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聖ピオ十世会 聖伝のミサの報告(2019年8月18日聖霊降臨後第十主日)SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2019年08月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

8月18日(主日)には、兄弟姉妹の皆様のしもべはマニラでミサを捧げておりました。私の代わりに、毎月一回、マニラからフォルティン神父様が日本に行って下さることになり、老司祭のしもべにとっては肩の荷が少し軽くなった感じがしております。(^^;)

大阪では Our Lady of Victories Catholic School のための第二献金を行ってくださり、八万五千円の寄付金が学校のために集まりました。大変感謝しております。

聖霊降臨後第十主日の福音に出てくる二人について、兄弟姉妹の皆様のしもべもマニラで黙想しました。

税吏は、とても軽蔑されている「非国民」とでも言われているような人でした。現代日本でも、それに相当する人がいるのかもしれません。でも口に出すのがタブーにされるようなレッテルを張られた人でしょう。私たちの主はそのような人を敢えて取り上げた、すごいなぁと思います。
税吏の態度は、謙遜です。
私たちの主と共に十字架に付けられた「良き盗賊」の態度を思い起こさせました。「主よ、御国に至らん時、私を思い出して下さい。」

税吏の言った「天主よ、罪人である私を憐れみください。」この謙遜な一言で、彼は赦されます。謙遜な心からの痛悔の念は、天主になされて、天主が嘉納します。

税吏が、一言、天主に憐れみを乞うている、たったそれだけです。その謙遜な一言で、聖化され、高められて家に帰っていきます。
税吏は、他の人々のことは眼中になかったかのようです。
謙遜は、真実で、真理を真理として認め、受け入れます。ありのままの現実をそうであるとします。

ファリザイ人は、掟を守っていた人々でした。不法なことはしなかった人々です。外の態度では立派でした。
ファリザイ人は、天主に感謝すると言います。何故なら、他の人々のように罪人(つみびと)ではないから、と。ファリザイ人には、他の人々のことだけが眼中にあったようです。自分を肯定して自慢して偉ぶるために、他人をおとしめようとします。
自分の力で自分はこんなにも素晴らしいが、他人は腐っている、と。
もしかしたら、他人が自分に対してやることは全て悪意だ、私は他人の犠牲者だ、他人は私から後で搾取するために善をしているのだ、と言い出すかもしれません。

ファリザイ人の態度は、主と共に十字架に付けられた「悪しき盗賊」の態度を思い起こさせました。
「あなたはキリストではないか。では、自分とわれわれを救え」(つまり、オレは正しい、オレが苦しむのはおまえが無能だからだ。)
あるいは、アダムとエワを思い出します。
ヤーウェから何故食べてはいけない木の実を食べたのかと尋ねられると、アダムは答えます。
「あなたがくださった女が、私に食べろと言いました。」(つまり、自分は正しい、あなたがよこした女のせいだ、つまりあなたのせいだ。)
今度はエワに尋ねると、エワはこう答えます。
「蛇が私に食べろと言いました。」(つまり、自分は正しい、あなたが創った蛇せいだ、つまりあなたのせいだ。)
フランス革命の時も、革命家らは、王や貴族など他人を非難しました。
共産革命の時も、いわゆる人民裁判は、社会正義の名の下に他者を非難しました。

私たちは、ともすると、他者を軽蔑・批判したり自己正当化したりするように流されがちです。「自分を義人と信じ、他人をさげすむ」傾向です。
では、どうしたら良いでしょうか?
書簡では、聖パウロが聖霊の働きがなければ「イエズスが主である」とも言うことが出来ない、とあるので、聖霊の働きを祈りましょう。
聖霊の浄配である謙遜なマリア様にお願いします。
そして、税吏の真似をして、ひたすら「天主よ、罪人である私を憐れみください。」と祈ろうと思います。

愛する兄弟姉妹の皆様にレポートをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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【報告】
Dear Fr Onoda:

今日は予定通り、マニラからピーター・フォルティン神父が来て聖霊降臨後第10主日のミサを挙げてくださいました。

御説教では、今日の聖福音にあった高慢な男と税吏の男のたとえ話を採り上げて、謙遜の徳についてお話しいただきました。サタンの国では高慢しかないが、天主の国を支配するのは謙遜であること、誰よりもイエズス・キリストが謙遜の模範を示してくださったこと、謙遜は他のあらゆる徳の基礎であること、そして私たちと天主の関係、隣人との関係、また自分自身のためにも謙遜の徳が必要であること、などを教えていただきました。さらに、謙遜を学ぶ良い方法は、ミサのいろいろな箇所に現れる謙遜の例を学び、それを倣うようにすることであるということについても、ミサ中の典礼の例を挙げて説明していただきました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 26人(内、子供4人)
女: 31人(内、子供4人)
計: 57人(内、子供8人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今日8月19日は、102年前の8月19日にValinhosヴァリーニョスで、聖母が、「償いをしなさい、罪人のために祈りなさい、ひらひらと地獄に落ちる霊魂は誰も祈る人がいないから、」と三人の子どもたちに話された日ですね。二年前に見てきた御出現のそこのヒイラギの樹もまだ青々として立派な樹のままでした。

