holy Trinity makes it clear that Baptism is a sacred washing, not just the washing of the body. It is by the power of the most Holy Trinity that all the sins and their punishment are completely removed from the soul of the baptised. Also the priest pours the water making three crosses with the water, in honour of the most Holy Trinity.

One needs to know that many protestants do not use this right “form” of Baptism; they read in the Acts that such and such persons were “baptized in the name of the Lord Jesus” (Acts 19:5). And they wrongly think that the form of Baptism consists in saying “I baptise you in the name of the Lord Jesus.” Such manner of baptising is certainly invalid, being contrary to what our Lord Jesus Christ Himself taught, contrary to the instruction He clearly gave to His Apostles in St Matthew’s gospel, and contrary to the universal practice of the Church since the beginning.

Why then did St Luke in the Acts of the Apostles say that “they were baptised in the name of the Lord Jesus”? First of all, the purpose of the Acts was not to write a book on liturgy, on how to perform the sacraments, but rather to describe the spreading of the Gospel by the ministry of Peter and Paul, to these Protestants draw an undue conclusion from St Luke’s words. Secondly, the expression “baptised in the name of the Lord Jesus” intends to make a contrast with the “Baptism of John”. This is manifest in the case of Ephesus: the first disciples of that city had been instructed by a man called Apollo who was a disciple of St John the Baptist and did not know explicitly the Holy Trinity; when St Paul arrived there, he found that they did not know even the existence of the Holy Ghost. So he asked them: “In what then were you baptized? They said: In John's baptism” (Acts 19:3). It is quite clear here that, if they had been baptised in the Baptism of Jesus, they would necessarily have known the Holy Ghost, precisely because they would have been “baptised in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost”; if they did not know the Holy Ghost, that meant clearly that they had not been baptised in the “Baptism of Jesus”. By not respecting the proper form of Baptism, many Protestant Baptisms are invalid.

Hence before Vatican II, the Church would systematically re-baptise conditionally the converts from Protestantism, unless their first baptism could be proven to be valid, being done with the proper matter and proper form and intention.

Sacraments produce that which they signify: thus Baptism not only signifies the washing of the soul, but does indeed completely wash the soul. The Church teaches that Baptism washes all the sins committed before it: it washes original sin and all mortal and venial sins. It also remits all the punishment due to these sins, so that if someone would die right after baptism he would go straight to Heaven, not having any purgatory to do.

We have seen that there is a third consequence of sin, which is the wound of sin, which is not completely healed by baptism: Baptism starts the process of healing, it applies medicine on the wound, but it will take time for that medicine to reach complete healing, and will require the cooperation of the faithful.

Baptism produces sanctifying grace in the baptised: this is the positive side of the same reality as washing away sin. Darkness is expelled by the light: sin is expelled by sanctifying grace. It is not possible to have the remission of sin without the infusion of sanctifying grace; and vice-versa it is not possible to receive sanctifying grace without sin being expelled. Indeed sanctifying grace and sin cannot co-exist in the same soul: in the same way that light and darkness cannot coexist in the same place: “No man can serve two masters” (Mt. 6:24). Sanctifying grace is a participation in the Life of God Himself; St Peter says: “he hath given us most great and precious promises: that by these you may be made partakers of the divine nature” (2 Pet. 1:4). To become partakers of the Divine Nature, of the divine Life, to receive such life from God, that means to become children of God. This does not happen except by becoming member of our Lord Jesus Christ, the Only Begotten Son of God: we are children of God IN the Son of God, as members of the Son of God. It is not possible to live of the life of God except in the Body of Christ, which is the Church, the Catholic Church. Hence a valid and fruitful Baptism makes us members of the Catholic Church.

Another very important effect of Baptism is the character it imprints on the soul: by Baptism we are marked as children of God. That character will last for ever, for the glory of those who lived worthily of their baptism and go to Heaven, and for the shame of those who defile their baptism by an ungodly life and go to hell. That character is a wonderful source of actual graces throughout life, graces that help to live worthily as children of God.

