Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年8月19日(主) 堅振式東京御説教 聖ピオ十世会 デ・ガラレタ司教様 「堅振の秘跡―3重の使命を果たすために必要なこと」

2018年10月22日 | お説教・霊的講話
2018年8月19日(主日)堅振式御説教(東京)
デ・ガレラタ司教様

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、聖ピオ十世教皇様の公教要理によると、この堅振の秘跡とは何かと説明して、「堅振の秘跡は私たちに聖霊を与え、それを受ける事によって私たちは、完全なキリスト者となり、そして私たちをイエズス・キリストの兵士とすると」あります。

そして私たちの主イエズス・キリスト御自身も、その事を説明しました。主が天に昇られる前に、御昇天のその直前に使徒たちにこう仰ったからです、「お前たちが聖霊を受ける時、お前たちは力を受けるだろう。そして私の証人として、証し人として、エルサレム、そして全ユダヤ、サマリア、そして地の果てまでも証をせよ」(使徒行録1章8節)と仰いました。

つまり堅振というのは、本質的に、聖霊御自身を私たちが受ける秘跡です。したがって、聖霊を受けて堅振を受けた者は、完全な聖霊の神殿となります。つまり私たちの霊魂と肉体において、聖霊が宿るのです。私たちはこの霊魂において聖霊が宿るので、完璧な生ける神殿となります。

使徒聖パウロも私たちに同じ事を言っています、「お前たちは聖霊の神殿であるという事を知らないのか。聖霊はお前たちの中に宿っておられる。ところで、天主の神殿というのはつまりお前たちの事であって、聖なるものである。お前たちは天主の神殿であって、聖なるものである。」(コリント前書6章19節)

堅振を受ける事によって、私たちは完璧なキリスト者となります。なぜなら、私たちに超自然の生命が、聖寵が完全に与えられ、霊魂が完成させれるからです。

したがって堅振の秘跡とは、天主の聖寵の、天主の命の増加の秘跡と言えます。こうする事によって皆さんは、完璧なキリスト者となって、そして超自然の徳においても、聖霊の賜物においても、その充満を受ける事になります。

聖霊の秘跡、聖霊の賜物を受ける効果は、私たちを強める事です。この秘跡の固有の特別の効果というのは、私たちを強め、固め、そして私たちがイエズス・キリストの為に、その証し人として、私たちを強める、という目的があります。私たちは「イエズス・キリストの証をする」という目的の為に、この堅振の恵みを受けます、聖霊の恵みを受けます。

この堅振の秘跡は、私たちの主イエズス・キリスト御自身から皆さんは受けます。なぜかというと、皆さんに堅振の秘跡を授けるのは、イエズス様ですから。なぜかというと、秘跡、七つの秘跡は、キリストの秘跡であって、司祭の職務を聖務を通して与えられるからです。

そしてイエズス・キリストは、堅振を受ける皆さんに、教会における、また社会における、3つの特別の使命・職務を与えます。それは、「証し人となる事、証人となる事」もう1つは、「兵士となる事、軍人となる事」そして、「使徒となる事」です。

1つまず第1に、「証し人となる、証人となる」という事は、私たちの主イエズス・キリストを、公に告白しなければなりません。私たちの本当の信仰を、イエズス・キリストの名誉を告白しなければなりません。特に公の礼拝と儀式に与る事によって、尊敬を表明しなければなりません。

第2に、私たちは「兵士」となります。つまり戦わなければなりません。戦闘の使命があります。これはどういう事かというと、私たちの主の権利を、天主の権利を、本当の信仰を守るという義務です。

第3に、私たちは「使徒」となります。使徒というのは、私たちの主イエズス・キリストに対する本当の信仰を伝えて、そしてそれを広めて、それを皆に知らせる、という職務です。

この今日、堅振を受けるこの日に皆さんは、私たちの主から、そして教会から、この3つの責務を使命を受けるのです。


この3つの、三重の役割、職務を、私たちはどのように務めたら良いでしょうか?

