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2019年5月18日(土)殉教者聖ヴェナンチオのミサ 聖ヴェナンチオがどのような殉教者であったのか

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月18日(土)殉教者聖ヴェナンチオのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年5月18日、聖ヴェナンチオ殉教者のミサをしています。

今日このミサの後に、ミサの後の感謝の祈りの後に、聖体降福式があります。

この聖体降福式は特に、今世界中でテロリズムで罪のない人たちが攻撃されていますが、特に日本の国が守られますように、そして日本で、日本に聖ピオ十世会の修道院が、司祭が常駐しますように、一刻も早くそれが実現しますように、特にお願いしたいと思っています。どうぞ御聖体降福式に与って下さい。

とても良いニュースがあります。明日、主日のミサが10時半からここであります。
そして私たちの御恵みを日本中にマリア様を通してお願いする為に、聖母行列もあります。たくさんの方が聖母行列に参加するように祈っています。マリア様がますます愛されますように、そしてマリア様を通してイエズス様が、多くの日本の人々の心に行きますように、世界中の人々の心に行きますように、お祈りしましょう。

明日主日のミサがあります、朝10時半です。聖母行列にお友達を連れて来て下さい。

更にもっと良いニュースがあります。5月は、4月28日から1ヶ月間、ほぼ毎日のようにここでミサがあるようになりました。来週もまた、明日の主日から毎日、次の月曜日まで毎日ミサがあるようになりました。

キンボル神父様という聖ピオ十世会の神父様が、「大阪で毎日ミサを捧げる」と仰って下さって、「休暇で来る」と仰っています。ですからどうぞ皆さん与って行って下さい。


「私に留まれ。そうすれば私は、お前たちに留まる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヴェナンチオ殉教者のミサをしています。

⑴簡単に聖ヴェナンチオがどのような殉教者であったのかを黙想して、

⑵今日この聖ヴェナンチオが私たちに何を訴えているのか、

⑶私たちは何をしたら良いのか、

を黙想致しましょう。


⑴聖ヴェナンチオをというのは、イタリアのカメリーノという、イタリア半島があるとすると、ローマの反対側のアドリア海の方にある小さな村に生きていた、3世紀に生きていた15歳の少年でした。

ちょうどその当時、ローマ皇帝デキウスという皇帝が残酷で、3年間ローマ皇帝として統治しましたが、その3年間の間に起こった出来事です。

聖ヴェナンチオはカトリック信者、キリスト教を信じているという事で、残酷な拷問を受けました。まず最初に鞭打たれました。ローマの鞭打ちは残酷で有名です。15歳の少年、「カトリックだ」、中学3年生、「カトリックだ」、残酷にローマの兵士たちから鞭打たれました。息絶え絶えに、血をダラダラと流しましたが、しかしヴェナンチオは死ぬ事はありませんでした。全てをイエズス様に捧げておりました。

それでも息の根が尽きなかったのを見て、今度は燃える松明を持って、ヴェナンチオを焼こうとします。しかし不思議な事にその火は、ヴェナンチオに火傷を与えませんでした。燃やそう燃やそうとしても、ヴェナンチオは苦しむばかりでしたが、息は絶えずに命はそのまま保たれています。

今度は、15歳のこの子供を逆さ吊りにして、下には火を焚いて、煙をボウボウと出させて、息もできないうちに逆さ吊りにしました、窒息死させようと。ゴホゴホとヴェナンチオは非常に苦しんでいましたが、それでもそれを耐え忍んでいました。それを耐え忍ぶどころか、今度はイエズス・キリスト様の事を、「真の救い主だ!皆はこれを信じるように!」と、イエズス様の御説教をし出したのです。

それを見て非常に怒ったローマ皇帝は、最終兵器を取り出しました。飢えたライオンたちでした。

ヴェナンチオがそこに横たわって、獰猛な唸り声を上げて腹を空かせたライオンたちをヴェナンチオの元にやります。本当ならばあっという間にこれを食い尽くして裂きちぎってしまうところでしたが、そのライオンはあたかも子猫のように、あるいは子羊のように、ヴェナンチオの前に座っておとなしくしているだけで、何の害も与えませんでした。

ヴェナンチオは更にこれを機会に、皆にイエズス・キリストの事を説教します、「イエズス・キリストこそ本当の救い主だ!十字架に付けられて復活した、私たちの罪の償いをして下さったイエズス・キリスト以外に救いはない!イエズス・キリストを信じるように!イエズス・キリストにこそ命がある!」

そしてとうとう怒った刑吏等は、そのライオン等を外して、そして彼の首を切り、殉教を果たしました。250年、聖ヴェナンチオは15歳の時でした。

そこからその時から、特にイタリアでは聖ヴェナンチオを尊敬して、記念して祝っていました。カメリーノの元司教であった教皇クレメンテ10世が、彼を正式にローマの世界中の典礼暦に入れます。今でもその墓は、カメリーノの聖ヴェナンチオの教会にあります。


⑵彼の勇敢な、拷問に耐え忍んでイエズス・キリストの愛に留まった、この彼の殉教は私たちに、一体何を教えているのでしょうか?

