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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ、旧典礼のミサ)の報告:聖霊降臨後第18主日「中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』とおおせられた。」

2018年10月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年9月23日には東京で聖霊降臨後第18主日のミサを行いました。

 聖伝のミサにあずかった方が、福音のイエズス様の御言葉「中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』とおおせられた。」を黙想して、報告を下さいました。

「家に帰る」とは、パライソへ参ること。天国が自分のほんとうの帰る家だから。
「中風の人」は、巨大な血栓ために聖寵の血液が正常に流れず、脳細胞にも血液がうまく行かず、体が麻痺し、判断も正常にできなくさせている状態。御聖体に対する不敬や、超自然の聖寵の命の軽視、使徒継承の聖伝の教えからの断絶によって、血栓が生じている。だから、心を天高く上へ上げることができず、床に伏せている。

私たち自身が、この中風の病から、治されますように!立ち上がって、自分の帰る家を思い出して、心がいつも天へ向かうことができますように!いつも主の現存を思うことができますように!
御聖体とカリスが高く掲げられた時、中風のような私たちに、どうぞ「起きて、床をとって家に帰れ」とおおせください!
いつの日か本当の家であるところの天国に行くことができますように!

愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
Ave Maria Immaculata!

ごミサの報告をさせていただきます。三週間ぶりだったのでとても待ち遠しかったです。それなのに報告は遅くなりましたことすみません。

『中風の人に向かい、「起きて、床をとって家に帰れ」とおおせられた。』

聖福音のなかの家へ帰るというのは、実は天国へ参りましょうという意味だということを伺ってハッといたしました。パライソへ参ろうといっていたという殉教者の言葉を思い出します。

日本の殉教者が、各地で、ごミサをあげてくださる司祭が少ないのも関わらず、ご聖体のうちにまことにましまし給うイエズスは賛美されさせ給え、と唱えながら殉教されたということを伺ったばかりでした。当時日本には、聖寵を与えられてよい霊的恵みをいただき、カトリック信仰を生きるとはどういうことかをよく理解していたカトリック信者が、おられたのだと感じられました。

奇跡を行うというのは、肉体の病を直して身体の健康を取りもどすということ以上に、霊魂の病を治して天国が自分のほんとうの帰るところだとわかることができることだとわかりました。

主はこの時、中風の病に伏せっていた人に向かい、奇跡をおこなわれたのですね。ずっとこの言葉を思いめぐらしていて、私は、この中風の人とは現代の迷えるカトリック教会なのではと思いました。

日本語で対面式の新しい形式のミサは、プロテスタントの考え方が色濃く反映されてしまっているものだということを理解できるようになり、プロテスタント風のミサは、カトリック信者を、中風の病に陥らせてしまうのかもしれないと思ったのです。

今は、中風という病気は、悪玉コレステロールが、血管にへばりついて、血管に血栓ができて、その血栓が移動して、脳の中の細い血管に移動していってそこで血管が詰まり、血液が流れなくなり、脳細胞が死んでしまうことで起きると言われています。その脳細胞のある部分に対応する四肢などが動かなくなります。他にも、血液の汚れは、また脳の認知機能が衰えてしまって、記憶がなくなったりよく考えたり理性的な判断ができなくなってしまうことにもつながるともいわれているようです。このようなことを、いまや、お医者さんでなくても普通の人でも知るようになりました。

日本中のほとんどのカトリック共同体では、パライソへ参ろうと、いう言葉も、殉教時代の過去の言葉と思っているかもしれません。御聖体にたしかにいらっしゃいますイエズスさまへの公然の不敬もなされていて、何かの断絶があるのでしょうか。

どの宗教でも救われるという教えに変えられたそうですから、このようなことを、ないがしろにするようになってしまったのでしょうか。それに、安易な優しさからからかもしれませんが、誰でも亡くなった方は天国へ行かれたという話が普通になされますので、洗礼を受けなければならない理由も周囲にもあえてはっきりと話されないように思います。

現代の日本のカトリック教会の中に、巨大な血栓ができてしまっていて、正常に聖寵が流れなくなってしまい、脳細胞にも血液が行かなくなって、酷い中風のような判断も正常にできなくなっているような、そんな、こわいことが起きているのではと、心配です。

悪さをするのは、悪玉コレステロールというそうですが、正常な行いをすることができなくなっていくのではと、怖いです。

教会にはいり込んだといわれる悪玉コレステロールが、これほど中風の患者を生みだすようになるとは、です。

計り知れない障害が、カトリック信者を麻痺させているように思われます。心を天高く上へ上げることができず、床に伏せているといってもよいくらいに。

「大通り、路地、野原で、おなかがすいているのに食べ物が何もないので泣いている人たちがたくさんいるのが見えない?」という聖ヤシンタの言葉も思い出されてしまいます。自分たちにはもう本当の霊魂の食物が与えられなくなっていることすらわからなくなっている憐れな子どもを、マリアさまは、見せてくださったのでしょうか。マリア様もどれほど、お悲しみでしょう。