まず第1に、信仰において。つまり、「本当のカトリックの健全な信仰の教義」において、私たちはまずこれを皆の前に公に告白しなければなりません。そしてそれを守らなければなりません。そしてそれを伝えなければなりません。

「真の健全なカトリックの信仰」というのは何かというと、つまり「聖伝のカトリック信仰」の事で、永遠の教導職によって伝えられた、この変わる事のない信仰です。

聖ユダがその書簡の中にこう書いています、「私はお前たちを励まして、そして聖徒たちに聖なる者たちに、たった一度だけ伝えられたこの信仰を守る為に戦え、と励ます」(ユダ1章3節)とあります。

つまり、信仰というのは、変わる事のない変化する事のないものであって、啓示された、天主が私たちに教えられた真理です。ですからこれを守り、これを保持し、そして擁護し、これを隣人に伝えなければなりません。

「これを守る、これを擁護する」というのはどういう事かというと、特に現代、教会の中にまでも浸み込んでしまった、浸透してしまっている、自由主義、リベラリズムや、あるいは近代主義に対してです。


第2に、私たちにこの三重の務めを、単なる知的な教義を教えるのみならず、イエズス・キリストが教えた道徳の、生き方の教えに関しても、それを守る為に戦わなければなりません。

つまり、イエズス様は私たちに、「どのように聖なる一生を送るべきか」という事を教えて下さいました。私たちの主の教えを、私たちは生きなければなりません。それを生きる事によって、守らなければなりません、擁護しなければなりません。

特に現代では、この教会の中に、これに反対する教えが教会当局によって、この教えを変えてしまうような教えが入ってしまっています。特に十字架に関する、「十字架を私たちが担わなければならない」という教え、あるいは「犠牲の精神」の教え、あるいは「婚姻が唯一のものであって、聖なるものである」という教えに反対する教えが教会の中に入っているので、これを私たちは生きる事によって守り、そして教会の中のみならず、社会においても、これを擁護しなければなりません。これはそうする事によって、私たちは超自然の秩序を、キリスト教の秩序を守る事になります。

またキリストの兵士として、超自然の、しかし本物の真理の、イエズス・キリストの統治の為に戦わなければなりません。そうする事によって皆さんは、王であるキリスト、そして最高司祭であるキリスト、救い主であるキリストの御国の拡張の為に戦う兵士となります。

そしてこの為にも、私たちがイエズス様の教えた十字架の教えを生きる為にも、永遠のミサ、変わる事のないこの聖伝のミサを守って下さい。十字架のいけにえを守って下さい。

第3に、この三重の務めは、教会の中においても、教会に対しても果たさなければなりません。

つまり私たちは、「真の、一・聖・公の使徒継承のローマカトリック教会こそが、唯一、イエズス・キリスト様の立てた教会である」という事を告白し、これを守り、これを伝えなければなりません。なぜならば、なぜ唯一かというと、イエズス様の花嫁はたった一人しかおられないからです。つまりカトリック教会です。カトリック教会の外にある敵、あるいはこれを辱める、これを汚すような内の敵、内部にいる敵に対して、私たちは教会を守らなければ、擁護しなければなりません。

そして聖パウロの証言によれば、「私たちは、キリストの体を建てる、建設する協力者とならなければならない」(エフェゾ2章22節)と言います。

「キリストの体を建てる」というのはどういう事かというと、つまりキリストの神秘体であって、教会というのは、キリストの神秘体です。その基礎の石はイエズス・キリスト、そしてそれを建てる石は、生ける石である私たちです。私たちが回心してキリストの信仰に帰依し、そして聖なる一生を送る事によって、私たちは生ける石となって、教会を建てる事になります。

多くの霊魂たちを、この聖なる教えへと引き寄せるようになさって下さい。

では親愛なる受堅者の皆さん、そしてすでに堅振を受けた信徒の皆さん、この証し人、証人に必要な「徳」とは何でしょうか?