聖ヴェナンチオはもしかしたら、まだ若いから、15歳だから、「まだ人生を楽しみたい」と言う事もできたかもしれません。あるいは、「ちょっとだけ、今回はちょっとだけ妥協して、今度別の機会に、後で殉教すれば良い」あるいは、「今回はちょっとだけで妥協したふりをして、そして生き延びよう」あるいは、「何とかするように」という誘惑を受けたかもしれません。

しかし彼は、「いや、私はイエズス・キリストを信じる。イエズス・キリストの為に全てを捧げる。イエズス様の望みのままに。決してイエズス様を否定したくはない。イエズス様に従いたい」と、寛大な心でイエズス様に応えました、その御恵みに応えました。

そこでイエズス様は、いかなる害も彼に、苦しんだけれども、しかし命をそのまま保たせる事ができるようにしました。

イエズス様は言います、「私の愛に留まれ。私に留まれ。そうすれば私も留まる。もしも私に留まるならば、多くの実を結ぶだろう。私はぶどうの木であり、お前たちはその枝だ。私の聖父は農夫だ。私が、良く実を結ぶように伐採するだろう、剪定するだろう。そして苦しむかもしれないが、多くの実を結ぶだろう。ただ私に留まれ。」

聖ヴェナンチオは、イエズス様に留まりました。そして多くの実を結びました。


⑶では、私たちは何ができるでしょうか?聖ヴェナンチオのように15歳の若い子供ができたのならば、私たちに一体何ができるでしょうか?

イエズス様は私たちに、日々小さな殉教を送って下さいます。朝起きる時から、目覚まし時計が鳴った時から、あるいはご飯を食べる時から、おしゃべりをする、あるいはお祈りをする、あるいはインターネットのニュースを見る、あるいはその他仕事をする、友人との関係、あるいはその他日々の生活で、私たちは「イエズス様の御旨、イエズス様が御望みである」という事と、あるいは「イエズス様を否定して、自分の思い通りにやったらどうか」という誘惑、そして私たちは、どちらかを取らなければなりません。

イエズス様に「はい」と言って、殉教の精神で、「イエズス様を否定しろ」という誘いの声を、「いや、嫌だ!」と言うか、あるいはイエズス様を否定して「ちょっとこのぐらいなら。また後で。あぁ、少しぐらい」と言うか。

イエズス様は私たちに言います、「私はぶどうの木だ。お前たちは枝だ。私に留まれ。私の愛に留まれ。そうしたら私はお前たちと共にいる。私がいなければお前たちは何もできない。しかし私に留まるならば、何でも祈れ。私はお前たちがそれを受ける事ができるように、聖父に祈ろう。もしも私から離れてしまえば、お前たちは枯れて、集められて、燃やされてしまう。つまり地獄に落ちてしまう。私に留まれ。」

今日は聖ヴェナンチオの特別のその寛大な殉教の心を、その模範を見て私たちも、日々の小さな殉教をする寛大な心を乞い求めましょう。

マリア様にお願いしましょう、「マリア様、私たちがいつもイエズス様と共に留まっている事ができますように、マリア様の御取り次ぎによりて、マリア様に倣って、日々の殉教を達成する事ができるように、私たちに寛大な心を取り次いで下さい。」

イエズス様にいつも「はい」と言う事ができますように、マリア様に倣う事ができますように、お祈り致しましょう。


「私に留まれ。そうすれば私は、お前たちと共に留まる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2019年5月18日(土)ドモルネ神父様御説教 “Ecce” “Fiat” “Magnificat”

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月18日(土)殉教者聖ヴェナンチオのミサ ドモルネ神父様御説教
同時通訳:東京信徒会長

今日は、小野田神父様から短い御説教をするようにお願いされました。ですから、これから致します。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は土曜日ですので、皆さん御存知の通り、土曜日というのは聖母マリア様に捧げられた日ですので、聖母マリア様の聖性について少しお話ししたいと思います。

私たちは天主様によって創られましたけれども、それは永遠に生きる為、それから永遠の幸福を享受する為に創られました。これが私たちの言う、「天国に行く」という意味です。

ただ、天国に行く為には、完全でなくてはいけません。「完全」というのは、「罪の無い状態」で「成聖の状態」にあるという事です。

この「罪から逃れている」という事は、原罪の頃から私たち人間にはできない事となりました。例えば知性ですとか、意志ですとか、情欲に負けるという事なので、これは私たちに天主様の助け無しにはできない事になっています。

それから、「天主様と一緒に永遠の平和になる」という事なのですが、これは私たち人間の性質からできる事ではありません。天主様は御自身で存在しておられますけれども、私たちは創られてのみ存在しています。天主様の生きておられる「生」というのは、私たち人間が何歳まで生きたというその「生」とは、全然違う性質のものです。ですから、私たちが天主様とその「生」を一緒にするというのは、私たちができる事ではなくて、天主様が私たちにそれを分けて下さらないと、できる事ではありません。

ですから、この「成聖への道」というのは、基本的には天主様が私たちに働きかけて下さるという事になります。ですから「聖人になる」という事なのですが、一体どうすれば良いのでしょうか?