でも私はそのように考えてから、なんとなく居心地の悪い思いがおさまらなくて、しばらくもう一度考えておりました。そしてようやく自分自身の生活スタイルがどんなにひどいかを反省することができました。恥ずかしいことです。自分の中にこそすっかり入り込んでしまっている悪玉コレステロールの数値を下げるように、これから努力しようと思います。

私自身が、この中風の病から、治されて、立ち上がって、自分の帰る家を思い出して、心がいつも天へ向かうことができますように、いつも主の現存を思うことができますように、と思います。

つい、ロジックにひっかかってしまい、自分のことを振り返り反省することを怠っていたように思います。これこそまさしく私の中に悪玉コレステロールを生みだしていたものにちがいありません。、

ごミサの中でイエズス様はまことにいらっしゃいます、その時イエズス様が私に、起きて床をとって家に帰れ、と言ってくださいますようにと思います。

ご受難を受けられたイエズス様のお姿が、高く掲げられた御聖体とカリスをとおして、心の眼に見えますとき、その時流される血によって私の病は癒されることを信じます。哀しくもその時のイエズス様とマリア様のお苦しみを私はあまり感じることができないのですが・・。

そうしたらわたしは、まずしい供え物の小さな犠牲を主にお捧げして、主の神殿に入って深く主を礼拝することでしょう。いつの日か本当の家であるところの天国に行くことができて、光栄の主を讃え礼拝することができますように。

「起きて、床をとって家に帰れ」という御言葉からこのようなことを黙想するとは思いもよらないことでしたが、イエズス様のいらっしゃるところまで自分の身を運んでいくことがどれほど大切かということを教えられた思いです。

このような聖伝のミサに一回でも多く与ることができますようにと思います。そして、そのミサの中では、聖ピオ十世会の司祭のためと家族・友人・自分のことだけのみならず、日本の回心のためにもよく祈りたいと思います。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ブログに、『聖体の黙想』テニエール著を掲載して下さりありがとうございます。
9月15日の七つの御悲しみの祝日に、最後の101回目の涙を流されて、共贖の玄義の啓示を完成された、秋田のマリア様。
主のおもてをぬぐい、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか。十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母にならう人はいないのか。
マリア様と共に、“ecce ancilla domini”と言う事ができますように。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
聖マリアの七つの御悲しみとともにお祈りいたします。
カトリック教会を離れたのは、むしろ新しい流れに誘おうとしたものに騙されたものたちのほうだと、この「聖体の黙想」聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化であるをしながら思いました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

公教要理の時間の報告です。

この日は、フランスから、聖ピオ十世会の韓国出身の修道女のシスターマリア・ヨゼフが、来てくださっていました。

午後の公教要理の時間には、スライドショーが用意されていて、アグネスさんのお声で聖ピオ十世会修道女会の修道院の説明を聞くことができました。

フランスから帰国されていた夏のバカンスの間、私たちのためにたいせつな時間を費やしてくだったことでしょう、アグネスさんに心から感謝いたします。

この時の聖ピオ十世会修道女会のスライドでのご案内のことをちょっとだけですが、まとめてみました。(間違えていましたら、すみません。)

修道会の創立者は、マルセル・ルフェーブル大司教様と妹君のマリー・ガブリエル修母様で、その霊性は、聖なる犠牲のミサ聖祭への献身であり、司祭を助けること・とりわけ祈りによって司祭職を支えることであり、守護者は共贖者なる聖母と聖ピオ十世でいらっしゃるとのこと。

そして、真のカトリック要理の教育のために、フランス語での「ファチマの聖母の通信教育カテキズム」が修道女によりおこなわれて、今は英語とドイツ語にも訳され世界中に1500人の生徒がいるとのこと。いつか日本語でもそのような通信教育が行われるようになればよいなあと思わず思いました。

18歳から30歳までの方なら、修道女への志願ができるとのこと。現在は、フランス(ルフェック)・アメリカ(ミネソタ)・ドイツ(ゲッフィンゲン)・アルゼンチン(ピラール)の4つの国に修練院があるとのこと、それはフランス語圏・英語圏・ドイツ語圏・スペイン語圏に住む志願者に対応するものということです。ミネソタの写真は雪景色のものでしたが、冬は-40から-50度にも下がりとても寒いのだそうです。

そして毎日の生活の様子が紹介されて、誓願を立てるまでのことなどもご紹介くださいました。早朝からの祈禱と黙想とミサ聖祭、それから共同体での日常の種々の仕事を分担して行い、様々な授業を受け、レクリエーションの時間も過ごされ、ご聖体礼拝の時間やロザリオその他の祈りで一日を終えられるとのこと。

今は、誓願を立てた修道女が175人以上10の国の26の使節で働いていらっしゃるそうです。

印象に残ったのは、司祭が祭壇上で十字架の犠牲を新たにするたび、修道女たちは、聖母の十字架のもとでの共同受難を、・・・つまりイエズス様とマリア様が、現代の霊魂のために耐えておられる苦しみを分かち合う・・司祭職と司祭職の内に生き給う私たちの天主イエズス・キリストに仕える・・というこの修道会の霊性のことです。これこそ誓願を立てて自分を奉献することの意味なのだなぁと感じつつ、その道の崇高さ険しさも想像いたしました。