The Sacraments work “ex opere operato – by the very performance of them”: that means that by the very fact one has received that sacrament, one has received the effects of it – but there is one condition: unless one puts an obstacle to such effect. Indeed, for instance, if a thief would receive baptism but at the same time would refuse to return that which he had stolen, that attachment to stolen goods would be an obstacle to grace: he would receive the character, but not sanctifying grace and not the forgiveness of sins, rather he would add a sin of sacrilege to his old sins!

The most common obstacle to the grace of baptism is heresy: the refusal of the true Faith, the Catholic Faith. This is the reason why Protestant baptism does not give grace – except in the babies, who of course do not put such obstacle. Such obstacle is removed by conversion, embracing the Faith of the Apostles, i.e. the Catholic Faith, and the sacrament of penance.

The ordinary minister of the Sacrament of Baptism is the priest; the priest can give the “solemn Baptism”, with all the beautiful rites of the Church. But in case of emergency, any faithful and even anyone, even non-Catholic, can give Baptism. Why so? Because God wants the salvation of everyone and therefore makes it widely possible for people to be baptised. Thus if a Catholic mother is giving birth and difficulties occur in the delivery, she may ask the nurse, even if that nurse is not Catholic, to baptise the child, making sure that the baptism is performed properly: that is, making sure that she pours the water on the skin of the child while saying “I baptise thee in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost”. Having the intention to do what the mother intends is sufficient for the intention to be right, because the mother intends to do what the Church intends, i.e. a valid baptism!

The right intention, i.e. the intention to do what the Church does, is require also: because the very signification of words and ceremony is ultimately determined by the intention of the minister. If the intention of the Church is explicitly rejected, as some Protestants do, then the lack of intention renders the sacrament invalid. Pope Leo XIII explained that for the sacrament of Holy Orders for the Anglicans: by rejecting a sacrificing priesthood, they did not have the right intention and so their ordinations were invalid. Usually the very performance of the Catholic ceremony is a guarantee that the intention is right.

The ceremony of Baptism is beautiful and source of additional graces. It starts with very important questions and answers: the priest asks: “What do you ask of the Church of God?” The catechumen answers: “Faith!” Then the priest asks: “What does faith offer you?” The catechumen answers: “eternal life!” And the priest concludes: “If you wish to enter life, keep the Commandments.” These short questions and answers embody the whole spirit and purpose of Baptism: the ultimate goal is eternal life in Heaven; throughout one’s Christian life, one must always keep such goal in front of one’s eyes. We are pilgrims here below, “exiled in this vale of tears”: “you are fellow citizens with the saints, and the domestics of God” (Eph. 2:19).

In order to go to heaven, one needs faith: so the catechumen asks the true Faith from the true Church: “What do you ask of the Church of God? Faith!” and this is what Baptism will give: it gives the infused virtues of Faith, Hope and Charity together with sanctifying grace as I explained some weeks ago. But faith alone is not sufficient, there is need of obedience to the Commandments, which are the path to heaven, hence the exhortation of the Church: “if you wish to enter life, keep the Commandments.” This is what our Lord himself had said to the young man who asked Him: “Good master, what good shall I do that I may have life everlasting?” (Mt. 19:16). Our Lord answered: “if thou wilt enter into life, keep the commandments” (Mt. 19:17).

The Novus Ordo rite of baptism has suppressed many things, and rendered these first questions and answers optional: no more asking the true Faith from the true Church; no more intending Heaven – or at least this has become optional.

Then the priest blows on the child, as a symbol of the coming of the Holy Ghost as a strong wind at Pentecost, and says: “depart from him, unclean spirit, and give place to the Holy Ghost!” Thus, one sees that there is a battle going on, a battle for the soul: God wants to save that soul, but the devil is out to deceive and lead it to perdition. Because of sin, original and actual, the unbaptised was in a certain way under the power of the devil, who does not like to lose his prey: Christ is going to deliver that soul from the power of the devil, as will be even clearer with the exorcisms.