ところで証人というのは、ギリシャ語では“Martyrion μαρτύριον マルテュリオン”つまり「殉教者」と同じ単語を使っています。証人となる為には証し人となる為には、兵士となり、使徒となる者と同じ徳が必要であって、すなわち「勇気」であって、「寛大さ」であって、そして天主の奉仕の為のいつも準備ができている、またこの霊魂の力強さ、最後まで続く「堅忍」の力、そして「忠実さ」、これが必要です。この徳が必要です。

この色々な徳を受ける為に、私たちの主は特別な助けを与えて下さいました。なぜかというと、今現代に生きる私たちには、難しい時代を生きているからです。

それはどのような助けかというと、私たちの主イエズス・キリストにいつも緊密に、個人的に、友として一致している事が必要である、という事です。つまり、私たちの主は、「十字架に付けられた、キリスト御自身」を助け手として与えて下さいました。

聖パウロは言います、「十字架に付けられたキリスト、これは異教徒にとっては愚かさであり、ユダヤ人にとっては躓き、しかし天主を信じる選ばれた者にとっては、天主の知恵であり、力である。」(コリント前書1章23節)

天主の知恵であり、力である、この十字架に付けられたキリストから、私たちはその力を汲み取らなければなりません。永遠の救いにまで達する力を汲み取らなければなりません。その為に私たちは、祈りの生活を、祈りを大切にする必要があります。

アビラの聖テレジアは祈りについてこう言います、「祈りとは、私たちを愛している方と、信頼を持って語り合う事である。」

「語り合う」という事はつまり、知性を以て、そして心を込めて話す、対話する、という事ですから、私たちは知性を以て、誰と話しているかを知りつつ、心を込めて、十字架に付けられたイエズス・キリストと話をする、そうする事によって私たちは、聖徳と力を受ける事ができます。

特にその為にも、永遠のミサである、イエズス・キリストの十字架の再現であるこのミサ、聖伝のミサに特に愛着して下さい。これにピッタリとくっついて下さい。なぜかというと、たった1つのミサであっても、この何百万の多くの霊魂たちを聖化する、十分なその効果と力、十字架の力、イエズス・キリストの死の力が含まれているからです。ですからこのミサを生きて下さい。ミサにピッタリとくっついて下さい。

特に現代では、イエズス様は更に私たちに別の救いも与えて下さいました。それは「マリア様の苦しみに満ちた汚れない御心」です。

マリア様が仰るに、「私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、天主へと導く道となるでしょう」と。

「避難所」という事は、私たちがそこに居れば決して攻撃を受ける事のない、安全な場所であって、例えで言えば、固く守られたお城のような要塞のようなものであって、あるいは城壁で固められて守られている街のようである、と言う事ができます。そこに私たちが入れば、守られる所です。

マリア様は栄光を受けて天に昇られた、栄冠を受けられた元后であって、そして私たちの為の全ての御恵みの仲介者であって、優しい御母であります。このマリア様の汚れなき御心の中に入って下さい。なぜかというと、この汚れなき御心は同時に、天主へと必ず連れて行く、導く王道であるからです。王様の通る道であるからです。このマリア様の役目とは、私たちにキリストを与える事であって、そしてキリストへと私たちを導く、そして永遠の救いへと導く役割を持つ母であるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【聖伝のミサ トリエント・ミサ】聖霊降臨後第二十二の主日のミサのテキストをラテン語と日本語訳・中国語訳の対訳でご紹介します