数日前のSSPXのニュースでその記事を読んでから、私はファチマの子どもたちのそのお話をまた思い出していました。そして、ルルドで御出現になられた聖母も、少女の聖ベルナデッタに同じことを話されたことを思い出しました。
光かがやくお姿であられましたことは、聖母マリア様が被昇天の勝利の栄光をいただいたことを思いました。

102年後の日本の地でまだ御聖体訪問もままならぬ少しも若くない私ですが、8月18日の御ミサには与る御恵みをいただいているので、この貴重な機会をとても大切にしなければと思いながら聖母の言葉を心に留めて御ミサに与りました。

罪人である自分が罪人のために祈ることがどれだけできるのかわからなくても、償わなければならない罪がどれほどたくさんあるかわからない自分に清めの場にいる霊魂や償いの必要がある霊魂のために何ができるかわからなくても、聖母の言葉をよく噛み締めて御ミサでお祈りしたいという望みを持ちました。(もしかしたらこれは前回のお説教のお話のこととつながることかなとふと思いました。)

取り分けてこの世的になにもできないのですが、できるだけどの瞬間も精神と霊魂の注意を内側に向けるよう努めて聖母の御勧めに少しでも適うことができますようにと願うしかありません。望んでも惨めさの極みの自分にはできないことも、ただお恵みによってなんでもできる御方が思いのままにしてくださいますように、と祈りました。
この世の中は悪魔が支配しているのでそれに心を奪われないようにしなければと思いました。たとえ短い時間でもそれができますなら幸いなことと思います。

聖霊降臨後第十主日のミサは、マニラからフォルテン神父さまが来てくださり、御ミサを立ててくださいました。お説教で謙遜のことを詳しくお話しくださいました。カトリック教会の礎はイエズス様ですがそのイエズス様が謙遜そのものの御方でいらっしゃいますことをお話しくださいました。たとえカトリック教会の今の見た目のようすが混乱に陥っている様子に見えてとてもこの舟に乗車するのをためらうという方でも、イエズス様のご謙遜をよく学びたいがためにこの舟に乗るなら、けっしてこの舟が座礁することはないことを発見するでしょうと思いました。そして一番よくイエズス様のご謙遜に学べる機会がこの御ミサですというお話を心に刻みました。

謙遜の練習はどうしたらよいかのことをお話しいただき、小さな子供たちになるようにということ、奴隷の仕事をするほどに他の人に仕えるということを、イエズス様が教えてくださったのですというお話も、心に刻まれました。

ルルドやファチマで小さな子供に言われたことを守ることが、小さな子供のようになることだと思いました。そういえばベルナデッタもヤシンタもフランシスコもルシアもロザリオをたくさん祈っていたそうです。都心の駅の雑踏の中でも、電車の中でもあまりにも多くの霊魂が滅びようとしていますという言葉が思い出され、そのためにもいま教皇様のためロザリオをお祈りしようと思います。
ご謙遜であられるイエズス様と同じくご謙遜であられるマリア様に倣って、この世での生が与えられている限り、その御勧めに従っていつも償いの精神と罪人のために祈ることを忘れないで過ごすことができますようにと思いました。

聖母の汚れなき御心、われらのために祈り給え
聖マリアの汚れなき御心のうちに

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

8月18日 聖霊降臨後第10主日のミサには23人が、
8月19日 聖ヨハネ・ユードの祝日の早朝ミサには、10人が御ミサに与るお恵みをいただきました。デオグラチアス!