シスターご自身のお話によるものですが、誓願とはイエズス様にすべてをあたえることであり、自分の自由意志を与える従順の誓願、自分のからだを与える貞潔の誓願、自分の所有物を与える清貧の誓願を立てられて、その婚姻の徴に指輪を身につけていらっしゃるのだそうです。そして、この世に死んでいるという意味で黒い喪服のような修道服を身につけられているとのことでした。でも、シスターの修道服姿、とても可愛らしかったです。

本当の奉献をしたいと望む召命がある方は、この聖ピオ十世会修道女会に招かれるだろうと思いました。観想と活動が合わせられているような使徒職の紹介に、このような霊性のところで修練することができれば、完徳をめざしてなおかつ司祭を助けて働くという、”イエズスとマリアのみ心に忠実な信仰生活”を送ることができるのではと思いました。

素晴らしいことに、スライドショーの画面と音声での紹介だけでなく、実際に誓願を立てられ長年働かれていらっしゃるシスターがいらしてくださっていましたので、聖ピオ十世会修道女会の聖なる香りが印象がいっそう強く刻まれたように思います。

質問などにもお答えくだり、修道会のお年寄りの生活のことについての質問がありました。

シスターからは、「聖ピオ十世会修道女会には、まだ老後の問題はありません、みなとても若い修道女ばかりですから。これまでに亡くなられた修道女はまだ三人しかいません。マリー・ガブリエル修母さまと、若い二人の修道女の方々ですが、同じところに眠っています。でも、今から将来の老後をすごすためのケアハウスも建設中?です」と、お答えくださいました。

シスターマリア・ヨゼフ修道女は、とても快活で明るくて、非常に私たちのことを常に気遣ってくださるやさしい方でした。

シスターは、ご両親が敬虔な仏教徒であったにもかかわらず、(おそらく20歳の頃よりずっと以前に)カトリックに導かれて、とても若いうちから修道生活を志したということを伺いました。そして、彼女の熱心な祈りでご両親や周りの方々も受洗されたことを伺い感動しました。小野田神父様は、叙階されてすぐ韓国にも宣教に通われ始めたのではと想像するのですが、小野田神父様の熱心な宣教活動がこのよう実りをアジアにもたらしてくださったと思いました。今では韓国ではたくさんの司祭の召命もあり、なお神学生の希望者も多いと伺います。聖ピオ十世会の司祭の宣教を支えることが、どんなに大切で必要なことか感じさせられました。

シスターは英語・フランス語・韓国語を話されるのだと思いますが、さらに日本語も幾つか憶えて来てくださっていて、私たちとの意志疎通を図るためにとても努力をしてくださったことに頭が下がりました。

最後に一緒に写真を撮らせていただきましたが、本当にいつも笑顔で微笑んでいらっしゃるのが印象的でした。

素晴らしい機会を設けてくださいまして、ありがとうございました。

日本からも司祭と修道者の召命がたくさんありますように、もっといっそうのお祈りをいたします。


【参考記事】
ルフェーブル大司教の従順:自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。
「私たちは教会から離れたくありません。その全く反対です。私たちは、カトリック教会を続けたいのです! 自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。・・・ 将来、真理が再び明らかになることでしょう。私たちはそれを確信しています。それ以外では有り得ないからです。天主様は、ご自分の教会をお見捨てにはならないからです。」
(ジュネーブにおいての説教1978年5月15日)





THE SISTERS OF SAINT PIUS X 聖ピオ十世修道女会

聖ピオ十世会のシスター会

聖ピオ十世会のシスター会 (Sisters of the SSPX) 誓願式 アメリカ


聖心の小黙想会-2 2018年8月11日霊的講話【1】 「イエズス様は私たちに真理を教えて下さる」

2018年10月02日 | お説教・霊的講話
2018年8月11日(土)イエズスの聖心小黙想会
小野田神父 霊的講話【1】
「イエズス様は私たちに真理を教えて下さる」


人類は、真理を知らずに、罪を犯し、苦しみの中に真っ只中に浸かり込んでいます。人類の代わりに、人類の名前によって、いけにえを捧げてくれる誰かを必要としています。

ちょうど、エルサレムの神殿にいたにもかかわらず、「エルサレム」という聖なる街にいたにも関わらず、道を間違えて、罪の街に行ってしまうような、そしてその道の途中で悪魔に襲われて半死半生になってしまった、そんな、そして捨てられて、傷付いて、自分の手ではどうしても何もする事ができない状態になっているかのようです。

そんな暗闇の中にいる人類に、イエズス様は光を照らして、そして人類を教えようとします。

今のこのお話では、黙想では、「イエズス様が私たちにどうやって真理を教えて下さるか」という事を黙想致しましょう。

ではイエズス様は、どうやって私たちを教えられたのでしょうか?