2018年10月22日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第二十二の主日のミサのテキストをラテン語と日本語訳・中国語訳の対訳でご紹介します。
【解説】
聖寵なくしては、われらには何一つできない、われらのなし得ることは罪だけである。この事実こそ、<入祭文>の信頼の祈りの説明である。囚人となっていたパウロは、信仰の賜物、洗礼の時から始めた善業を、最後まで守り続けよと教える。キリストの来臨を待ちつつ、われらの心には、ますます愛が増さねばならぬ。
今天我们所念的一段福音中,耶稣攻破了祂仇人的阴谋,训示世上教权与政权当分划清楚,但彼此并不站在对立的地位。然而在这礼节年度将告终之时,我们把这段福音,也领悟到另一层的意义,即作为准备最后审判的警告。我们是天主的钱币似的,在我们身上刻有天主的肖像。就是说的,天主造我们,是依照祂的肖像;后因这个肖像由于罪恶而毁坏了,祂又用圣洗圣事把这个肖像给我们恢复:因圣洗圣事正在我们灵魂上刻下天主子女的神印。本日福音中所说的:“天主的归给天主”,便是指的,朝拜天主作为我们的造物主,爱慕天主当如我们的父,以及完全献身为衪服务。在最后审判之时,向我们要清算的账,便是关于这个问题。所以在每主日上,当我们把完美的敬礼——弥撒圣祭献给天主时,该呼求祂的宽赦和祂的恩宠(集祷经),使我们的神生藉爱德而发展。至于领圣体的成效,也正是这事:基督来到我们心中,充为我们身上爱德与勇力的泉源,使我们在天主子女的圣化生活中向前迈进,直至基督的重临——死候或公审判(书信)。
【トリエント・ミサについての参考資料】
オッタヴィアーニ枢機卿が、新しいミサの出来たときに警告したとおりに