私たちは何をしなければいけないかと言うと、「私たちの中に働いている天主様の働きに、共同で参加する」という事をしなくてはいけません。ですから別の言葉で言いますと、天主様が私たちを聖化して下さる、というのに同意して、協力しなくてはいけません。

では、その天主様が私たちの霊魂の中で行なって下さる事に協力して、一緒にする、という事は一体具体的にどうすれば良いのでしょうか?

それはどうしたら良いかと言うと、「聖母マリア様のなさった事、教えて下さる事を真似する」という事です。福音の中には、聖母マリア様が話された言葉で、三語なのですけれども、「天主様のなさるようにして下さい」という言葉が記録されています。この三語というのは、指示でもありますし、モットーでもありますし、戦争の時に「行くぞ!」という勝利の宣言でもあります。

・“Ecce”
・“Fiat”
・“Magnificat”

“Ecce”“Ecce ancilla Domini”「我は主の婢女なり」という言葉と、
“Fiat”“Fiat mihi secundum verbum tuum”「こうなりますように(仰せの如く我になれかし)」という言葉と、
“Magnificat”“Magnificat anima mea Dominum”「私は天主の働きを讃美します(我が魂は主を崇め奉る)」

この三語です。


“Ecce”というのは、「見て下さい。天主様に自分を捧げる」という事です。例えば体ですとか精神ですとか、自分の持っているもの全てを捧げるという事です。この“Ecce”というのは、私たちが天主様に全部自分の、先ほど言ったような体とか精神とかを捧げる事ですけれども、制限なしに、それは利己的な事なしに、「元々天主様のものですから、お返しします」という意味で捧げる、という事です。

“Ecce”と言う事によって、「天主様が準備していらっしゃるものは、何でもそのまま受け入れます」という宣言です。この“Ecce”という言葉の元にあるのが、「謙遜の心」です。


“Fiat”というのは、それに続いてEcceに続いて、「こうなりますように」という事ですから、「天主様の意志が、そういう風になりますように」という事です。

Ecceという言葉で、私たちが「天主様に捧げます」という事ですけれども、“Fiat”というのは、その後で私たちが、「天主の御意志をそのまま受け入れます。受け入れる準備があります」という言葉です。

“Fiat”というのは具体的には、「そうなりますように」というのは何かというと、1つには、「天主様の意志が何であるかというのを分かる」という事です。そして「それを喜んで受け入れて」、「それをすぐに行なう」というこの3点です。

こういう天主様の御意志がどうやって私たちに伝わるかと言うと、十戒もそうですけれども、私たちの身分に従った義務、それから人生の間に起こるような色々なイベントによって、楽しい事も楽しくない事も、天主様からの意志が私たちに伝わってきます。

天主様の事を受け入れる、という事ですけれども、私たちの事を天主様が愛していらっしゃる、それから私たちが天国に行く事を望んでいらっしゃる、というのが福音にもありますし、これは非常に明らかな事です。

また、私たちが“Fiat“と言って、「その天主様の仰る事は何でも受け入れます」という時には、なぜそうするかというと、「天主様は無限に賢い、賢明な方でありますので、私たちの為になる事をして下さる」という事を知っているからです。

それからもう一つ、“Fiat”と言って、私たちが「そのようになりますように」と言う時は、その私たちがそれをできる理由は、「天主様が私たちに、その内的な力を下さる」という事を知っているからです。

ですからこの“Fiat”というその元にあるのは、「天主様の力、知性、良さを信じている」という事にあります。


それから三つ目の“Magnificat”というのは、「天主様に栄光がありますように」という事ですけれども、これは私たちの心の持ちようの事で、「どんな事が起こっても、いつもそう考えている」という心の持ちようの事でもあります。

例えば、私たちがここに存在しているというのは、天主様の贈り物です。それから、毎日生活している、というのも天主様の贈り物です。私たちが天国に行ける、というのも、イエズス様が来て、地上に来て、十字架に架かって下さった、というのも全て、天主様の贈り物という事になります。

ただ一つ、天主様が私たちに下さらないものというのがありまして、これは「天主様の栄光」というのは、私たちに下さるものではありません。ですから、私たちにこんな素晴らしい事を天主様がして下さったのですけれども、その“Magnificat”という事で、「天主様に栄光がありますように」と言うのは、天主様に栄光をお返しして、私たちに慢心が起こらないように、誇りが起こらないように、という意味があります。