イエズス様は真理そのものでありますし、天主の知性でもあります。永遠の知恵であります。ですからイエズス様は、勉強したりとか、努力したりとかする必要もありませんし、学校で先生から何か教えてもらう必要もありません。イエズス様は無限の真理を持っています。しかしこの永遠の天主の光は、よく見ると、まず30年間、沈黙の内に準備をしました。人々を教える為の準備をしました。「イエズス様はもう少し早く教えて下さればよかったのに。」しかしイエズス様は30年間、12歳の時を除いて、公に教えようとはせずに、祈りと、従順と、隠れた生活で準備をします。もしかすると日本でも30年間必要なのかもしれません。イエズス様はこの御自分の模範を以て、「どれほど準備が必要であるか」という事を教えられているのかもしれません。

一方、当時の世界は、ちょうど今の日本と同じように、闇の中と誤謬の中に包まれていました。ユダヤ教でさえも、異教の考えが浸透してしまいましたし、ギリシャやローマなどの多神教や、あるいは肉体崇拝や、あるいはサーカスとスポーツと音楽とお金と快楽を求める風潮が染み通りつつありましたし、唯一の天主への愛というものは、ユダヤ教の中でさえもますます失われつつありました。それ以外のところではもう目も当てられません。奴隷と奴隷とが戦うのを殺し合うのを見て楽しんだりとか、そのますます暗黒の中に陥る人類を、イエズス様は、光の中の光、真の天主よりの真の天主は、教えようとします。

ちょうど今の世界も、YouTubeではイスラム教が身代金を要求して、そして誘拐した人を殺害するのを放映したりとか、あるいは不潔なものがあったりとか、映画とか読み物とか、2000年前の異教の世界よりもますますひどくなっているように思われます。

イエズス様はその中で、真理を教えようと来られました。イエズス様が教えようとする事は、まず、「天主様が人類に対して権利を持っている事」「創造主として人類に要求する権利がある事」「人間は天主に従う義務がある事」を、イエズス様は教えます。同時にイエズス様は、「天主の憐れみと人間の哀れさ」について教えてくれます。

イエズス様が、メシアが、救い主が、人類を教えるという事は、その当時の人は知っていました。ユダヤの人は知っていました。ユダヤ以外の人も知っていました。サマリアの罪の生活をしていた、結婚もせずに同棲生活をして、色んな男を取り替えては、罪の深い、かわいそうな女性さえも知っていました。「私はキリストと言われるメシアがおいでになる事を知っています。その方が来られれば、全ての事を知らせて下さるでしょう。」

イエズス様の使命は、闇に、深い闇の中に留まる霊魂たちに教える事でした。天主について人類に教える事でした。天主の知識を与える事でした、天主に関する知識を与える事でした。天主がこの世の創造主であって、私たちの聖父であって、聖なる方であって、正義の方であって、絶対の権力を持っていて、絶対の力を持っていて、私たちがそれに従わなければならない、その御旨を果たさなければならない、という事を教えなければなりません。と同時に、イエズス様は私たちに、この「天主がとても良い私たちの聖父であって、無限の憐れみを持って私たちを愛しておられる」という事を啓示しなければなりません。

イエズス様は言います。イエズス様はその使命を知っていました。ですから御自分の模範を以て、実際の生活を以て、それから生活を以て示した後には、自分の御言葉を以て、その事を教えなければなりません、「私は世の光である。私に従う人は闇を歩かない。永遠の命を持つだろう。私はこの為に生まれてきた。真理を証明する為に。真理からの者は全て私の声を聞く。」

そしてイエズス様がこの真理の声を、優しい謙遜な御声を、3年間、この世界の片隅のガリレアとユダヤの片隅で御話になったその言葉を、全人類は聞かなければなりません。イエズス様が御生涯を以て、御言葉を以て教えて下さった事は、この世の教えとは全く正反対の事でした。この世から見たらイエズス様の教えは、全くの愚かさに見えて、狂気のように思えました。とても受け入れる事ができないとさえ思われますが、しかし真理は真理のまま留まります。

たとえこのか弱い声のように思われても、最後には勝利を収めます。決して負ける事がありません。なぜかというと、真理は天主から生まれたものであって、永遠のものだからです。変わる事がないからです。

イエズス様は御自分の模範と御言葉を以て、全ての人に教えました。小さな子供たちから、ユダヤの先生ラビや、律法学士たち、貧しい人々にも、お金持ちにも、若い人にも、年寄りにも、女性にも、男性にも、大司祭たちにも、サマリアの婦人にも、イスラエルの師であったニコデモにも、イエズス様は深い真理を教えました。

律法学士や司祭長たちには、イエズス様は律法と預言者と聖書について教えました。でも一般の民衆に対しては、イエズス様は単純な、あるいは素朴な近付きやすさを以て、例えを以て教えました、「天の国は、種を撒く人と似ている。」「天の国は、芥子種と似ている。」「天の国は、ぶどう畑と似ている。ぶどうの木と似ている。」

イエズス様のこの教えを見ると、下品な事は1つもありませんし、奥が非常に深いにもかかわらず、かといって難しくて何を言ってるのか分からない、という事もありません。そのレベルに合わせて、分かりやすく、明確に、単純に、でも深い教えを教えて下さいます。