Dominica Vigesima secunda post Pentecosten 聖霊降臨後第二十二の主日 降临后第二十二主日
II Classis 二級祝日 复式【绿】
Ant. ad Introitum. Ps. 129, 3-4. 入祭文 詩篇 129ノ3-4 台咏(咏129:3-4)
Si iniquitátes observáveris, Dómine : Dómine, quis sustinébit ? quia apud te propitiátio est, Deus Israël. もし主が、われらの罪に御目をとどめ給うなら、主よ、主よ、誰がわれらを支え得ようか。しかし、イスラエルの天主よ、主のうちにわれらは御あわれみを見奉る。 上主啊!若是祢察罪愆,吾主!谁还能立得住呢?伊撒尔的天主啊!惟独祢怀宥。
Ps. ibid., 1-2. 詩篇129ノ1-2 咏129:1-2
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi vocem meam. 主よ、私は深い淵より主に向かって叫ぶ、主よ、私の声を聞き給え。 上主啊,我自深渊向祢呼吁。吾主啊!求祢俯听我的声音。
V/.Glória Patri. 願わくは聖父と・・・(栄誦) 光荣于父……。
Si iniquitátes observáveris, Dómine : Dómine, quis sustinébit ? quia apud te propitiátio est, Deus Israël. もし主が、われらの罪に御目をとどめ給うなら、主よ、主よ、誰がわれらを支え得ようか。しかし、イスラエルの天主よ、主のうちにわれらは御あわれみを見奉る。 上主啊!若是祢察罪愆,吾主!谁还能立得住呢?伊撒尔的天主啊!惟独祢怀宥。
Oratio. 集祷文 集祷
Deus, refúgium nostrum et virtus : adésto piis Ecclésiæ tuæ précibus, auctor ipse pietátis, et præsta ; ut, quod fidéliter pétimus, efficáciter consequámur. Per Dóminum. われらの避難所であり、力にてまします天主よ、信心のつくり主なる天主よ、主の教会の祈りを聞き、信頼をもってわれらの乞い奉ることを、事実において受けさせ給え。天主として・・・。 天主,祢是我们的避难所、我们的能力,祢的教会凭祢所赋予的虔诚向祢恳切祈祷;求祢俯听此祷,并恩使我们能实获以信心所求于祢的。因我们主……。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Philippénses. 使徒聖パウロの、フィリッピ人への書簡の朗読。
Philipp, 1, 6-11. フィリッピ  1ノ6-11 斐1:6-11
Fratres : Confídimus in Dómino Iesu, quia, qui cœpit in vobis opus bonum, perfíciet usque in diem Christi Iesu. Sicut est mihi iustum hoc sentíre pro ómnibus vobis : eo quod hábeam vos in corde, et in vínculis meis, etin defensióne, et confirmatióne Evangélii, sócios gáudii mei omnes vos esse. Testis enim mihi est Deus, quómodo cúpiam omnes vos in viscéribus Iesu Christi. Et hoc oro, ut cáritas vestra magis ac magis abúndet in sciéntia et in omni sensu : ut probétis potióra, ut sitis sincéri et sine offénsa in diem Christi, repléti fructu iustítiæ per Iesum Christum, in glóriam et laudem Dei. 兄弟たちよ、あなたたちのうちに、このすぐれた業を始められたお方が、それをキリスト・イエズスの日までに、ますます完成してくださるであろうことを、私は確信している。私が、あなたたちみなにたいして、こう考えているのは当然である。なぜなら、あなたたちを、私は心に抱いているからである。私の投獄においても、福音を守り固めることにおいても、あなたたちはみな、私の恩寵に与っている。私があなたたちみなを、キリスト・イエズスの心をもって慕っていることは、天主が証明してくださる。あなたたちの愛が、ますます深い知識と理解とにおいて、増し加わることを祈る。あなたたちが、よりよいことをわきまえ、キリストの日に、清い、とがめのない者となり、天主の光栄と誉れとを表わすために、イエズス・キリストから来る正義の実にみたされるように。 弟兄们:我们靠着主耶稣确信,天主在你们心中开始了圣化你们的善工,也必定要完成它,直到基督耶稣的日子来到。我对你们怀着这样的感情,是很合理的,因为你们都常在我心中;无论我在枷锁中,或在防护和坚固福音的工作中,你们都分享我所得的圣宠。天主能给我作证,我是以基督耶稣的心肠热爱你们。我也求祂,使你们的爱德在知识和智慧方面日日增长;这样你们能辨别什么是更纯全的;因此,直到基督的日子来到,你们能成为纯洁无瑕而无可谴责的人,充满着由耶稣基督而来的义德之果,使光荣和颂扬归于天主。
Graduale. Ps. 132, 1-2. 昇階誦 詩篇 132ノ1-2 台阶咏(咏132:1-2)
Ecce, quam bonum et quam iucúndum, habitáre fratres in unum ! 兄弟たちが一致して生きるのは、何と快く、何と楽しいことであろう。 看!弟兄和睦同居,何其佳美,何其怡
V/. Sicut unguéntum in cápite, quod descéndit in barbam, barbam Aaron. この一致は、アアロンのひたいから髭に滴る香油のようである。 这好比珍贵的油,浇在亚郎头上,流到他的胡须。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 113, 11. アレルヤ、アレルヤ。詩篇 113ノ11 阿肋路亚, 阿肋路亚!(咏113:11)