ですから私たちは天国に行きたいのですけれども、その為には天主様が私たちにして下さる働きに協力していかなくてはなりません。そしてその一番具体的な方法は、このマリア様が仰った“Ecce”と“Fiat”と“Magnificat”の三つの言葉を実行している、という事にあります。

ですからこの御ミサの間は、聖母マリア様が私たちにこの三つの言葉、聖母マリア様の言葉を深く私たちが理解できて、それを実行する事ができるようにお祈り致しましょう。ですからこの地上でこの三つの言葉を私たちが何度も言って、遂には天国で、マリア様と一緒にこの言葉が言えるようになりましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2019年5月4日(初土)秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 私たちも聖ヨハネのようにマリア様を私たちの霊魂に受け入れる

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月4日(初土)秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 

小野田神父 説教


「次に、弟子に向かって言った、『汝の母を見よ。』すると弟子は、聖母を自分の家に引き取った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する巡礼者の皆さん、遂にあっという間に、巡礼の最後の日になってしまいました。最後の締めくくりとして、マリア様の汚れなき御心の随意ミサを行ないましょう。

この地上での短い、あっという間の生活を、本当に価値のあるものとして、永遠の価値のあるものとして、喜びに満ちて、幸せに満ちて、そして私たちの身の回りに溢れる苦しみや悲しみを喜びに変えつつ、魔法のように変えつつ、そして更に永遠の喜びに入る、という霊的な生活、天主の命に与る事の重要さを、その必要性を、その大切さを、私たちはこの巡礼中に黙想する御恵みがありました。


では一体どうしたら、この霊的生活に対する強い望みをますます掻き立てて、「あぁ、もっと霊的生活を深めたい、心を高く上げていつも天主の命を生きていたい」と思う事ができるでしょうか?

その秘密は、マリア様にあります。なぜかというとマリア様は、この御生涯の間、一瞬の瞬間も例外なく、霊的生活の真髄を頂点を生きていたからです。最初の御受胎の、聖アンナの御胎内にいるその瞬間から天に上げられるまで、いつもこの地上の生活は、霊的生活の、天主の命との生活をフルに充満に生きていました。

では一体、この霊的生活をますます高める為にどうしたら、天主に対する知識を、また自分が一体どのようなものである事を深く知る事ができるでしょうか?なぜかというと、知れば知るほど、一致する事ができるからです。

秘密は、マリア様にあります。なぜかというと、マリア様は真の天主イエズス・キリストを、一番よく知っているからです。イエズス様が真の天主であり、イエズス様の教えからの生活を30年間、目の当たりにして来られました。そして公生活も常に近くで、共にしてこられました。被昇天の後には、公教会をいつも守ってくれました。

では一体どうしたら、私たちの事を深く知る事ができるでしょうか?

マリア様が、私たちが一体どのようなものであるか、という事を教えてくれます。

ではどうしたら、私たちは天主の現存において、天主の御旨にいつも適ったものとして生きる事ができるでしょうか?

マリア様が、その模範を示して下さいます。「ご覧下さい、私は主の婢女です。私の願いは、主の御旨を果たす事です、それだけです。御望みの通り、御望みのままに、御望みの事を、御望みのだけ、主の御旨を果たしたい。御旨のままになりますように。」この御生涯生きてこられたマリア様こそ、私たちのモデルであり、模範であり、またマリア様こそ、私たちにその事ができる御恵みを勝ち取って下さいますその方です。

どうしたら、では私たちは天主の御旨に、天主の命を生きる事ができるように、祈りの生活に、祈りをいつも絶えずする事ができるでしょうか?

マリア様が手伝って下さいます。ファチマの子供たちは、このマリア様のおかげで、あっという間に祈りの生活の高みに入りました。

では私たちはどのようにしたら、良い生活の規則を作って、それをただリップサービスだけではなくて、それを紙の上に書くだけではなくて、それを実行する事ができるでしょうか?

マリア様が、私たちの弱さを手伝って下さいます。

では私たちはどうしたら、隣人に対して、その隣人との生活を聖化する事ができるでしょうか?

マリア様が手伝って下さいます。


では一言で言うと、私たちは今日どのような決心を立てたら良いでしょうか?