イエズス様が口を開いて教える時には、威厳がありますし、慎み深い、とても優雅なものです。とても高貴なものです。そしてたとえ非常にデリケートな話をする時にも、正確に話しつつも、しかし子供が聞いても別に恥ずかしい思いをする事のない、とても慎み深い話をします。とても賢明であって、誰もが信頼して近付いて耳を傾ける事ができる、2000年経っても、決して古びたり、つまらなくなったりする事のない、深い教えを教えています。

イエズス様は、かといって教えた事を皆がすぐに理解したとは限りませんでした。分からなかったり、理解できなかったりとか、弟子たちさえも非常に理解が遅い、という事にも出会いました。

でもイエズス様は非常に忍耐強く、また「もうダメだ、何度も教えてもこいつらは頭が固いから」と言う事もなく、聞く人たちが非常に野蛮で、乱暴で、下品で、あるいは反対をしたり、批判したり、攻撃したり、罠にかけようとしたとしても、イエズス様は忍耐強く、彼らを優しく取り扱います。何とかして光を当てよう、何とかして教えを導こうと思っていました。

イエズス様は、自分の栄光とか、自分が褒められようとか、自分が何か「すごいですね、先生」というのを求めたよりは、この「霊魂たちが真理を知る」という事だけを追求していました。天主聖父がより良く知られて、より良く愛されて、より良く尊敬を受ける、従順される、という事だけを追求していました。

イエズス様の教えは、この世の教えとは全く反対だったので、あるいはこの世が受け入れる事ができないような厳しいものも含まれていたので、この教えを言う事によって、教える事によって、人々は自分の元を去る、という事も知っていました。また、せっかくこう教えたにもかかわらず、その御言葉を根こそぎ取ってしまって、捨ててしまう人々がいる、という事を知っていました。でもだからといって、真理を薄めたりとか、ちょっと色を付けて、あるいは変えて伝えたりとか、この世の人が飲み込む事ができるようにちょっと甘くして、という事はありませんでした。イエズス様は妥協する事もなく、この世のやり方で教える事もなく、自分の利益を追求する事もなく、教えていました。

弟子たちにはこう言います、「私があなたたちを送るのは、羊を狼の中に入れるようなものだ。だから蛇のように聡く、鳩のように無邪気であれ。」

もしも罪を犯すような人がいても、その人のもちろん名前を出した事もなし、あるいは誤謬を間違った事をしている人を指差すような事もしないにもかかわらず、しかし悪を悪とちゃんと言っていた、非常に賢明に知恵深くお話されて、行動されていました。議論で打ち勝って何か優越感を得るというよりは、何とかして真理が心に響くように、人々が罪を忌み憎んで、そこで聖徳の生活に移るように、と優しく話しておられました。

イエズス様は、こう何か強制的に、この世的にこの世を改革しようとスローガンを立てる、というよりは、御恵みによって、天主の御憐れみによって、こう優しく、こう世の中を聖化しようと行動しておられました。

では、イエズス様の教えが私たちの心に響き渡りますように、15分ほど黙想致します。

教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ【その15】

2018年10月02日 | ルフェーブル大司教の言葉
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

ルフェーブル大司教の公開書簡 その15



第15章 教会と革命の結合


革命とは「憎しみ」であり、「人間によって制定されることのないあらゆる秩序への憎悪、人間自身がそこにおいて王でもなく神でもないあらゆる秩序への憎悪」ですが、その起源に傲慢があります。傲慢はアダムの罪の原因でもありました。

教会における革命は現代の傲慢によって説明されます。現代は新しい時代であり、人間はついに「人間のすぐれた尊厳についての自覚」をもったと思っています。現代、人間は自分自身をますます自覚し、「真の社会的、文化的変質について論じることができ、それは宗教生活にまで及んでくる。・・・歴史の経過そのものも、動きが早く、かく個人がそれについてゆけないほどである。・・・要するに人類は、静止的世界観から動的・進化的世界観に移行したのである。そこから膨大で複雑な、新しい課題が生じ、それは新たな分析と総合とを要求している」と考えているとされます。ここで引用した感嘆の言葉は、その他の似ている言葉と共に、『現代世界憲章』の前置きで言われていますが、福音の精神に立ち戻ることについては悲観しています。多くの動きと変革の中で、福音が生き残るのは難しいと見ています。

次の文章はどう理解すべきでしょうか?