Qui timent Dóminum sperent in eo : adiútor et protéctor eórum est. Allelúia. 主を畏れる者は、主に依り頼め、主こそ、彼らの支え、守り手にてまします、アレルヤ。 阿肋路亚,阿肋路亚。望敬畏上主的人,都依靠上主;祂是他们的助佑与保障。阿肋路亚。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦 福音
Matth. 22, 15-21. マテオ 22ノ15-21 玛22:15-21
In illo témpore : Abeúntes pharisǽi consílium iniérunt, ut cáperent Iesum in sermóne. Et mittunt ei discípulos suos cum Herodiánis, dicéntes : Magíster, scimus, quia verax es et viam Dei in veritáte doces, et non est tibi cura de áliquo : non enim réspicis persónam hóminum : dic ergo nobis, quid tibi vidétur, licet censum dare Cǽsari, an non ? Cógnita autem Iesus nequítia eórum, ait : Quid me tentátis, hypócritæ ? Osténdite mihi numísma census. At illi obtulérunt ei denárium. Et ait illis Iesus : Cuius est imágo hæc et superscríptio ? Dicunt ei : Cǽsaris. Tunc ait illis : Réddite ergo, quæ sunt Cǽsaris, Cǽsari ; et, quæ sunt Dei, Deo. そのころ、ファリサイ人たちが出てきて、イエズスをことばのわなにかけようと相談し、自分の弟子たちをヘロデ党の人々といっしょにイエズスのもとにおくって、こういわせた。「先生、あなたが真実な方で、真理によって天主の道をとき、人の顔色をうかがわず、だれをもはばからない方だと、私たちは承知しています。さて、あなたのご意見をいってください。チェザルにみつぎを納めることは、ゆるされていますか?どうでしょう?」。イエズスは、かれらの狡猾を見ぬき、「偽善者よ、なぜ私にわなをかけるのか。みつぎの金を私に見せよ」とおおせられた。かれらが、デナリオを一つもってくると、「これは、だれの像、だれの銘か?」とお問いになった。かれらが、「チェザルのです」というと、イエズスは、「それなら、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主にかえせ」とおおせられたので、かれらはこれをきいて、おどろいて離れ去った。 那时候,法利塞人退去,商议想在耶稣的话中寻找错处。他们就遣几个门徒,同着黑落德党的人,去见耶稣,说:“师傅!我们知道祢是真实的,并且按照真实传授天主的道,祢不顾情面,因为祢不看人的外貌。请祢告诉我们:祢看怎样?给凯撒纳税,可以不可以?”耶稣看出他们的恶意,就说:“伪君子,为什么试探我?拿一个纳税的钱来给我看。”他们就拿出一个钱来给衪看。耶稣问他们说:“这是谁的像?谁的号?”他们说:“凯撒的。”耶稣说:“那么,凯撒的归给凯撒,天主的归给天主。”
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Esth. 14, 12 et 13. 奉献文 エステル  14ノ12,13 奉献咏(艾14:12-13)
Recordáre mei, Dómine, omni potentátui dóminans : et da sermónem rectum in os meum, ut pláceant verba mea in conspéctu príncipis. 主よ、わたしを思い出し給え、すべての勢力を支配し給う御者よ、王に嘉せられるために、私の口に智慧ある言葉を置き給え 统治一切权势的上主啊!求祢想到我,赏我口在君王面前能说动听的言辞,使成为他所喜悦的。
Secreta. 密誦 密祷经
Da, miséricors Deus : ut hæc salutáris oblátio et a própriis nos reátibus indesinénter expédiat, et ab ómnibus tueátur advérsis. Per Dóminum. 慈悲深き天主よ、願わくは、この救いのいけにえにより、われらの罪の鎖が解かれ、すべての災いが退けられんことを。天主として・・・。 主,求祢开恩:使在此救赎性的祭献,不断解救我们于一切的本罪,并保护我们免遭一切的侵害。因我们主……。
Præfatio de sanctissima Trinitate 序誦 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引
Ant. ad Communionem. Ps. 16, 6. 聖体拝領誦 詩篇 16ノ6 领主咏(咏16:6)
Ego clamávi, quóniam exaudísti me, Deus : inclína aurem tuam et exáudi verba mea. わが天主よ、私は主に乞い願い奉る、御身は私の願いを聞き給うからである。御耳を傾け、私の祈りを聞き給え。 天主啊!我呼号祢,祢必垂允我;求祢侧耳俯听我的言语。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经
Súmpsimus, Dómine, sacri dona mystérii, humíliter deprecántes : ut, quæ in tui commemoratiónem nos fácere præcepísti, in nostræ profíciant infirmitátis auxílium : Qui vivis et regnas. 主よ、聖なる奥義に養われたわれらは、ひれ伏して願い奉る。御身の命じ給うたとおり、御形見のいけにえを行うわれらに弱さの助けをそこに見いださせ給え。聖父なる天主とともに・・・。 主,我们拜领了祢神圣奥迹的恩锡之后,谦恭求祢,使祢所命我们为纪念祢而行的圣祭,扶佑我们的软弱。祢和天主父……。