イエズス様の十字架の言葉を聞いて下さい、「汝の母を見よ。ここに、あなたの霊的な、天主との命を養う母がいる。この母こそ、皆さんと私を超自然の命に生み出した方であり、養って下さる方であり、成長させる方であり、守って下さる方であり、導いて下さる母である。この母を受け入れなさい。」

私たちも聖ヨハネのように、マリア様を私たちの家に、私たちの霊魂に、私たちの日常の生活に、受け入れましょう。

今日は初土曜日です。どうぞこのミサを初土の信心として、その一つとしてお捧げ下さい。


「『汝の母を見よ。』すると弟子は、その時から母を聖母を、自分の家に受けた。」

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


苦しみの玄義黙想(2019年5月3日 秋田巡礼にて サマース神父様)

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義黙想(2019年5月3日 秋田巡礼にて サマース神父様)
同時通訳:小野田圭志神父


『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』

とても傷付きやすい状態における私たちの主が、ゲッセマニの園に於いて祈っているのを見ています。ゲッセマニの園にてこそ、イエズス様は一番苦しまれました。主はゲッセマニで、人類の全ての罪を御覧になりました。アダムとエヴァの罪から、人類の最後の人の犯す罪まで。
私たちの主は、全ての罪の、一つ一つの、全ての悪を、邪悪さを、御自分の身に背負います。そしてそれと同時に、御父にその苦しみを取って下さるようにともお祈りします。
私たちは、私たちの犯した罪の悔悛の御恵みを、より大きな悔悛の御恵みを乞い求めましょう。



『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

私たちの主は鞭打たれましたが、普通このような事を受ければ、人は死んでしまいます。しかしイエズス様は、人類の肉欲の罪を償う為に、肉体で苦しみを受けます。私たちの貪欲、貪食、あるいはその他の邪淫の邪欲の罪を償う為に。私たちの主は、私たちがこの世での快楽よりも、罪の償いと鞭打ちを求めるように、求めています。
イエズス様が鞭打たれるその肉体をご覧下さい。そして罪を再び犯さないように、御恵みを求めましょう。



『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』

死刑執行人らは、イエズス様の御頭に茨の冠を押し被らせます。茨の一つ一つが、イエズス様の御頭に突き刺さるのを見て、私たちは考えによる罪と、傲慢の罪を思い起こさせます。私たちは頻繁に、罪人であるという事を忘れ、また傲慢によって他人を簡単に裁いてしまいます。イエズス様は罪が無かったにもかかわらず、他の人々の裁きを受けました。謙遜という最も大切な徳を求める御恵みを乞い求めましょう。



『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

イエズス様は、十字架の重荷を自ら担いで、非常に難しい立場に置かれながら状況に置かれながらも、自分の死の処刑の場所に向かっています。口にする事もできないほどの痛さにも関わらず、イエズス様は心では喜びと平和に満たされていました。イエズス様は御自分が死へと向かって歩いているにも関わらず、私たちの救いの為に、人類の救霊の為に、御自分のこの地上での生涯の目的、私たちを愛するが為にこれを歩いているからです。

私たちが日常の義務を果たす、日常の十字架を担おうとする時に、私たちの主に倣って歩もうとする心はほとんどありません。もしも私たちが十字架の価値を、そしてその十字架が私たちをどれほどイエズス様に近付けるか、という事を知れば知るほど、私たちも十字架をますます喜んで幸せに担わなければなりません。



『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

私たちの祝されたマリア様、聖母マリア様は、十字架の梺に立ち留まっておられます。イエズス様は、「マリア様こそ、イエズス様に従う全ての人々の母である」と宣言します。マリア様は、イエズス様の命令であれば、どのようなものでも従う準備と覚悟ができていました。マリア様は御子によって、十字架の功徳を全て、私たちに分配する使命を受けました。そしてマリア様は、御子の苦しみを受けたのをご覧になって、どれほど苦しまれた事でしょうか。
この一連を捧げて、マリア様に対する信心をますます深めるよう御恵みを乞い求めましょう。

2019年5月3日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【5】完徳に至るための外的手段

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月3日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【5】
「完徳に至るための外的手段:「生活の規則」と、「隣人との関係を聖化する」」
同時通訳:小野田圭志神父


完徳に至る手段の最後の部分です。

この前回と前々回で私たちは、内的な手段を見ました。今日は、残った4つの外的な手段について見てみましょう。ところが時間の関係で、4つのところを2つに集中して、絞ってお話し致します。

外的な手段の内の最初は、「霊的指導」、次に「生活の規則」です。第3に「霊的読書」、それから「隣人に対する関係を聖化する」それが第4です。

この内で一番説明が必要とされると思われるものは、「生活の規則」と、「隣人との関係を聖化する」という部分だと思うので、ここについて特に重点的にお話をします。


その規則、「生活の規則」というのは、言ってみれば時間割とか、あるいはどのように1日を過ごすかについてです。よくこうある人がですね、「このようなスケジュールを与えられたけれども、これはちょっときつすぎる、何かロボットのようだ」という不平を聞く時があります。

罪というのは、私たちの生活をカオスというか混乱に混沌に陥れて、無秩序にしますが、御恵みは私たちを秩序正しくして、規則正しくして、整理整頓させて、美しく秩序立たせます。

アダムとエヴァの最初の仕事は、そのエデンの園をきれいに秩序立てる事でした。ところが原罪が入って来た為に、更にその秩序が破壊されて、混乱されて、そして耕すのさえも難しくなりました。