「工業形態の社会がしだいに広まり、・・・社会生活の概念と条件とを根本的に変えつつある。」

これは人々がそれの生じることを待ち望んでいたが、それが確かに起こったと言っているに他なりません。つまり、教会の社会教義に従うキリスト教的概念とは全く無関係の社会概念が生じた、ということです。それを前提条件にすれば、もはや新しい福音、新しい宗教にまで導かれるしかないでしょう。次を見て下さい。

「信者は同時代の人々と密接に結ばれた生活を営み、文化を通して表現されるかれらの考え方や感じ方をよく知るように努力しなければならない。現代の科学と学説および新しく発見された知識を、キリスト教の道徳と教理に結びつけることによって、宗教心と道徳感とが科学知識や絶えず進歩する技術と同じ歩調で進むようにしなければならない。こうすることによって信者はあらゆるものを真正のキリスト教的感覚をもって評価し解釈することができる。」(『現代世界憲章』62の2)

聖福音は私たちに邪悪な教えを避けよと教えているのにもかかわらず、『現代世界憲章』では何と変わった勧告をしていることでしょうか! この文章は二様のやり方で理解することができるじゃないですか、とは言わないようにして下さい。何故なら現行の要理書はスキレベークスがそう理解することを望んだように解釈しています。つまり新しい要理書は子供達に、無神論者らの言うことを良く聞くことを勧めています。何故なら、無神論者らからは多くを学ぶことができるし、そもそも天主を信じないことについては彼らには彼らなりの理由があるし、それを知るのは実りがあるから、だそうです。

『現代世界憲章』の第一章の最初の文章はこうです。「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならないということについて、信ずる者も信じない者も、ほとんど意見が一致している。」この言葉は、それに続く文章によって、キリスト教的な意味に解釈されるということもできます。しかしながら、この文章はそれ自体で一つの意味を持っており、公会議後の教会では至る所で、まさにその意味でのみ使われているのを見ます。つまり人類の経済的・社会的開花に還元された救いの形でのみです。

私にはこう思えます。もしも信者が無信者との対話において共通の基礎としてこの命題を認め、そしてキリスト教の教えと新しい理論とを結合させるとすると、信者は多かれ少なかれ信仰を失うことでしょう。教会の黄金律は、現代の人間の傲慢によってひっくり返されました。キリストの常に生きており豊饒な御言葉を聞くのではなく、この世の言うことを聞くと言うことになっているからです。

このアジョルナメント(現代化)は自己矛盾を犯しています。現代の混乱の根元は、近代の、というよりもむしろ近代主義の精神にあるのです。何故ならこの精神は、使徒信経、天主の十戒、教会の掟、秘蹟、キリスト教道徳こそが、世の終わりに至るまで全ての時代に有効な刷新の唯一の源であるということを認めるのを拒んでいるからです。「科学技術の進歩は地球の表面を変え、宇宙の征服にまで乗り出した」(『現代世界憲章』5の1)と幻惑され、教会の指導者たちは(私たちは彼らを教会それ自体と混同してはなりません)私たちの主イエズス・キリストでさえも、現代の技術革命に優ることが有り得ないし、従って、キリストのメッセージもそれには適応されない、と考えてしまっているかのようです。

リベラル派が一世紀半も前から抱いていた夢は、教会を革命と結婚・合体させることでした。そして同じく一世紀半の間、教皇たちはこのリベラルなカトリック主義を排斥し続けました。それらの最も重要な教皇文書のうち幾つか例を挙げれば、ピストイア公会議を排斥したピオ6世の大勅令『アウクトーレム・フィデイ』、ラムネーを排斥したグレゴリオ十六世の回勅『ミラーリ・ヴォス』、ピオ九世の回勅『クァンタ・クーラ』と『シラブス』、新しい権利の概念を排斥したレオ十三世の『インモルターレ・デイ』、シヨン運動と近代主義を排斥した聖ピオ十世の教皇文書、とりわけその教令『ラメンタビリ』、共産主義を排斥したピオ十一世の回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス』、教皇ピオ十二世の回勅『フマニ・ジェネリス』があります。

全ての教皇たちは教会と革命との結婚を拒否してきました。何故ならそれは不倫な結合であり姦通だからです。姦通からは私生児しか生まれないからです。新しいミサの様式は私生児的な様式であり、新しい秘蹟も私生児的秘蹟となってしまいます。ですから私たちはもはや秘蹟が本当に聖寵を私たちに与えているのかいないのか分からなくなっています。新しい神学校を卒業した司祭たちも、私生児的司祭です。何故なら彼らは自分が何であるか知らないのですから。彼らは祭壇に登り、私たちの主イエズス・キリストのいけにえを捧げ、イエズス・キリストを霊魂たちに与えるために司祭になったということを知らないのですから。

革命の名前によって、司祭たちはギロチン台に送られました。修道女たちは迫害され暗殺されました。革命中、教会に忠実だったために殺された司祭たちを全て集めて乗せていたナントのはしけがその重さでみな押しつぶされて沈んでしまったことを思い出して下さい。革命がしたことは第二バチカン公会議がしたことと比べれば何でもありません。何故なら、司祭職と自分らが天主の前でした宣誓をうち捨てた二万あるいは三万の司祭たちが、ギロチン台に上り殉教していたほうがもっと良かったからです。何故なら彼らは少なくとも自分の霊魂を救うことになったからです。しかし、司祭職や天主への誓いを捨てることにより、彼らは今、自分の救霊を危険にしているからです。