教皇パウロ六世の列聖に関する聖ピオ十世会本部の公式声明

2018年10月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
教皇パウロ六世の列聖に関する聖ピオ十世会本部の公式声明
2018年10月13日  fsspx newsサイト

2018年10月14日の主日、若者に関する司教シノドスの際に、教皇フランシスコが教皇パウロ六世の列聖を行なう。


聖ピオ十世司祭会は、2014年10月19日のパウロ六世の列福の際に発表した深刻な留保を、再度表明する。

―近年の教皇たちの列福と列聖は、加速された手続きによって行なわれており、何世紀にもわたって続いてきた教会の規則の持つ知恵を無視している。その目的は、彼ら教皇たちの神学的な徳の英雄性を認めることよりも、むしろ第二バチカン公会議の教皇たちを列聖すること自体なのではないだろうか? ペトロの後継者である教皇の第一の義務が信仰において兄弟たちの心を固めること(聖ルカ22章32節)だと知っていれば、当惑すべき一つの正当な理由がある。

―パウロ六世が回勅「フマネ・ヴィテ」(1968年7月25日)の責任者であったことは真実である。この回勅は、結婚の持つ最も基本的な原理がひどい攻撃にさらされている時代に、カトリックの家庭に教え、慰めを与えたものである。教皇はまた、「天主の民のクレド」(1968年6月30日)の著者でもある。このクレドによって、教皇は、進歩主義的な環境によって、特に、つまずきを与えるオランダ・カテキズム(1966年)によって攻撃を受けていたカトリック信仰の[信経の]各箇条を強調することを望んだのである。

―しかし、パウロ六世はまた、第二バチカン公会議をその閉会まで見届けた教皇でもある。この公会議によって、特に、信教の自由、団体主義(collegiality)、エキュメニズムといった誤謬において明白に表れた教理の自由主義を教会に導入したのである。その結果は、教皇自身が1968年12月7日に認めるに至った大混乱であった。その日、教皇は、「教会は今、不確実、自己批判と直面しており、それはほとんど自己破壊と言ってもいいでしょう、教会が自分自身を攻撃しているかのように」と述べた。翌年、教皇は、「多くの領域で、公会議は依然として私たちに平安をもたらしていません。むしろ教会と霊魂において天主の国を強固にするのに無益である問題や困難を巻き起こしています」と、事実を認めた。教皇は、1972年7月29日には、次の差し迫った警告を発することさえした。「サタンの煙がどこかの裂け目を通って天主の神殿に入り込みました。疑い、不確実さ、意見の相違、心配、不満、摩擦が、見て明らかなほどになっています・・・」。しかし、教皇は単に一つの事実を述べただけであり、この自己破壊を止め得る手段を取らなかった。

―パウロ六世は、エキュメニカルな理由のために、ミサとすべての秘蹟についての典礼の改革を押し付けた教皇である。オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿は、この新しいミサは「全体においても細部においても、トリエント公会議の第22総会で定式化されたミサに関するカトリック神学から驚くほど逸脱している」として、新しいミサを批判した。[注1]彼らに続いて、ルフェーブル大司教は、新しいミサは「信仰に有害な毒」である「プロテスタンティズムの精神がしみ込んで」いると宣言した。[注2]

―パウロ六世の教皇在位中に、トリエント・ミサに忠実であったという理由で、多くの司祭や修道者が迫害を受け、さらには制裁宣告を受けさえもした。聖ピオ十世司祭会は、ルフェーブル大司教の聖職停止が宣言された1976年の制裁宣告を、大きな悲しみをもって思い起こす。その制裁宣告の理由は、彼がトリエント・ミサに愛着を持っていたことと、改革を絶対的に拒否したことであった。教皇ベネディクト十六世の自発教令が発布された2007年になってやっと、トリエント・ミサは決して廃止されてはいなかったことがついに認められたのである。

こんにち、以前にも増して、聖ピオ十世司祭会は教会の二千年にわたる聖伝に対する愛着を更新する。それは、この聖伝に対する忠実は、時代遅れの硬直性から程遠いばかりか、むしろ教会の自己破壊に対する救いの良薬を与えてくれるものであることを確信しているからである。総長として、ダヴィデ・パリャラーニ神父はこう述べた。「私たちが心から愛着する望みは、教会が公的に、聖伝を重荷あるいは一連の時代遅れの古い事物とみなすのをやめ、むしろ教会自体を再生させることのできる唯一の方法だと認めるようになることです」。[注3]

2018年10月13日、メンツィンゲンにて

[注1.]「新しいミサの批判的研究」 オッタヴィアーニ、バッチ枢機卿からのカバーレター第一章。1969年9月3日
[注2.]「教会がどうなってしまったか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」 アンジェルス・プレス
[注3.]「パリャラーニ神父のインタビュー」 fsspx.news 2018年10月12日



英語原文
Communiqué of the General House of the SSPX on the Canonisation of Pope Paul VI

October 13, 2018   By fsspx.news


On the occasion of the Synod of Bishops on Young People, on Sunday 14th October, 2018, Pope Francis will proceed with the canonisation of Pope Paul VI.