ですからカトリックの考えでは、「秩序正しい、規則正しい」ものは、「御恵みのシンボル」であって、「無秩序で混乱している」ものは、「罪のシンボル」です。

「生活の規則」というのは、私たちの生活に規則を与えて、秩序を与えて、そしてそれに位階、段階を付ける事です。私たちに与えられた時間は限られているので、この限られた時間をどれほど有効に使って、自分を、そして他人を聖化するか、その為に一番大切なものは何か、という事を秩序立てます。

そこで修道院とか、あるいは神学校などでは、修練院などでは、どのような家でも時間割があって、何時に起きて、何時に何をして、何を、何を、という事が決められています。

ですから一般の家庭においても、生活の規則として時間割が与えられるのは、とても良い事です。もう既にそれが決まっていれば、「この時間はこれをする事に集中する時だ」「これはこの時だ」と既に分かっているので、その為に準備をする時間を作る事ができます。

イエズス会の若い聖ヨハネ・ベルクマは、この事をよく分かっていました。神学生であったヨハネ・ベルクマはある時、もちろんそのどこの教会でもある事ですけれども、ちょっと迷惑な人もいました。そしてこのちょっと迷惑な人は非常に敬虔な人で、「自分は信心家だ」と思っていたので、「レクリエーションをする時間などもったいない」と思っていました。そこでこの彼はですね、聖ヨハネ・ベルクマ神学生に、「ご飯を食べたら今リクリエーションで、他の神学生たちと遊んで、ゲラゲラ遊んでいるけれども、もしも今君がこの瞬間死ぬとしたら、そんなゲラゲラ笑ってリクリエーションなどしてても良いのか?」すると彼はですね、この聖ヨハネ・ベルクマは、「もちろん私は、天主が与えられた今はこのレクレーションの時間だから、レクリエーションをして、そしてこれがレクリエーションが終わったら勉強に入る。だからその天主様から命じられた事をしながら、遊びながら死ぬのは、私の本望だ」と答えたそうです。

仕事の時間、レクリエーションの時間、休息の時間など、ちゃんと決められていれば、私たちは時間を無駄にする事がありません。そうする事によって私たちは、この規則を付ける事によって私たちは、自分の気分で自分の何をするかを決める、という誘惑から守られる事ができます。例えば、「あぁ、今日はお祈りしたくないなぁ」とか、あるいは「今、仕事をしたくないなぁ」「今、他の人と一緒におしゃべりしたくないなぁ」という誘惑から守られて、「今はこれをする時間だ。だからする。」

既にこの時間割を作った時に、これは天主様に捧げられているので、朝起きた時から寝るその瞬間まで、全て、天主様に捧げられた超自然の価値を持つ事になります。もちろんこの最初からこれだと決めて不可能な計画を立てる事はできませんので、最初に大体の計画を立てて、それを機能するようにうまく調整していかなければなりません。例えばよくある事では、黙想会の時に生活のスケジュールを立てて、これを指導司祭に見せて、「この通りに生活しよう」と思っています。祝福を受ける、という事があります。

では、どのような生活の規則を立てるものが良い質のものなのでしょうか?

それはですね、「強い規則」であって、しかしそれと同時に「柔軟性」がなければなりません。というのはどういう事かというと、「私たちの力の限り、私たちの許されている限りそれを守る」という事です。そしてそれと柔軟性があるというのは、「私たちのコントロールを超えたところの出来事が起こった場合には、それに合わせて、そしてその翌日からは時間通りにする」等という事です。

例えば司祭は、日常の生活のスケジュールがあって、「今からこの時に御説教の準備、何とかかんとか」とするのですけれども、ところがある方は私たちの事を考えずに急に亡くなってしまったり、あるいは病気になってしまったりするので、私たちはそのスケジュールを置いて病人の元に行かなければなりません。ですからそのような時にはすぐにそちらに向かって、大切な方に向かって、そしてそれが終われば、また元の生活に戻ります。

それから、その質の高さというのは、まず重要なものを一番大切なものとして置いて、あまり重要でないものは下に置きます。したがって「お祈り」とか、「天主への礼拝」を最優先させなければなりません。といっても、その最優先させるから一番長いというわけではなくて、「一番良い時に、一番最高の時に、それをする」という事です。お祈りの時間が短くて、そして仕事の、例えばお料理とかお掃除の時間が6時間とかで長かったら、お祈りが蔑ろにされている、というわけではありません。

「一番良い時間」というのは、大体普通は「朝」です。朝、私たちは仕事が効率的にできますし、多くの事をたくさんできます。教会でもつい最近までは、ミサは夜する事は禁止されていました。朝、一番良い時に、一番最高の時に、ミサが行なわれます。なぜかというと、一番最優先のものだったからです。