The exorcisms are not mere prayers to God to deliver us from the devil; they are actual commands, orders, given to the devil in the name of our Lord Jesus Christ, by the minister of Christ to whom our Lord had given such power. The devils tremble in front of such exorcisms, and lose their powers over the soul of the catechumen. The Novus Ordo rite of Baptism has suppressed all these exorcisms and kept only a mere prayer against the devil; there are no more commands to him to depart.

Then the priest makes the sign of the cross on the forehead and on the heart of the catechumen, saying: “receive the sign of the Cross on your forehead as well as on your heart, receive the faith of the celestial precepts and be so in your behaviour that you deserve to become the temple of God.” Several other times the sign of the cross will be traced upon the catechumen: before the sacrament with the oil of the catechumen on the heart and on the shoulders to encourage the love of the Cross and the courage to carry it; after Baptism the cross will be made upon the top of the head with the holy Chrism to signify that the child has become a temple of the Holy Ghost. These signs of the Cross manifest that one becomes a disciple of our Lord Jesus Christ crucified, that all grace comes from the Cross and that he will have to “deny himself, and take up his cross daily, and follow Christ” crucified (Lk. 9:23). Again many of these signs of the Cross have been suppressed in the new rite.

The catechumen receives the blessed salt, symbol of incorruption and of spiritual good taste; it is also “the first food” and makes one hunger for the “super-substantial food” (Mt 6:11) which is the Holy Eucharist.

Then the catechumen enters into the church under the stole of the priest, symbol of entering the one true Church, the Catholic Church, and submission to the hierarchy of the church. The first thing he does in the Church is to profess the Creed which he has learnt in his preparation for baptism: for the children the god-parents profess the Catholic Faith in the name of the children and engage themselves to teach it to them. Indeed the true faith is the first and most fundamental bond of the unity of the Catholic Church. This is the faith that the catechumen will have to uphold during his whole life and put in practice. Then the catechumen recites the Our Father, which is the model of all prayers, because the Catholic life is essentially a life of prayer and friendship with God as children of God. He will have to use this prayer every day.

Then there is the triple renunciation to Satan and triple profession of Faith. This is most important: we must remember, especially in times of temptation, that once for all we renounced all these seductions of the devil; we said a resolute NO to sin. We must renew this when the devil tempts us: “I do renounce Satan; I do renounce his works; I do renounce his deceits.” I renounce Satan, because I chose resolutely for God: Yes to God, No to the devil!

There are many other beautiful prayers, which it would be too long to explain in detail. Just let me add that after baptism, we are given a white garment, symbol of the purity of our soul, and we are admonished to keep it unstained until the Tribunal of Christ, that is, until the end of our life when we shall be judged. Blessed are they, who, like St Thérèse of the Child Jesus, keep in their soul the innocence of their baptism! Those who lost it have to use the Sacrament of penance, and do real penance to recover it; but it is better and more pleasing to God not to lose it! This white garment is a reference to the “wedding garment” that the King expects for those admitted in the banquet hall of the wedding of the Son of the King (Mt. 22:11-12).

Lastly the baptised is given a burning candle, symbol of the light of faith and fire of charity that have just been enkindled in his soul: “receive this burning candle; keep thy baptism beyond reproach; keep the Commandments of God so that, when the Lord comes to the wedding feast, thou may be able to be admitted in His presence with all the Saints in the heavenly courts and live for ever and ever!” Thus the baptism ceremony which started with Heaven as its purpose ends with Heaven as its ultimate reward.

By baptism, we become children of God, members of Christ, and thus children of Mary. Our Lady adopts all the baptised as her children and has a very special care for each of us. Let us live as children of Mary, so as to please Her Son our Lord Jesus Christ!

Let us always remember our baptism: I am baptised, I cannot live as a pagan! I must live in a manner worthy of our baptism, as a worthy member of Christ, giving honour to Christ our Head, by imitating his virtues and living “through Him, with Him and in Him” unto the glory of the Father in the unity of the Holy Ghost for ever and ever. Amen.



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】