主日のお説教では謙遜について黙想しました。
高い徳の塔を立てたいのならば、その基礎になる謙遜がなければ塔は決して立たないと神父様が仰った事を考えながら、自分の聖徳への進歩があまりにも遅いのは、土台がしっかりしていないからだ、謙遜が足らないからだ、とハッキリとわかりました。

つい最近フランスのシスター会の修練女の方から頂いたお便りで、ルフェーブル大司教様が残されたシスター会の会則に「謙遜を身に付けない修道者は生きる矛盾である」という言葉がある事を伺いました。お説教を聞きながらこの言葉を思い出し、自分も修道者に残されたこの言葉を、(もちろん修道者の方々の様に立派ではないですが)自分にも当てはめて、生活したいと思いました。

神父様の仰る様に謙遜の最高の見本であるマリア様に、お助けとお取次を願いたいとおもいます。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

謙遜について : ピーター・フォルティン神父様 2019年8月18日聖霊降臨後第十主日の説教 

2019年08月19日 | お説教・霊的講話
2019年8月18日(主)聖霊降臨後第十主日の説教 
聖ピオ十世会司祭  ピーター・フォルティン神父様


本日の福音において、私たちの主は、私たちにけんそんについての美しい教訓を与えてくださっています。このメッセージは、このあわれな罪びと、すなわち税吏(みつぎとり)にとって喜ばしいものですが、この高慢な男、すなわち自分のことを実際よりも良い人間だと思っているファリザイ人にとっては警告を与えるものです。このたとえにおいて、私たちの主は、けんそんな罪びとの方が、自分のことを聖にして義であると思っている高慢な男よりも嘉せられるということを明確になさっています。これらの二人の男を見ることで、教会はけんそんの徳の重要性を強調したいと望んでいるのです。

福音にでてくるこの二人の男を比べると、例えば、天主に対する敬意や寛大さのような他の聖徳においては似ているところがあります。しかし、違いのポイントはけんそんであり、けんそんがその差を作り出しているようです。高慢な男はけんそんの徳を、弱いもの、不合理なもの、あるいは誤りと考えています。私たちには、一人が天主の国に属しており、もう一人がサタンの国に属していることがはっきり分かります。サタンの国では高慢とうぬぼれだけしかなく、天主の国ではけんそんが支配しているのです。



サタンは天主に対して反乱を起こすことによって自分の国を造りました。「Non serviam. 私は仕えない」とは、サタンが天主に対して言っていることです。これがサタンの国の標語です。サタンは、高慢とうぬぼれを通して人間を誘惑します。この世は悪魔の支配地であって、天主に対するけんそんも敬意も従順もまったく知らないのです。

他方、天主の国の創立者は、私たちの主イエズス・キリストです。創造においても、その完全さにおいても限りを知らない天主の御子です。それにもかかわらず、主は、人間の本性を、奴隷の本性をお取りになって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでけんそんに御自らを低くされます(フィリッピ2章7-8節参照)。主は、「私は柔和で心のけんそんな者であるから、私に習え」(マテオ11章29節)と言うことがおできになりました。主は人間に仕えられるためではなく、人間に仕えるために来られました(マテオ20章28節、マルコ10章45節参照)。それは、主がご自分の命令に従う何百万もの天使をお持ちであるにもかかわらずです。私たちには、この二つの国に大きな違いがあるのが分かります。一つには高慢とうぬぼれ、不従順という特徴があり、もう一つにはけんそんと素直、従順という特徴があるのです。

けんそんのことを正しく理解することは最も重要です。これを誤った慎み深さと間違える人たちがいるかもしれません。けんそんは、他のすべての聖徳の基礎です。けんそんとは、簡単に言えば、私たちが自分をありのままに見ることです。私たちは無であり、弱いものでありながら、しかしまた私たちには様々な能力、強み、その他数多くの恩寵が与えられているということを認めることです。けんそんな人は、自分が達成するあらゆる業績があろうとも、そのすべての業績が天主のみから来ることを知っています。聖母の例を挙げるなら、聖母は被造物としてのご自分の卑しさを知っておられましたが、また天主の御母になるためにご自分に授けられた大いなる栄光も知っておられました。聖母はご自分のけんそんを、「主は、はしための卑しきを顧み給えり」(ルカ1章48節)と表現され、それからご自分へのお恵みを、「今よりよろず世に至るまで、人われを幸いなる者ととなえん」(同)と表現されました。この聖母の祈りの最初の部分は、けんそんの祈りです。

けんそんは、力強いキリスト教的生活のための基礎です。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの聖徳に倣うことによって天主にもっと近づくために聖徳の塔を打ち立てたいと望むなら、私たちはけんそんという力強い基礎を持たなければなりません。私たちは、天主に対する態度、隣人に対する態度、自分に対する態度において、けんそんでなければなりません。