まず天主、次に私たち、そして隣人に対して時間を使います。天主を愛して、天主を愛するが故に、隣人と私たちを愛するという事です。もしも私たちが例えば、司祭が15時間16時間隣人の為にこう走り回って、こう色々隣人の愛徳の為にこう力を尽くして、そしてお祈りの時間は15分しかない、自分自身の為には15分しかないとしたら、これは問題があります。ですから天主様に捧げるのは、まず「朝と夜」の、「最初と最後」、そしてその日常の各瞬間、時間に、ほんの短い間を、天主様に心を上げる時間があれば良いです。

そして時間割があるという事によって、無為な、何もしていない無駄な時間を防ぐ事ができます。子供たちをたくさん育てた両親たちは口を合わせて言うのは、「子供たちにいつも健全な、何をすべきかという事を時間割を作っていて、無為に時間を過ごさせる事がないようにする事だ」と言っています。

イエズス様も七つの悪魔についてお話をします。その人は自分の家をきれいにして、「きれいにする」つまり「自分の霊魂から悪魔たちを追い払う」という事です。ところがこの人は家をきれいにして、空っぽにしたままで、何もそこを飾る事をしませんでした。そこで「同じ悪魔が戻って来て、家の中がきれいに空っぽになっているのを見て、他のもっと悪い悪魔たちを連れて来て、状態を更に悪くした」とあります。

まず睡眠時間があって、そして起きている時間を、どのようにして、何を、仕事をどのように有効に生産的にするかを考えます。そしてこのような計画がスケジュールができたら、それを司祭に見せます。もしかしたら司祭は、「あぁ、ここはこうした方が良いのじゃないか」とアドバイスするかもしれません。そしてそのようなスケジュールが祝福を受けたら、それに従って下さい。そのスケジュールに従う事によって、従順の功徳が積まれます。「私たちが自分で好きで選んだ」というよりは、「従順で行なった」という事には、より多くの価値と、より多くの功徳が含まれています。

カトリックの信者さんはその同じ仕事をするにも、秩序立てて、そして従順の徳によってするので特別の価値がありますが、他のそうでない場合には、同じ仕事をするにも自分の気ままによってやるし、そして自分の好みによってやるので、たとえ結果は同じでも、その功徳と価値は違います。


では次の道具に手段に移ります、「隣人との関係はどのように聖化するか」。
家族の一員で家族の人々であったり、あるいは知人友人であったり、あるいは全く知らない人々であったりするかもしれません。

私たちにとって第1の原理があります。それは、「天主様は私たちを聖化する為に、別の人間を使う事を選んだ。人間がある別の人間を聖化する、という事を天主様がお望みになる」という、別の言葉で言うと、「天主様は例えば、教皇様や司教様や司祭、あるいは修道士、修道女などを使って、私たちを聖化する必要はなかった。やろうと思えば別の事もやる事もできた」という事です。

つまり、「天主様は、その無限の知恵によって、人間を聖化する為に、別の人間を使って、例えば教皇様、あるいは司祭、あるいは司祭ではなくても一般の別の普通の人々を使って、それがその司祭も他の人も、それが悪い、完璧な手段でなかったとしても、それらを使って、私たちを聖化する事を御望みになっている」という事です。別の言葉で言うと、「私たちの霊魂は、この私たちの周りにいる方々が、たとえその方々が良い方であろうと悪い方であろうと、天主様からの御恵みを私たちが受ける為の機会となる」という事です。

私たちには選択の余地が与えられていない隣人たちがいます。例えば家族、私たちはその家族の中で生まれてきます。あるいは仕事で、あるいは義務で接するべき方々、あるいは隣人などは、私たちは選ぶ事ができないものです。

例えば家族の中で、あるいは親戚、親族、一族、あるいはそういうような血族の中で、例えば私たちは超自然的な徳を実行する機会が与えられています。例えば「忍耐」、あるいは「許し」、あるいは「堅忍」などです。私たちの家族のメンバーはともすると、非常にこう簡単に対応してしまいがちですけれども、しかし永遠の霊魂を不死の霊魂を持った隣人ですので、私たちはできるだけの愛徳をもって接するように努力します。

ところが、もしもその親戚などで、私たちの信仰に反対するような、あるいは私たちの信仰を危険にするような人があれば、私たちは少し距離を置きます。

また、婚姻結婚しているから、あるいは家族であるからという事で、私たちはその枠組みの中で霊魂を聖化していかなければなりません。ですから特に天主様は、婚姻を「秘跡」にまで高めて、特別の恵みを与えようと望まれました。