この結婚した哀れな司祭たちですが、聞くところによると、その多くがもう離婚している、あるいはローマに婚姻の無効を申請しているそうです。これを第二バチカン公会議のよい実りとでも呼ぶのでしょうか? アメリカ合衆国だけでも二万名の修道女らが(その他の国々を合わせたらいったいどれ程大きな数になるでしょうか!)、イエズス・キリストと自分とを結合させる終生誓願を放棄し、結婚しました。もしもこれらの修道女たちがギロチン台に上っていたなら、彼女たちは少なくともその信仰を証できたはずです。殉教者の血潮はキリスト者の種です。しかし司祭らや平信徒たちがこの世の精神と合致しては、何の収穫も刈り取ることができません。殉教者を作らずに教会を破壊する事業をしたのは、悪魔の最大の勝利です。

教会と革命との姦通は「対話」によって性格付けられます。私たちの主イエズス・キリストは「行って、諸国に教えよ、彼らを回心させよ」と言いました。イエズス・キリストは「諸国と対話をせよ、彼らを回心させようとしてはならない」とは言いませんでした。

誤謬と真理とは共存することができません。誤謬と対話することは天主と悪魔とを同じレベルに置くことです。これは教皇様たちがいつも何度も繰り返していったことです。そしてこれはキリスト者が教皇様の言うことを容易に理解していたことです。何故ならこれは常識の問題でもあるからです。

或る態度や違った考え方を押しつけるために、頭脳に働きかける必要がありました。それは聖職者達を近代主義者に作り替えるために、彼らが新しい教えを伝播するためでした。これが「再教育」と呼ばれるものです。これで天主が人間に与えた判断をする機能をあたらしい型にするために条件付けるのです。

私は、自分の修道会の中で、まだ私が修道会の総長であったこの種の作業がなされているのを知る証人です。修道者にまず要求することは「変化を認めること」です。第二バチカン公会議は変化を受け入れた、従って、私たちも変わらなければならない、というものです。恣意的に作り上げた観念を私たちの理性の機能とこじつけて合わせるために、理性の働きを変えなければなりませんから、これは奥の深い変化です。私たちはこのことについて、パリ大司教区の事務所が発行した小冊子『信仰、その一言一言』に読むことができます。

「第二の作業は、もう少しデリケートであり、この様々な変化に置いて変化それ自体のことを評価するキリスト者がもつ様々なやり方を測定することにある。この測定をすることは、変化への反対は、変化のショックという賭けというよりも、変化を前にしてキリスト者がどのような態度を自発的にまた無意識に取るかということに関わる故に、極めて大切である。

典型的な二つのタイプがあるように思われる。ただしこの両者の間にまたがるあらゆる種類の中間的形態をも無視してはならない。第一のタイプは、新しい事態を一つずつ受け入れなければならないと判断し、一定の変化を受け入れていくタイプである。これは多くのキリスト者、多くのカトリック信者のケースで、彼らは段階を追って譲歩していく。

第二のタイプは、使徒達の信仰に忠実であると絶え間なく保証している限り、最新の文化的時代の幕開けにおいてキリスト教信仰の形式の全部をそっくり革新することに同意するタイプである。

このような口先だけの注意を払いつつ物事を進めるのは、近代主義者らの伝統的なやり方です。近代主義者らはつねに自分たちが正統であることを主張し、「最新の文化的時代の幕開けにおいてキリスト教信仰の形式の全部をそっくり改革する」などという見通しに恐れをなしてしまうような霊魂たちに、ちょっとした言葉をもって安心させるのですが、その策略に身を委ねてしまった時には既に時は遅すぎるのです。確かに将来的には、使徒達の信仰を云々する時が来ることでしょうが、その時には信仰を完璧に破壊し尽くされてしまっていることでしょう!

第三の作業は、もしも第二のタイプをその場に引きとどめる場合に必要になります。

「キリスト者は、信仰を危険にする虞があることをそこで感じとらぬわけにはいかない。信仰はそのまま消え失せてしまうのだろうか? それと同時に彼をこのポイントまで導いてきた問題も共に消え去るのだろうか? キリスト者は、とってこの初期の不毛な態度を乗り越えることができるようにする根本的な保証を求めるようになる。」

この小冊子は改革に反対するありとあらゆる抵抗があることを想定しています。では最後にこの新しい信者にどのような「根本的な保証」を与えるのでしょうか? それは聖霊です。「聖霊こそが、歴史の流れにおいて信者を導くものである」と言い含めるのです。

これで目的は達成されました。これでもはや教導職もなく、教義もなく、教会位階制度もなく、天主から息吹かれた文書であり歴史的に確実なものとしての聖書もなく、ただキリスト者は聖霊によって直接に息吹かれるとされでしまうのです。

その時、教会は瓦解します。再教育を受けたキリスト者は全ての影響に身を委ね、ありとあらゆるスローガンに恭順するものとなります。再教育を受けたキリスト者は、人が望むところに連れて行かれるでしょう。もし彼が保証を求めるなら、こう断定すれば彼は変化にしがみついてくるでしょう。「第二バチカン公会議は、問題提起の変化について多くの指標を確かに見せています。」

聖ピオ十世は回勅『パッシェンディ』の中で近代主義の「近接的、直接的原因が知性における誤り(=精神の不健全さ)である」と言っています。再教育は、それを受けていないものには存在していなかった、パッシェンディの言うような精神の不健全さを創りあげます。