第一に、私たちの天主に対する関係においてです。天主は創造主であり、私たちは被造物です。天主は父であり、私たちは子どもです。けんそんは、私たちが天主と接触を持つために必要です。私たちが天主に従順であることができ、天主のご意志を遂行することができるのは、けんそんによってです。けんそんによって、私たちは天主に奉献され、私たちは天主を敬い、私たちは自分の意志と知性を服従させることによって天主を信じるのです。高慢な人は信仰を持つことができません。なぜなら、より高い意志に服従することができないからです。これが、私たちの主とファリザイ人の間にあった大きな困難だったのです。祈りはそれ自体、天主とのけんそんな会話です。私たちには、秘蹟を受けるために、特に悔悛の秘蹟を受けるためにけんそんが必要であり、この秘蹟によって、私たちはみじめな罪びとであって天主の御あわれみを必要とすることを認めるのです。

次に、私たちには、私たちの仲間との関係のために、けんそんが必要です。誰も、うぬぼれの強い高慢で自慢したがる人と一緒にいたくはありません。そのような人は自分のことしか考えていません。けんそんな人は、気立てがよく、権威と他人を尊重し、仲間のことを良く思います。隣人愛の基礎はけんそんです。聖パウロが愛について書くとき、その主な特徴は、けんそんであると言っています。「愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、…」(コリント前書13章4-5節)。

最後に、私たちには、自分自身のためにけんそんが必要です。高慢は、人の性格を駄目にします。高慢な人は、自分のことを知らず、限度を知らず、自分の過ちを認めません。高慢のすぐ先には人間の堕落が待っていますが、けんそんは他の聖徳に到達するのにまず必要なものなのです。


けんそんは、救いに大変必要な聖徳ですから、それを得るにはどのようにすればいいのでしょうか? 他の聖徳のように実践を必要としますが、聖なるミサに参列し、聖なるミサの五つの部において、キリストのけんそんに、じかに接して学ぶことによって、それを得ることができます。

聖なるミサの始まりには、司祭の登壇の前に、大いなる敬意をもって祭壇の下で祈りが唱えられます。すぐに、司祭はおじぎをして、コンフィテオールの祈りを唱えて自分が罪びとであると告白し、そのあと、キリエで天主の御あわれみを願い、グローリアで天主への特別な敬意を表します。書簡と福音からの教えでは大いなるけんそんの意識が必要とされます。それは、天主の知恵という、私たちが持っていないものを受けるからです。書簡のときに座り、聖福音のときに立つのは、私たちがキリストのみ言葉を最高の注意を払って聞くという、このけんそんのしるしです。



聖なるミサの奉献誦においては、私たちは、自分を奉献されるパンとぶどう酒に一致させ、自分を奉献して自分を完全に明け渡すのです。この祈りは、「けんそんの精神によって、痛悔の心をもって捧げ奉るわれらが御前に受け入れられ、われらのいけにえが御身に嘉せられるものとならんことを」というものです。

そのあと、聖なるミサの最も聖なる部である聖変化においては、私たちの主が祭壇の上に現存されますから、私たちには最高の敬意が要求されます。この聖なる神秘を告知するために、「天使らは、御身の天主なる御稜威をほめたたえ、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく」。これは、典文の間、私たちがとるべき態度を表しているのです。



そして、私たちが私たちの主を受けるとき、「Domine non sum dignus!」。主よ、われふさわしからず! 非常に直接的なけんそんの表現です。私たちは、まったくふさわしくないにもかかわらず、私たちの主は非常に良きお方でいらっしゃるので、私たちのところに来てくださるのです。

締めくくりに当たって、私たちの主の生涯における二つの事例を引用することにしましょう。
1)使徒たちは一度、第一の座すなわち名誉ある座[に誰が着くのか]について議論していました。私たちの主は小さな子どもを呼んで彼らの真ん中に立たせ、こう言われます。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて、小さな子どものようにならないなら、天の国には入れぬ。誰でも、この小さな子どものようにけんそんである人が、天の国でいちばん偉い人である」(マテオ18章3-4節)。

2)第二の事例は最後の晩餐のとき、私たちの主が使徒たちの足を洗うことによって、御自ら奴隷の仕事をなさることです。私たちの主はこう説明されます。「あなたがたは私を先生または主と言う。それは正しい、そのとおりである。私は主または先生であるのに、あなたがたの足を洗ったのであるから、あなたたちも互いに足を洗い合わねばならぬ。私のしたとおりするようにと私は模範を示した」(ヨハネ13章13-15節)。これが、主がご受難を始められる前に教えられた、主の偉大なる掟です。

私たちは、すべての聖徳において主にもっと近づくためには、聖なる典礼および私たちの主の生涯から、主のけんそんにおいて主に倣うことが第一に必要だということを知るのです。私たちの主イエズス・キリストのこの偉大なるけんそんによって、主は私たちに触れることがおできになり、私たちのけんそんによって、私たちは主の方へと高められていくことができるのです。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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