家庭生活についてはまた別の重要な話がありますけれども、今回は深く話す事を避けて、別のグループの人々に、特に知人やあるいは一般的な友人について話しましょう。

よく、「私は友達と一緒にこんな悪い事をしました。」
でも正確に言うと、悪い事をするのならば、そのような人は私たちの友達ではありません。

本当の友人というのは、私たちの霊魂の善を求めるので、私たちの霊魂を殺すような事を一緒にする人ではありません。

ですからよく昔から言われた事は、「あなたの事はよく分かりませんけれども、初めて会ったし、でもあなたのお友達はどういう人ですか?あなたのお友達が分かれば、私はあなたがどういう人か分かります。」

本当の友人というのは、互いにより高いものへと、高いものへと励まし合ったり、模範を示し合ったりして、上がっていくものです。

その良い友情の他にも、一般的な友達付き合いや、近所付き合いがあります。もちろんこれらも霊魂を聖化する為の良い機会になります。

多くの人々は、別の方の良い模範によって回心します。どのような物質的に恵まれた人でも、「あぁ、この人々は非常に幸せに見える。このような人々の良い模範がある。あぁ、この人たちは私が持っていないものを持っている。この何か私もそういうような霊的なものを欲しい。」そして回心へと導かれます。

初代キリスト教もそうでした。異教徒たちは喜びの理由がありませんでした。本当の喜びの理由がなかったのですけれども、キリスト教徒たちは心から幸せで、喜んでいて、幸福でした。その為に、「一体なぜそのようなのだろう?」と「彼らのようになりたい」と思いました。

司祭が色んな所に街角に立って説教するというのも宣教の一つですけれども、それだけではありません。皆さんの毎日の生活によって、他の人々が皆さんの幸せや喜びを見て、それを不思議に思い、憧れて、回心する、というケースが多くあります。皆さんがこの友人や同僚たちにお説教したりとか、あるいは叱ったり、あるいは「こうしなさい」と言う事によって回心するというよりは、皆さんが日常生活で信仰を実践して、信仰生活の愛徳によって、多くの人々が信仰に導かれます。

2000年前、一体なぜ異教徒がカトリックになったのだろうか?という事を考えると、「良い模範によって」という事が分かります。ですからそれは今でも有効です。家族であれ、家族でなかれ、人々と接する時に私たちは、自己聖化の多くの良い機会に恵まれます。

例外的に、例えば特定の不道徳な人、あるいは特定の罪に導くような人がいる場合には、「私はこの罪の誘いに打ち勝つにそれほど強くない」あるいは「それほどの自信がない」という時に、その罪の誘いから避ける為に、その人を避けなければならない、という時が例外的にあるかもしれません。しかし一般的には、私たちの隣人たちは聖化の機会です。

もちろん隣人たちは私たちに、良い聖化の機会を与えてくれますが、しかしカトリックの私たちも時々、「このような隣人たちから逃避してしまいたい」という誘惑もあります。「そういう煩わしい事を避けて、この日本の山の中に、カトリックの、しかも良い洗練されたカトリックだけの小さなコミュニティを作って、そこで私たちだけで、カトリックだけで平和に、何の混乱もなくひっそりと生活したらどれほど良いだろうか」という誘惑もあります。例えばトランプの壁を作ってですね、カトリックのコミュニティを守るという誘惑もあるかもしれません。私たちは一般の人々から隣人から嫌な事をされたり、こんな悪口を言われたりとか、いじめられたりとか、あるいは色んな事があるので、辛い事があるので、それから逃避して、「どこかにひっそりと籠もりたい」と思うかもしれません。

イエズス様は、「大きな都市の中で聖霊降臨の日に行って、宣教をして、イエズス様の話をして、洗礼を授けるように」と「広がるように」とお話しましたけれども、砂漠の真ん中にポツンと籠って生活をしろとは仰いませんでした。イエズス様は私たちが「世の光として、山の上に燦然と輝いて、他の人々を照らし出すように」と求められました。


霊的な生活というのは、私たちの肉体の命よりももっと命に満ちたものです。私たちがこの霊的な命を養わなければ、それについて知らなければ、それを無視するならば、私たちの肉体も養われないと、あるいは無視されると、病気になったり死んでしまったりするように、霊的な命も障害を受けたり、あるいは霊的な命がなくなってしまったりします。

そして霊的な生活は、私たちをして天主の命へと与らせてくれます。ですから霊的生活というのは、嫌だなぁというものではなくて、おそらくそうではなくて、むしろ天主様からの特別の贈り物として、宝物として、それを感謝して受け取って、それを育てていかなければなりません。

内的な、その道具として養うものとしては、「霊的生活を送りたい、増やしたい」という熱烈な望み、それから「天主に対する知識と自分に対する知識」です。それから「天主の御旨に一致しよう」とする事、そして「天主の現存に、天主の御前に生活する事」、それから「祈りの生活をする事」です。

それから「霊的指導」を受けて、また「生活の規則」を立てて、「霊的な読書」をしたり、あるいは「霊的な御話」を聞いたり、それから最後に、「隣人たちに、社会生活を聖化する」という手段によって、私たちは霊的生活をますます高めていく事ができます。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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