The Priestly Society of Saint Pius X reiterates the serious reservations it had expressed during the beatification of Paul VI on October 19th, 2014:

— These beatifications and canonisations of recent popes, with an accelerated procedure, dispense with the wisdom of the Church’s centuries-old rules. Is not their aim more to canonise the popes of the Second Vatican Council, rather than to note the heroicity of their theological virtues? When one knows that the first duty of a pope – successor of Peter – is to confirm his brethren in the faith (St Luke 22:32), there is a good reason to be perplexed.

— It is true that Paul VI was responsible for the encyclical Humanae Vitae (July 25th, 1968), which instructed and consoled Catholic families at a time when the most basic principles of marriage were under bitter attack. He was also the author of the Credo of the People of God (June 30th, 1968) by which he wanted to emphasise the articles of Catholic faith challenged by the progressivism ambient, in particular in the scandalous Dutch Catechism (1966).

— But Paul VI is also the Pope who saw Vatican II to its conclusion, thereby introducing in the Church a doctrinal liberalism manifested especially in errors such as religious liberty, collegiality, and ecumenism. The result was an upheaval which he himself admitted on December 7th, 1968, when he said: “The Church is now confronted with uncertainty, self-criticism, one might almost say self-destruction. As if the Church were attacking Herself.” The following year he conceded: “In many areas the Council has not yet put us at peace; it has rather stirred up trouble and difficulties which are useless for reinforcing the Kingdom of God in the Church and in souls.” He went so far as to give this dire warning on July 29th, 1972: “The smoke of Satan has entered the temple of God through some crack: doubt, incertitude, dissension, worry, discontent, and conflict are plain to see…” - But he was merely stating a fact, while failing to take those measures capable of stopping the self-destruction.

— Paul VI is the Pope who, for ecumenical reasons, imposed a liturgical reform of the rites of Mass and all the sacraments. Cardinals Ottaviani and Bacci denounced this New Mass because it “represents both as a whole, and in its details, a striking departure from the Catholic theology of the Mass as formulated during the 22nd session of the Council of Trent.”[1] Following them, Archbishop Lefebvre declared that the New Mass was “impregnated with the spirit of Protestantism” which is “a poison harmful to the Faith”.[2]

Under his pontificate many priests and religious were persecuted, and even condemned, for their fidelity to the Tridentine Mass. The Priestly Society of Saint Pius X remembers with great sorrow the condemnation of 1976, whereby Archbishop Marcel Lefebvre was declared suspended a divinis, because of his attachment to that Mass and his categorical refusal of the reforms. Only in 2007, when Pope Benedict XVI’s motu proprio was issued, was it finally admitted that the Tridentine Mass had never been abrogated.

Today, more than ever, the Priestly Society of Saint Pius X renews its attachment to the Church’s two thousand years of Tradition, convinced that this fidelity, far from being an outdated rigidness, provides the salutary remedy for the self-destruction of the Church. As the Superior General, Father Davide Pagliarani recently stated: “Our fondest wish is that the official Church will stop considering Tradition as a burden or a set of outmoded old things, but rather as the only possible way to regenerate herself.”[3]

Menzingen, October 13th, 2018.

[1.] A Brief Critical Study of the New Order of Mass. Cover letter from Cardinals Ottaviani and Bacci. September 3rd, 1969, §1.
[2.] Open Letter to Confused Catholics. Angelus Press.
[3.] Interview of Fr. Pagliarani in fsspx.news. October 12, 2018.

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