聖ピオ十世は、前任者グレゴリオ十六世の言葉を次のように回勅で引用しています。

「理性が新奇なものを求める精神に屈するとき、使徒パウロの警告に反して、それが本来知るべきものよりさらに知ろうとするとき、また、自ら [の力] を過信し、真理が誤謬のわずかの陰さえも被らずに見出されるカトリック教会の外に真理を見出すことができると考えるとき、人間の理性の逸脱は見るに堪えない光景を呈します。」(グレゴリオ十六世 回勅『シングラリ・ノス』1834年6月25日)

ルフェーブル大司教 公開書簡 「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ 全23章」

第1章. なぜ今カトリック者たちは、困惑しているのか。原因は、カトリック教会に侵入した新しい精神。それは教会の過去の教えと生命とを疑問視させる。
第2章. 私たちの宗教は変えられようとしている!
第3章. 典礼改革:ミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられている。非神聖化。聖なる物の喪失。
第4章. 永遠のミサと現代のミサ。典礼改革は意図的に犠牲を食事に変える。
第5章. 「それは昔の話ですよ!」
第6章. 洗礼と婚姻、悔悛と終油の秘蹟の新しい仕方
第7章. 新しい司祭職
第8章. 新しい公教要理
第9章. 現代の神学
第10章. エキュメニズム(キリスト教一致運動)
第11章. 信教の自由
第12章. 「同志」および「同伴者」たち
第13章. フランス革命のフリーメーソン的スローガン「自由・平等・博愛」は、第二バチカン公会議の「信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛」となった
第14章. 「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」(スーネンス枢機卿)
第15章. 教会と革命の結合:リベラル派は教会を革命と結婚・合体さようとし、歴代の教皇たちはこのリベラルなカトリック主義を排斥し続けてきた
第16章. 信仰を瓦解させる新近代主義
第17章. 聖伝とは何か:聖伝とは「数世紀を経て教導職により伝えられてきた信仰の遺産」と定義される
第18章. 本当の従順と偽物の従順:「従順」の名によって全聖伝に不従順であることは本物の従順ではない。
第19章. エコンの神学校とローマ
第20章. 永遠のミサ
第21章. 異端でもなく、離教でもなく
第22章. 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
第23章. 「作り上げること」と「壊し尽くすこと」との闘い


10月は毎日ロザリオを ― 教皇が呼びかける

2018年10月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 10月はロザリオの聖なる月です。毎日ロザリオを唱えましょう。ファチマの聖母は、私たちに毎日ロザリオを唱えるようにお願いされました。教皇フランシスコも毎日ロザリオを唱えることを呼び掛けています。

 バチカンが9月29日、発表した声明によりますと、教皇フランシスコは全世界のカトリック信者に向けて、10月の「ロザリオの月」の間、毎日「ロザリオの祈り」を唱えるよう呼びかけています

 教皇はカトリック信者に、「神の民としての交わりと悔い改めのうちに一致して、私たちを神から引き離し、仲たがいさせようと絶えず試みている悪魔からの保護」を願い、「神の聖なる母と聖ミカエル大天使に祈る」よう促しています。
 教皇は「ロザリオの祈り」の最後に、古来の聖母への祈り「Sub tuum praesidium」【(スブ・トゥウム・プレシディウム)】

“Sub tuum praesidium confugimus Sancta Dei Genitrix. Nostras deprecationes ne despicias in necessitatibus, sed a periculis cunctis libera nos semper, Virgo Gloriosa et Benedicta”.

と、

悪との闘いでの保護と助けを願って「大天使聖ミカエルに向(むこ)う祈り」

“Sancte Michael Archangele, defende nos in proelio; contra nequitiam et insidias diaboli esto praesidium. Imperet illi Deus, supplices deprecamur: tuque, Princeps militiae caelestis, Satanam aliosque spiritus malignos, qui ad perditionem animarum pervagantur in mundo, divina virtute, in infernum detrude. Amen”.

を唱えるよう勧めています。

 教皇はマリアに教会の保護を願って祈ると同時に、「教会がその罪と過ち、現在と過去に犯した虐待をより深く意識し、悪がはびこらないように、ためらいなく闘う決意を固める」ことも願っています。

カトリック中央協議会編の『公教会祈祷文』(絶版)などに掲載の邦訳の「聖母への祈り」と「大天使聖ミカエルに向う祈り」は以下の通りです。


聖母への祈り(終業の祈り)

天主の聖母のご保護によりすがり奉る。
いと尊く祝せられ給う童貞、
必要なる時に呼ばわるを軽んじ給わず、
かえってすべての危うきより、
常にわれらを救い給え。アーメン。

大天使聖ミカエルに向う祈り

大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを守り、
悪魔の凶悪なるはかりごとに勝たしめたまえ。
天主の彼に命を下したまわんことを伏して願いたてまつる。
ああ、天軍の総帥、霊魂を損なわんとて、
この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、
天主のおん力によりて地獄に閉じこめたまえ。アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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